E’s SQUARE

人生は無常!夢、目標・・・は変化するのです 執着しないで生きよう!
正しい道徳心をもって成功までのプロセスを楽しもう!

自動車事故が起きた

2012-03-31 10:43:46 | 雑記

命拾いをしました。今こうしてブログがアップできることに感謝です。

昨晩、帰宅途中の夜8時過ぎの出来事でした。私は会社の車で通勤しています。片道20キロちょっと。時間にして40分前後かかります。会社を出てしばらく走っていますと、どうもタイヤが取れそうな感覚を感じました。まぁ、何かの勘違いだろうとその時は全く気にもせずいつもどおりに運転していました。

前方はゆっくり走る軽四の車が一台と小型車が走っています。大阪府のと京都府の県境の峠道を越えた所に信号があります。前の2台の車の方向指示器は同じ方向に点滅している。ちょうど私の前で信号が黄色に変わりました。私は無理をせずに止まりました。先ほど感じた違和感はございませんでした。数分後におきることなど知る由もございません。

前方には一台の車も走っていませんでした。いつも通りの走行です。峠道の一番高いところを過ぎ、あとは下る一方です。対向車のヘッドライトのあかりはないと、安心したその直後でした。右カーブを曲がり切ろる少し手間で、車が制御不能に陥ります。全くハンドル操作が効きません。車はジクザク走行を始めました。速度は60キロは出ていたと思います。普段スピードメーターを確認してそのカーブにさしかかることが時々あるので推測はほぼ間違いはない。

何が起こったのか少しパニック状態になっていました。気がついた時は右側のガードレールの支柱のコンクリートの石に衝突して止まりました。車を道路の端に寄せました。走ってきた方向を車は向きました。

対向するのに、少し神経が必要なぐらいの道幅です。二次事故を避けることを優先しようと脳が反応したのでしょう。無意識のうちに車を路肩に寄せました。少し放心状態がつづきます。徐々に事態がのみこめるようになり、車外に出ました。車のボンネットを見ますと、見事にへこんでいます。ボディーがまんべんなくではなく、車体の中央ナンバープレートが取り付けられている所にピンポイントに鋭角にくいこんでいる。

バンパーがボディーからはなれ、エンジンルームの前方にあるラジエーターが見えそうでした。「これは大きな損傷だなぁ」。同時に、経営者の苦みばしった顔が脳裏をかすめした。そして携帯電話で、自宅に電話をしました。事故が起きた場所は外灯もない町から外れた田舎の峠道です。

妻は案外冷静な受け答えでした。ロードサービス先の連絡番号を聞こうとしましたが、自分もそのカードをもっていることに気づき、こちらで掛けてみると言い一旦電話を切りました。財布からカードを取り出そうとしますが、なかなかそのカードが見つかりません。まだ動揺していたのでしょう。

カードに書かれている番号を押しますがつながりません。待ち受け画面には無情にも圏外の表示がでています。

「あれ、さっきは自宅にかかったのに」とひとりごとを口走っています。

「仕方ない、少し下ったところまで歩くしかないか」。

もうその頃には、冷静さは増して事故処理の優先順位を考えだしていました。

つづく

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耐え難い侮辱と自負心

2012-03-30 00:28:00 | 雑記

人生を長く生きていると、数々の屈辱を味わうものです。私は生来、熱しやすく冷めやすい性質なのか、一旦どうでもいいと思うと、過去の感情ごともろとも忘れ去ることができます。ですので、その時は相手を心の中で罵倒し、辛辣な言葉を一人になった時に執拗に発します。

抑えきれない屈辱感を感じた時は、思わずその場で相手の立場などかえりみず、怒りの言葉を浴びせたことがあります。年長者であろうがお構いなしといういかにも傲慢ちきな、生意気で何も分かっていない尖がった時が数年続いたことがあります。仕事は絶好調で年収もうなぎ昇りでした。浮かれたいたのです。自分の実力以上の結果に感謝もせず、周囲の助力があることも見えず、すべては自分の力というブルドーザーのような感じで毎日を過ごしていました。

何とも恥ずかしい行為をよくできたものだなぁと、いまでも当時の事を振り返りますと、謝罪せずにいられません。そして、自分だけがバカだったと赤面させれます。神様は見ておられるのです。今そのしっぺ返しを受けています。

