南遠教会・相良教会 礼拝説教テキスト版

南遠教会・相良教会説教のテキスト版です
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2011 年4月3日 南遠教会主日礼拝 「あなたの目は見えているか」 桑満欣牧師

2011-04-07 16:12:14 | 南遠教会主日礼拝説教(桑満欣)
---聖書---
エフェソの信徒への手紙5章6〜20節
 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。・・光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。・・何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

ヨハネによる福音書9章1〜41節
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム・・『遣わされた者』という意味・・の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」


---説教---
 夜の空を見上げると、何が見えるでしょう。そう尋ねられれば、星が見えると答えます。でも、どのくらいの星が空に見えるか。住んでいる場所によって違います。
 この御前崎は、比較的星が見えるところかもしれません。空を見上げますと、たくさん星が見えます。これがたとえば東京などの大都市だと、星がほとんど見えなくなります。街の光、ネオンの光など、そういった人工の光にさえぎられて、星の光は見えなくなってしまいます。
 そのように、本当はそこにあるはずなのに、見えない。そういうことがある。
 少しわたし自身の子どもの頃の記憶で申し上げますと、子どもの頃はもっとたくさんの星が見えていたように思います。天の川という言葉がありますけれども、今、おそらく夜の空を見上げて、天の川がどこにあるか分かるという人はあまりいないのではないかと思います。でも、子どもの頃ですけれど、肉眼で、空を見上げて、あそこからあそこに向かって天の川が流れているということが分かりました。今の子どもたちに、天の川がある、本当にたくさんの星が川のように集まって見えているといっても、信じられない子どももいるかもしれません。
 本当はそこにあるはずだけど、本当に?と疑ってしまうようなことがある。
 今の子どもたちは空の星があまり見えないから天の川と言われてもきっと疑うんだろうなと大人は思うかもしれません。でも、それではこう言われたらどうでしょう。
 昼間のとても明るいときに、空を見上げると、実はそこに月が浮かんでいると。
 昼間に月は見えません。でも、実はあるんですね。ただ、あまりに太陽の光がまぶしいので、見えにくいだけです。月は夜にしか上らないなんていうことはない。昼間だってのぼる時がある。昼間に月が昇っていると言われて、本当に?と一瞬疑う人もいるかもれしません。でも、理屈で考えれば、分かるわけです。当然昼間に月が昇っているときがある。ただ、見たことがないので、信じられないわけです。

 わたしたちが何かを信じるという時、まず何よりもそれは、自分の目で見たことがある、自分の耳で聞いたことがある、実際に触れて感じたことがあるかどうかがとても重要な事柄であったりします。どんなに誰かが本当だといっても、それを目で見なければ信じられない。たくさんそういうことがあります。見えなければ信じない。
 しかし、時としてそれは、見えないのではなく、見ようとしていないだけ、気が付いていないだけということもあります。また、本当は気がつかなければならないことなのに、いろいろな理由をつけて、信じようとしていないこともあります。

 ここ最近、震災の影響で、しばらくテレビやラジオのCMが同じようなものばかりが流れています。その中で見ている人の心にいろいろと考えさせているのか、こんな言葉を引用しているものがあります。
 「心は見えないけれど、心遣いは見える」
 「思いは見えないけれど、思いやりは見える」
 宮澤章二さんという方の詩なのだそうですが、わたしたちにとって知っているところですと、クリスマスのジングルベルの日本語訳の歌詞を作られた方です。
 なるほどと思わされた人も多いのではないかと思うのです。しかし、同時にわたしたちの実際の生活はどうか。それができないとき、できない理由を考えていることが多いのではないかとも思うのです。そのテレビのCMでは学生が、お腹に赤ちゃんがいる女性を見て、席を譲らなければとおそらくは思ったのですけれども、そのときはできなかったシーンが出てきます。実際、そういうことはあるんですね。東京にわたしもいたとき、電車に乗っていると、大変そうだなと思う人がいたりする。でも、そこからの行動ができなかったりするんです。そして心の中で思ってしまうんです。自分は今日はとても疲れているから無理なんだとか、他の人がきっと先に声をかけるから今回はそれができなかったんだと。
 わたしたちは何かをしなければならないと思いながらも、しかし、それができない理由を作ることが得意なのかもれしません。言いわけがたくさんあるんです。けれども、聖書にはこういう言葉があります。

 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1John3:18)

 いくら、言葉で良いことをいっても、それが実際の生き方にならなければ、はたしてそれであなたは愛を全うしているだろうか、信仰を保っていると言えるのだろうかと問われるのです。
 しかし、わたしたちはできない理由を作り出す。

 このヨハネ福音書の物語も、同じです。目の見えなかった人が見えるようになった。それが事実として確かに起きている。ところが、それを信じようとしない人たちがいるのです。いや、正確には、信じたくないし、信じられない理由を作りたいのです。そんなことはあるわけがないし、認めたくない。だからこそ、信じない理由が必要なのです。
 ファリサイ派の人々はこの目の見えなかった人に尋ねます。どうして、どのようにして目が見えるようになったのか。
 何度も何度も聞くんです。そして、ついのこの人はうんざりしてこう言いました。
 「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(9:27)
 この言葉から、この人が本当にうんざりしている様子が分かります。実際に起きた事実、語った言葉はシンプルなんです。でも、何度話してもそのまま聞くことができない。なにかいちゃもんをつけようとしている。受け入れることができないファリサイ派の人たち。
 そして、むしろ、この彼の言葉を利用して、お前は何様だというような議論に持って行くのです。そして、お前のような者が真実を分かるわけがないという理由を作って、すべてを否定しようとした。ないことにしようとしたのでした。物事を複雑に、めんどくさくして、そして話の筋を変えて、否定する。そうして人は、自分の目を真実から閉ざしてしまう。
 主イエスは言います。
 「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」

 そこで起きたことは、とてもシンプルなことなんです。目の見えなかった人が見えるようになった。これをイエス・キリストはこう説明しています。
 「神の業がこの人に現れるためである」と。
 つまり、この出来事は、神さまがなさった出来事、神さまの愛がここに実現しているということ、ただそれだけなんです。
 しかし、それを理屈をこねて信じられなくするのが人間なんです。

