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梶原和義のブログです。

2011-06-15 18:51:10 | 日記
アブラハムの信仰

自我意識は悪魔が造った意識です。これがなかなか分からないのです。自分の意見は大したことがないと知っていながら、それを捨てることがなかなかできません。なかなかどころか絶対にできないのです。自分の個人的な意見だと分かつていながら、絶対に捨てられない。だからどうしても誠の神が分からないのです。
自分の意見は馬力で押さえたらいいのです。信仰を持ち出さなくてもいいのです。自分の意見は正しいと思えるだけです。
思いと考えは違います。この世に生きていることについて、思っているのです。この世に生きているという条件で、思っていることは、全部肉の思いです。どんなことを思ってもだめです。すべて肉の思いだからです。肉の思いとは現世につける思いでぁって、この思いを持っている人は、必ず死ななければならないのです。
肉の霊(現世の常識)に遠慮しているのです。この世に生きていることに、重きを置いているのです。神の国に入らなければいけない。ところが、神の固より現世の感覚の方が強いから、漂霊現象が起きるのです。人間がただ現世で生きているのは、皆漂霊現象になるのです。
ローマ人への手紙には、肉と霊のことが書かれています。それに絶対勝たなければいけない。それに勝てるのです。現世に生きている自分の感覚を、蹴飛ばしたらいいのです。強引にしたらいい、遠慮をする必要はありません。肉の思いを踏みつけるのです。
人間が生きている客観的な状態は、人の子です。人の子とは固有名詞に関係がない、イエスと同じ状態を言うのです。人間が生きていると思うと、現世の人間になるのです。
現世に生きている人間は、実在していません。人間の思いの中だけにあるのです。現世に生きているというその思いが、漂霊現象です。例えば、政治意識とか科学意識、経済意識、大学で教えている学問は、全部漂霊現象です。
人間が生きていると思っている人は、根本から考え違いをしているのです。生きていながら命が分からない。これは肉体的には生きていても、精神的には死んでいることを意味しているのです。人間は必ず死んでいきます。死んでいく自分にしがみついているのは、漂霊現象です。もし人間が正気であるのなら、死んでいく自分を自分だと思うはずがないのです。漂霊現象だから、死んでいく自分を自分だと、勝手に思っているのです。
肉体人間は存在していない。生物全体が命であって、五官を持つ命は生物全体の命です。生物全体を代表する命が人間の命です。私たちは生物全体を代表しているだけあって、人間という特別な命があると思ったら大間違いです。哺乳動物は哺乳類全体を含んでいるのであって、人間は哺乳動物のトップの存在です。猿もチンパンジーも同じです。トップリーダーがその責任を自覚して、五官を持つ者の代表として神は人間を認めているのであって、これがインマヌエル(神が共にいる)の実体です。ですから世間並みの人間はいけないのです。
もし聖書を信じたいのなら、自分を信じることをやめなければならない。この世に生きている自分を信じたらだめです。この世から出てしまわなければいけない。イエスと同じ生き方をしたらいいのです。人間に認められると、自分自身の霊がすくんでしまうのです。人間に認められてなおすくまない人は、稀有な人です。
食べているということが神です。見ていることが神です。私たちは自分の意識によって頑なになっている。これが漂霊現象です。人間の霊がついているのです。人間の霊は悪の霊ですが、私たちがまともになるためには、人間の霊を脱ぎ捨てなければいけないのです。古き人を脱ぎ捨ててありますが、古き人とは人の霊のことです。
この世に生れて、この世に生きている。この世の経験をした。これがこの世の霊です。この世の霊に縛られて警戒せずにのんびり生きることを、忘れているのです。
生きていることが神です。生きているそのことが神ですから、神を信じる必要はありません。信じようとしたらもうだめです。信じようと考えたら、嘘になるのです。です。信じますと口では言いますけれど、少しも信じていないのです。
五官はストレートに神に接触しています。五官の機能が衰えることは、警戒しなければならないのです。目が見えにくくなる。耳が聞こえにくくなることは、注意しなければならないのです。
五官は神と交わるための管です。五官を通して、父(神)との交わりができるのですが、五官が衰えると父との交わりが衰えるのです。これに気をつけなければならないのです。
もう一つはっきり考えなければならないのですが、自分は生きていないということです。生きているそのことが神ですから、神を生きるのです。自分を生きないのです。
こう言っている私でも、神を生きること汎とても幼稚で、イエスやパウロに比べるととても問題になりませんが、それでも私の五官は神を生きていると思うと、神の御名(実体)が守ってくれているのです。目の機能、耳の機能が守られていることが、分かるのです。
五官は父なる神との交わりの機能です。これをしっかりと確落していますと、五官の衰えは少ないのです。
