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吉田茂 4

2012-06-09 10:54:11 | 日記


言行・逸話等


1952年~1954年頃、鳩山一郎(右)と

1951年、サンフランシスコ講和会議へ向かう機上にて白洲次郎(左)と

耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせる。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという[24] 。

吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。

1947年(昭和22年)、GHQにより公認された労働組合がストライキを乱発し、政治闘争路線を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - 二・一ゼネスト)。

保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせた迷言であった。

サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。

サンフランシスコ講和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。

上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。

吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて天皇から注意を受けたことがある。

1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名。このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子を1941年(昭和16年)に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めている。ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。

これら吉田の行動は、当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。

駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。

首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。

佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。

幣原内閣で外相に就任した際、芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。

大の葉巻好きで知られていたが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には好きな葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えた。

英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代、英国の権化のような高級車、ロールス・ロイスの中型モデル「25/30hp」1937年式(フーパー社製サルーンボディ架装車)を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30hpロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホールしてまで使い続けた。一方1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、個人的に西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。何れも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている。

年譜

1878年(明治11年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる

1881年(明治14年)8月 吉田家と養子縁組

戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)卒業

1889年(明治22年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学

1894年(明治27年)

4月 耕余義塾卒業

9月 日本中学校(後の日本学園 )入学

1895年(明治28年)

9月 高等商業学校(後の一橋大学)入学

11月 高等商業学校退校

1896年(明治29年)

3月 正則尋常中学校(後の正則高等学校)卒業

9月 東京物理学校(東京理科大学)入学

10月 慶応義塾入学

1897年(明治30年)10月 学習院高等学科入学

1901年(明治34年)

8月 学習院高等学科卒業

9月 学習院大学科入学

1904年)

7月 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため)

9月 東京帝国大学入学

1906年(明治39年)

7月 東京帝国大学法科大学政治科卒業

9月 外交官および領事官試験合格、外務省入省

11月 領事官補として天津に赴任

1907年(明治40年)2月 奉天領事館に赴任

1909年(明治42年)牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに赴任。12月、駐伊大使館附三等書記官

1912年(大正元年)8月 安東領事

1916年(大正5年)8月 在米大使館附二等書記官

1917年(大正6年)7月 文書課長心得

1918年(大正7年)2月 済南領事

1919年(大正8年)2月 パリ講和会議随員

1920年(大正9年)5月 在英大使館附一等書記官

1922年(大正11年)3月 天津総領事

1925年(大正14年)10月 奉天総領事

1928年(昭和3年)

3月 外駐スウェーデン公使。高等官一等

7月 田中義一内閣の外務次官

1930年(昭和5年) 12月 駐伊大使

1936年(昭和11年)4月 駐英大使

1939年(昭和14年)3月 外務省退官

1945年(昭和20年)

4月 近衛上奏文事件で憲兵隊に拘置

6月 釈放される

9月17日 外務大臣 (東久邇宮内閣)

10月9日 外務大臣に留任 (幣原内閣)

12月19日 貴族院議員に勅任

1946年(昭和21年)

1月 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。同次長に白洲次郎を起用

5月22日 内閣総理大臣兼外務大臣(第1次吉田内閣)

8月 日本自由党総裁

1947年(昭和22年)

4月25日 第23回総選挙に旧高知全県区から出馬して初当選

5月24日 内閣総辞職

1948年(昭和23年)

3月 民主自由党総裁

10月15日 内閣総理大臣兼外務大臣(第2次吉田内閣)

1949年(昭和24年)

1月23日 第24回総選挙で2回目の当選

2月16日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣)

1950年(昭和25年)

3月 自由党総裁

6月28日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第1次改造内閣)

1951年(昭和26年)

7月4日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第2次改造内閣)

12月26日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第3次改造内閣)

1952年(昭和27年)

8月1日 保安庁発足、長官を兼任

10月1日 第25回総選挙で3回目の当選

10月30日 内閣総理大臣(第4次吉田内閣)

