南遠教会・相良教会 礼拝説教テキスト版

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2010 年11月7日 南遠教主日礼拝 「復活を信じるとは」 桑満欣牧師

2010-12-03 10:23:54 | 南遠教会主日礼拝説教(桑満欣)
---聖書---
ローマの信徒への手紙6章3〜11節
 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

ルカによる福音書20章27〜40節
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。


---説教---
 召天者記念礼拝して、今日、わたしたちはこの礼拝を特別な記念の時として過ごしています。すでに、先に天へと召された多くの方々を思い起こしながら、礼拝をささげる。ここに集まられた方の中には、愛する家族や兄弟、親戚が、この後読み上げます召天者のリストに入っているという方もいるでしょう。そして、その名前を見て、懐かしかった思い出、その方の歩まれた人生を思い起こすことでしょう。おそらくそういったことを考えている中で、今、あの人はどうしているだろうか、天国でどんなふうにしているんだろう、そんなこともお考えになられているかもしれません。
 この召天者記念礼拝というのは、いわゆる、法事のようなものとは違うだろうと思います。つまり、亡くなられた方の功徳のために、わたしたちがここで礼拝をささげるということではありません。死について、また亡くなった方について、多くの宗教が様々な考えを語ります。特に、おそらくわたしたちの中に、心の中に、気がついていようといなくとも、なんとなく身についていることがあります。それは、「報い」ということです
 亡くなった人は、それまで自分が生きてきた人生の清算をしないといけない。悪いことをしてきた人は、その償いを死んでからしないといけない。正しく生きてきた人は、そのまま天国に入れるという感覚です。
 これは、おそらく、特定の宗教が教えていることというよりも、どこの国の、どの時代の人も、どんな文化の人でも、なぜか、なんとなく考えていることなんです。聖書には、そういった「報い」という考え方があったりする。人が、何か悪いことをしたら、罰を受けなければならない。この当然とも言うべき感覚があります。普通は、この世で何か悪いことをしたら、それをこの世で償うんです。悪いことをしたら、裁判を受けて、それに相当する罰を受ける。悪いことをしたら、罰を受けるという当たり前のことなんです。
 ただ、この罰という考えが、なかなか難しい。先日、しばらく報道されていましたけれども、裁判員裁判で、初めて死刑が問題になる裁判があった。それで大変注目されたわけですけれども、一応の裁判結果は、無期懲役でした。死刑ではなかった。それに対して、当然のことながら様々な議論がある。果たして、それがその人が犯した罪に対する罰になるのかどうか。やはり、命には命でしか償えないのではないか。わたしたちにはそういう感覚がある。大変難しいところなんです。でも、単なる目には目を、歯には歯をということでは、だめなことがあります。100円の損害を与えたら100円の弁償をすればいい、わたしたちはそう考えるんです。同じように、命には命であると。でも、それは、言いかえれば、謝罪はなくてもといいということです。何か悪いことをしても、それを悪いことだったと反省して謝る必要などない。それよりも、それと同じだけの賠償をしなさいと。「ごめんなさいで済めば警察はいらない」という言葉を耳にすることがありますが、本当は、「ごめんなさい」という言葉がどれほど心からの謝罪であるかが必要な時があるのでしょう。
 話しを戻しますが、罪に対して罰がある。その感覚を、わたしたちは死後に対しても、死んだ後に対しても持ち続けようとします。ですから、悪いことをしたら、その報いを受けて地獄に行く、いい人は天国に行くと考える。でも、そこまで簡単に割り切ることはではないから、もう少しやわらかくして、死んでも、その後でまだ罪の償いができる時間を作ろうと。仏教でしたら、輪廻して、修行をつづけていく。なんで仏教で戒名があるのかと言いますと、あれは、仏門に入るという意味なんですね。つまり、何なって戒名を付けてお葬式をするというのは、あれは天国に行くのではなくて、仏門に入って修行に行くということですね。まだまだ償い、本当の極楽に行くまでの旅が続くわけです。いわば、それは、罪に対する償いの旅なのかもしれません。
 キリスト教の世界でもそういう考えが現れたことがあります。中世に、煉獄という思想がはやりました。洗礼を受けて、罪を赦されても、そのあと犯した罪はどうなるんだろうと。いろいろと考え、そしてやはりその罪を償う時が必要ではないか。それで、いろいろな今まで犯してきた罪を償う期間が必要だと考えられた。全く聖書には書かれていない、聖書に根拠を求めることのできない思想なのですが、まだ、聖書が人々の間で読まれていない時代でした。印刷がなかったですから、人々は、司祭がそう話せば、聖書にはそういう教えがあるんだと信じたんです。そして、その感覚は、やはり、悪いことをしたら償わなければならないだろうという、当たり前の感覚で受け入れられてしまうんです。そして、それが、結果的に、キリスト教のさらなる堕落を生み出していくことになりました。煉獄での苦しみを短くするために、このお札を買いなさいとか、巡礼をしなさいとか、そういうことが宣伝されたのでした。