何よりも一番すばらしいのは、神を生きるということです。自分が生きるのをやめて、神を生きるのです。生きていることが神ですから、食べることも神、飲むことも五官の働きが神そのものですから、五官の働きを信じたらいいのです。五官の働きを信じたら、勝手にとこしえの命が分かるのです。聖書に「信じるものはとこしえの命を持つ」(ヨハネによる福音書6・7)とありますが、何を信じるかというと、五官を信じるのです。
五官は能力です。能力は可能根拠からきました。それ以外にあるはずがないのです。見る能力は神からの能力に決まっています。父から出たものですから、父が分かるはずです。
父(神)から出た五官によって見ています。見ていることが、そのまま信じていることになるのです。
生きていることと、自分が生きていることとは違います。自分が生きているということから、ただ生きているということに、変わらなければならないのです。どうしたら変わることができるのか。善悪利害を考えなかったらいいのです。
皆様は、いつも善悪利害を考えています。善悪利害を考えるたびに、自我意識が頭をもたげるのです。自我意識は必ず善君害を考えるに決まっています。あの人は聞達っている。私は正しいと思うのです。これは得だ、これは損だと考えている間は、絶対に救われません。神が食べてはいけないと言った「善悪の木の実」を食べているからです。善悪利害を考えている間は、神の国に入れないのです。
生きていることがそのまま神です。神を生きることは何でもありません。自分を生きないだけのことです。神を生きるということは、自分を生きないことなのです。自分に生きている人は、必ず利害得失を考えます。あれは良い、これは悪いと考えます。あれは良い、これは悪いと考えている人は、絶対に神の子にはなれません。それを捨てなければならないのです。
自分は利害得失を考えざるをえないのです。なぜかと言いますと、神のようになって、善悪を知っているからです(創世記3・5)。神のようになったのが自我意識です。自分が世界で一番偉いと考えるのです。神のように善悪を知るというのは、自分の考えで良い悪いを決めることです。
相手が良いか悪いかはどうでもいい、自分の気持ちで決めることが悪いのです。自分の気持ちで考えなくなると、善悪利害が消えてしまうのです。善悪のことを考える必要はありません。目が見えます。耳が聞こえます。これでいいのです。
文明も学問も、全部漂霊現象です。学問は人間が存在していることを基礎にしているのですが、人間は実体的に存在していないのです。学問は自ら学問を裏切っている。なぜなら、理論物理学では物質が存在していないことを証明しているのです。原子爆弾、水素爆弾は、物質が存在していないことの証明です。ところが人間は、肉体が存在すると考えている。物質が存在していないということが証明されていながら、なぜ肉体があると考えるのでしようか。人間はこういう二枚舌を平気で使っている。これが漂霊現象です。
政治、経済の基礎、学問というアイデアの基礎は、すべて漂霊現象です。こんなもを信じる必要はありません。ただ神を信じればいい。五官を信じればいいのです。
イエスが主であるというのは、五官が主であるということです。イエスはただ五官だけで生きていた。五官の働きが人間です。肉体が人間ではないのです。生物全体は五官の入れ物です。その代表者が人間です。
創世記七章七節を見れば分かります。人間が罪を犯したために、人間と共に鳥や獣や這うものをすべて滅ぼすことを神は考えたのです。人間が罪を犯したために、なぜ鳥や獣や這うものを滅ぼさなければならなかったのか。生物全体に同じ五官が与えられている。人間が罪を犯した結果、生物全体が共犯者にされたのです。
人間は生物全体の五官を代表していて、人間の意志によって命の本質を変えることができる。この力は第三の天におけるキリストのカですが、これが人間に与えられているのです。このカが人間に与えられているのです。組織工学の発達、エレクトロニクスの驚異的発展、バイオテクノロジーといった、本来人間にできないことが可能です。
五官の働きが、そのまま神の働きです。イエスは言っています。自分が見ているのではない。私と共にいる神が見ていると言っているのです。これは五官の働きが神であることを、証明しているのです。
万物は罪を犯していない。神に造られたままです。これが地獄へ行くはずがない。ところが、万物の上に立つべき人間が地獄へ行く状態であるために、人間を押しのけて動植物だけが天へ帰るわけにはいかないのです。
そこで、造られたすべてのものは、神の子たちが現れるのを待っているのです。動植物が滅びるのはいやだと言っているのです。そこで皆様方が一人前の信仰になることを、万物は願っているのです。
皆様方が一人前になれば、万物に対する正しい解釈がほどこされるでしょう。この結果、万物が救われるのです。すべての人が救われなくても、人間の中でごく一部の人が現われると、万物が救われるのです。
皆様方はこの新約時代に生きています。新約時代には神の国が来ているのです。すべてのものに霊が注がれているこの時代に、全てのものをどのように見ていったらいいのか。どうすれば万物が救われるのかを考えて頂きたいのです。