 先ほどのCMの話しでは、そこでしようとすることは、複雑なことではないんです。とてもシンプルなこと、ただ席をゆずる、声をかける、それだけなんです。でも、なかなかそれができない。心が複雑になっているからです。
 「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」という聖書の言葉も、とてもシンプルなんです。愛を行うものであれ。それだけなんです。ところが、そのために何をするかを複雑に考え、できなくなっていく。
 そして、信仰においても同じことが起きる。信仰というのは何か、それはとてもシンプルなことなんです。それは、神さまがあなたを愛しておられるという事実を信じるということなんです。その愛の具体的な形が主イエス・キリストの生涯、とりわけその苦難と死、そして復活の出来事に示されていく。
 神さまはあなたを愛しています。その言葉に、そのとおりですと素直に答えることができる。それが信仰なんです。複雑なことではない。しかし、人は、その事実を、複雑にし、信じられない理由を作り出し、信仰を持たない理屈をつくり、信じることから遠ざかっていく。でも、それは主が言われた通り、自分で見えなくしているだけなんです。そして、信仰というのはとてもとても大変なことだ、信じるというのはとても深い思いがなければならないとか考えてしまったりする。

 信じるというのは、一番大切なのは素直さなんです。主イエスは、幼子のようであることこそが点の国を受け継ぐ大切なことだと教えられました。空に、真昼の空に実は月が浮かんでいると言われて、見えないけれどそうなんだと信じるように、天の川が見えなくても、でもそこには川のように星がたくさんあると言われて、きっとそうなんだと信じるように、神さまはあなたを愛しておられるということを、そのまま受け入れていく。愛は見えない。でも、主イエスという見える姿で、神さまの愛は示されていく。主イエスの十字架こそ、神さまの愛の見える形だからです。
 御子の命をささげ、わたしたちを受け入れたほどに神さまはあなたを愛しておられる。聖書はそう語り続けるんです。

 信仰というのは、そう考えますと、わたしたちの頭で考えるいろいろなことを、ぽいっと捨てたときに本当の信仰があると言えるのだろうと思います。
 たくさんのことを考え、神さまの御心を知ろうとし、たくさんのことをして神さまの存在を証明しようとし、聖書をたくさん読んで、研究して、いろいろな人たちの話しを聞いて、納得しようとする。でも、どんなに研究しても、どんなに聖書を勉強しても、どんなに哲学を学んで、世のことわりを知ったとしても、それで神さまを信じられるということにはならない。また信仰を支える力にはならない。
 必要なことは、ただ、信じますと一言、言葉にするだけなのです。そして、その一言が言えた時、神さまは本当に心から喜んでくださる。

 信仰というのはですから理屈ではなく素直さです。そのため、信仰を持っている人を見ても、周りの人はなかなか理解できないということがあります。どうしてこの人はそんなに神さまを信じていられるんだろうと考えても分からないんです。それは周りの人は、理屈で信仰というものを考えようとするからです。理屈で考えているうちは信仰は分からないまま、目は閉じたまま、見えないままです。
 神さまの愛に出会うというのは、そうした理屈ではない、本当にシンプルな事柄との出会いなのです。わたしは神さまに愛されているんだとただそのまま信じる。

 信じる道を妨げるものがこの世にはたくさんあります。人の心の中にもあります。それらを取り払うために聖書はあります。聖書を複雑に読んで難しいと考えている間は、聖書の語る神さまの愛を信じることはできません。聖書を難しいという人がいます。確かにそういう面もあるでしょう。でも、聖書が語る神さまの御心という面においては、聖書はむしろとても簡単なんです。それなのに多くのクリスチャンが聖書は難しいと言ってしまうのはどうしてなんだろうか。聖書のメッセージがわたしには分かりませんという人ばかりなんだろうか。しかし、もしそうなら、その人は見えなくなっているかもしれない。聖書はただあなたへの愛を語り続けてるんです。それをあなたは感じられなくなっているのかもしれない。
 信じるという素直さ。神さまがわたしを愛しているということを素直に信じる心。わたしたちはそれを理屈によって難しくしてはいないだろうか。そうして見えなくなってしまってはいないだろうか。自分の胸に手を当てて考えなければなりません。
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2011 年3月27日 南遠教会主日礼拝 「信じるようになる道筋」 桑満欣牧師

2011-04-07 16:10:54 | 南遠教会主日礼拝説教(桑満欣)
---聖書---
ローマの信徒への手紙5章1〜5節
 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

ヨハネによる福音書4章16〜30、39〜42節
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」


---説教---
2011/3/27 南遠教会主日礼拝説教

 わたしたちが今ここで行っているものはなんでしょう。変な質問かもしれませんが、普通に考えていただければ結構です。答えは簡単。「礼拝」です。
 さてこの礼拝ですが、「礼拝に行く」といって今日ここに来られたと思います。礼拝に行く。教会に行くという言葉と同じような意味で口にしている言葉ですけれども、この礼拝について、どんな言い回しがあるか。礼拝をするという言い方をする方もいるでしょう。また礼拝をおこなうという言い方はどうか。いらっしゃるかもしれません。けれども、たぶんそうだと思うのですが、よく使う言い回しは、「礼拝をささげる」という言い方なのではないかと思います。礼拝するという言い方を使うという人もいると思います。今日読んだ聖書でも、「礼拝する」という言い方が書かれています。でも、それと同じくらいに、礼拝をささげるという言い方をわたしたちはしているのではないかと思います。少なくともわたし自身は礼拝するという言い方と同じくらい、礼拝をささげるという言い方を使います。
 さて、礼拝をささげる、ということは、礼拝がささげものだということなんです。あまりそういう意識はないかもしれませんけれども、実は礼拝とは何かということを考えるときに、とても大切なことなんだと思います。

