---聖書---
エフェソの信徒への手紙5章6〜20節
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。・・光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。・・何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
ヨハネによる福音書9章1〜41節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム・・『遣わされた者』という意味・・の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
---説教---
夜の空を見上げると、何が見えるでしょう。そう尋ねられれば、星が見えると答えます。でも、どのくらいの星が空に見えるか。住んでいる場所によって違います。
この御前崎は、比較的星が見えるところかもしれません。空を見上げますと、たくさん星が見えます。これがたとえば東京などの大都市だと、星がほとんど見えなくなります。街の光、ネオンの光など、そういった人工の光にさえぎられて、星の光は見えなくなってしまいます。
そのように、本当はそこにあるはずなのに、見えない。そういうことがある。
少しわたし自身の子どもの頃の記憶で申し上げますと、子どもの頃はもっとたくさんの星が見えていたように思います。天の川という言葉がありますけれども、今、おそらく夜の空を見上げて、天の川がどこにあるか分かるという人はあまりいないのではないかと思います。でも、子どもの頃ですけれど、肉眼で、空を見上げて、あそこからあそこに向かって天の川が流れているということが分かりました。今の子どもたちに、天の川がある、本当にたくさんの星が川のように集まって見えているといっても、信じられない子どももいるかもしれません。
本当はそこにあるはずだけど、本当に?と疑ってしまうようなことがある。
今の子どもたちは空の星があまり見えないから天の川と言われてもきっと疑うんだろうなと大人は思うかもしれません。でも、それではこう言われたらどうでしょう。
昼間のとても明るいときに、空を見上げると、実はそこに月が浮かんでいると。
昼間に月は見えません。でも、実はあるんですね。ただ、あまりに太陽の光がまぶしいので、見えにくいだけです。月は夜にしか上らないなんていうことはない。昼間だってのぼる時がある。昼間に月が昇っていると言われて、本当に?と一瞬疑う人もいるかもれしません。でも、理屈で考えれば、分かるわけです。当然昼間に月が昇っているときがある。ただ、見たことがないので、信じられないわけです。
わたしたちが何かを信じるという時、まず何よりもそれは、自分の目で見たことがある、自分の耳で聞いたことがある、実際に触れて感じたことがあるかどうかがとても重要な事柄であったりします。どんなに誰かが本当だといっても、それを目で見なければ信じられない。たくさんそういうことがあります。見えなければ信じない。
しかし、時としてそれは、見えないのではなく、見ようとしていないだけ、気が付いていないだけということもあります。また、本当は気がつかなければならないことなのに、いろいろな理由をつけて、信じようとしていないこともあります。
ここ最近、震災の影響で、しばらくテレビやラジオのCMが同じようなものばかりが流れています。その中で見ている人の心にいろいろと考えさせているのか、こんな言葉を引用しているものがあります。
「心は見えないけれど、心遣いは見える」
「思いは見えないけれど、思いやりは見える」
宮澤章二さんという方の詩なのだそうですが、わたしたちにとって知っているところですと、クリスマスのジングルベルの日本語訳の歌詞を作られた方です。
なるほどと思わされた人も多いのではないかと思うのです。しかし、同時にわたしたちの実際の生活はどうか。それができないとき、できない理由を考えていることが多いのではないかとも思うのです。そのテレビのCMでは学生が、お腹に赤ちゃんがいる女性を見て、席を譲らなければとおそらくは思ったのですけれども、そのときはできなかったシーンが出てきます。実際、そういうことはあるんですね。東京にわたしもいたとき、電車に乗っていると、大変そうだなと思う人がいたりする。でも、そこからの行動ができなかったりするんです。そして心の中で思ってしまうんです。自分は今日はとても疲れているから無理なんだとか、他の人がきっと先に声をかけるから今回はそれができなかったんだと。