これは本来、イスラエルがしなければならないことですが、彼らはそれを全然してになっているのです。これが新約時代で、今皆様が生きている世界は、驚くべき世界なので、私たちが変わってしなければならないのです。これをした人間だけが、万物を治めることができるのです。万物を治めることができるようになった人間だけが、世々限りなく王となるのです。
皆様は絶対に万物を治めなければならない人です。神がそのように決めているのですから、今までの固有急の自分とは違うのです。
新約時代は神の国がきている時代です。新約時代は神の国であるというこの原則をはっきり弁えて、文明のあり方、歴史のあり方を見ていかなければならないのです。パウロは異邦人に福音を伝えた。これが今、私たちに伝えられているのです。
「わが前に歩みて全かれ」(創世記17・1)と神はアブラハムに言った。神からアブラハムを見ると、アブラハムはわが前に歩みて全かれと言えば、アブラハムは分かるに決まっているということを神は知っていたのです。アブラハムはわが前に歩むとはどういうことか、言われるまでは分からなかったが、言われてみて、ああそうかと分かったのです。
神の方から見て、アブラハムが十分に分かることを前提にしています。皆様も十分に分かるはずです。神の前とは何か。イエスの十二使徒以降、これが分かった人がいないのです。
アブラハムはわが前に歩みて全かれと言われて、それがストレートに理解できた。神の御心どおりに理解できたのです。そこでアブラハムは、分かりましたと言っていない。賛成ですとも言っていない。ただ黙って平伏した。何も言わずに平伏した。この時、アブラハムの心境はどんなであったのだろうか。わが前に歩めという言葉が、ほとんど完全に、ストレートに理解できた。そこで平伏したのです。
皆様は平伏していません。分かろうとはしてはいますけれど、まだ平伏するところまではいっていません。
神はアブラハムに、あなたはわが前に歩みて全かれと言っています。わが前は英訳でビフォアー・ミー(before me)です。
モーセに対しては言い方が違います。わが顔の前に、何者をも神とするなと言っています。歩みて全かれとは言っていない町です。歩みて全かれと言ったのは、アブラハムに対してです。
モーセに対しては、わが顔の前に何者をも神とするなと言っています。神の前と神の顔の前とはどう違うかです。歩みて全かれというのと、何者をも神とするなとは、どう違うかです。アブラハムを理解する皆様は、当然モーセをも理解しなければならないのです。モーセの十戒の正確な理解がなければ、イスラエルへ福音を伝えることはできません。
今の文明は、全てユダヤ人のトリックです。この文明と対決するのです。そういぅ期待を神は私たちによせているのです。神が期待する所は、絶対に間違いがありません。
神が期待してアブラハムに言った。果たして、アブラハムは分かったのです。皆様にはイスラエル伝道ができると、神が期待しているのです。聖書の預言によれば、日出る所の天使は、必ず生ける神の印(リビング・ゴッドのシール)が持てるはずです(ヨハネの黙示録7・2)。
イスラエルが金科玉条としているものを、まず私たちがはっきり理解して、それに伴う生き方ができなければならないのです。
私たちは異邦人ですから、まずアブラハムの信仰が理解できなければ、モーセは分かりません。この両者が理解できたら、イスラエルと対決しなければならないのです。
聖書の預言によれば、ユダヤ人の世界的な指導者を、私たちの足元に平伏させると言っているのです(ヨハネの黙示録3・9)。神がそうするのです。だから私たちは固有名詞を信じてはいけないのです。私たちがどのように変身、変貌すべきか、これが私たちに与えられているテーマです。
アブラハムの懐が私たちに開放されようとしているのです。そこはパラダイスです。生きているうちにアブラハムの懐が分かったものは、この世で息が絶えたら、すぐにアブラハムの懐へ移されるのです。このような大いなる恵みを、神が与えようとしているのです。
カトリックの大聖人と言われたオーガスチンが、聖書が全然分かっていない。創世記が全然分からなかったからです。
神の前でアブラムが平伏した。神がその姿をごらんになって、おまえをアブラムと呼ぶことをやめて、アブラハムと呼ぶと言われた。そこでおまえと、おまえの子孫とに、とこしえの契約を結ぶと言っています。アブラハムと呼ぶ前にも、神は契約を与えています。アブラムに与えた契約が先にあって、後にアブラハムに与えた契約があるのです。
ユダヤ人は、アブラハムに与えた契約を知らないのです。アブラムに与えた契約しか知りません。
神はアブラムに対して次のように述べています。
   「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現われて言われた。
   『私は全能の神である。
    あなたは私の前に歩み、全き者であれ。
    私はあなたと契約を結び、
    大いにあなたの子孫を増すであろう』。
    アブラムはひれ伏した。神はまた彼に言われた。『私はあなたと契約を結ぶ。
    あなたは多くの国民の父となるであろう。
    あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、
    あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
    私はあなたを多くの国民の父とするからである』」(創世記17・1~3)。
ユダヤ人は「大いにあなたの子孫をますであろう」という方を信じている。これはアブラムの信仰です。多くの国民の父というのはアブラハムの信仰です。ここにユダヤ人の旧約的な信仰と、教会の新約的な信仰の区別があるのです。これを私たちは心得ておかなければならないのです。
ユダヤ人がアブラハムのことをあまり言いたがらないのは、多くの国民の父と言っているからです。多くの国民の父と言われると、あまり良い気持ちがしないのです。
アブラハムはユダヤ人だけの祖先ではない。多くの国民の父だということをイスラエルが承認する時に、初めて本当のイスラエルになるのです。なぜなら、アブラハムが多くの国民の父であり、また世界の王者になる。そこでアブラハムの子孫であるイスラエルは、世界の長子になるのです。この時初めて、約束の本当の意味が分かるのです。だからアブラハムが多くの国民の父となるとはどういうことかを正確に理解して、ユダヤ人に教えてあげなければならないのです。ユダヤ人はアブラムの子孫ではあるが、アブラハムの子孫にはなっていない。汝わが前に歩みて全かれ。ここにアブラムがアブラハムになった秘訣があるのです。
どうしてアブラムがアブラハムになったのか。多くの国民の父になったのは、どういう理由なのか。これをパウロは正確に示そうと考えて、ローマ人への手紙四章十七節で、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」と解説しているのです。
最も注意しなければならないのは、神は現象世界の実体を、無きもの(are not)を有ったもの(were)と呼んでいるということです。この言葉の意味が分かれば、汝わが前に歩みて全かれという言葉の意味も分かるのです。
神がアー・ノットをワーのように呼んでいるとはどういうことか。私たちは十二使徒と同じ信仰、ヨハネと同じ位の信仰にならなければいけないのです。
イスラエルの人々を説得するためには、どうしても旧約聖書の真髄と新約聖書の真髄を、彼らに示さなければならない。イエスがキリストであることが第一です。タルソのパウロがキリストの使徒であることが第二です。この二つのことをどうしてもイスラエルに教えなければならないのです。
ナザレのイエスがキリストとなったこと、そしてタルソのパウロがキリストの使徒にされたこと、この二つをどうしてもユダヤ人に受けいれてもらわなくてはならないのです。
ユダヤ人はイエスに反対していますが、パウロにはもつと反対しているのです。私たちはイエスを証すると共に、パウロをも証しなければならないのです。そこで、アブラハムの信仰と、ローマ人への手紙四章の関係がどうなるか。この説明をしなければならないのです。
アブラハムは多くの国民の父です。多くの国民全部がアブラハムと同じ信仰を持つのではありません。多くの国民の父とは、来るべき千年間の絶対平和の間、千年王国の頭を意味するのです。キリストの再臨と関係があるのです。
今の時代に、神から本当のことを教えられて、それをイスラエルに伝えることができる者は、キリストと共に、千年の間イスラエルを治めることができる人です。神はそういう人が日出ずる国から出ることを期待しているのです。
アブラハムの子は、千年王国に入るだけがやっとの人々です。王国に入るだけでも幸せです。アブラハムを信じない者、アブラハムを父として崇めようとしない者は、キリスト王国に入れません。千年王国はユダヤ人のための王国です。ユダヤ人を認めない者は、どうして王国に入れるのでしようか。王国のユダヤ人の指導者を指導する人が、どうしても必要です。日出ずる国からそういう人々を出そうと神が望んでいるのです。



驚くべき人間存在の実体

エミール・ゾラの女性の描き方は、ロシアのチェーホフとは全然違います。ゾラの方がずっと深いものがあります。それでもゾラは、女性が分かつていないのです。
人間が考えているような女性はいません。旧約聖書の二章に出てくる女性と、三章に出てくる女性とは、全然違います。自分の考えを捨ててしまわなければ、聖書に入っていけません。ごちやごちやした自分の感情を捨てなければ、だめです。リビング(自分が生かされていること)の中に入って、人間が消えてしまわなければだめです。人間が考えている女性がいると思っている間は、まだリビングが分かつていないのです。
ゾラの小説に出てくる女優ナナは、男という男をかたっぱしから自分に奉仕させるのです。それでもまだ気に入らない。気に入らなくてしょうがないのです。そうして死んで行くのです。
ナナは自分がなぜそうするのか分からない。ゾラは、自分の理想的な女性を書いたつもりですが、盲点になっている所があるのです。
ゾラは女性があばら骨で造られたことは分かっているでしょう。しかし、そのあばら骨がどんなあばら骨かが分かっていないのです。普通の男性のあばら骨だと思っているのです。そうではありません。男性も分かつていないのです。
創世記の記述によれば、アダムとエバは、神から絶対に食べてはいけないという善悪の木の実を食べて、陥罪したとあります。