1953年(昭和28年)

4月19日 第26回総選挙で4回目の当選

5月21日 内閣総理大臣(第5次吉田内閣)

1954年(昭和29年)12月10日 造船疑獄等の影響により内閣総辞職

1955年(昭和30年)2月27日 第27回総選挙で5回目の当選

1958年(昭和33年) 5月22日 第28回総選挙で6回目の当選

1960年(昭和35年)11月20日 第29回総選挙で7回目の当選

1963年(昭和38年)

2月 池田総理の要請で特使として台湾を訪問し国民政府との親善関係を修復

10月14日 次期総選挙への不出馬を表明

10月24日 衆議院解散にともない政界を引退

1964年(昭和39年)4月 マッカーサーの国葬に参列

1967年(昭和42年)

10月20日 神奈川県大磯の私邸で永眠(89歳)

10月31日 国葬(戦後唯一)。墓所は港区の青山霊園

選挙歴

当落

選挙 施行日 選挙区 政党

得票数 得票率

得票順位

/候補者数

比例区

比例順位

/候補者数



第23回衆議院議員総選挙 1947年(昭和22年)4月25日 高知県全県区 日本自由党

98,176 29.39 1/9 - -/-



第26回衆議院議員総選挙 1953年(昭和28年)4月19日 高知県全県区

自由党 88,620 ' 1/8 - -/-



第27回衆議院議員総選挙 1955年(昭和30年)2月27日 高知県全県区

自由党 52,962 ' 1/11 - -/-



第28回衆議院議員総選挙 1958年(昭和33年)5月22日 高知県全県区 自由民主党

52,286 ' 4/11 - -/-



第29回衆議院議員総選挙 1960年(昭和35年)11月20日 高知県全県区 自由民主党

68,506 ' 2/8 - -/-

当選回数7回(衆議院議員7回)

栄誉・栄典

1964年( 昭和39年)4月29日: 大勲位菊花大綬章

1967年(昭和42年)10月20日: 贈従一位・大勲位菊花章頸飾

一族

家族・親族

1955年2月9日、九霞園にて麻生太賀吉(左)と

生家(竹内家)

実父: 竹内綱(実業家、政治家)

実母: 瀧子

ただし実母は芸者某とする説がある。『日本の上流社会と閨閥』203頁によると、「…母親の名も素性もはっきりしないが、後年、名門出の雪子夫人との間にすき間風が吹き始め、芸者遊びに精を出すようになると、雪子は “芸者の子は芸者が好きね” といったそうだから想像がつく。…」という。『吉田茂とその時代(上)』6頁によると、「…実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだのである…初期の戸籍は明らかに母 “不詳” としているが、吉田の存命中は竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも吉田は実母に言及することを用心深くさけている…」という。

実兄: 竹内明太郎(実業家、政治家)

養家(吉田家)

養父: 吉田健三(旧福井藩士、実業家、ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)

養母: 士子[25]
(儒学者・佐藤一斎の孫娘、士族・東京府官吏・佐藤新九郎の娘)

岳家(牧野家)

岳父: 牧野伸顕(旧薩摩藩士、政治家、伯爵、明治の元勲大久保利通の三男)

岳母: 峰子(旧薩摩藩士三島通庸子爵の次女)

自家(吉田家)

妻: 雪子(1941年(昭和16年)に死別)

長男: 健一(英文学者)

長女: 桜子(夫・吉田寛は元首相岸信介・佐藤榮作兄弟の従兄弟、元外相松岡洋右の甥にあたる[26])

次男: 正男(東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任)

次女: 江子(夭逝)

三女: 和子(福岡県、実業家・政治家麻生太賀吉夫人[27])

麻生太賀吉と和子の長男が第92代内閣総理大臣麻生太郎であり、長女 信子は寛仁親王の妃。

後妻: 喜代(元新橋の芸者)

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