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◆丸山富之 《作品02-81》砂岩/60.8×99.0×62.5cm/2002年

2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/丸山富之《作品02-81》 藤井 匡


 丸山富之は自身の制作に関して、かつて、図を用いて語ったことがある。(註 1)そこでは、第一項として「石・自然・物質」などが、第二項として「自分・人工・手」などが示され、両者の交通の中から〈あるがままのもの〉としての彫刻が〈すとんと落ちてくる〉ことが描かれていた。併せて、〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間が、ぼくにとって最もリアリティを感じる〉ことも語られている。
 ここで述べられているのは、主体の内面を"表現"することを拒否する態度である。素材との交通――素材を道具として一方的に利用するのではなく――が可能となるためには、作者は作品世界に対して超越的に位置することはできない。作者はその世界を構成する一要素であり、そこで起こる出来事に左右される存在である。彫刻は主体の内面から演繹されるものとはならない。
 加えて、ここでは「石」と「自分」とが先験的に自明な存在として措定されていないことに注意が必要である。両者が交通したの結果として彫刻が産出されるのではなく、彫刻の方にこそ、〈あるがままのもの〉という高い優先順位が与えられている。彫刻が彫刻となることを通して、「石」と「自分」とが明確化されていくのである。
 主客未分化の状態が最初にあり、〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間〉を経て「石」から「自分」が切り離される。つまり、正確には〈すとんと落ちてくる〉のは彫刻ではなく「自分」の方である。作者の言う〈つくる前に厳密に形を決めておらず、つくりながら、しっくりくる時を待つ〉(註 2)とは、こうした関係を指している。
 丸山富之のように制作方法を限定するならば、極端に突飛な彫刻が、突然に出現する可能性はほとんどない。実際、作者の幾つかの作品を見るときには、一点ごとの個別性よりも共通性や連続性の方が強く感じられる。しかし、その上でなお、それらが異なって存在する(制作され続ける)のは、制作を通して「自分」が異なっていくことに由来する。彫刻ではなく、作者自身が差異化されていくのである。
 こうした自己は交通の結果として出現するのであり、自己自身の中に根拠を見出すことはできない。交通という概念は、自己が本質に基づくのではなく、それが置かれる文脈によって構築されるとの思考から導かれる。ここでの彫刻は、存在自体に意味=価値が与えられるのではなく、作者を更新していく場として機能するのである。
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 《作品02-81》は、直方体をした砂岩の容積の大半を削り落とし、量塊を二枚の薄い板状になるまで彫り進めた作品である。形態を記述するならば、側面から見てL字形ということになるが、作品に対面するときには、形態はあまり強く意識されない。むしろ、強く意識されるのは表面の存在であり、形態から分離された表面が、それ自体自立したものとして提示されているように感じられる。
 石を彫り進む作業ではその奥へと向かう意識が要求されるが、《作品02-81》のように薄くなると、石が割れないようにその意識を変更しなければならない。ここでは、鑿を横へと進めながら、微妙な力の入れ加減を調整する必要がある。意識は石の奥行きにではなく表面に留まり、形態ではなく表面が強調されることになる。
 そして、この印象には、石から削り取られて生まれる空間が、展示室の入口側に置かれることも寄与する。見る者は、石の手前にある空間を石全体よりも先行して把握する。そのために、表面は石の形態を固定するものとしてではなく、石と空間とを分かつものとして知覚される。この表面は石と空間とを同時に発生させるのである。
 石彫の場合、作品は素材よりも必ず体積が減少する。この不可逆的な方向性によって、見る者は完成形態から原石を想像的に回復することができる。加えて、原石の外側に当たる二面が残存することは、彫り進む方向が手前から奥の一方向に限定されることを示しており、素材・技法だけではなく制作過程からも、見る者は原石を想像的に回復できるのである。