わたしたちは何かをしなければならないと思いながらも、しかし、それができない理由を作ることが得意なのかもれしません。言いわけがたくさんあるんです。けれども、聖書にはこういう言葉があります。
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1John3:18)
いくら、言葉で良いことをいっても、それが実際の生き方にならなければ、はたしてそれであなたは愛を全うしているだろうか、信仰を保っていると言えるのだろうかと問われるのです。
しかし、わたしたちはできない理由を作り出す。
このヨハネ福音書の物語も、同じです。目の見えなかった人が見えるようになった。それが事実として確かに起きている。ところが、それを信じようとしない人たちがいるのです。いや、正確には、信じたくないし、信じられない理由を作りたいのです。そんなことはあるわけがないし、認めたくない。だからこそ、信じない理由が必要なのです。
ファリサイ派の人々はこの目の見えなかった人に尋ねます。どうして、どのようにして目が見えるようになったのか。
何度も何度も聞くんです。そして、ついのこの人はうんざりしてこう言いました。
「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(9:27)
この言葉から、この人が本当にうんざりしている様子が分かります。実際に起きた事実、語った言葉はシンプルなんです。でも、何度話してもそのまま聞くことができない。なにかいちゃもんをつけようとしている。受け入れることができないファリサイ派の人たち。
そして、むしろ、この彼の言葉を利用して、お前は何様だというような議論に持って行くのです。そして、お前のような者が真実を分かるわけがないという理由を作って、すべてを否定しようとした。ないことにしようとしたのでした。物事を複雑に、めんどくさくして、そして話の筋を変えて、否定する。そうして人は、自分の目を真実から閉ざしてしまう。
主イエスは言います。
「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」
そこで起きたことは、とてもシンプルなことなんです。目の見えなかった人が見えるようになった。これをイエス・キリストはこう説明しています。
「神の業がこの人に現れるためである」と。
つまり、この出来事は、神さまがなさった出来事、神さまの愛がここに実現しているということ、ただそれだけなんです。
しかし、それを理屈をこねて信じられなくするのが人間なんです。
先ほどのCMの話しでは、そこでしようとすることは、複雑なことではないんです。とてもシンプルなこと、ただ席をゆずる、声をかける、それだけなんです。でも、なかなかそれができない。心が複雑になっているからです。
「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」という聖書の言葉も、とてもシンプルなんです。愛を行うものであれ。それだけなんです。ところが、そのために何をするかを複雑に考え、できなくなっていく。
そして、信仰においても同じことが起きる。信仰というのは何か、それはとてもシンプルなことなんです。それは、神さまがあなたを愛しておられるという事実を信じるということなんです。その愛の具体的な形が主イエス・キリストの生涯、とりわけその苦難と死、そして復活の出来事に示されていく。
神さまはあなたを愛しています。その言葉に、そのとおりですと素直に答えることができる。それが信仰なんです。複雑なことではない。しかし、人は、その事実を、複雑にし、信じられない理由を作り出し、信仰を持たない理屈をつくり、信じることから遠ざかっていく。でも、それは主が言われた通り、自分で見えなくしているだけなんです。そして、信仰というのはとてもとても大変なことだ、信じるというのはとても深い思いがなければならないとか考えてしまったりする。
信じるというのは、一番大切なのは素直さなんです。主イエスは、幼子のようであることこそが点の国を受け継ぐ大切なことだと教えられました。空に、真昼の空に実は月が浮かんでいると言われて、見えないけれどそうなんだと信じるように、天の川が見えなくても、でもそこには川のように星がたくさんあると言われて、きっとそうなんだと信じるように、神さまはあなたを愛しておられるということを、そのまま受け入れていく。愛は見えない。でも、主イエスという見える姿で、神さまの愛は示されていく。主イエスの十字架こそ、神さまの愛の見える形だからです。
御子の命をささげ、わたしたちを受け入れたほどに神さまはあなたを愛しておられる。聖書はそう語り続けるんです。
