迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊―中山道( 東海道)107 草津宿→瀬田の唐橋→石山寺→大津宿

2017-02-10 04:13:57 | 旧中山道
伯母川にかかる立木橋を渡って草津宿を抜けると、かつての立場(休憩所)で草津名物“姥ヶ餅”が売られていた矢倉地区を通り、矢倉南信号で国道1号線を渡った先には、「野路一里塚跡」の碑が、小公園として整備されたなかに立っています(上段写真)。


この先の野路地区は、中世には宿駅がおかれていたところで、



家並みにそれらしい風情があります。

また、現在では失われた「日本六玉川」の一つ、“野路の玉川”をささやかに再現した一角も、旧道沿いには設けられています。


このあと旧道は住宅地のなかをひたすら進み、月輪地区あたりからはアップダウンも加わり、大江地区で道を鈎の手に二度折れると、やがて国道1号線に合流。

そのまま15分ほど行くと、



「瀬田の唐橋」に至ります。



この橋を渡ったところで、紫式部ゆかりの「石山寺」へ立ち寄ることに。



わたしの好きな謡曲のひとつ「源氏供養」の舞台であるこの大寺院では、訪れた日は紫式部の絵像三点の特別公開が行われていました。



そのうちの一点は、平成七年に蔵から偶然に発見されたもので、彩色の剥落具合などから実際に“源氏供養”法要で使用されたと考えられているそうで、謡曲「源氏供養」に因んで立ち寄っただけに、ご縁があったと観世音菩薩に感謝。



さて、再び中山道(東海道)へと戻り、次は大津市青嵐二丁目、JR「石山駅」付近に残る今井兼平の墓を訪ねることに。

今井兼平とは木曽義仲の重臣で、1184年(寿永3年)の粟津合戦で敗れたのち、刀を口に含んで自ら落馬して命を断ったという豪傑、その有り様は謡曲「兼平」にも描かれています。

付近には線路や化学工場、まわりを住宅に囲まれたなかに佇むこの墓は、



1666年(寛文7年)に膳所藩主の本多康将が、篠津川上流にあったものを東海道に近いこの場所に移したもので、さらに明治44年に当時の行政や、今井兼平の子孫が改修したもの。


再び旧道へと戻り、いまも残る桝形の道をいくつか経ると、やがて膳所藩六万石の旧城下町、



本丸地区へと入ります。


さらに歩を進めて、西の荘5付近の“膳所城北総門跡”と云う桝形を通ると、



町並みの雰囲気から、だんだんと大津宿に近づいてきたことが感じられるように。


そして京阪電車「石橋駅」の踏切を渡り、その先の緩やかな坂を上ると道は長い直線、いよいよ最後の宿場である「大津宿」へと入って行きます。

現在では住宅と、わずかな古民家が残る程度の静かな裏道といった風情で、その昔ロシアの皇太子が巡査に襲われた「大津事件」の発生場所も、ただ石碑と案内板があるのみ。

その先、札の辻に近いあたりに、かろうじて旧宿場らしい雰囲気があります。



そして札の辻を左へ鈎の手に折れて、



緩やかな坂を逢坂山に向かって、上がって行きます。
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