女性は、陥罪以前のアダムのあばら骨で造られたのです。これは陥罪以後のアダムのあばら骨とは違います。男からでたので、女と名付けなさいという意味が分からないのです。
陥罪以前の男性は純人です。ハー・アダムです。ハーとはヤハー(エホバ神)のハーです。アブラハムのハ、エホバのハです。ハー・アダムは純人で、イエスのことです。
イエスの実体は、ハー・アダムです。ハー・アダムを完成したのが、イエスです。聖書的に言いますと、生みたまえる一人子になるのです。人間的にはハー・アダムです。純粋の神の子です。神そのものの人です。これがあばら骨です。
ハー・アダムが、男と女に別れたのです。女性の本質は、ハー・アダムの骨です。これが女優ナナになって現われているのです。ナナは何をしてもらっても気に入らない。どうしても満足できないのです。
女性は男性と結婚して、体は与えますが心は与えません。与えないと意識しているわけではありませんが、与えられないのです。自分の心を、人間である男性に与えられないのです。これが女性のすばらしい所です。これを男性から見ると、片意地に見えますが、そうではないのです。
男性は子供じみた考えで、見る習慣がついてしまっている。自分のペースで見る習慣がついてしまっているのです。自分の立場で独り合点して女性を見ている。ですから、ゾラのような見方ができないのです。ゾラはとても深い女性の見方をしていましたが、それでもまだ間違っているのです。
女性はなぜ満足できないか。ナナは何を求めていたのか。ナナ自身にも分からなかった。結局分からずに死んでしまったのです。それに対して、エミール・ゾラも解答していません。ゾラの見方は、西欧人の中ではずば抜けていますが、それでもまだだめです。
女性は男性にどうしてほしいのか。居てもいいのですが、居るままで消えてほしいのです。実は女性は、元いた場所に帰りたいのです。
女性は何とか男性に従おうとしていますが、だめです。従がいたいのです。そうしようとしているのですが、できないのです。女性の本質が、ハー・アダムのあばら骨だということが分からないからです。今までそれを、つきとめた人がいない。聖書を正しく読んでいないからです。皆男性のあばら骨だと考えている。ハー・アダムのあばら骨だということが分からないのです。
これはどういうことかと言いますと、実は、人はイエスのあばら骨であると神は言いたいのです。私たち自身が、イエス・キリストのあばら骨です。これが聖書の秘密なのです。
男性は女性を見て、女性が磨を求めようとしているのか。これは人間のあり方を示しているのです。
人間は自分で自己完成をすることができません。なぜなら、今の人間はハー・アダムではないからです。自己完成をしようと思えば、ハー・アダムであるイエスに、自分の霊を渡してしまうしか方法はないのです。そうして素直になれば良いのです。
神が人間を造ったのは、天使長ルシファーにかわって、全地を治めさせるためです。
神は動物的な人間を造ったのではありません。ところが、今の人間は、動物的な人間から抜けきっていないのです。固有名詞の人間が、家庭を待ったり、仕事をしたり、現世に生きているという条件を持っています。そういうところに、何十年もいますと、生活ボケになってしまうのです。
これを否定すると、山上の垂訓のような姿勢が、自然に出るようになるのです。天然に生きることになるのです。そこで初めて、ハー・アダムらしい状態になるのです。良くても悪くても、自分がどうにかなろうと考えたらだめです。自分は消えてしまえばいいのです。自分が消えてしまえば、どんなに高い光がきても、受け取れるのです。自分の霊を渡してしまえばいいのです。
自分の感情、今までの感覚を捨てると言っても、自分の体に染みついているから、きれいさっぱりにならなくてもいいのです。ことごとく自分の自我意識から抜け出して、霊に従って生きるように心掛けるのです。
霊だけで生きるのです。霊とは何かと言いますと、新羅万象を生かしている実体です。これに従って生きるのです。現世の人間から見ると、幽霊みたいな生き方に見えるかもしれません。
自分の感情、自分の好き嫌い、自分の理屈はあってもかまいませんが、一切主張しないことです。人々から見ると、精神的に死んでしまうような状態になるかもしれません。
今まで与えられた生活のペースは、神が魂に与えたペースですから、これは捨ててはいけないのです。家庭的なペースとか、職業的なペース、社会的なペースは、神が皆様の霊魂に与えたペースですから、捨ててはいけないのです。これは皆様自身とは違います。これは捨ててはいけませんが、自分は消えてしまわなければいけないのです。ペースだけあって、自分は消えたらいいのです。
人間は低能です。低能を自覚するのです。山上の垂訓(マタイによる福音書五章)で、イエスがいいたいことは、天国へ入るということです。心の貧しいものは天国を持つ、義のために迫害されている者は、天国を持つという。天国に入ることをいいたいのです。
天国と神の国は違います。天国を知らないままで、神の国を見るのは危ないのです。あまり感心しませんが、見ないよりは見た方がいいのです。神の国を見る前に、天国があります。霊において貧しいものは、天国を持つとありますが、なぜ持っていると言えるのか。その後、悲しんでいる人たちは幸いであるとか、柔和な人たちは幸いであると書いています。
