ART&CRAFT forum
子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他




◆ Breathing the sea 2003/senbikiya gallery Tokyo
Size: 225×140×20cm material: collargen silk

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

『一本の線につながれて』 藤岡恵子


 人は色々なことに興味を持ちその出会いが将来に大きく影響することが多い。私の中にも沢山の出会いがある。 子供の頃、父の書斎で良くイタリアの彫刻家 <ドナテロ>の本をみていた。(昭和19年、洸林堂出版)15世紀初期に制作された <ダビデ> 像、もう一つは15世紀半の <聖ジョージ>、この二つの立像のページを何度となく見た記憶がずっと私の中にあり、成長してからもあの時に私は何を思いながら見ていたのかと、ふと手にとって見る事がある。となりにあった <フィレンツェ> と題した本にも目をやっていたが、内容については殆ど覚えていない。後にわかった事であるが、寄寓にも高校で教えをうけた美術の先生の清水多嘉示先生が <ドナテロ> の本の序文を書かれていた。先生はブルーデルの弟子で有名な彫刻家であられた。清水先生の書かれた<ドナテロ> の序文によれば、<<ドナテロは彫刻で究めたルネッサンスの彫刻家で、ミケランジェロと異なるところは、後者は彫刻によって究めた世界をむしろ絵画の上で綜合し素晴らしい創造をした。彼の最も尊敬するドナテロは彫刻で究めたところを、彫刻で綜合せるものと言う事が出来る。ここに二人の作品の相違がある。ルネッサンスに於けるドナテロの位置はあたかも絵画のほうで言えばジョットに相当するであろう。>>と述べられている。幼少時に見ていた本はルネッサンスから現代までの芸術家に多大な影響を及ぼした彫刻家のものだった。この高校時代の清水先生との偶然の出逢いと、高校3年生で読んだ <ゲーテのイタリア紀行> この二つの出来事が後に私がイタリアへ行くきっかけとなる。武蔵野美術大学に入学すると、またそこで清水多嘉示先生が教鞭をとっておられ再び出会う事になる。私はじきじきに1年生の時、ギリシャ神話の美、豊穣、恋愛の女神で泡から生まれたともいう <アフロディティの誕生> の模写の指導を受けた。レリーフの立体感は背後のかたちがどうなっているのか良く考えて肉づけをするようにと、大きな手で粘土を取り肉付けの手ほどきしてくださった。先生の優しいまなざしと力づよい大きな手、その時のことを今でも鮮明に覚えている。振り返ると彫刻家 <ドナテロ> は私の背後にいつもあり、私を形成していく上で大切なきっかけをつくり、それらの出来事が1本の線上にあることに改めて驚きを覚えている。

イタリアでの仕事
 若いと言う事は無謀であり、ときには自分の実力以上の事に挑戦したがるものである。ブレラ美術学校で学んだ後、まず私が向かった所は建築家エットーレ・ソットサスの事務所だった。なんの面識もなく事務所の門戸をたたく。幸運にも入所を許された私は天にものぼる気持ちだった。ソットサスは当時OLIVETTIの仕事をしていたが、私は彼個人の仕事を手伝いたかった。
 初めに手掛けることになった <ヤントラ> と言うテラコッタの花器のシリ?ズは60数点あった。花器というより彫刻や建築物に近いデザインであり、複雑な形態の組み合わせが多かった。図面をひいている私の背後から、彼は大きな手で私の肩を掴み、もっと強く、大きくと叫ぶ。デザインのイメージは時にはインドネシアやインドの建築に見られるフォルムであり、シヴァ神や太陽など造形的な構成であった。一年間の間にプラスチックの家具、自動車の真空成型器を使ったつみき状のベットや家具、大きな鏡などから照明器具に至迄、夢中で図面をひいたものだ。ソットサスの事務所で私はものと人とのかかわり合いについて多くの事を学び、また、彼のフィエーラに出品された作品のまえで釘づけになったこともある。ストライプのライテング・ビューロの上に置かれたランプはブルーとピンクの光りを両面から放っていた。本当に動けなかった。涙もでてきた。雑念が取り払われスーッとその世界に吸い込まれるようだった。その強烈な体験から私も人に何かを感じてもらえる作品が創りたいと思い作品づくりに入ることにした。これらの仕事を終えた後に自分の作品制作に入る。ソットサスの事務所での体験が土台になっていた事は言うまでもない。イタリアに来る前のテキスタイルデザインをやっていた時のように、テキスタイルに装飾性を求める事はなくなっていた。 作品の制作意図は人とものとのコミュニケーションを重視し素材の持つ触覚性を前面にだす。それは石の建築や大理石の床、プラスティックの家具に対する極端なまでの原始の風景である。題して <終わりのない風景>。 この個展にむけてDMにコメントを書いて頂いたが、ソットサスは <<日本的な物の見方がどこまで西洋的なものの見方と共存出来るか、または出来ないかをさぐっている>>また、<<原始的な風景は日本の中世の物語りに出てくる血塗られた運命と同じように、(中略)沈黙のなかで、はるかな霧にかすんだ城の部屋の中の惨劇のようだ>> このコメントと私の思いはは少し異なるが、かなりアグレシブであったようだ。見る側と創る側の思いと受取りかたは自由であっていいと思っている。イタリアでの3年の月日は、過去の人生のなかでもエネルギーに満ちた新鮮で自由で素晴らしい時間だった。

