「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」4 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二

2016年04月24日 14時48分06秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」4 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「結」

 魯の国に帰ってから、〔子貢は〕そのことを孔子に話したところ、孔子はこう答えた、「その人は渾沌氏の術をとりちがえて学んでいるんだよ。その一面だけわかっていても両面を知らない。その内面〔の心性のこと〕はよく考えていても外面〔の世間のこと〕を配慮していない。あの〔内面的な〕潔白さで素(きじ)のままの世界に入り、無為自然のふるまいで朴(あらき)のままの本質に復帰し、本性(うまれつき)そのものとなって精神を胸に抱きながら、世俗にたちまじって生活を楽しんでいるような人なら、お前はきっとなにも驚くことはなかったろう。それに、渾沌氏の術などは、私にもお前にも、とても理解できることではなかろうよ。」

※渾沌氏の術
「渾沌」は、応帝王篇第七の末章の寓話にみえた。未分化の総合体として自然そのもの、道のありかた。それと一体になることをつとめる修行。「圃を為る者」(引用者注:畑づくりの老人)はまだ真実にそれを修めるものではなく、誤った学びかたをしているために、世俗から離れた生活しかできないでいるという主旨。

(引用終わり)

 十余年前に五十歳にて税吏の職を辞し無謀にも税理士を始めた頃、山本夏彦翁の本に出会いました。翁のお蔭で、四書五経老荘列子荀子と読み進めて、いまでも同じ本を飽きもせず繰り返し読んでおります。正確に言いますと、五経の内、何度も読んでいるのは「易経」のみで、詩経国風は、大昔の吉川幸次郎さんの翻訳で少しずつ読み始めております。
 「機械ある者は必ず機事あり。」という言葉はあまりにも有名で、翁の膨大なエッセイ群で何度もお目にかかって、図々しくもまるで自分の言葉のように使っております。ただし、余りにも有名な文句なのでその部分のみ取り上げられ、それがどういう寓話からもたらされて、そのお話の続きはどうなっており、終わりはどんなだったのかまでは、ネットで調べても見つけられません。
 この寓話、結構長い文章なので引用するのも疲れますし、最後まで読んだからどうという事は無いのですが、結論だけ言いますと、「転」までは何とか理解の範囲ではあるのですが、「結」へ辿り着くと、作者が言いたかったのは何なのだろうと考えさせられました。そこで、翻訳者の金谷先生の注釈の出番です。「※」の部分にその解釈が載っています。つまり、ここに登場する孔子さまは、畑づくりの老人の言葉を誤った学び方をしている者の戯言(ざれごと)と一蹴しているのです。
 それにしても言葉というものは、それを待っている人には電光のように通じるもので、そうでない人には、どんなに委曲を尽くそうとも通じないとは、これも夏彦翁の十八番なのでありました。文明が原子力にまで行き着き自然災害によりそれが制御不能に陥(おちい)っても未だに反省しない現代人を、この名句を紡ぎだした人なら、どんな風な言葉で私達に語りかけてくれるのでしょうか。

 最後に、翻訳だけでは悲しいので、名文句の部分だけでも書き下し文を掲げておきたいと思います。

機械ある者は必ず機事あり。
機事ある者は必ず機心あり。
機心胸中に存すれば、則ち純白備わらず。
純白備わざれば、則ち神生(性)定まらず。
神生(性)定まざる者は、道の載せざる所なりと。

(合掌)



小人閑居して名文を読む。
また楽しからずや。

十読は、壱タイプに如かず。
また悦ばしからずや。

(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」3 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 

2016年04月24日 14時45分19秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
(承前) 「機械ある者は必ず機事あり。」3 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「転」