それは皆天国のことです。天国は幼児の心理状態のようなものです。天国が私たちの生活の常態になっていれば、おのずから神の国が分かつてくるのです。天国をしつかりふまえて、神の国と神の義を求めるのです。
それに対してイエスは、条件を出しています。天にいます父の御心を行うものだけが天国に入るのです。それは人間が入るのではないのです。
例えば、天にいます父の御心を行う女性は、人間が考えている女性ではありません。この女性が分かると、人間から抜け出すことができるのです。女性の本体を見破ることができたものは、自分自身が人間から抜け出すことができるのです。
マタイによる福音書の二十五章に、三つの譬が書いています。最初の皆は十人のおとめがいて、その中の五人は思慮が浅く、ほかの五人は思慮深いものであった。思慮の浅い着たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮の深い着たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れ物の中に油を用意していた。
二つ目の譬は、主人がある人に、能力に応じて、五タラント、二タラント、一夕ラントを預けた。それをもとでにして、ほかのタラントを儲けたとあります。最後の譬は、羊や山羊を分けるという話です。
皆様が、預けられたタラントを元手にして、ほかのタラントを儲けたかどうかです。十人のおとめの所では、自分自身を神の器として、その器に油を蓄えているかどうかです。
問題は皆様が生きていること、ボディーが、油壺になっているかどうかです。人間の体は聖霊の宮であって、聖霊という神の油を入れる器です。器に油を蓄えているかどうかです。油のかわりに、ヘビを入れている人が多いのです。
それから、他のタラントを儲けたとはどうするかです。他のタラントを儲けることが、イエスを知ることだと概念的に分かつてもだめです。商売をしなさいとなぜ言っているのか、どういうやり方をしたのかです。ていないと、儲けたことにはならないのです。トレードといったイエスの気持ちは何か。何をトレードしたのか。どのようなやり方をすると、正当な商売になるのかです。
マタイによる福音書の二十五章の譬は、全部人間はいないという結論になるのです。これがはっきり分かると、初めて、創世記第二章の人間に帰って行くのです。そうすると皆様は、新しく生れることができるのです。
聖書の言葉を、聖書通り実行した人は、東洋では一人もありません。東洋人でそれを実行したという記録はないのです。ヨーロッパではいたかもしれません。
人間がいないということが分かると、気楽になるのです。いると考えているから、難しいとか、困ったことがあると考えるのです。
神は人間の能力性(タラント)を、預ける形で与えているのです。その人の意志に任せて、預かったものを自由に用いることができるのです。命を預ける場合でも、言葉を預ける場合でもそうです。神が言葉を預けると、自由に用いさせるのです。だから預言者は恐いのです。間違えて言葉を用いると、後からひどく叱られるのです。偽預言者としてひどいめにあわされる。これが恐いのです。
タラントを預けられたという事実、実体をどのように理解しているかです。皆様はタラントを預かった覚えがあるのでしようか。どのように預かったのでしようか。
マタイによる福音書の二十五章には、十人のおとめの譬、タラントの譬がありますが、彼が栄光の座につく時、すべての国民を集めて羊とヤギを分けると言っています(32節)。
福音をマスターした人は、主と一緒に栄光の座にすわり、羊とヤギを分けるのです。ここに多くの国民という言葉がありますが、これは王国時代のことです。新天新地になると、もっと精選されてくるのです。新天新地にも多くの庶民がいるのです。
多くの国民の父としてアブラハムが立てられていますが、約束の民というのは、ユダヤ人を意味しないかもしれないのです。約束の民というのは、約束によって贖われた民のことを言います。約束をそのまま自分の命として受け止めた民です。これは民族ではありません。これをパウロは、霊のイスラエルと言っています。パウロの言い方が正しいのです。
民族としてのユダヤ人は、神の選民ではありません。約束を自分の命として受け取った人が選民です。
それでは、ユダヤ民族と称しているユダヤ人に、伝道しなくてもいいかというと、そうではありません。ここが難しいのです。イスラエルには、霊のイスラエルと肉のイスラエルとがあるのです。
イスラエルの回復とは何かと言いますと、旧約聖書の預言によれば、シオンの義が上る朝日のようになることを意味しているのです。エルサレムの救いが、燃える松明のようになることをさしているのです。
これはダビデの幕屋の復興です。イエスがキ㌢トとして再臨することです。イエスがキリストとして再臨するためにどういう条件が必要かと言いますと、自らユダヤ人と称えている人々が、「主イエスよ来たりたまえ」と言わなければならないのです。
そこでユダヤ人が正当な約束の民であっても、そうでなくても、自らユダヤ人と称えている人々に、伝道しなければならないのです。サタンの会堂に属する人々が、現実に居るのです。この人々に対して、祈らなければならないのです。
