昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

樺太・千島の戦い 二題 占守島・真岡電話交換手

2015-04-26 04:20:18 | 歴史・神秘
最初の逸話は浅田次郎の小説「終わらざる夏」にて有名ですが、昭和20年8月18日つまりボッダム宣言受諾後に占守島に攻め込んできたソ連に日本兵は果敢に挑みます。果敢な抵抗と被害のひどさにソ連の死者数は予想以上であったが、21日停戦協定を結び日本は武装解除しました。この辺りの状況は次のとおりです。

終戦の時に、占守島には日魯漁業の従業員の方が二千五百人ほどいました。この人たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていましたが、その中には約四百人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、内地からの迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへのソ連軍の攻撃でした。
参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談し、当時島にあった独航船二十数隻に約四百人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させることが出来たので.す。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから五日後でした。
停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうですが、あとの祭りでした。
もし、彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったことを想像すると、占守島の第九十一師団の心遣いが人ごとでなく心にしみます。ソ連と戦った戦車第十一連隊はその十一の文字を結合して土(ツチ)と読み、土魂部隊として名を残しました。
しかしながら、武装解除した兵は結局シベリアに抑留されつらい生活を送ることになるのですが・・・・・・

もう一つの悲劇が樺太の真岡です。
ソ連は『日ソ不可侵条約』がまだ有効であるにも関わらず、日本に一方的に宣戦布告、樺太、千島、そして北海道を奪う為に軍隊を上陸させてきた。

樺太の真岡が侵略を受けたのは終戦後の8月20日。
日本軍は連合国に敗北し、ポツダム宣言を受け武装解除したが、
ソ連には侵略にとって好都合以外の何物でも無かった。

ソ連は真岡の町めがけ艦砲射撃をし、なんの抵抗もしない一般住民に機銃掃射を浴びせ、虐殺を繰り返す。
真岡の日本軍は停戦を求める為に、軍使として村田中尉を送るが彼も殺害されてしまう。
日本軍も止むに止まれず、武器を再度取って国民を逃す為に立ち上がった。

戦ったのは軍人だけではなかった。
日本の為に最後の最後まで通信施設の機能を守った、9人の電話交換手。
皆20代前半、中には17歳、18歳の若き乙女もいた。
彼女達は日本の北海道に向けた通信機能を最後まで守る為に命を捧げた。

ドイツや満州、ソ連が占領した地域の婦女子はすべからく辱めを受け、虐殺された。
それを知っていた彼女たちは「内地のみなさん、さようなら・・・さようなら」の言葉を残し、用意していた青酸カリで自決の道を選んだ。
彼女達も靖國神社に祀られている。
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編


しかし、今回のテーマではないけれどソ連って陰険な国だな~。敗戦を受け入れたあとに、条約を一方的に破棄して攻撃してきて、停戦交渉の軍使も殺す。
満州やここらの敗残兵をシベリアに抑留、厳寒地でろくな食事、装備も与えずに強制労働をさせ、多くの人が命を落とした。
いまだに北方領土は未解決で、ここの元島民も高齢化で島に帰れぬままお亡くなりになっている。
真岡の交換手の悲劇を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」には公開中止の難癖までつけ、いまだに公には上映されていない。何故上映中止を申し入れるか、ソ連の悪行がそれこそ知れ渡るからだが、これに屈した日本政府もだらしない。
  
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2 コメント

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愛国乙女 (あやか)
2016-07-06 07:29:15
真岡の女子電話交換手の、悲しくも感動的なお話、私も知っています。
私は、以前、電信電話情報通信関係の会社にお勤めしていました。そのとき、青年社員対象の合宿研修があり、かなり高齢の取締役のかたから、第二次大戦末期のころ、ソ連軍に囲まれながら、電話交換の任務を全うして生命を捧げられた乙女の話をして下さいました。私たちの世代には想像もつかない昔話ですが、その取締役のかたは、君たちの大先輩の女子電話交換手のかたにはそういう立派な人がいたことは知って下さい、とおっしゃってました。その取締役のかたは、その研修のご指導を最後の仕事として退職されましたが、ご勇退の前のはなむけの言葉として、私たちにそんな
お話をして下さったのだと思います。
私も今はその会社を退職していますが、在職中は、いじめや理不尽なことも体験しました。さまざまな会社内外の諸問題について、姑息でことなかれ主義をきめこむ上司の態度には疑問を感じましたし、社員の人権には無頓着なくせに、同和問題にかかわる事には顔色を変えてピリピリする管理職や人事担当者の態度には、怒りよりも滑稽さを感じたものです。
無論、その事は本論のテーマとは関係ないので、これ以上は言いませんが、それにつけても、殉国の女子電話交換手の貴重なお話をいただきました取締役のかたの凛としたお姿は、いまでも瞼のうらにやきついています。

白ゆりを 捧ぐ殉国 乙女らに
彩花
ソ連の横槍りもあったそうです (執筆者)
2016-07-29 09:52:01
上記記事でも触れましたが触れましたが、この映画は結局広く公開されていません。
終戦後に攻めてきた、それが 後ろめたい のでしょう。

しかし、これとは別にDED化された作品もあります。
「霧の火」という題名で名取裕子も出ています。
度重なるコメントありがとうございます。
電話交換手の貴重なお話しも興味深く読ませていただきました。

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