元気を貫く考え方(85・95才現役で)

健康寿命はプラス思考であること、良い「気」を持ち、日常の些細なできごとを元気になるような「受け止め方」をしましょう。

死ぬ以外の本当の苦しみとは?

2016年09月29日 | 生と死
 死とはどういうことなのだろうか…という問トいに対タイし中国チュウゴクの孔子コウシはこう答えました「吾ワレ未イマだ生セイを知シらず いずくんぞ死シを知シらん」
 
 学問をこれだけ勉強ベンキョウしてきた自分ですら  生セイ(生イきるということ)すらよくわかっていないのに、まして死シぬことなど皆目カイモクわかっておりません と。

 死シとはなんぞやとの問トいについて 「私ワタシがほどけていく過程カテイなのです」と答コタえた人もいました。
 日々ヒビ是コレ好日コウジツという言葉コトバがあります。過去カコを悔クいず、未来ミライを夢見ユメミず、積極的セッキョクテキに今日キョウを生イきることが出来デキれば、毎日イニチが最高サイコウの日ヒになるということ。
これこそ「日々ヒビ好日コウジツ」毎日毎日マイニチマイニチが最高サイコウの日ヒであるというこの境地キョウチに立タてれば、死シはそんなに怖コワいものではありますまい

 さて、 仏教ブッキョウの四苦八苦シクハックのなかに「死苦シク」死シぬ苦しみというのがあります。…しかし、死シという生理的事実セイリテキジジツは実ジツは一瞬イッシュンの出来事デキゴトであり、死シそのものを苦クにす
るということはそれほどでもないのです。

けれども、死シによる自分ジブンに対タイする社会シャカイの評価ヒョウカとか、家族カゾクのものの困窮コンキュウとかを色々イロイロ思オモい悩ナヤむから、死シが恐オソろしくなったり、死シを苦クルしみ悩ナヤんだりするのです。

  ただし、「死苦シク」のなかにある「苦ク」の仏教的ブッキョウテキ本来ホンライの意味イミは死シの扱いについて「自分ジブンの思オモい通トオりにならないという苦クルしみ」を指サしますので、仏教ブッキョウでは死シそのものを「苦ク
ルしい」ものと考えているわけではありません。

  有川愚鈍  雑感
  お問合せ070-5145-3838

コメントを投稿