
7月7日旅の3日目のスケジュールは「8時45分ロビー集合、希望者にかつての日本人住宅街へご案内」
もちろん参加します。その前に…。
「10時スーツケースをドアの外へ。
10時30分ロビー集合・出発」
なので、先にスーツケースをドアの外へ出しておかねば。これを先にしとけば、自由散策時間に余裕が出来るものね〜。
朝食後、部屋に戻って荷造り。荷物が少ないのでスムーズに終了。集合時間までダンナから双眼鏡を借りて軍港を眺めることに。
いや〜〜。昨日、白玉山に上った時、旅の仲間が口々に「潜水艦を見た」とか「出航して行った」とか言ってたんですよ。
…私はそんなの見てないっ。
嘘だっ!とダンナに確認したら、
夫「昨日は海岸にパラソル立てて泳いでたよ」
私「何それ?どうゆうこと??」
夫「潜水艦が停泊してる埠頭って老虎尾の方でね。その側で隊員が泳いでた」
私「何それ〜〜っ!!」
双眼鏡を覗きましたらば、「潜水艦が1個2個…。え〜と?6個?」
夫「よく見ろよ。もっと多いだろう」
そうなの?再び数え直す。「ああっ!小さいのが奥にある。全部で8個!」大きな1隻は、水を吹いてます。出航が近いのでしょうか?残念ながら、集合時間が迫り、確認出来ないまま観察終了。
さてまずはガイドの楊さんの後について白山街を北へ。この道が前出の神社の神宮緑道です。
トップ画像の地図に「旧大正公園」と書き込んでますが、ここがかつての関東神社です。ちなみに、現在公園はありません。近代的なマンションがいく棟か建っています。
楊さんは白山街を右折。そこはもうかつての日本人住宅街です。

上の白黒写真でピンクで囲った辺りになります。
旅順は1905年の日露戦争終了から1945年の第二次世界大戦終了までの40年間、日本の植民地でした。だから日本人も多く暮らしていたのです。このあたりから現在「八一街」と地図にかかれている所が、かつて日本人が高崎町と呼んだ場所です。トップ画像の地図に街歩きのコースを水色で書き込みました。
緩やかな坂道を登るガイドの楊さんの足が1軒の古い民家の前で止まりました。(地図の2)

楊「この民家はかつて日本人が暮らしていた家です。私はここで感動的な体験をしました。
年配のお客さんを案内して来たら、お客さんが涙を流し始めました。『どうしたのですか?』と尋ねましたら、『私はかつてこの家に住んでいました。まさか残っているとは…』そうです。老人が若い頃暮らした家だったのです」
う〜〜む??
1945年と言えば65年前。旅順から引き上げた人がまだ生きてる可能性があるのでした。旅順が中国の軍港として外国人の立ち入りを禁じていたので、訪れたくても訪れらない場所でして、オープンになって始めて、この地に様々な思い出を持つ日本人が半世紀を超えて今再訪しているのでしょうね。
添乗員さん「私どもが発表したツアーですが、中には『この学校に通っていた』とか『あの病院で私は生まれた』とおっしゃるお客様を案内しました」
うううう〜〜〜むぅ。
さて、また少し坂道を上った先で右折。現在寧波街と呼ばれている路。かつての日本人街ではありますが、現在右手はホテルが建ってます。左手は…。
楊「2つの建物を見て下さい。左のグレーの建物はコンチラチェンコの普段暮らした家。右の赤い建物はコントラチェンコの来客やパーティー用の家」
ん?コントラチェンコ??どっかで聞いた〜??
私「楊さん、コントラチェンコって誰?」
楊「ロシアの将軍でした」
ああっ!思い出した〜。
あれだっ!司馬遼太郎の『坂の上の雲』で登場した有能な人!
(地図の3)
(地図の4)
日露戦争の司令官だった乃木希典の軍人としての評価は今でも意見が別れていますが、ロシア側の司令官の評価も賛否が別れています。彼の日露戦争後の行く末を見るに、本国の評価は悪かったみたいですね。でも彼が讃えられることの一つに「日露戦争を戦うのにコントラチェンコを右腕に選んだこと」というのがあります。コントラチェンコの軍人としての評価は高いのです。
コントラチェンコの写真
日露戦争の勝敗も、もし彼が生きていたら勝者は変っていたのかも。と言われる程に。
コントラチェンコは東鶏冠山で指揮をとっていましたが、日本軍の砲撃で1904年12月に戦死しました。頑丈な堡塁も同じ場所に2回続けて砲撃する作戦の前に持ちこたえられなかったのです。
ステッセルの希望に答え、乃木希典は戦後コントラチェンコの戦死した場所に慰霊碑を建てました。
かつてのコントラチェンコの邸宅ですが、その後1905年から1931年にかけて、日本関東軍司令の官邸になりました。
1935年「満州国」皇帝溥儀が二回目に旅順に来た時、ここに宿泊しました。
1945年、ソ連赤軍将校の家へ。1955年人民解放軍将校の家に。
「現在はどちらの建物も数家族が暮らしてます」と楊さんが言ってました。
ぐるりと建物の敷地沿いの壁にそって八一街へ。
そこにもかつての日本人の家がいくつも残ってます。しかもだいぶ裕福な人が住んでたみたい。65年以上前に建てられた家にしては立派です。
いくつか紹介。