 わたしたちはこうして礼拝に来るとき、何を求め、何のために、何をしようと、礼拝に来るのでしょう。教会に来るのでしょう。礼拝は、あなたにとってどんな意味があるものでしょうか。
 わたしは自分の願いをかなえてほしくて来ていますという人もいるかもしれない。わたしは毎日の生活の一部として、当たり前のように、習慣のようにここに来ています。特に何か特別なことがあってきているわけではありませんという人もいるかもしれない。
 礼拝の中で、わたしたちはでは何をしているでしょう。少しそこを考えたいと思います。
 わたしたちのこの礼拝の中では、前奏があり、招きの言葉が語られ、そして讃美歌、交読詩編、祈り、聖書朗読、説教、献金、聖餐式、祝祷といったものがあります。それぞれ役割があるわけなんですが、たとえば讃美歌はどんな言い回しをするか、讃美歌を歌うと普通はいいます。では祈りはどうでしょうか。祈りをするというかもしれませんが、ここでも、祈りをささげるという言い方をすることがあります。ささげる。
 普通、祈りというのは、わたしたちの心の中の願い、求めていること、それらを神さまに打ち明けることです。ですから、それはかなえてほしいことです。神さまにこたえてほしいと願っていることです。でも祈りはそれだけではありません。祈りは、神さまへの感謝の祈りがあります。日々の歩みの中で見出した、出会った神さまの恵みに感謝をささげる。また、祈りには、悔い改めの祈りがあります。自分自身を見つめ、自らが決して神さまにふさわしいものではないこと、また自分がこれまで犯してきた罪を告白する。そして、神さまどうかあわれんでくださいと祈る。とりなしの祈りというものがあります。誰かのために祈るということです。祈りは個人的なものもありますが、時として、この人のために祈ってください。そういう祈りがある。
 さて、そうした祈りですけれども、そもそもそうして祈るというのは、何よりもその前提は、この祈りが神さまにささげられているからだということがあります。どんなに祈っても、それをたとえば、ここに立っているわたしにお願いされても、祈られても、わたしにはその祈りにこたえる力はありません。わたしに向かって、またその辺を歩いている近所の方に向かって、どうかこの祈りにこたえてくださいと願ってもそんなのは意味がない。祈りは、まさに神さまに向かってささげている。それは言いかえれば、わたしはこのかたこそ神さまだと信じて祈っているということなんです。
 讃美歌を歌うということもそうです。礼拝堂で、今、わたしは、みなさんと向きあう位置に立っていますけれども、だからといって、みなさんはさっき歌った歌を、わたしのために歌ったなんていうことはないはずです。神さまに向かって歌っている。ただなんとなく讃美歌の歌詞を口ずさんでいるひとりごとではないです。讃美歌の伴奏が流れているから、ただなんとなく歌っているということでは、それは賛美ではないんです。
 神さまに向かってささげている。この方こそわたしの祈りを聞き、また賛美を聞き、そしてわたしたち自身を受け入れてくださる神さまだと信じている。そうしてささげている。それが礼拝です。

 礼拝という言葉は、英語ではサービスと訳すことがあります。モーニングサービスというのが朝の礼拝のことです。でも、ほかにも言い方があります。それはワーシップという言葉です。どちらもそれぞれに意味がある言葉です。サービスというのは奉仕という意味がありますけれども、神さまに仕えるという意味があったりします。ではワーシップとは何か。
 もともとは「価値がある」という意味なのだそうです。つまり、これこそわたしにとって価値があるものだということ。そこから、価値あるものだからこそ、それは尊敬に値する、敬うべきものという意味となり、礼拝へとなっていった。ワーシップという言葉は、それだけの価値がある人にも称号のようにつけられることもあったそうです。
 さて、礼拝をまさに価値あるものを見出す行為として行う。つまり、礼拝というのは、ワーシップというのは、この方こそ、わたしにとって価値ある方、すなわち、真の神さまだと信じているということそのものなんです。

 礼拝に初めてくるというとき、それぞれの場合があります。ある人は誰かに誘われてきたという方。もしかしたら、こんな言い方をされたかもしれません。礼拝に来たら、いいお話を牧師さんから聞くことができるから来てくださいと。特別礼拝などもそうかもしれません。今日は、いつもとちがってこんな素敵な方が来てお話をしてくださるから、ぜひいらしてくださいと。
 また、ある人は、何か特別な願いがあって来られたかも知れません。人生の中のつまずき、不安、恐れ、悩みがあり、それらをなんとかしたくて礼拝にやってきた。
 ある人は、なんとなくかもしれません。家族がクリスチャンだったから、いつのまにか来ている。ただの習慣だという人もいるかもしれない。
 みなさんにも、それぞれに礼拝に来る理由があったりするでしょう。

 でも、ここで本当に大切なところを見失ってはいけないんです。わたしたちが礼拝に来るのは、ここに、真の主、本当の神さまがいると信じるからだということなんです。全然力のない木や石の像を拝みに来たのでもないし、ただの人間の言葉を聞きにきているのでもない。
 さきほどの、礼拝に来るとき、いいお話が聞けるからというのは、確かにそういうこともあるかもしれませんが、でも、その先に何があるか。知っていないといけない。それは、そこで示されているのは、ただ単なるいい話ではなく、神さまが指し示されているということを。

 読みました聖書は、サマリアの女がイエスさまに出会い、不思議な体験をするところです。この女性はおそらく、どこから来たのかもわからない一人の男が自分に話しかけてくるので、最初はいぶかしがっていたでしょう。しかも、この男は、自分に向かって、あなたの夫を連れてきなさいとさえいう。何を分かっているというのか。おまえは何も知らないだろう。わたしには夫はいない。夫と呼べるものはいないんだと。
 ところが、そんなこの女性に、男は彼女の事実を言い当ててしまいます。確かにあなたには夫はいない。今連れ添っているのは夫ではないと。
 女は驚き、この男がただものではないこと、そしておそらく預言者ではないかと思いました。そこで彼女は聖書について、教えられていることを問うのです。わたしたちの礼拝すべき場所はどこでしょうかと。この問いは、当時のサマリア人とユダヤ人の対立を表しています。どちらのほうが神さまを礼拝する正統性を持っているかというようなことでした。
 ところが、男は答えます。まことの礼拝をする時が今まさに来ていると。

 さて、女は町に行き、人々に告げました。「わたしのことを言い当てた人がいます。」
 そうして女は人々をイエスさまのところに連れてきました。彼女が人々を連れてきた動機は、この方はどうも普通ではない。何かが違う。みなさんもよく見てください。この方は何者なのでしょう。そうした思いだったと思います。
 いわば、それが礼拝への招きかもしれません。どうかここに来てください。ここにはわたしたちが知らない何かがある。あなたが今まで出会ったことのない方がここにいる。礼拝に招くというのは、教会という建物に人を連れてくるということではないんです。では何か。それは、主の言葉を聞くために来るということんです。
 人々は、集まり、イエスさまから話を聞きました。どんな話がここであったのかは示されていません。でも、人々はここでこういうのです。
 「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
 ここで人々は礼拝に招かれ、主の言葉を聞き、そしてこの方こそ真の主、救い主、わたしたちの神だということを知った。これがイエス・キリストが語られた真の礼拝です。霊と真理をもってささげらせれる礼拝なんです。つまり、礼拝とは、まさにこの方こそ救い主、わたしの主なる神と信じ、この方こそわたしの価値ある方という発見をする。
 わたしたちがもし礼拝に来ても、ここで礼拝をささげている、わたしたちが祈りを、賛美をささげている相手が真の神さまではなかったとしたら、わたしたちが礼拝することはなんの意味もないことになります。せいぜい、いい話を聞いているだけです。
 でも、そうではないんです。礼拝は、いい話を聞くのではなく、神さまがそこで示され、神さまにわたしたちが向かい、わたしのすべてをささげるほどの価値ある方がここにおられるんだという出会いの場所なんです。そこに働くのは、わたしたちの知恵ではなく、主の言葉とそれを伝える聖霊の働きです。
 あなたが今いるこの場所は聖なる場所である。かつてモーセが神さまに出会ったとき、そう言われました。神さまとの出会いの場、それが礼拝です。わたしたちは礼拝において、このわたしの命を支え、すべてささげてもささげつくせないほどの価値ある方に出会っている。
 あなたが信じ、礼拝をささげている神さまを信じて行きなさい。このかたをおいて、ほかに真の主なる神はいないのです。その価値を見出すものであれ。それを見出した時、あなたの人生も、まことの価値あるものとして歩みだしていくこととなる。
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2011 年3月20日 相良教会主日礼拝 「時が来れば分かること」 桑満欣牧師