 人の心にある当然のように考えられている思想、この世でのことは、死んでもなお続くということ。罪は決して死んでも無くならないという考え、罪は罰を受けなければならないということ、それは、結果的に、天国について、また復活についても誤解を与えることになって行きました。
 イエス・キリストに対し、サドかい派と呼ばれるグループの人たちが質問をしたのです。
 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
 どうなるんだろうと、普通に思うことなんです。これを聞かれて、どう答えるべきか。ここまでではないにしても、たとえば再婚をした、そういうことはある。そしたら、自分は天国に行ったら、誰の奥さんや夫なんだろうか。
 わたしたちは、この世での人生が、そのまま天国でも続いていると考える。それは当たり前の感覚です。ですから、その感覚は、たとえば、自分もいつの日にか死を迎えたら、先に天国に旅立ったあの人と再会するんだとなる。この再会の希望ということが言われるのです。
 このことは、確かにあるでしょう。実際、そもそもこの召天者記念礼拝というものは何なのか。さきほど単なる法事ではないと申しましたけれども、このような先に召された人を思い、礼拝をささげるということは、いろいろな理由がありますけれども、おそらく、その一つの起源として考えられるのは、初期の教会の事情があります。
 キリスト教が始まったばかりのころ、キリスト教はまだ認められていない宗教でした。そして、迫害を受け、命を奪われていった人たちがいました。そうした中で、すでに亡くなった人たちの歩みを思い起こし、そして、自分たちもこの迫害の中でどのように生きるべきかを、先に召された人たちの歩みを通して学んでいく。それが聖徒を覚える日となっていきます。聖なる先人を心に思い、刻み込む時。
 実は、ここでとても大切なのは、そうして礼拝をささげた人たちが心に刻んだのは、自分たちが今与えられているこの命をどう生きるべきかということだったということです。亡くなった人たちは今どうしているんだろうとかではない。果たして、自分は今、どう生きているだろうか、先に召された人たちに倣い、キリストを信じていくものとしてふさわしい生き方をしているんだろうか、そのことを反省し、悔い改め、もう一度歩みなおしていく時だったのです。
 ですから、亡くなった人たちのためとか、その供養であるとか功徳であるということではない。今、生きているわたしたちがどう生きているかを改めて問い直していくとき、それが召天者記念礼拝です。

 ただ、それでも先に召された方がたの事を思うことは許されるでしょう。そして、その方々との再会を望み続けるということは当然のことです。
 けれども、主イエスが語られたことをわたしたちはよく心に留めておかなければならない。それは、復活にあずかり、真の命を与えられて次の世に入った人は、この世での生き方を続けているのではないということです。イエス・キリストが何を教えようとされたのか。
 イエス・キリストはここでこの世での結婚が、次の世ではあまり意味を持っていないかのように語ります。それは聞く人にとっては、ちょっとひどいと思うかもしれない。でも、そもそもここで主が語られる結婚についての意味は、何よりも、結婚は、人が死ぬ存在だからだということです。もし人が子を宿し、子孫を残さなければ、どうなるか。いつか人が死ねば、もはな人はこの世からいなくなる。人の命は、死によって終わってしまうからこそ、子孫を育み、受け継いでいかなければならない。いわば、この世での人生には、いつもバトンがある。タスキがかけられているということです。次の世代に、バトンを渡していく。
 でも、復活による次の世は、神の子として、永遠に生きるものとされる。それは、つまり、もはや次の世代にバトンを渡す生き方ではないということです。死を恐れ、死を前提して生きていくのではない。わたしたちはこの世で気がつかないうちに、死を前提して生きているんです。そして、この世での罪を、死んでもなお続けなければならないとさえも考える。でも、死はそれでこの世での命を終わらせ、次の世においては、その死を前提にした生き方ではない。つまり、罪を背負って生きていくことはないということなんです。
 再会の喜びがそこにはあるでしょう。でも、それは、決してこの世での生き方を続けるということではないということをわたしたちは心に留めておかなければならない。神の国では、わたしたちの苦しみ、悩み、罪、それらによって悩まされる世界はない。神の国にあっては、真の愛と、安らぎと、恵みがある。罪を背負うことはない。罪を背負うというのは、苦しみを追い続けるということ、死を前にするということです。でも、それはもはなやい。死んでなお修行しなければならないということはない。あなたの罪は、キリストによって償われているからです。
 キリスト教がなぜ洗礼というものを行うか。それは、まさに、あの十字架において死なれたキリストと共に死に、そして共に復活するという神秘がそこにあるからです。洗礼というのは、自分がそこで死ぬという意味があります。そして、新しいく生きるものとされる。そのしるしです。
 この世で、患いや苦しみ悩みを背負いながらわたしたちは生きている。でも、それはこの世で生きる間で十分なんです。主は、「今日の苦労は今日だけで十分である」と語られました。神の国にあって復活の命を生きる日、あなたは慰められる。あなたは愛をしっかりと感じることができる。

 この召天者記念礼拝の時、わたしたちはすでに先に召された方がたとの再会の喜びを確認します。でも、それは、この世での患いの続きではないことも心に留めておきたい。病で苦しんだ人が、苦しみ続けているのではない。結婚についても、わたしたちの思いを越えた大きな関係が天にあって与えられるでしょう。それはもうわたしたちのこの世での価値観ではとらえきれない愛があります。神さまの愛があなたを包む。すでに召された方がたが、その中を生きている。そして、わたしたちもいつの日にか、そこに入れられる。
 主を信じる人に、それは確かな約束として与えられていることなんです。
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