でも、何で半世紀以上前の建物がいくつも残ってるの?ある程度頑丈で当時の最先端の建物だったとしても、変だろう??
問いかけると楊さんは「日本人が本土へ引き上げたあと、中国軍は空き家になった建物を中国人に配りました。現在住んでいるのは配られた人の子孫です。建物の所有権は軍にあります。住み続けるにはしばりがあって、壊して新築してはダメ!修理と少しの改築はOK!」なんだって。う〜〜む。ただで家がもらえてラッキーなのか?今でも暖炉が必要な家に住まねばならなくて不幸なのか??
窓が割れてる家はありませんが、固く戸締まりしていて人が出入りしてそうにない家もままあるようです。
でもなんか少し昔の時代のドラマとかに出て来そうな建物だらけで散策はとっても楽しい。
さて、旅行会社の街歩きは40分弱で終了。ガイドの楊さんは児童公園を突っ切ってホテルに戻ります。
既にスーツケースを部屋の外に出してある私は時間に余裕があるので、旧日本人街の高崎町を散策へ。再び坂道を戻ることに。
八一街
八一街の裏手の細道。そこにも古い民家があります。

坂道を更に上がってると、あれ?コントラチェンコの邸宅裏庭へ入れそうな細道がある〜??
細道を恐る恐る行きますと、こっそり作られた畑発見!細道は畑を作っている人の通い路だったようです。
ラッキ〜。
かつて壮麗な庭だったかもしれませんが、現在はめぼしい建造物もない。せいぜい古い階段がいくつか残っているのみ。雑草が伸び放題です。
これはちょっと失敗だったかな〜?
そろそろ引き返そうか?と迷います。
取りあえずコントラチェンコの邸宅を裏側から見る。


どうせなら、整備すればいいのに。雑草だらけの区画の周囲は石造りの壁が。(画像をとり忘れました)
散策再開。トップ画像の黄緑色の地区(地図1)は民生街。既にいくつか記事にした懐かしい中国の民家が立ち並ぶ場所です。

旧日本人街(高崎町)の路地歩き。最後に白山街に戻る時に発見した坂道が面白かった〜。
ホテルに戻って用意出来たらチェックアウト。
10時30分、ロビー集合&出発。
もちろん参加します。その前に…。
「10時スーツケースをドアの外へ。
10時30分ロビー集合・出発」
なので、先にスーツケースをドアの外へ出しておかねば。これを先にしとけば、自由散策時間に余裕が出来るものね〜。
朝食後、部屋に戻って荷造り。荷物が少ないのでスムーズに終了。集合時間までダンナから双眼鏡を借りて軍港を眺めることに。
いや〜〜。昨日、白玉山に上った時、旅の仲間が口々に「潜水艦を見た」とか「出航して行った」とか言ってたんですよ。
…私はそんなの見てないっ。
嘘だっ!とダンナに確認したら、
夫「昨日は海岸にパラソル立てて泳いでたよ」
私「何それ?どうゆうこと??」
夫「潜水艦が停泊してる埠頭って老虎尾の方でね。その側で隊員が泳いでた」
私「何それ〜〜っ!!」
双眼鏡を覗きましたらば、「潜水艦が1個2個…。え〜と?6個?」
夫「よく見ろよ。もっと多いだろう」
そうなの?再び数え直す。「ああっ!小さいのが奥にある。全部で8個!」大きな1隻は、水を吹いてます。出航が近いのでしょうか?残念ながら、集合時間が迫り、確認出来ないまま観察終了。
さてまずはガイドの楊さんの後について白山街を北へ。この道が前出の神社の神宮緑道です。
トップ画像の地図に「旧大正公園」と書き込んでますが、ここがかつての関東神社です。ちなみに、現在公園はありません。近代的なマンションがいく棟か建っています。
楊さんは白山街を右折。そこはもうかつての日本人住宅街です。