思わぬというか、実はうすうすどこかで感じていたのですが、今の私の仕事場の処遇とは到底似つかわしくない肩書と、事務所の設備が手つかずで放置されていたのが、ある地位を示す備品が取り除かれていました。それも何の言葉もなく忽然とそのものは他の人間がもっていました。その人間の居心地の悪そうな雰囲気が伝わってきます。こちらを見ない。その背中から、「だいたい、おまえは気がきかな過ぎるのだ」と言わんばかりです。わたしは、「否、こちらから譲ろうと言った方がいいかなぁとは思っていた」と投げかけたくなりました。だから、私は平静を装っておりましたが、おそらく私だけがそう思っていたのでしょうね。

肩書は今のところ欠損はしていませんが、時間の問題だろう。そうなったらなったで今の私には、プライドも組織に対する忠誠心も欠乏しているので、何ら大きなダメージはないと予想されます。しかし、無言でのそのような仕打ちは、侮辱としか受け取れないのでどこまで感情を抑えられるのか正直なところ、不安です。ただ、逆上して感情的な態度だけはとらない自信は不思議とあります。それが何故なのかは、次のステップがまだ定まっていないからです。

もう10年若かったらと思うのですが、それはいつもの言い訳にすぎません。12年もの間、この組織で何をしてきたのと逆に自分の愚かさを呪いたくなります。耐えられない侮辱というものはございません。耐えられます。ただ自分の自負心にメスが入るから、耐えられずに愚行を施してしまうのです。

まだ、きっちりと心の整理はつきかねています。でも私がうけた老獪なやり方に苦言と意見を言うことなく、事実を受け容れることに以前ほどの強い執着心のなさに驚いているのも事実です。 こうして、またひとつ成長できている自分が一方で入ると思うと、侮辱は成長の良薬と言えるのかなぁと思いました。

侮辱と自負心の関連をいつの間にか断ち切れる自分に希望が持ててきました。

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狡猾な人間の仕打ちは無視に値する

2012-03-29 09:00:55 | 雑記

類友の法則というものがあります。狡猾な人間には、狡猾な人間が寄ってくる。誠実な人間には誠実な人間が寄りあいます。

この法則というのは価値観がにた人間がつながりやすいということです。気が合うということはよくよく考えますと、考え方や価値観が近いということの裏返しです。

論理的に物事を考えるタイプの人間が、精神論だけの人間を疎ましく感じるのと同じであります。不誠実な人間というのは、姑息なやり方を称賛し、自己を正当化します。どこかに負い目を感じているので、正攻法で相手に物事を伝えて対応しようとしません。

はっきりと自分の考えていることを伝えて、行動に出ればいいのにと強く感じてなりません。同時にそういう人間の愚かさに辟易とします。ちょっとした出来事に一喜一憂し、感情だけで物事を処理しようとします。

自分の利にならなくなったら首を切るという中小零細企業の経営者によくみられる人間性です。そして、そこに蟻のように集まってくる、どうしようもない輩も実力を誇示しようとつまらないことにこだわり、威厳を保とうとします。その割に議論で負けそうな相手には面と向かって話をしようとはしません。

卑怯と言いますか、狡いと言いますか、なんとも薄っぺらい人間なのだろう。そのような対応をされたなら、いちいち反応していては同じムジナとなります。やり過ごしておくことが何より賢明です。表面的なことにこだわる人間というのは、内面がないということの現れなのでしょう。

対外的なことに神経と焦点が強くいくということは、内面に目がいっていないことの証左だとつくづく感じる朝です。

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不誠実な人間や仕事はすぐに判明する社会

2012-03-28 12:42:19 | 雑記

8年ほど前に新築住宅を建てていただいたお客さまから、クレームのお電話を頂きました。トイレの貯水タンクの不具合とキッチンのシャワー水栓部分から水が漏れて、キッチンのキャビネットが水浸しになっているとのことです。

トイレにつきましては、水道業者よりもトイレのメーカーさんの対応になると私は判断しました。そのことをお客さんに申しますと、了解して下さいました。

キッチンにつきましては、お電話での内容では現象がイメージできませんでした。ですので、「そちらは水道屋さんとお邪魔して対処法を検討させてください」と返答しました。

「分かりました」いうことで、とりあえずは電話を切りました。私の休日の夜8時過ぎということで、その日の対応はできません。次の朝業者さんに連絡を入れました。どうも業者さんも事態がつかめない様子でした。