2011-04-07 16:09:45 | 相良教会主日礼拝説教(桑満欣)
---聖書---
マタイによる福音書17章1〜13節


---説教---
 先日、東北から関東にかけて大きな地震がありました。連日のように報道がありますが、予想以上の津波による被害によって、おそらく亡くなる方は一万人を超えると予想されています。
 たった一度の災害で、それほどの方たちが命を落とす。そのおそらく数時間前までは、一日が当たり前のように過ぎていくと感じていたはずなのに、それが一瞬で変わってしまった。
 時としてそうした出来事にわたしたちは出会います。そうした災害は決して起きないとはわたしたちは思っていません。どこかで地震があり、また天災がある。わたしたちは必ずしも誰もが絶対にそうした災害に出会わないとは言い切れない。それは知っているのです。それでも、やはりまさかと思ってしまう。絶対ということはないはずなのに、やはり自分にはそういうことは起きないと思っているのです。

 そして、わたしたちは一人のクリスチャンとして心に思うのではないでしょうか。一体神さまはこのような災害をなぜ起こされたのだろうか、またこの災害には何か意味があるのだろうかと。
 時として、そうしたことについて、牧師に質問される方もいます。
 でも、気をつけなければならないことでもあると思っています。そのことについて、わたしたちはすぐにこれが神さまの考えであると答えることはできないからです。
 それはこうした災害だけではありません。たとえば、ご家族の中で、またご自身が大きな病気になった、また事故にあった。そうすると思うのです。どうしてわたしがこんな病気になったのだろうか。わたしにはまだまだしなければならないことがあるのに、どうして神さまはわたしにこんな病気を与えたのだろうかと。
 それに対して、誰かが、つい口にしてしまうかもしれない。きっと神さまがあなたに必要だとお考えになったから、その病気を与えたのですよと。
 しかし、そのような言葉がどれほどその人を傷つけるか、わかっていない。その言葉を口にした人が、神さまの考えていることを全部わかっていて、それでそう言っているならばまだしも、わたしたちは神さまではないんです。きっと神さまにそうするご計画なり、お考えがあったはず・・・というのは、無責任なんです。確かに神さまのご計画があるのかもしれない。神さまの御心があるかもしれません。でも、それは神さまがその人に告げたときに明らかになることであって、だれかが勝手に決めていいことではないんです。
 本当にクリスチャンが、時として教会の中でとても信仰深く、みんなから尊敬されているような方が、そういう言葉をいうことがあるんです。それは、その人自身が、自分の人生の中で、いろんな経験をされ、時には苦しいことを経験されて、そしてその中に神さまの御心を見出してきたからなんだと思うんです。だからこその信仰の重みというものがある。でも、それを人に対して、あなたもそうであるはずと決めて、これは神さまのお考えになったことですよと、勝手に答えを与えてはいけないことがあるんです。
 苦しいことがあったときに、理解できないようなことがあったときに、そこに神さまの御心を見出すことは、とてつもなく大変なことなんです。特に命がかかっているときはそうです。神さまにそこで出会う、しかも愛と慈しみに満ちた神さまに出会うというのは、時として時間が必要なんです。ある人は一年かもしれない。ある人は十年かもしれない。ある人は一生をかけて神さまに出会っていく。それを周りの人が、答えを言っても、意味がないんです。
 むしろ大切なのは、わからないからこそ、理解できないからこそ、神さまに祈るということなんです。どうしてこのようなことが起きたのですかと神さまに尋ねる。その祈りの積み重ねが必要な時がある。

 この読みました聖書の物語は、おそらく意味のわからない出来事の一つなんだと思うんです。イエス・キリストが弟子たちのうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて山に登っていった。イエスさまがこの三人を連れていくということは、たまにあったようです。おそらく弟子たちの中でも、特に中心となる人たちだったからでしょう。さて、そうして山に入っていかれたわけですが、たいていイエスさまが山に入るというときは、祈るためでした。たくさんの人たちから離れて、静かに祈るために山に入っていく。おそらくほかの弟子たちも、イエスさまはいつものように祈るために山に行かれたんだと思っていたでしょう。
 ところが、いつもと違うことが起きた。山に入ると、イエス様の姿が目の前で変わっていった。顔は太陽のように輝き、服が光のように白くなった。そして、モーセとエリヤが現れて、イエスさまと語り合った。
 わけがわからないわけです。弟子たちも意味がわからず、ただ恐れるのみでした。いったいこれは何なのか、全くわからない。ペトロがここで、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」というのですけれど、そもそもそれも意味がない言葉です。ただ興奮して、言っただけです。小屋を建てて、それが何か意味があるかといえば、それも特に意味がない。なんとなく、ここにまた何度も来て、いつでもお話ができるように家を用意しましょうとかいった程度でしょう。とにかくペトロはわけがわからなくなっているのです。
 そう、まさにこれは意味のわからない出来事だったのです。弟子たちは、いったいこれがなんなのか理解できない。それが事実でした。ただ、言えることは、これが確かに起きたということでした。
 その光景の中で光り輝く雲が覆い、声がしました。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
 この声に驚き、もはやどうすることもできなくなった弟子たちは、ただひれ伏しました。恐れ、びくびくしながら、どうしようもなかった。すると、イエスさまが近寄り、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。イエスさまの声を聞いて、彼らは、眼を上げるのです。そして、そこはいつもの風景に戻っていた。