イメージの発想について
 作品づくりを触発するものは何だろうか。私は日々の生活の中にあると考える。決して特別なものではない。けれど生きる姿勢、心の目をどのくらい大きく見開いているか、様々な事に対する批判精神や、驚き、好奇心、自然の神秘に対すること等。これらは、人により各々相違はあると思うが、時代や年令、又その日の内でも時間とか、身を置く空間などによりアイデアは広がり又狭められ、作品への思いはかたちにされていく。のんびりと安らぐ時間、自然の中でときを過ごすことは都会の騒音の中で暮らす現代人が失いかけた人間性を取り戻す上で大切なのではないだろうか。作品を見た人が感動したり、好感を持つ作品はどのようなものだろうか。 最近若い人の創った作品で強いメッセージを発し語りかけ、迫ってくる情熱を感じる作品に出逢った。何かが違う。伝えたい言葉は作品のなかにあった。人間としての素直な新しい出会いと感動の中から彷彿とした溢れんばかりの思いをぶつけていた。エネルギーの源は時に旅であり、出会った人間や民族性、異文化に触れたとき、今まで生きてきた自分の世界では考えられかった新鮮な発見があったからだろうか。その時に感じた素直な感情が作品の中に表現されていた。ほとばしる情熱を作品にぶつけるのは旅での出会いばかりではない。 例えば偉大な作家アバカノヴィッチの作品は幼少のころ大戦が勃発、その時の体験を自らの手で作品の中で示さなければならなかった。芸術家の身じかでの強烈な体験が作品のメッセージとなっている。その迷いを探りながら、自身にとっても最後迄明かすことが出来ない創造することの巨大な苦悩と戦っている。まさに創造とは終わりのない旅なのではないだろうか。 個人的にはコンセプチュアル・アートと云うのが好きでない。 ファイバーの仕事に関わらず説明がなくとも作家の体験をとおして表現した作品のほうが強いし好きである。見る側も五感をつかって素直にこころの目をひらけば作家の声をきくことができる。

自然讃歌
 先に書いたように作品の発想は私の日々の生活の感動の中から生まれていく。また、出会える事のない未知の世界を本を通して言葉からイメージを得ることも多い。好奇心とイメージを彷彿させてくれる本は、時には澁澤龍彦の著書であったり、地球の素晴らしさは生命の輝きであることを教えてくれたレエイチエル・カーソンの <海辺> と、人生を色々な貝に例えて書いたリンドバーグ夫人の <海からの贈り物> 等々。これらの本はいつ読みなおしてみても感動を覚える。また自然のなかに出かけ自然の神秘に出会うこと、それは大切な心の洗濯でもある。収集した自然物を身じかに置いて観察し対話しながらイメージ化することも多い。渋澤龍彦のビブリオテ?カのシリーズを読んだ中で、最もイメージを視覚化出来たのは <幻想博物誌> である。ローマ時代の博物学者プリニウスの本を読んだ著者が彼の視点で書いた本である。<プリニウスの博物誌> については中野定雄・里美・美代の三氏が年月をかけ訳しており、ローマ時の事を知るには大変興味深いが、百科事典のようでイメージを沸せてくれる文体は澁澤のほうが圧巻である。澁澤の本をもとに制作した <私のプリニウス> のシリーズは言葉からのイメージを基に、身近かなところで見つけた小さな自然を素材に制作してみた。自然はあっと驚く神秘的な造形を次から次へと見せてくれる。自然の繊細な仕事は小さなところにあり、見のがしてしまいそうだが、近くに寄って時には虫がねを通して見ればとんでもない神秘を見つけられる。その度に興奮と嬉しさを抑えきれず、人間より素晴らしい造形力を持っている自然の生命の神秘に対し讃歌をおくっている。
最後に私のこの10数年の作品について書く。いま使っている素材コラーゲン・ケーシングには特別になにか魅かれる不思議なものがある。人口的につくられているケーシングは牛皮中のコラーゲンを原材料とした可食性素材である。作品のなかに可食性という意味を重ねることは私にとって今までの素材とは異なる視点で方向性を見いだして行ききたいという意図がこめられている。素材の特徴を引きだすのに、多くの実験を重ねなければならなかったし、今も実験の日々である。コラーゲン・ケーシングには実は無数の小さな穴が空いており、人の皮膚に似た感覚があるのも魅力だ。作品は食べられるコスチューム <コクーン> から始まり <サーフェース・テンション> <海を呼吸する> <Memory・2001/11/September> <刻のかおり> そして新作を進行中である。海のテーマは子供の頃に育ったふるさとであり、海辺の生物にはいまでも興味を持ち続けている。また、海には無限の時を費やしてきた地球の歴史の息づかいがあり私のイメージの宝庫でもある。砂浜と海の境目なんてあるようでない、潮のひいた浜辺に残されたかたち。波にあらわれた貝や石も生物もすべてが私の心を解き放ってくれる。今制作中の作品は水面下と空気の境目の空気感をとらえて見たいと思っている。 常々私は純粋な自由な心を持ち続けたいと願っている。今後も姿勢を変えずに制作を続けていきたい。最後にレエェチエル・カーソンの言葉で締めくくる。

   自然にふれるという終わりのないよろこびは、けっして科学者だけのもの
   ではありません。大地と海と空、そして、そこの住む驚きに満ちた生命の
   輝きのもとに身をおくすべての人が手に入れられるものなのです。  
                       センス・オブ・ワンダーより

                       


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