お客さまに都合を聞き、水道業者さんと二人でうかがいました。トイレの方はネットで検索するとすぐに対応策が分かったようで、お客様ご自身で部品の発注もされたようでした。

ところが今回の私のクレームに対する電話での返答は逆でした。情けないと言いますか、いい加減な対応しかできない自分が本当に愚かに思いました。

キッチンの水栓の水漏れ個所はすぐに判明し、ホースの交換で対処できることが分かりました。しかし、その部品を取り替えるには特殊な工具がいるとのことで、トイレの部品こそ水道業者さんですぐに手配できるとのことでした。

しかし、またまた大どんでん返しが、後に待っているのです。

その業者さんの返答に少し途方にくれそうになりましたが、その水栓の品番が分かればインターネットで対処法が検索できるかも知らないと、私は思いつきました。それで水栓の裏側を見ますと、運よく品番と製造番号のシールが貼ってありました。それをメモにひかえました。

そして、お客さんにメモを手渡し、後で、インターネットで調べてみてほしいとお願いしました。もしそれでも分からないようでしたら、もういちど電話下さいと言って帰りました。

その日の夕方、そのお客さまから携帯に電話が入りました。結果はネットの情報力の凄さをまじまじと知らされることになります。といいいますのは、その品番をグーグルで検索しますと、同じような不具合の対処法が書かれた専門の投稿サイトがあるということが判明したのです。

そのサイトでは、ホースの品番に加え定価の金額も掲載されています。さらに、修理の方法までが分かりやすく写真入りで、紹介されています。その内容によりますと、水栓ホースの交換には、水道業者さんが言った特殊な工具は必要ないとのことでした。その投稿じたいは何の利益も発生しない同じクレームを経験した消費者が投稿しているのです。

専門の業者が言うことだから間違いないという安直な思考はとても危険であることがわかります。また、いい加減な対応しかできない人間や業者というのは、すぐにその馬脚をあらわすことになります。

今回のことから、ネットの力というのは、業者にだけもつことができた正しい情報もゆがめられた情報も、大きなコストがかからず、すぐに検証できるということです。嘘や怠慢な対応は消費者にはつけないということです。

お客さまの目には水道業者さんの言葉を信じた私が滑稽にうつったことでしょう。穴があれば入りたい心境でした。その水道業者さんにはそのホースの手配についても不誠実な対応が続くのですが、あまりに情けないと言いますか馬鹿らしくて、ここで書くのも憚れます。

ネットは人を偽らす力も潜在力を秘めていますが、一方で偽る人を瞬時に判明する力をもっているのです。

ネットとは、「偽りのもろ刃の剣」と言えるのかなぁ。

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時代遅れな、営業マインド

2012-03-27 09:17:27 | 雑記

マイカーの車検が終わりました。24万円かかりました。自賠責や重量税などを除くと18万近くを整備代金と部品交換代金に要したことになります。まぁ、12年近く所有していますし、11万キロ走行していますので、仕方ないとも言えます。

今回の車検は自宅近所のタイヤメーカーさんのショップで見積もってもらい、そのままそのお店でお願いし、昨日無事もどってきました。実はいままでずっと、メーカーのディーラーさんに車検をお願いしてきました。その理由はやはり安心という面が大きかったからです。価格が少し高くてもそのほうが長く乗るには、いいだろうという考えがあったのです。

ところが、前回車検をお願いしたディーラーさんの営業マンの接客が、新車への買い替えを前提として行われるようになりました。車検の事など全く口に出しません。その態度とセールストークに妻も私もあまりよく感じなくなりました。

人間というのは感情の動物です。そうなると、「車検は他社でお願いしようか」という気持ちになります。今までメーカーのディーラーだからという先入観もあったのですが、今回の掌を変えたような態度をされますと一気に信頼は瓦解しました。

新車の販売だけが目的ということが如実に伝わってきますと、車検の整備もいい加減にされるのではないかと思うようになるものです。車検をいい加減にして、新車への購入へ誘導させようという操作性をかんぐらざるおえなくなります。