自らユダヤ人と称える人々に、彼らの魂の目を開いて下さい、御霊を注いで下さいと、祈らなければならない。自らユダヤ人と称えていない人々は、どうでもいいのです。自らユダヤ人と称えている人々に、祈らなければならないのです。
ユダヤ人とは何か。ユダヤ人の祖先のアブラハムの一族は、戦争ができる男だけで三十万人位はいたでしよう。この人々に皆割礼を施したのです。その他、年配者や子供もいたでしよう。この人々にも割礼を施しました。これがユダヤ人の祖先です。
ヤコブの末から出た者だけがユダヤ人ではない。ヤコブの末からでないユダヤ人が、相当いるに決まっています。その中でユダヤ人と称している人は僅かでしよう。とにかく、ユダヤ人であると震っている人々に、伝道すればいいのです。
私たちが、今、現世で生きていると思っている命は、タラントとは違います。私たちが生きていると思っている命で、車の運転をしているのではありません。別の命で運転をしているのです。これを見つければいいのです。
皆的外れをしています。見当違いばかりをしているのです。だから聖書を理解した、霊を渡すと言っても、皆見当がくるっているのです。これを全部修正しなければならないのです。肉の思いとか、霊の思いという言葉を使うにしても、もう間違っているのです。
リビングとは何か。これがまさに預けられているタラントでなければならないのです。これをどうやって自分のものにするかです。
私たちが生きている命と、預けられているタラントとは違います。私たちは自分が認識できる角度からの命を持っていると思っている。これは神が仮に生かしている命です。
パウロは今の人間のあり方を、「死人を生かし」といっていますが、(ローマ人への手紙4・17)。正確には、死人に生活を与えていると訳すべきです。
もし本当に生かしているのなら、命についての正確な認識があるはずです。神は死んでいる人間に生活をさせている。だから人間は操り人形みたいな状態になっているこの心理状態を般若心経では、一切無顛倒想と言っています。人間の考えは全部逆様で、夢のような考えの中を彷復している。まるで夢遊病者のようだと言っているのです。
皆様は自分の低能性をよく知って頂きたい。人のことを責めるどころの話ではない。腹を立ててはいけないし、それをバカだと言ってはいけないのです。
本当の賢さとは何か。花が持っている賢さが本当の賢さです。花は導かれるままに咲いています。これをヨハネは現実に見つけたのです。パウロも見たのです。
ヨハネは、千々万々の御使が、小羊を賛美していると書いています(ヨハネの黙示録5・11)。天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にある全てのものが小羊を賛美している。
万物は五つの言葉で賛美しています。物の中にあるものは三つの言葉で賛美している。二十四人の長老は、七つの言葉で賛美している。賛美が天地に響いている。これをヨハネは聞いたのです。
人間は低能ですから、苦しんだり悲しんだりする資格がありません。自分の御心は低能すぎて行えないので、天の父の御心を行うしか、方法がないのです。天にいます父の御心を行うもののみ天国に入るということは、誰でもできることです。御霊が私たちと共に、私たちが神の子であることを証しています。御霊自ら、言い難き嘆きをもって、私たちのために祈っている。この御霊が、私たちの霊を妬むほどに愛している。御霊と人間との関係が分かると、初めて、タラントを預けられていることが分かるのです。
花は無意識に生きています。人間はそれを意識的に否認しています。ここが違うのです。人間は御霊によって生かされていることを、意識的に否定しています。花は御霊によって生かされていることを知りませんが、無意識に承認しているのです。どちらがいいのでしょうか。人間は生かされていると思わずに、自分で生きていると思っている。だから死んでしまうのです。
人の子というのは、神にタラントを預けられて、タラントの内容を理解している人を言うのです。それが具体的に理解されていない状態では、人の子になっていないのです。概念ではだめです。皆様が自分の生活で、タラントを使いこなすことができるような、認識を持つ必要があるのです。
リビングということ、預けられているタラントのことが正確に認識できると、唯一無二の神の中心になるのです。これを生ける神の印と言います。生ける神の国に入ることが必要です。
皆様は神の国がよく分かつていません。神の御座が、自分の中にあるのです。ところが、神の御座を問題にせずに、自分の御座の方を問題にしているのです。神の御座の方に目を向ければ、すぐに神の国は見えますし、そこにリビングの実体があるのです。
神の実体というのは、非常に合理的な実体です。これは人間が考える合理的、科学的実体とは違います。皆様が鼻から息をしている、目で見ていることは、科学的合理性とは全然違います。違ったものを目で見ているのです。
神の御座が分かった人は、光の世界を直感しているのです。御座のまん中とその回りに何が働いているのか。神の御座にいるのは四つの生き物です。これが御座から皆様に派遣されているのです。すべてのエネルギーの根源は、この働きです。