 この出来事をイエスさまは、人の子が復活するまではだれにも話してはならないと命じられました。どうしてか。つまり、この出来事は、今話しても、誰も正しく理解できないからです。雲の中から聞こえた声は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言いました。イエスさまにこの出来事の意味を聞きなさいと言ったのです。でも、それはイエスさまに聞けばすぐに答えてもらえるということではなく、イエス・キリストの十字架の死、そして復活がなしとげられなければ、理解できないということだったのです。
 もし、この出来事を三人が、すぐにほかの弟子たちに告げていたら何が起きていたのでしょう。また、イエスさまのお命じになったことを無視して、人々に、この出来事を告げていたら何が起きていたのでしょうか。想像するしかないのですけれども、おそらくこのような出来事は今までなかったことだと高らかに言って、だからこそ、やはりこのイエスさまは只者ではないというようなことを触れまわったかもしれません。うわさが出たかもしれません。そして、この出来事は、イエスさまはほかの人とは違う、大いなる人物、預言者であるんだという結論ができたかもしれません。
 でも、イエスさまは、それを禁じられた。つまり、人々の中で、この出来事についての結論がすぐに出てしまうことを拒否されたのです。むしろ、この出来事をしっかりと心に留め、考え続けることを弟子たちに命じました。そして、主イエスの生涯、十字架の死、苦しみ、そして復活に出会うとき、この出来事を理解する道を見出すだろうと。
 はたして、この出来事の意味を弟子たちが見出したのか、よくわかりません。聖書もこの出来事はこういう意味だったと説明していないからです。ただこれが確かに起きた出来事であったということ。それが確かに弟子たちに見せ、示され、考えなければならない出来事としてあるということだけは事実なんです。

 イエス・キリストが十字架につけられたとき、いや正確にはそれより前、イエスさまが捕らえられたとき、イエスさまは深い祈りの中にいました。それはもしかしたらどんなに祈っても、孤独を見るような祈りに見えたかもしれません。わたしたちもそうですが、自分が満たされているときは、祈っていても、神さまがともにいてくださるような気がするんです。でも、苦しい中にあると、どこにも神さまがいない、どんなに祈っても聞かれない、どれだけ求めても神さまは答えてくださらないという孤独を感じることがある。
 主イエスが祈り、そして捕らえられ、裁判を受け、鞭で打たれ、辱められ、十字架につけられていく。そして、ついに亡くなられた。その歩みの中に、それまでのどんなことがあっても神さまと共に歩まれているような姿は見えなかったでしょう。弟子たちの目には、まさに孤独に、見捨てられ、誰も助けてくれるものはなく、ただ無力に死んでいくだけの師の姿しかなかった。それがイエスさまの十字架の死でした。
 弟子たちは失望します。イエスさまが何の奇跡も起こすことなく死んでいかれたことに、ショックを感じずにはいられませんでした。
 そして、三日後、イエス・キリストは復活されました。弟子たちは喜んだでしょう。でも、それは同時に大きな問いが弟子たちに与えられているんです。それは、どうしてイエスさまは十字架につけられて殺されなければならなかったのかということなんです。これについての答えを見出さなければならないんです。
 復活したからいいではないか、ということではだめなんです。イエス・キリストが十字架において死なれたのは、単なる偶然ではない。たまたま運が悪くて死んでしまったけど、イエスさまは奇跡によって復活されたんだというようなことではないんです。
 
 そこで思い起こされるのが、この山の上で姿が変わられたということでした。この山で、確かにイエス・キリストは姿を変えられた。その奇跡が、幻を確かにわたしたちはこの目で見た。そして、それを主の復活まで黙っていなさいといわれた。なぜなのか。
 そこで出てくるのが、山で主が捕らえられ、そして死んでいかれたその歩みは、単なる偶然ではなく、確かな神さまのご計画があったということなんです。このすべてに、神さまの働き、御心、ご計画があった。
 そして、この発見が、弟子たちに、イエス・キリストの十字架の死には意味があることを悟られました。主が死なれたのは、意味がある。主が定めたご計画がある。まさに、この事実に出会うんです。そこから、主の十字架の意味、罪と赦しが明らかになっていきます。

 この世において起きる出来事に、神さまの御心があると口にすることはたやすいことかもしれません。しかし、本当にそうだと信じることはとても難しいことです。弟子たちがまさに主イエスを失うという、さらには裏切るというの絶望にまで陥らなければわからなかったように、本当に答えを見出す道は困難な時があります。待たなければならない時もある。問い続けなければならないことがある。黙って考え続けなければならない時がある。
 この世の出来事、一人ひとりの人生の出来事、また教会の歩みもそうです。どうしてわたしたちのこの教会は今こうなのだろうかという問い。それを本当に問い続けていくことです。そこに主の御心があるならば、祈りつつ、求めつつ、苦しいことがあっても、なお待ち続ける。
 問い続けることをやめたとき、同時に信仰も消えていくでしょう。教会の命も失われていくでしょう。そして、答えは見いだせずに終わるでしょう。
 しかし、主の御心を問い続けていく人生が、その終わりにおいて本当に深い信仰とゆだねる心を得ることができるように、すべてにおいて問い続けていくことが、わたしたちの信仰にとって大切です。
 主よ、今、こうして起きていることは、いったい何なのですか、と問う。時があります。それを理解する時が。わからない時があります。どんなに求めてもわからない時が。けれども、信仰によって生きるとき、教会は変わることなく御言葉を語り続けていくことができます。主は言われている。求めなさい、そうすれば与えられると。今、答えをあなたが出す必要はない。でも、必ず与えられる。そう信じて、教会の歩みも、また今日進んでいくんです。この教会に用意されている道をしっかりと歩むことができますように。
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2011 年3月13日 南遠教会主日礼拝 「主が負われた罪」 桑満欣牧師

2011-04-07 16:05:51 | 南遠教会主日礼拝説教(桑満欣)
---聖書---
ローマの信徒への手紙5章12〜21節
 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。


マタイによる福音書4章1〜11節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


---説教---
 今日のこの礼拝は受難節の礼拝となっています。4月にイースターがあります。それは復活祭、主イエスの復活を共に祝うときですが、けれども、それは同時に、主がどうして十字架につけられて死ななければならなかったのか。そのことが問われているときでもあります。聖書ははっきりと、主が十字架につけられたのは、わたしたちの罪のためであったと語ります。この罪というのは、日本の法律に違反したといったことではありません。神さまと自分自身の関係において、問われていることです。わたしたちが日本に住んでいれば、日本の法律に従い、それを破るようなことをすれば罪に問われるように、神さまとの関係において、神さまの御心に沿わない生き方をするならば、それがわたしたちの罪であるということです。
 ではわたしたちの罪とは何なのか。そして、そこからどのようにしてわたしたちは生きいくべきなのか、今日語られている聖書を通して共に耳を傾けて行きたいのです。