 子貢はちぢみあがって顔も青ざめ、ぼんやりして意識もはっきりせず、三十里も歩いてから、やっとわれをとりもどした。その門人がいうには、「さっきの方はどういう人ですか、先生はまたなぜあの方に会ってとり乱され青ざめられて、一日じゅうわれにかえられなかったのでしょう。」
 〔子貢は〕答えた。「はじめ、私はわれわれの先生(孔子)こそ世界の第一人者だと思っていた。あんな人物がほかにいようとは思わなかった。私が先生から教えられたのでは、ものごとには善いものを求め、仕事には成功を求め、骨折りは少なくて効果は大きいというのが、聖人の道である。ところが今の人はそうではない。しっかりと道をまもっている者は本来の徳(もちまえ)が完全であり、徳(もちまえ)の完全なものはその肉体も完全であり、肉体の完全なものは精神も完全である。精神の完全なのが聖人の道なのだ。生をこの世にあずけて民衆とともに生きてゆきながら、どこに行くとも知らない。とらわれなく自由で生地(きじ)のままの完全さだね。仕事の利害とからくりの巧妙など〔を考えるの〕は、きっとあの人の心を失ったものだ。あの人のような方は、自分の志が働くのでなければどこへも行かず、自分の心が望むのでなければ何事もしない。世界じゅうから非難されて自分の言うとおりにならなかったとしても、泰然としてとりあわない。世界じゅうが謗(そし)ろうと誉(ほ)めようと、それによって〔うごかされることがない。〕増えもしなければ減りもしない。こういのを全徳の人(本来の徳をあるがままに全うする人)というのだろう。わたしなどは風波(ふうは)の民(風に動かされる波のようなふらふらした民くさ)だ。」

(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」2 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 

2016年04月24日 14時41分52秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
(承前)「機械ある者は必ず機事あり。」 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「承」

 子貢は目がくらむほどすっかり恥じいり、頭をうなだれてだまってしまった。しばらくすると、畑づくりは「君はどういう人かね、」とたずねた。「孔丘(こうきゅう)(孔子)の門人です、」と答えると、畑づくりはいった、「君は、あの博学で聖人きどり、声をはりあげて大衆をまどわし、ひとり琴をひき悲しげに歌って、世界じゅうに名声を売りこもうとしている手合いじゃないか。そなた、まさにそなたの精神のはたらきを忘れ、そなたの肉体の存在をうち消して〔心身の束縛から解放されて〕しまえば、道の立場にちかいといえようか。そなた、自分の一身でさえ治められないのに、どうして天下を治める余裕があろう。君、行きたまえ、わしの仕事の邪魔をしないでくれ。」

「機械ある者は必ず機事あり。」1 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二

2016年04月24日 14時38分31秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
「機械ある者は必ず機事あり。」1 出典 岩波文庫 金谷治 訳 「荘子 第二冊 外篇」天地篇 第十二 p122~ 起承転結の「起」

 子貢が南方の楚の国に旅をして、晋の国にもどろうとして寒水の南を歩いていたときのこと、一人の老人がちょうど畑づくりをしているのに出あった。切り通しの道が掘ってあってそこから井戸の中に入り、水甕(みずがめ)をかかえて出てくるとその水を畑にかけているのである。せっせと骨を折って大変な努力をしているのに、効果はさっぱりあがらない。子貢は話しかけた、「一日に百うねも水をかけられる装置がありますよ。ほんのちょっとした骨折りで、効果は大きいのですが、あなた使おうとは思いませんか。」畑づくりの老人は顔をあげて子貢をみると、「どんなものだね」とたずねた。子貢「横木〔の中ほど〕に穴をあけてそこで仕掛けを作り、横木の後端(うしろはし)が重く前端が軽くなるようにしてあって、まるで流れているように水を汲みあげ、溢れ出るように速いのです。その名まえは槹(はねつるべ)と言います。」
 畑づくりはむっとして顔色をかえたが、笑いながらいった、「わしは、わしの師匠から教えられたよ。仕掛けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。からくり事をする者は、必ずからくり心をめぐらすものだ。からくり心が胸中に起こると、純真潔白な本来のものがなくなり、純真潔白なものが失われると精神や本性(うまれつき)のはたらきが安定しなくなる。精神や本性(うまれつき)が安定しない者は、道によって支持されないね。わしは〔はねつるべを〕知らないわけじゃない、〔道に対して〕恥ずかしいから使わないのだよ。」