であれば、新車を販売するという目的を持たない整備専門の会社であれば、なおざりな整備をすることはないだろうという考えに向かいました。

顧客の立場に全く立たない営業マンというのは顧客の信頼を失うものです。そして、すぐに心の中を見透かされるものです。案の定、しばらくしてから、「車検の方はどうですか」という電話をかけてきました。

紳士的にお断りしました。

今回の車検では、同じ営業マンとして、よき反面教師になりました。どういうトークをすれば顧客から信頼されなくなるのかということがとても当事者として理解することになりました。営業でも商売でもそうですが、売り手都合での接客は、商品をよほど気に入るか、他に選択肢がない時だけしか成果があがらないということです。 

努力や工夫をせずに販売できていた時代から脱却できない営業マンと企業は、今一度他の営業の接客態度を体験して、営業の方法を改善していきましょう。 

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他人の悪口は楽しいけど・・・。

2012-03-26 07:38:14 | 雑記

「ダレ誰が、あなたのことをこう言っていたよ」と、親切に言って下さる方がいらっしゃいます。気をつけないといけないのは、その言葉が本当かどうか定かでないということです。

それと、自分がその人間が嫌いあるいは、その人間に腹が立っているので、一緒になって悪口を言いたいがために、歪曲化して言っている場合があります。よくよく冷静になって考えますと、その悪口は私のことを思って言ってくれているのではないということが簡単に分かります。

たとえその悪口が本当であったとしても、私にとりましてはその人が言わなければ、耳に入ることはなかったのです。それを聞かされたがために、わたしは気分を悪くするのですから。一種の誘導といいますか、煽動に近い話術のようにとれます。

本当に私の事を案じてくれているのなら、わざわざ、こちらから聞きもしないのに、そのようなことを言うことは起こらないと思います。よくあるのが、あなたのことが心配(かわいそう)に思って言ってあげるのだという告げ口です。

自分一人が蔑まされのけもの扱いされるのが嫌という心理が働き、他人にあることないことをふうちょうするのでしょう。そういう人というのはえてして幼少のころにいじめられたり、のけもの扱いされた疎外感の強い人間ではないかと洞察できます。

他人の悪口は聞いていて楽しいものです。そしてそれに同調して悪口のオンパレードが始まるととめどなく辛辣な言葉が飛び交います。その時は気分は良いのですが、その後はどっと心が重く何とも言えない罪悪感と憎悪が沸き起こってきます。

悪口を言う人間はあちこちで、言うものです。決して私だけの前で悪口を言っているのではなく、他のところでも言っているのです。そしてそこでは私の悪口や私を出しに出して同じような煽動を繰り出している可能性が高いのです。

ということで、そういう人間とは適当につきあい、決して同調して他人の悪口を口走らないことが肝心です。うっかり悪口を滑らしてしまいますと、他所で「○○がこんなこと言っていた」と、逆に告げ口されかねません。

人物鑑定の要諦は、その人間が他人のことをどう話すかを冷静に聴いておけば、ほぼ間違いなく分かるものです。これは翻って自分自身にも言えることです。

決して他人の悪口は他言しないことです。
 

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緊張と責任を強く感じる知識社会を生きる

2012-03-25 09:14:04 | 雑記

日が経つのが早いです。もう3月もあと7日で終わりです。

それに子どもたちは、春休みにはいりました。4月から新年度のスタートです。2012年のお正月を祝ったのがついこの前だったのに・・・・。

我が家の三人の子どもたちは、それぞれに学業の成績表をもらってきました。長女は中学一年生で、吹奏楽部に入部し、ほぼ毎朝ある練習に参加しているせいか、夕食前や夕食後に寝ている姿をよく見かけており、勉強している雰囲気を感じていませんでした。

「よくそれだけ寝られるなぁ」と、妻と二人で感心しています。自分が中学生だった時のことを振り返りますと、記憶が薄く確かではないのですが、長女よりは机に向かっていたように思っています。でも、成績は長女の方がいい成績をおさめています。

私の方が要領が悪かったのか、学習能力が劣っていたのか、周囲のレベルが高かったのかは横においておきますが、思っていた以上に成績が良かったので長女についてはひと安心しました。