信仰というのは、そう考えますと、わたしたちの頭で考えるいろいろなことを、ぽいっと捨てたときに本当の信仰があると言えるのだろうと思います。
たくさんのことを考え、神さまの御心を知ろうとし、たくさんのことをして神さまの存在を証明しようとし、聖書をたくさん読んで、研究して、いろいろな人たちの話しを聞いて、納得しようとする。でも、どんなに研究しても、どんなに聖書を勉強しても、どんなに哲学を学んで、世のことわりを知ったとしても、それで神さまを信じられるということにはならない。また信仰を支える力にはならない。
必要なことは、ただ、信じますと一言、言葉にするだけなのです。そして、その一言が言えた時、神さまは本当に心から喜んでくださる。
信仰というのはですから理屈ではなく素直さです。そのため、信仰を持っている人を見ても、周りの人はなかなか理解できないということがあります。どうしてこの人はそんなに神さまを信じていられるんだろうと考えても分からないんです。それは周りの人は、理屈で信仰というものを考えようとするからです。理屈で考えているうちは信仰は分からないまま、目は閉じたまま、見えないままです。
神さまの愛に出会うというのは、そうした理屈ではない、本当にシンプルな事柄との出会いなのです。わたしは神さまに愛されているんだとただそのまま信じる。
信じる道を妨げるものがこの世にはたくさんあります。人の心の中にもあります。それらを取り払うために聖書はあります。聖書を複雑に読んで難しいと考えている間は、聖書の語る神さまの愛を信じることはできません。聖書を難しいという人がいます。確かにそういう面もあるでしょう。でも、聖書が語る神さまの御心という面においては、聖書はむしろとても簡単なんです。それなのに多くのクリスチャンが聖書は難しいと言ってしまうのはどうしてなんだろうか。聖書のメッセージがわたしには分かりませんという人ばかりなんだろうか。しかし、もしそうなら、その人は見えなくなっているかもしれない。聖書はただあなたへの愛を語り続けてるんです。それをあなたは感じられなくなっているのかもしれない。
信じるという素直さ。神さまがわたしを愛しているということを素直に信じる心。わたしたちはそれを理屈によって難しくしてはいないだろうか。そうして見えなくなってしまってはいないだろうか。自分の胸に手を当てて考えなければなりません。
エフェソの信徒への手紙5章6〜20節
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。・・光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。・・何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
ヨハネによる福音書9章1〜41節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム・・『遣わされた者』という意味・・の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
---説教---
夜の空を見上げると、何が見えるでしょう。そう尋ねられれば、星が見えると答えます。でも、どのくらいの星が空に見えるか。住んでいる場所によって違います。
この御前崎は、比較的星が見えるところかもしれません。空を見上げますと、たくさん星が見えます。これがたとえば東京などの大都市だと、星がほとんど見えなくなります。街の光、ネオンの光など、そういった人工の光にさえぎられて、星の光は見えなくなってしまいます。
そのように、本当はそこにあるはずなのに、見えない。そういうことがある。
少しわたし自身の子どもの頃の記憶で申し上げますと、子どもの頃はもっとたくさんの星が見えていたように思います。天の川という言葉がありますけれども、今、おそらく夜の空を見上げて、天の川がどこにあるか分かるという人はあまりいないのではないかと思います。でも、子どもの頃ですけれど、肉眼で、空を見上げて、あそこからあそこに向かって天の川が流れているということが分かりました。今の子どもたちに、天の川がある、本当にたくさんの星が川のように集まって見えているといっても、信じられない子どももいるかもしれません。
本当はそこにあるはずだけど、本当に?と疑ってしまうようなことがある。
今の子どもたちは空の星があまり見えないから天の川と言われてもきっと疑うんだろうなと大人は思うかもしれません。でも、それではこう言われたらどうでしょう。
昼間のとても明るいときに、空を見上げると、実はそこに月が浮かんでいると。