上の白黒写真でピンクで囲った辺りになります。
旅順は1905年の日露戦争終了から1945年の第二次世界大戦終了までの40年間、日本の植民地でした。だから日本人も多く暮らしていたのです。このあたりから現在「八一街」と地図にかかれている所が、かつて日本人が高崎町と呼んだ場所です。トップ画像の地図に街歩きのコースを水色で書き込みました。
緩やかな坂道を登るガイドの楊さんの足が1軒の古い民家の前で止まりました。(地図の2)

楊「この民家はかつて日本人が暮らしていた家です。私はここで感動的な体験をしました。
年配のお客さんを案内して来たら、お客さんが涙を流し始めました。『どうしたのですか?』と尋ねましたら、『私はかつてこの家に住んでいました。まさか残っているとは…』そうです。老人が若い頃暮らした家だったのです」
う〜〜む??
1945年と言えば65年前。旅順から引き上げた人がまだ生きてる可能性があるのでした。旅順が中国の軍港として外国人の立ち入りを禁じていたので、訪れたくても訪れらない場所でして、オープンになって始めて、この地に様々な思い出を持つ日本人が半世紀を超えて今再訪しているのでしょうね。
添乗員さん「私どもが発表したツアーですが、中には『この学校に通っていた』とか『あの病院で私は生まれた』とおっしゃるお客様を案内しました」
うううう〜〜〜むぅ。
さて、また少し坂道を上った先で右折。現在寧波街と呼ばれている路。かつての日本人街ではありますが、現在右手はホテルが建ってます。左手は…。
楊「2つの建物を見て下さい。左のグレーの建物はコンチラチェンコの普段暮らした家。右の赤い建物はコントラチェンコの来客やパーティー用の家」
ん?コントラチェンコ??どっかで聞いた〜??
私「楊さん、コントラチェンコって誰?」
楊「ロシアの将軍でした」
ああっ!思い出した〜。
あれだっ!司馬遼太郎の『坂の上の雲』で登場した有能な人!
(地図の3)
(地図の4)日露戦争の司令官だった乃木希典の軍人としての評価は今でも意見が別れていますが、ロシア側の司令官の評価も賛否が別れています。彼の日露戦争後の行く末を見るに、本国の評価は悪かったみたいですね。でも彼が讃えられることの一つに「日露戦争を戦うのにコントラチェンコを右腕に選んだこと」というのがあります。コントラチェンコの軍人としての評価は高いのです。
コントラチェンコの写真

日露戦争の勝敗も、もし彼が生きていたら勝者は変っていたのかも。と言われる程に。
コントラチェンコは東鶏冠山で指揮をとっていましたが、日本軍の砲撃で1904年12月に戦死しました。頑丈な堡塁も同じ場所に2回続けて砲撃する作戦の前に持ちこたえられなかったのです。
ステッセルの希望に答え、乃木希典は戦後コントラチェンコの戦死した場所に慰霊碑を建てました。
かつてのコントラチェンコの邸宅ですが、その後1905年から1931年にかけて、日本関東軍司令の官邸になりました。
1935年「満州国」皇帝溥儀が二回目に旅順に来た時、ここに宿泊しました。
1945年、ソ連赤軍将校の家へ。1955年人民解放軍将校の家に。
「現在はどちらの建物も数家族が暮らしてます」と楊さんが言ってました。
ぐるりと建物の敷地沿いの壁にそって八一街へ。
そこにもかつての日本人の家がいくつも残ってます。しかもだいぶ裕福な人が住んでたみたい。65年以上前に建てられた家にしては立派です。
いくつか紹介。



でも、何で半世紀以上前の建物がいくつも残ってるの?ある程度頑丈で当時の最先端の建物だったとしても、変だろう??
問いかけると楊さんは「日本人が本土へ引き上げたあと、中国軍は空き家になった建物を中国人に配りました。現在住んでいるのは配られた人の子孫です。建物の所有権は軍にあります。住み続けるにはしばりがあって、壊して新築してはダメ!修理と少しの改築はOK!」なんだって。う〜〜む。ただで家がもらえてラッキーなのか?今でも暖炉が必要な家に住まねばならなくて不幸なのか??
窓が割れてる家はありませんが、固く戸締まりしていて人が出入りしてそうにない家もままあるようです。
でもなんか少し昔の時代のドラマとかに出て来そうな建物だらけで散策はとっても楽しい。
さて、旅行会社の街歩きは40分弱で終了。ガイドの楊さんは児童公園を突っ切ってホテルに戻ります。
既にスーツケースを部屋の外に出してある私は時間に余裕があるので、旧日本人街の高崎町を散策へ。再び坂道を戻ることに。
八一街