 昨日、わたしたちの教会のメンバーであります國井由美姉妹の葬儀が行われました。2009年のクリスマスに洗礼を受けられたすぐあとに、肺にがんが見つかり、およそ一年あまり、治療を続けられてきましたが、ついに、その命の終わりを迎えられたわけです。このような病をわたしたちはどのようにして受け止めればいいのでしょう。おそらく姉妹も願ったと思いますが、まず思うのは、病が癒されること。どんな不可能だと思うような状態でも、それでも奇跡が起きて癒されたい。そう願います。
 しかし、姉妹が天へと旅立たれた。それは神さまが姉妹のために奇跡を起こしてくださらなかったということなのか。そう思う方もいるかもしれません。けれども、奇跡がなかったから神さまは姉妹のために何もしてくださらなかったということではないのです。いやむしろ、奇跡によるのではなく、その病を自らの人生として受け入れていく、そしてその命を主から与えられたものとして精一杯生きていく。それを通して、主がまさに自分と共に歩んでくださったということを思わずにはいられないのです。わたしは姉妹の生き方を見て、本当に姉妹と主は共に歩んでくださっていた。姉妹の生きる人生の道のりを主が導いてくださっていたと思うのです。

 もし聖書に、イエス・キリストが病の人を癒されたという奇跡がひとつも書かれていなかったら、わたしたちはそれほど奇跡というものを求めないかもしれません。けれども、確かに聖書を開けば、目の見えない人の目が見え、耳の聞こえない人の耳が聞こえ、口のきけなかった人の口がきけるようになるという奇跡が記されている。病人が癒され、手足が不自由だった人が癒される。それを読むと、わたしたちは、やはりそういう奇跡が自分に起こること、また家族や友人、愛する人に起こることを当然のように求めるのです。

 しかし、実は聖書をよくよく読んでいきますと、イエス様はなんでもかんだも無条件にそうした奇跡を起こしていたわけではないようにも思えてくるのです。特に、イエス様が口にされていた言葉がひっかかります。奇跡を起こされた時、イエス様はよくこう言われていました。
 「あなたの信仰があなたを救った」と。
 また、ご自分の故郷にいたときのこと、そこではあまり奇跡を起こされなかったとあり、そして、人々の不信仰に驚かれたと語られています。
 つまり、この奇跡という出来事は、信仰による出来事だということです。単に、足が痛いから、痛みを取ってくださいという、医者のすることとは違うということなんです。癒されて、それで終わりなのではなく、そこに信仰が介在する。信仰によって受け入れられるものではなければ、奇跡は意味のないものになるということなんです。
 たいていわたしたちは何か苦しいことがあったとき、そこから助けてほしいと願います。つらいことがあったとき、なんとか逃れたいと願い、そして神さまに祈り、奇跡を求めます。けれども、それは、信仰による事柄ではなく、ただ、その人がそうなればいいと願っていることなのです。

 信仰による事柄というのはどういうことか。それはまさにそこに神さまが働いてくださっていること、そして自分のこれまでの歩みも、そして奇跡も、そしてこれからの歩みも、すべて神さまの御心の中にあるということを信じるということです。奇跡が起きるならば、それを信仰によって神さまから与えられた出来事として理解する。ですから、それは、その人が神さまに仕えるものになっていくということでなければ、意味がない。そして逆に、たとえ奇跡がなかったとしても、それが神さまの御心として受け入れるということでなければ意味がないんです。

 病について、癒されることが神さまの御心だと決めつけるのではなく、たとえ癒されなかったとしても、自分の希望するような結果でなかったとしても、それを神さまの御心として、さらにその自分に神さまの恵みを見出していく。それが信仰なんです。そして、逆を言えば、自分の思い通りになった時しか神さまを信じようとしない姿こそ、罪人の姿なんです。

 この聖書の物語において、イエス・キリストは悪魔から試されます。空腹になったとき、悪魔は、石がパンになるように命じたらどうかとささやきます。願いをかなえてもらえばいいではないかというのです。もし、その言葉の通りにしたならば、そこに罪があるということなんです。自分の思い通りになることがよいことだということになるからです。
 しかし、主イエスは答えられます。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
 これは、人は自分が欲しいと思うものを手に入れれば、それで人生を充実して生きているのだとは言えないということです。本当の生きるという道は、自分が手に入れたいという願望を実現することによるのではなく、神さまの言葉をしっかりと受け止めることによって可能なのだということです。自分は何によって生きているか、その意味、その目的、人生という道を導いているものは、神さまによるという事実。それをどこまで受け止めることができるかどうか。もしそれが自分のやりたいようにのみ生きる。自分の手に入れたいと思うものを手に入れることが人生の目的であるならば、そこには人の欲を強くする罪が見え隠れしてくるのです。

 悪魔はさらに主イエスを試して言いました。
 神殿の屋根の端に立たせ、そこから飛び降りてみよというのです。本当に神さまがお前を大切にしているなら、決して傷つけることなどしないはずだと。これは先ほどの病の癒しにも関わることかもしれません。もし本当に神さまがわたしを愛しているなら、わたしを病気にするはずがないという考え。ところが、そのために病気になると、けがをすると、不幸なことが起きると、自分を神さまは見ていてくださらないのではないかという疑いになる。
 この悪魔の誘惑は、たくみに、人の不安定な確信をついてくるんです。本当にそうなのか分からないという不安、それを増大させるのです。罪というのは、神さまを疑う姿だとも言えます。それを悪魔は導きだそうとするのです。
 けれども、主は言われます。
 「あなたの神である主を試してはならない」
 これは、本当に神さまがわたしと共にいるならば、わたしは絶対けがをしない、病気にならないということではないんです。でも、それを主張する人もいます。わたしは神さまから愛されているから、絶対に病気にならない。もし病気になるなら、それはその人の信仰がたりないからだとさえ言う人がいる。でも、それこそが罪の誘惑に陥っている姿です。神さまの愛というのは、わたしが健康であろうとも、病であろうとも、財産があろうとも、貧しくとも、どんな状態であったとしても、なおわたしと共にいてくださるという姿なのです。もし健康で幸せだと思う時にしか神さまがいないというならば、それは神さまを見誤っています。主イエスが十字架につけられ、苦しみを受け、命を落としていった。その姿に聖書はこう語っています。この方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と。すなわち、わたしたちが信じているイエス様というのは、まさにわたしたちの苦しみの中に、共に歩んでくださる方だということです。わたしたちが勝手に、神さまがいるならどんな苦しみもないと決めつけてしまうことこそ、罪の姿なのです。わたしたちの苦しみを知ってくださる。それがどれほど慰めになり、恵みになり、救いとなるか。そのことを悟らなければならないのです。