 この作品と原石との関係によって、L字形に包まれる空間(原石と作品との容積の差)は、それ以外の空間と分離されることになる。つまり、屋内空間にL字形の石が位置するのではなく、屋内空間に原石同等の量塊が位置し、その中に削り取られた空間が位置するのである。《作品02-81》における空間は二段に階層化されており、一般論としての彫刻と空間との関係とは同一視できない。そして、自己の差異化に関しては、その内の作者の身体が関与して生まれた空間が関与している。
 両者との関係は、作者の〈物体の大きさとかたちは始めから決定されている〉(註 3)との言葉にも保証される。両者は上下関係を形成することなく、同一のレベルに位置づけられている。両者の間には単なる差異だけが存在するのである。
 作者の行為の量に比例して、石塊は減少し空間は増大していくが、作品として見れば全体の量は変化しない。ここでの彫る行為は、素材を別のものに変える(創造する)のではなく、量塊と空間との境目を移動させることを意味する。石を彫ることは同時に空間を彫ることであり、表面は両者の境界線の機能を担うのである。
 しかし、この境界線は無限に移動可能ではなく、最終的にはどこかで作業を停止しなければならない。彫り続けた挙げ句に石が割れてしまえば、空間も表面も「自分」も全て同時に失われることになる。その意味でも〈物体の大きさとかたちは始めから決定されている〉のであり、作者はその後、別の視点から石を捉える作業に自動的に移行する。
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 「石」と「自分」との切断は、この制作後の視点から確認されるものである。丸山富之が近作で見せた変化は、ここから見えるものがより重要視され始めたと考えることができる。
 かつての丸山富之の作品は、自身の掌で扱える大きさに限られていた。それらには、薄い板状の空間的作品と一角を落としただけの石塊的作品があるが、基本的には《作品02-81》と同様のL字形が採用される。サイズの違いこそあれ、旧作も近作も、彫刻と空間との境界線を移行させていく志向は変わらない。ただ、サイズが大きくなることで、かつては見えなかった場が見出されることになる。
 小さい作品では、制作中の距離と制作後の距離とはほぼ一致する。このときには、制作中に見出された(石/自分)の関係は後々まで維持可能である。しかし、大きい作品になると、石を彫る視点と石を見る視点とは大きく離れてしまい、この関係が持続できない。それは、単なる距離の遠近の問題ではなく、{(石/自分)/自分}が見える、制作中とは位相が異なった視点が出現するのである。
 石を離れた場所から見るときには、(作品-作者)は(客体-主体)の構図に則る。そのとき、客体である石の中に、主体である自身の影が見出されてしまう。したがって、正確には作品が〈私の意識したこととちょっとずれた何物かを表す〉(註 4)のではなく、制作後の作者が制作中の作者とのズレを見出すのである。このズレは、自己が自己を見ること、制作後の作者が制作中の作者を自己として引き受けることから発生する。
 大きな石をL字形に一方向から彫っていく場合、作業の経過に従って、必然的に石の中へ引き込まれていくポジションをとることになる。それは、段々と石の中に包み込まれる感覚を引き起こす。小さな石では、二つの視点が連続しているため、それらを往還しながら制作を進めることになるが、大きな石では制作中と制作後の視点が分離されるため、ズレは突然に訪れる。〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間〉は、小さな作品よりも濃密なものとなる一方で、制作後の違和も大きくなるのである。
 しかし、作品サイズの巨大化が即、自己のズレを引き起こすのではない。石で形態を彫り出す思考ならば、最初から(客体-主体)が形成されており、仮に彫刻の中に自己を見出すとしても、それに違和を覚えることはない。それは、彫刻と空間との境界線を移動させる方法論からのみ生まれてくる。


註 1 作者コメント『〈かたまり彫刻〉とは何か』図録 財団法人小原流 1993年
  2 インタビュー『Chiba Art Now '02 かたちの所以』図録 佐倉市立美術館 2002年
  3 作者コメント『東日本-彫刻』図録 東京ステーションギャラリー 2002年
  4 前掲 2



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