四つの生き物の第一はししのようであり、第二は雄牛のようであり、第三は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであるとヨハネは書いています。これは、推理、直感、記憶、感受性という、心理機能として受け去られるでしょうし、あらゆる精神機能の源泉でもあるのです。これが本当のエネルギーです。四つの生き物が人間に使わされているとはっきり言った人は、未だかつていません。
黙示録四章の御座の光景は、大宇宙の実体でもあり、そのまま人間存在の実体でもあるのです。
神は自分自身の命を、人間に吹き込んだのです。神自身の命とは、神の御座のことです。命を人の鼻に吹き込んだと書いてあるのは(創世記2・7)、このことです。
神は自分の御座を吹き込んだのです。これが人間のリビングです。人間が生きているのは、四つの生き物がいることです。四つの生き物が働かなければ、家事も仕事も、営業活動も、研究開発も、遊びも、一切できません。人間の中で、四つの生き物が見事に働いているので、人間は生きているのです。
この世を去るとどうなるのか。四つの生き物が去っていくのです。そして御座が消えてしまうのです。神の御座が消えれば、人間の尊厳も消えてしまうのです。
人間にある栄光と誉れは、御座があるから存在しているのです。御座があるから、直感、推理、判断、感受性が働いているのです。これが人間が生きている実体です。
人間が生きていることは、神の御座を証しているのです。リビング(人間が生きている実体)は、神の御座です。
生霊と亡霊とどう違うかと言いますと、生霊には絶対的な権威があるのです。生霊はこれには勝てないのです。日蓮宗の坊主でも、生霊ぐらいは追い出します。生霊の権威を持っているからです。生霊はシャーマンの霊よりもつと強いのです。ことに、聖書を学んでいる生霊の力には、大変なものがあるのです。
リビング・ソール(生ける魂)と、リビング・ゴッド(生ける神)は、ほとんど同じものです。神は造り主であり、人は被造物であるという違いがあるだけです。内容は同じです。これは大変なことです。神は男性です。人は女性です。これが違うだけです。女性の秘密がここにあるのです。
聖書は次のように書いています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現われていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を見にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。
神の御座がリビングにおいて、そのまま人に移し植えられているのです。これを二十四人の長老と書いていますが、英訳では、二十と四となっています。
二十は現世における二種類の経験を意味しています。霊の経験の十と、肉の経験の十です。四は、それが現世、現象的に現われているという意味です。全部で二十四の長老になります。人間が小さい宇宙であることが、これによって証明されるのです。
長老は金の冠をかむっている。これについて聖書は述べています。
   「あなたは、しばらくの間、
    彼を御使いたちよりも低い者となし、
    栄光と誉れを冠として彼に与え、
    万物をその足の下に服従させて下さった」(ヘブル人への手紙2・7、8)。
栄光と誉れは、彼自身の他にはありません。実は栄光は神そのものです。誉れも神自身です。人間は御使よりも少し低い状態に造られて、栄光と誉れをかぶせられている。これが金の冠です。神の御座です。ですから、腹を立てたり、苦しんだり、悲しんだりする必要がありません。本当に苦しむなら、神の苦しみを苦しんだらいいのです。神の御座が皆様の中にありますから、皆様の祈りは百発百中です。御座そのものが祈っているのです。これを信じて祈るのです。
皆様は、自分の命を神の御座と考えたらいいのです。生ける神の印とはこのことです。今皆様に必要なものは、生ける神の印です。これがリビングです。御座のない所に、リビングはありません。
ハイーム(生き生きしている命)は、神だけのものです。神の御座はハイームによって証明されるのであって、ハイームのない所に御座があるはずがないのです。
生きているということが、御座です。だから皆様は、天の父の御心を行うに決まっているのです。信じる者に対する神の助けが、いかに偉大なものかを知れと、パウロは言っています。
御座がないものは、神が信じられるはずがないのです。御座があるから、神を信じよと言っているのです。御座があるから、神に基づいて考えることができるのです。私たちが生きていることは、そのまま神の御座であって、四つの生き物が働いているのです。
神が皆様に力を与えているのではありません。四つの生き物が働いているのです。生霊が神の御座であることを信じる時に、神霊と皆様の霊が、一つになるのです。これが働きだすと力が出るのです。
医学は、神の御座をつきとめることを晶にしていますが、本当のリビングが分からないのです。だから命が分からないのです。
命とは何か。四つの生き物が働いていることです。四つの生き物の働きが分からなければ、命の正体は分かりません。四つの生き物は全く驚くべき働きをしています。このことをよく考える必要があるのです。