 最後に悪魔は主イエスに対し、わたしにひざまずけと命じます。そうすればこの世のありとあらゆる富、権力、名声を与えようと。それらは、時としてわたしたちが人生の中で求めるものなんです。そして、そのためならば、どんなことでもしようとしてしまうことがある。愛を捨てて、富を獲得しようとしてしまうことがある。人の貪欲は恐ろしいものなんです。
 でも、主は言われています。たとえどれほどの財産があろうとも、あなたの命が失われてしまえば、それはなんの意味があるのかと。本当のあなたの大切な宝は何か、それはあなたに今日生きる命が与えられているということなのではないか。そのことを知らず、ただ何かを手に入れるためだけに生きてしまうならば、あなたは命の終わりに何を得たことになるだろうか。大切なことは、わたしは神さまのものだという真実なんです。

 けれども、そうしたことが教えられ、理解しても、それでもわたしたちはやっぱりそういう罪に陥ってしまう。自分の望むことが叶ってほしいし、苦しいことのない幸せだと思える生き方をしたいし、手に入れたいものがある。そういうしょうがないところがあるんです。だからこそ、そのわたしたちを救うために、この罪の試練に打ち勝ち、この罪をすべて担い、あなたを赦すために、代わりに罪の償いをしてくださった。それが主イエスの十字架だったのです。
 これがどれほど大きな慰めであるか。罪と戦い、生きることを真剣に求めている人ほど、それが分かります。求めても、なお自らの中にある罪があることを知ってしまうわたしたちが、なおそれでも愛されていると確信できる救いがここにあるからです。わたしはやはり罪人です。でも、それでもこんなわたしを主は愛し、導き、救い、命の道を与えてくださった。たとえ倒れそうになっても、たとえ不安に陥っても、わたしはわたしの力でそれを乗り越えるのではない。主が支えてくださり、主が共にいてくださるから、わたしは歩むことができる。

 主の十字架への道は、まさに人の罪がどんなものであるかを示すところから始まっていきました。その罪をわたしがあなたのために担い、あなたの罪は赦される。この主の生涯を、イースターの時に向かい、改めてたどっていきたいと思います。
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2011 年3月6日 南遠教会主日礼拝 「主の言葉を聞いて行う人」 桑満欣牧師

2011-04-07 16:05:04 | 南遠教会主日礼拝説教(桑満欣)
---聖書---
ローマの信徒への手紙3章21〜26節
 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

マタイによる福音書7章21〜27節
 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」



---説教---
 「あなたはクリスチャンですか」
 そう尋ねられたら、みなさんはどう答えますか?
 「はい、わたしはクリスチャンですよ」と答えるとするならば、その理由はなんでしょうか。わたしがクリスチャンである証拠は何んでしょうか。これがあるから、クリスチャンであると言える。
 その一つは、洗礼を受けているということです。わたしたちは洗礼を受けてクリスチャンになる。言い換えますと、生まれながらクリスチャンという人はいないということです。洗礼を受けるということが何よりも大切である。教会も、2000年の歴史の中で洗礼をとても大切にしてきました。どうしてそこまで洗礼を大切にするのかと言いますと、イエス様がわたしたちにそう命じたからです。マタイ福音書の最後のところにこう書かれています。

 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(Mt28:18-20)
 
 イエス様がお命じになったからこそ、わたしたちは洗礼をということを大切にしていますし、主の弟子となるということ、それは洗礼によってなしうることなんだとイエス様ご自身がお話しになったからです。

 ところで、それではクリスチャンというのは、日本語で言うとどういう意味でしょうか。
 そう尋ねられたら、みなさんはどう答えるでしょうか。
 クリスチャン・・・・ある人は「キリスト教徒」と答えるかもしれません。実際、おそらくいろんな人に聞いたら、クリスチャンというのはキリスト教徒のことだと答えると思います。もしくは、キリスト教の信者ということかもしれません。
 確かにそれは間違いではありません。正解と言っていいかもしれません。
 でも、もう少し丁寧に考えた方がいいだろうと思います。キリスト教徒とか、キリスト教の信者ということですが、一般的にはおそらくそれは洗礼を受けいるということなんだと思うのですけれども、ある人は、洗礼ではなくて、そもそもキリスト教の教え、聖書の教えを信じていれば、それでクリスチャンだというかもしれません。洗礼というのはただの通過儀礼、儀式に過ぎない。大切なのは、信仰なんだから、何よりもイエス様を信じている。聖書の言葉を信じている。それでクリスチャンなのではないかと。
 もしみなさんがそう誰かから言われたらどうするでしょうか。わたしは洗礼をは受けていませんけれど、クリスチャンです。イエス様を救い主と信じ、聖書の言葉も信じていますと。時には、聖書の知識や洞察も、教会にこうしてこられているみなさんよりもずっと深いかもしれない。そういう人が教会に来て、わたしはクリスチャンですと言われたら、みなさんはどう答えるでしょうか。
 さらに、こう言うことだってあるでしょう。ある人は洗礼を受けているけれども、あまり教会の礼拝に来ない。でも、この人は洗礼は受けていないけれども、毎週の礼拝に欠かさず出席している。どちらのほうがクリスチャンだろうかと。イエス様のことを信じているし、祈りもしっかりされていると。