残る二人の成績が気になります。長男(小学5年生)ですが、日頃もらってかえるペーパーテストの点数のわりに、通信簿の評価は芳しくなかった。次女は小学3年生ということで、成績について取り立てて口やかまし注意しても仕方ないかなぁと思っています。ですので、悪い成績に関わらず妻も私も次女にはあえて何も言っておりません。

小学生の成績の善し悪しで人生が決まることはないというのが私の持論です。ですの学習塾には通わせていません。できるだけ外で遊び、体力をつけることの方が子どもの時は大切だとさえ思っています。しかし、現代っ子ならではなのでしょうか、ゲームをしたり、テレビを見たりで、友人と思いっきり時間を忘れて外で戯れるということをしません。

「ゲームをするよりも、外で遊んできなさい」と言うのですが、なんだかんだ理由をつけては、外に出ていこうとしません。私は、学校の成績よりも、こちらの方が問題だなぁと心配しています。

ところが、他の親御さんはあまり私の考え方に賛同する方が少なくなってきていると聞きます。その傾向は本当なのかでしょうか?一部の偏った報道ではないのだろうと、思ってなりません。

そう思いながらも一方で、「勉強、勉強と小さいころから喧しく言っている方が、将来において子どもたちのためによいのだろうか?」と、ふと考えることがあります。放任しすぎるのはいけないと思うのですが、管理しすぎるのも子どもの主体性を失うことにもなりかねないとも考えられます。いまさらながら、「子どもの教育は難しいなぁ」と、つくづく思わされます。

まさしく、「子をもって知る親の恩」です。親に反発していた我が青春に思いを馳せると同時に、わが子の将来に不安を覚える日々です。

私が過ごしたある意味、牧歌的な時代とは違い、知識がより大きな力をもつ社会と今はなりはてたように感じます。少々学業で落ちこぼれても何とか生きていけた時代は、再来しないという緊張を強く感じさせられます。責任と緊張が常に襲いかかる知識社会に生きる一人の親として、これから何を為さなければならないのか、じっくりと子どもとともに考えていきたいです。

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仮面を剥ぐことで幸福になろう

2012-03-24 09:04:16 | 雑記

人間はそれぞれにたくさんの仮面を被って生きています。仕事に行く時は、サラリーマンは背広を着てネクタイを締めてそれなりの顔をして電車に乗っています。大学教授はなぜか、紐のようなネクタイを締めて髭を生やしていかにも威厳に満ちた表情を繕っています。

そのような人も、ひとたび家庭に帰り背広を脱ぎラフな格好になると、日中の仮面を剥ぎとり、今度は父親の仮面や夫の仮面を被りなおします。

社会的に活躍している人というのは、いくつもの仮面を常に被って生きていることになります。経営者の仮面、営業マンの仮面、地域の世話役の仮面。その仮面を上手に剥いだり被ったりしながら生活できているうちは、楽しいのです。しかし、いったん歯車が狂いだし、何かの拍子にほんとうの自分の顔はどれなのかと考えだしますと、精神的に弱っている時は、その考えが統制できなくなります。すると、人間関係において不安感が増してきて、悪化すれば鬱病の発症につながることが起こるのではないでしょうか。

現代病と言われている鬱病ですが、これは今に始まった病気ではございません。昔からおそらく人間には大なり小なり起こっていた病でしょう。ただ、仮面が少ないので、短期間で病気が改善するケースが多かったのではないでしょうか。ところが、社会が複雑化し多元化するに伴い、たくさんの仮面を現代人は被らなければならなくなりました。その結果、病気の回復が長期化し根が深くなったのではないでしょうか。

仮面を被らないで生きることは人間には心がある以上不可能です。ですので、私たちは、意識をして仮面の脱着をする場を設けることが求められるのです。数人が集まり、自分の弱い点人にさらけ出すのが憚れる汚点などを吐露しあう場があれば最高です。

こんなことを言って自分という人間がダメな人間だと烙印を押されるのではないかという恐れを拭い去り、心の中にたまった汚れやゴミを処理できる場をもてることは、幸福な人生を歩む一歩のような気がしてきました。

仮面を積極的にぬぎさることは、幸福に生きる要諦だと強く感じました。

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日本人の限界について

2012-03-23 09:05:38 | 雑記

限界というものはどんなものにもあります。人間の能力や体力、気力にも限界というものがあります。科学にも限界があります。電力供給にも限界があります。個々人間あるいは組織の限界は、明確な限界線として真摯に受け止めそれをみんなで認めあう社会が構築できれば、もう少し優しく生きられるようになるのではないかと思います。

