迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊―中山道( 東海道)108 大津宿→逢坂の関跡→京三條大橋

2017-02-11 06:20:25 | 旧中山道
今は石碑のみの大津本陣跡を過ぎ、さらに坂を上ると右手には、京阪電車京津線の踏切越しに「蝉丸神社・下社」が見えます(上段写真)。

蝉丸とは、盲目の琵琶法師の名前。

世阿弥作の同名の謡曲では、延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子で、盲目に生まれたため逢坂山に棄てられたとなっていますが、「今昔物語」では、宇多法皇の皇子である敦実親王の“雑色(ぞうしき、無位の雑役夫のこと)”となっています。

その敦実親王の弾く琵琶を聴き覚えて琵琶法師になったという蝉丸は、境内の石碑にもあるごとく「音曲芸道祖神」であり、芸事に携わっている者ならば、必ず立ち寄りたくなる神社。

が、それにしても境内がずいぶんと荒れているのが気になり、社務所もだいぶ傷んでいるようだと、



閉めきられた雨戸の隙間から中を覗いたわたしはハッとして裏手へ回ると、なんと正面の板一枚を残して、裏はすっかり崩れ落ちている有り様!



ガイドブックにも載るような古社がなんたることだと、、そのひどすぎる有り様にゾッとして逃げ出しました。


蝉丸神社を過ぎると、いよいよ逢坂山へとさしかかります。



日本書紀によると、神功皇后の将軍武内宿禰が、このあたりで忍熊王(おしくまおう)とバッタリ会ったことから「逢坂」と名がついたと云うこの山の頂きには、古代には関所がおかれていました。



関西や関東の呼び名は、この「逢坂の関」を基準にしたもので、関所の西を関西、東を関東、または坂東であり、東戎であったわけです。


関所を越えば下り坂、かつては大津絵を売る画工が軒を連ねていたという大谷を過ぎると、旧道は追分信号で国道1号線から左へと分かれ、ようやく自動車の騒音から解放されてホッとしながら歩くうち、伏見街道との追分にさしかかります。



左へ行くのが伏見街道、右が中山道(東海道)で、道はそのまま昔の風情が残る髭茶屋地区を、のんびりと下って行きます。

そして国道1号線にかかる歩道橋を渡り、その先から再び続く道へと入ります。

“旧三条通り”として、京の三條通りから続いているこの旧道は、



住宅や商店、寺などが続くなかを通り、山科駅前を過ぎてしばらく行ったところで国道1号線に合流して東海道本線の高架をくぐり、その先で左へ分かれると、住宅地のなかをすり抜けるようにして、やがて「日ノ岡峠」にさしかかります。



その先の日ノ岡地区を過ぎると再び国道に合流、九条山から粟田口刑場跡を過ぎ、蹴上の浄水場に沿って下り坂に入ると、



京の都まであと少しと、心はいっぺんに浮き立ちます。

京の入り口のひとつだった粟田口を過ぎ、白川を越え、すでに京の都の街並みのなかを進んで、



ついに終点の、「京三條大橋」に到着。






わたしが旧中山道を歩き始めたのは、今から七年前の初夏でした。

その時は、東京都内に残る旧道をブラブラ歩きしてみようといった、ごく軽い気持ちでした。

京都まで歩いてみようなど、そんな大それたことは考えもしませんでした。


ところが、東京都と埼玉県との境である荒川の「戸田の渡し」跡に至ったあたりから、「もう少し先まで行ってみよう」、「いや、あと少し……」とやっているうちに、とうとう、

「ええい、こうなったら本当に、京都まで歩いてみようではないか……!」

と、一大決心するに至ったのです。

「何年かかってもいい、とにかく京都まで目指してみよう」

と決めてはいましたが、それが七年がかりになるとは、さすがに予想していませんでした……。


しかし!

旅はこれで終わりではありません。

わたしには、まだまだやりたいことが、たくさんあります。

その一つ一つが、

すなわち、

“冒険(たび)”なのです。
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