 けれども、そこでわたしたちははっきりと答えないといけないんです。洗礼を受けているということでけなければ、それはクリスチャンとは呼べないということを。確かに、その人は聖書の教えを信じている人です。イエス・キリストの言葉を信じている人です。でも、クリスチャンというのを、しっかりとその意味を考えるならば、それではクリスチャンとは呼べない。とても大きなことなんです。
 イエス・キリストは、今日語られた言葉で、痛烈にそのことを語られています。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 ここで、イエス様のこと、神さまのことを呼んでいる、つまり神さまを信じていますと叫んでいるんです。そして、さらに、その神さまのお名前を使って、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行った。まさに、信仰のなせるわざのようにさえ見えるような大きなことを起こした人がいる。でも、たとえそうであったとしても、それでも主は言われるというのです。「わたしはあなたたちのことを知らない」と。
 怖い言葉です。要するに、はたから見れば、もうこの人ほど神さまを信じ、神さまの力を行うことができるほどに深い信仰を持っている人はいないだろうと思えるような人が、それにも関わらず、「お前のことなど知らない」と言われてしまうというのです。
 主イエスは、こう言われています。
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と。
 イエス様の言葉を聞いて行う人と。でも、ここで言われた、主よ主よと名を呼び、奇跡を行った人たちは、主の言葉を聞いて行う人たちではないんだろうか。
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」という言い方をしているので、わたしたちは、これを、信仰というのは、ただ心で信じているだけではなくて、行いが伴わなければならないんだと理解しやすいんです。聞いているだけでなく、行う人でなければならないと。どんなに聖書の言葉を聞いて、あいることが大切だと理解しても、愛を行うことがなければ、それは口先だけの愛になるのではないかと。愛とはまさに行うことによって全うされると。それこそが、聞いて行う人ではないだろうかと。
 しかし、そうして主の御名を呼び、主の名によって奇跡を行う人たちが、お前たちなど知らないと言われてしまう。
 つまり、ただ単に、聖書の言葉を聞いて、そして行いをしているということだけでは何かが欠けているということなんです。イエス・キリストと関わりが無くなってしまっているんです。

 クリスチャンとは何か。それは聖書をよく読んでいる人のことではありません。また、聖書の言葉を読んで、それを実践している道徳的な人のことでもありません。
 そもそもクリスチャンという言葉はどこから生まれたのか。それは聖書の中に出てきます。それは当時の教会の人たちが自ら名乗ったのではなく、周りの人たちから、町の人たちから揶揄されるようにつけられたものでした。教会の人たちは、イエス様のことを救い主であると信じました。キリストというのは、救い主という意味です。イエス・キリストというのは、イエス様のフルネームではなく、イエスさまこそキリストですという信仰告白です。教会の人たちは、このイエスさまこそキリストなんだ、みなさんこのイエスさまこそ、わたしたちの待ち望んでいたキリスト、救い主なんですと宣べ伝え続けたんです。そして、あまりに、彼らが、イエス様のことを、キリスト、キリストと呼ぶので、周りの人たちが、あれはキリスト人間だ、と揶揄し、キリスト者、キリスト人間という意味で、クリスチャンと呼んだのでした。
 しかし、その呼び方は、単なる皮肉や揶揄を越えて、教会の人たちのアイデンティティになっていきます。まさにわたしたちはキリスト者なんだ、クリスチャンなんだというアイデンティティです。これはパウロがこう語っている言葉でもよく分かります。
 「キリストを着ている」という表現です。
 キリストを着る。赤い服を着れば、その人は見た目が赤い。クマのぬいぐるみでもかぶれば、その人はクマに見える。それと同じです。キリストを着るというのは、まさに周りの人たちが、そこにキリストがいるとさえ見える。それがキリストを着ている。そしてそれがクリスチャンということなんです。
 さらに、この言葉について、パウロはこう語っています。
 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(Gal3:27)
 キリストを着るということは、洗礼を受けてキリストに結ばれていることによって実現することなんだと。実はここが大切です。洗礼というのは何か。さまざまな意味がありますけれども、何よりも大切なのは、洗礼によって実現するのは、わたしたちがキリストに結ばれるということなんです。キリストと一つになる。一体になるということ。

 これは聖書に語られている結婚の教えを考えるとよく分かります。聖書は結婚について、男女がそれぞれの父母を離れ、一体となる神秘だと教えます。現代はそれぞれ男女の人格というものが重要視されますが、それとは別の次元です。男と女は、単なる口先のことではなく、まさに一人の人間に、一体となるんだというのです。それが結ばれるということです。
 これは、単に、二人が愛し合っていればそれでいいということではありません。口先だけの、わたしたちは愛し合っているから、結婚しなくてもいい、それぞれの関係を大切にしていれば、お互いを尊重していれば結婚してなくてもいいのではないかということではダメなんです。それは結局、二人は、二人のまま。結ばれてはいない。一体とはなっていない。本当の神秘はそこにはない。
 結婚というのは、二人が一人となるという神秘、結ばれる神秘として聖書は語ります。

 キリストに結ばれるというのは、まさにそのように、もはや離れることのない関係となる。一体となるという神秘。そしてそれが洗礼なんです。
 どんなに口先で、わたしはイエス様を信じていますと言っていても、だんなにすばらしい奇跡を起こすようなことをしていたとしても、どんなに行いがすばらしい人であったとしても、キリストに結ばれていないならば、それはそれまでなんです。結婚していない、いつまでも別々の男女のままと同じ。そこには本当の結びあわされた関係はない。
 わたしはイエス様のことを信じていたし、たくさんのすばらしいことをしてきました。みんなから尊敬されるようなすばらしいことを行ってきました、とたとえ誇っても、イエス・キリストから言われるのは、「わたしはお前を知らない」という言葉なんです。キリストと結ばれていないならば。

 岩の上に建てた家というのは、まさにキリストに結ばれた人のことです。しっかりと一体となっている。土台と家が決して離れることなくつながっている。それがキリスト者、クリスチャンなんです。いわば洗礼というのは、わたしとイエス・キリストをつなげる接着剤のようなものとも言えます。しかも、もうくっついたら離れない。
 それがわたしたちを本当に助けます。もはや何の助けもない、希望を見いだせないという状況の中で、絶望、悲しみ、不安、死、病という中で、なおわたしを主イエスは離れることがないという希望なんです。わたしは洗礼を受けている。それがどれほど大きな力であるか。洗礼を受けている。それがまさにわたしの人生の支えであり、土台となるんです。

 どんなに自分の生き方を神さまに誇っても、キリストに結ばれていなければ、どこかでそれはむなしいのです。空を切る言葉でしかない。しかし、洗礼を受けている。それこそが主と私を結び合わせる。ただそのことによって、主はわたしたちに語られるのです。たとえ誇ることのできない人生であったしても、人には見せることのできないみっともなさを心のうちに持っていたとしても、主はわたしたちに言われるのです。「あなたはわたしのもの。あなたの人生はわたしのもの。わたしはいつもあなたと共にいた」と。クリスチャンであるということの、まさに大きな幸いがここにあるのです。
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