八一街の裏手の細道。そこにも古い民家があります。

坂道を更に上がってると、あれ?コントラチェンコの邸宅裏庭へ入れそうな細道がある〜??
細道を恐る恐る行きますと、こっそり作られた畑発見!細道は畑を作っている人の通い路だったようです。
ラッキ〜。
かつて壮麗な庭だったかもしれませんが、現在はめぼしい建造物もない。せいぜい古い階段がいくつか残っているのみ。雑草が伸び放題です。
これはちょっと失敗だったかな〜?
そろそろ引き返そうか?と迷います。
取りあえずコントラチェンコの邸宅を裏側から見る。


どうせなら、整備すればいいのに。雑草だらけの区画の周囲は石造りの壁が。(画像をとり忘れました)
散策再開。トップ画像の黄緑色の地区(地図1)は民生街。既にいくつか記事にした懐かしい中国の民家が立ち並ぶ場所です。

旧日本人街(高崎町)の路地歩き。最後に白山街に戻る時に発見した坂道が面白かった〜。
ホテルに戻って用意出来たらチェックアウト。
10時30分、ロビー集合&出発。












旧関東神宮の場所を調査しておりました。旅順は現在も軍港ということもりあり、古地図が発見しづらくて正確な場所を調べられず苦戦していました。
資料を調べていくと大正公園という名称ができきましたので、ようやく特定することができました。
実際に歩くとあまり感じませんでしたが、航空写真で見ると、現在の白山街があまりにも立派な通りなので、「ここが旧表参道に違いない」と考えました。
おそらく神殿があっただろうと思われる場所は軍管理なので中をうか伺うことができませんが、近日中に再撮影して、修正します。
http://www.dllocal.com/enjoy/item/602
貴重な情報を有り難うございます。
いらっしゃいませ。
白山街は旅順の街で一番太い道です。
中央に道。左右に街路樹。街路樹の外に歩道といった造り。
つまりこれは参道なのです。慶次郎さんの予想は正解です。
道を造った時、天皇陛下が関東神宮を参拝することを想定していたようです。実際に陛下がここを訪れることはなかったようですが、確か皇族の方は参拝したと聞いたような…。すみません。既に記憶があやふやです。
中国において、皇帝陛下が歩く道と臣下が歩く道は分けられてました。確かそんな感じで参道を整備したハズ。
旧関東神宮は参道の突き当りにありました。現在では道にのみ面影があります。散歩で突き当りまで行ってみたけど、学校のような、マンションのような日本の高度成長期みたいな感じの建物があっただけでした。右手の坂道の方へ行けば公園があったのかも?未確認ですが。
私の2010年8月11日の「謎の建物」の記事内に白山路の画像があります。旧関東神宮の参道云々と書いてあるやつがそう。
それで、旧関東神宮の所在はたぶんここだと思ったので、今日記事に地図を追加掲載しましたのでよければ確認してみて下さい。
返答とご訪問もどうも有り難うございます。
今気づいたのですが、gooブログも中国の一般的な回線からは接続できないんですね・・・・。Yahoo!ブログに続き不便なことです。
追加された地図も確認させていただきました。
確かに珍しい3車線ですね。普段、歩いているときは横断して博物館や旧工科大学の方へ行くだけなので、あまり意識していませんでした。
本殿の位置は、まだ推測域を脱しませんが、さらに奥の斜面側だったのではと考えています。
(航空写真では突き当たりの四角形の場所の中にも一直線の道らしきものが確認できますので内苑の道?)
神社、神宮は、一般的に拝殿・幣殿・本殿と並ぶので、長方形になることが多いように思われます。関東神宮の古写真を見ると本殿の裏に斜面のようなものも写りこんでいるので、さらに奥の白い建物がある場所に本殿があったのではと推測してみました。
いずれにしても調査不足でお恥ずかしい限りです。勉強させてきました。有り難うございます。
旅順までバスで40分ほどで行ける場所に住んでいますので、また、再調査してきます。
長くなりました。失礼しました。今後ともよろしくお願いします。