昼間に月は見えません。でも、実はあるんですね。ただ、あまりに太陽の光がまぶしいので、見えにくいだけです。月は夜にしか上らないなんていうことはない。昼間だってのぼる時がある。昼間に月が昇っていると言われて、本当に?と一瞬疑う人もいるかもれしません。でも、理屈で考えれば、分かるわけです。当然昼間に月が昇っているときがある。ただ、見たことがないので、信じられないわけです。
わたしたちが何かを信じるという時、まず何よりもそれは、自分の目で見たことがある、自分の耳で聞いたことがある、実際に触れて感じたことがあるかどうかがとても重要な事柄であったりします。どんなに誰かが本当だといっても、それを目で見なければ信じられない。たくさんそういうことがあります。見えなければ信じない。
しかし、時としてそれは、見えないのではなく、見ようとしていないだけ、気が付いていないだけということもあります。また、本当は気がつかなければならないことなのに、いろいろな理由をつけて、信じようとしていないこともあります。
ここ最近、震災の影響で、しばらくテレビやラジオのCMが同じようなものばかりが流れています。その中で見ている人の心にいろいろと考えさせているのか、こんな言葉を引用しているものがあります。
「心は見えないけれど、心遣いは見える」
「思いは見えないけれど、思いやりは見える」
宮澤章二さんという方の詩なのだそうですが、わたしたちにとって知っているところですと、クリスマスのジングルベルの日本語訳の歌詞を作られた方です。
なるほどと思わされた人も多いのではないかと思うのです。しかし、同時にわたしたちの実際の生活はどうか。それができないとき、できない理由を考えていることが多いのではないかとも思うのです。そのテレビのCMでは学生が、お腹に赤ちゃんがいる女性を見て、席を譲らなければとおそらくは思ったのですけれども、そのときはできなかったシーンが出てきます。実際、そういうことはあるんですね。東京にわたしもいたとき、電車に乗っていると、大変そうだなと思う人がいたりする。でも、そこからの行動ができなかったりするんです。そして心の中で思ってしまうんです。自分は今日はとても疲れているから無理なんだとか、他の人がきっと先に声をかけるから今回はそれができなかったんだと。
わたしたちは何かをしなければならないと思いながらも、しかし、それができない理由を作ることが得意なのかもれしません。言いわけがたくさんあるんです。けれども、聖書にはこういう言葉があります。
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1John3:18)
いくら、言葉で良いことをいっても、それが実際の生き方にならなければ、はたしてそれであなたは愛を全うしているだろうか、信仰を保っていると言えるのだろうかと問われるのです。
しかし、わたしたちはできない理由を作り出す。
このヨハネ福音書の物語も、同じです。目の見えなかった人が見えるようになった。それが事実として確かに起きている。ところが、それを信じようとしない人たちがいるのです。いや、正確には、信じたくないし、信じられない理由を作りたいのです。そんなことはあるわけがないし、認めたくない。だからこそ、信じない理由が必要なのです。
ファリサイ派の人々はこの目の見えなかった人に尋ねます。どうして、どのようにして目が見えるようになったのか。
何度も何度も聞くんです。そして、ついのこの人はうんざりしてこう言いました。
「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(9:27)
この言葉から、この人が本当にうんざりしている様子が分かります。実際に起きた事実、語った言葉はシンプルなんです。でも、何度話してもそのまま聞くことができない。なにかいちゃもんをつけようとしている。受け入れることができないファリサイ派の人たち。
そして、むしろ、この彼の言葉を利用して、お前は何様だというような議論に持って行くのです。そして、お前のような者が真実を分かるわけがないという理由を作って、すべてを否定しようとした。ないことにしようとしたのでした。物事を複雑に、めんどくさくして、そして話の筋を変えて、否定する。そうして人は、自分の目を真実から閉ざしてしまう。
主イエスは言います。
「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」
そこで起きたことは、とてもシンプルなことなんです。目の見えなかった人が見えるようになった。これをイエス・キリストはこう説明しています。
「神の業がこの人に現れるためである」と。
つまり、この出来事は、神さまがなさった出来事、神さまの愛がここに実現しているということ、ただそれだけなんです。
しかし、それを理屈をこねて信じられなくするのが人間なんです。
先ほどのCMの話しでは、そこでしようとすることは、複雑なことではないんです。とてもシンプルなこと、ただ席をゆずる、声をかける、それだけなんです。でも、なかなかそれができない。心が複雑になっているからです。
「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」という聖書の言葉も、とてもシンプルなんです。愛を行うものであれ。それだけなんです。ところが、そのために何をするかを複雑に考え、できなくなっていく。
そして、信仰においても同じことが起きる。信仰というのは何か、それはとてもシンプルなことなんです。それは、神さまがあなたを愛しておられるという事実を信じるということなんです。その愛の具体的な形が主イエス・キリストの生涯、とりわけその苦難と死、そして復活の出来事に示されていく。
神さまはあなたを愛しています。その言葉に、そのとおりですと素直に答えることができる。それが信仰なんです。複雑なことではない。しかし、人は、その事実を、複雑にし、信じられない理由を作り出し、信仰を持たない理屈をつくり、信じることから遠ざかっていく。でも、それは主が言われた通り、自分で見えなくしているだけなんです。そして、信仰というのはとてもとても大変なことだ、信じるというのはとても深い思いがなければならないとか考えてしまったりする。
信じるというのは、一番大切なのは素直さなんです。主イエスは、幼子のようであることこそが点の国を受け継ぐ大切なことだと教えられました。空に、真昼の空に実は月が浮かんでいると言われて、見えないけれどそうなんだと信じるように、天の川が見えなくても、でもそこには川のように星がたくさんあると言われて、きっとそうなんだと信じるように、神さまはあなたを愛しておられるということを、そのまま受け入れていく。愛は見えない。でも、主イエスという見える姿で、神さまの愛は示されていく。主イエスの十字架こそ、神さまの愛の見える形だからです。
御子の命をささげ、わたしたちを受け入れたほどに神さまはあなたを愛しておられる。聖書はそう語り続けるんです。
信仰というのは、そう考えますと、わたしたちの頭で考えるいろいろなことを、ぽいっと捨てたときに本当の信仰があると言えるのだろうと思います。
たくさんのことを考え、神さまの御心を知ろうとし、たくさんのことをして神さまの存在を証明しようとし、聖書をたくさん読んで、研究して、いろいろな人たちの話しを聞いて、納得しようとする。でも、どんなに研究しても、どんなに聖書を勉強しても、どんなに哲学を学んで、世のことわりを知ったとしても、それで神さまを信じられるということにはならない。また信仰を支える力にはならない。
必要なことは、ただ、信じますと一言、言葉にするだけなのです。そして、その一言が言えた時、神さまは本当に心から喜んでくださる。
信仰というのはですから理屈ではなく素直さです。そのため、信仰を持っている人を見ても、周りの人はなかなか理解できないということがあります。どうしてこの人はそんなに神さまを信じていられるんだろうと考えても分からないんです。それは周りの人は、理屈で信仰というものを考えようとするからです。理屈で考えているうちは信仰は分からないまま、目は閉じたまま、見えないままです。
神さまの愛に出会うというのは、そうした理屈ではない、本当にシンプルな事柄との出会いなのです。わたしは神さまに愛されているんだとただそのまま信じる。
信じる道を妨げるものがこの世にはたくさんあります。人の心の中にもあります。それらを取り払うために聖書はあります。聖書を複雑に読んで難しいと考えている間は、聖書の語る神さまの愛を信じることはできません。聖書を難しいという人がいます。確かにそういう面もあるでしょう。でも、聖書が語る神さまの御心という面においては、聖書はむしろとても簡単なんです。それなのに多くのクリスチャンが聖書は難しいと言ってしまうのはどうしてなんだろうか。聖書のメッセージがわたしには分かりませんという人ばかりなんだろうか。しかし、もしそうなら、その人は見えなくなっているかもしれない。聖書はただあなたへの愛を語り続けてるんです。それをあなたは感じられなくなっているのかもしれない。
信じるという素直さ。神さまがわたしを愛しているということを素直に信じる心。わたしたちはそれを理屈によって難しくしてはいないだろうか。そうして見えなくなってしまってはいないだろうか。自分の胸に手を当てて考えなければなりません。
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