ゆとり教育が今の子どもたちの学習能力を低下させたという議論があります。確かにそれも一理あると思います。ただそれが声高に言われすぎますと、教育の場でも、「限界」という言葉を安易に口にすることが、憚れるようになると思われます。

教師が「もう限界です」と発言すると、ヤル気がない教育者という烙印を押されかねません。このことからも、限界をもうけることを避けようと私たち日本人は考えがちです。

それに引き換え、外国人は自分の限界というものをはっきりと持っていますし、それを周囲にハッキリと主張しています。自分自信の能力をよく分析し理解しているということです。そして、その自分が設定した限界線までは全力を尽くすという考えをもっています。その思考法が根底にあるので、日本人よりもバイタリティーあふれた行動ができるのではないでしょうか?

日本人は他人にお届けものを渡すとき、必ずといっていいほど、「つまらないものですが」「お口に合わないかもわかりませんが」という言葉を発しします。これは日本人の謙虚さの現れともとれます。でも、限界という概念からこの日本人の慣習を考えますと、「自分はこれ以上のすばらしい品をお渡しする力があるのだけれど」また、「あなたの嗜好を察する力は、あるのですが」という感情が潜んでいると考えられます。

ところが外国人は、そういう感情をほとんど持っていません。「自分の察する範囲で、あなたが喜んでもらう品を一生懸命選択した」という自負に近い感覚をもって人に接していると思います。潔いという観点から言いますと、外国人の考えのほうが正統のように感じてきます。

日本人は開き直りという少しネガティブな感覚で、この限界という言葉をとらえる習性があります。開き直った言葉を発すると、「アイツは、投げやりな辛抱のたらん人間やなぁ」と、観られます。その恐れからか、限界ということを自分で認識しているのですが、それを安易に口にすることを避けるのです。

古くは江戸時代の儒教の教えの所為か、「我慢強く生きていかなくてはいけない」という考えが、日本の歴史とともに連綿と受け継がれてきているのではないでしょうか。「武士は食わねど高楊枝」という諺があります。ただの痩せ我慢といえます。これが武士道だと言われればちょっと頭がおかしくなりそうです。

時代は変化しているのです。古くから伝わる日本古来の文化を守ることは大事なことですが、ものごとの考え方というのは、時代の変化に伴って変える必要はあると思います。いつまでも儒教的な考えが正しいという硬直感のある社会は、いかがなものなのかなぁと思いました。まぁ、なかなか思考の癖というのは簡単には変わるものではないですが・・・・。

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成果あげるための決定要因は何かを考える

2012-03-22 09:50:42 | 雑記

精神力に結果をゆだねるということほど愚かなものはないと私は常々思っています。良い結果は「できる、そうなりたい」という願望が大切だとよく聞きます。確かにそのような感情がなければ、行動がともなわないのは分かります。

でも、短絡的に精神論を掲げたから、結果が出たというような、因果関係に落ち着くということは避けなければなりません。そうしないと、いつまでもどうして成果が出たのかという自分なりの答えが出せません。いつまでも、行き当たりばったりで、体系的な行動ができません。

営業でおきかえるならば、何度も何度もお客さまのところに訪問したから、販売できたというのがあります。確かに、お客さまとの接触頻度が多くなると販売できる確率は高くなります。しかし、それに至るまでに、何らかのお客さまの状況の変化があったはずです。

例えば、諦めていた資金的な援助が、突然舞い込んできたとか、他の希望の商品がなかなか出てこないので、仕方なしに諦めて妥協して購入を決断したとかです。単にその営業マンの頻繁な訪問がきっかけで購入を決断したということではないのかもしれません。訪問しないことには、そのチャンスもないじゃないかというご意見もあろうかと思いますが、訪問を何度繰り返してもその商品にニーズやウォンツを感じないとか、資金的に無理があるという根本的な理由があれば、商談がまとまることは難しいでしょう。

つまるところ、成果をあげる決定的要因が何であるかという分析と考察がしっかりとできずに、販売活動に入っても運に頼るだけの足元の不安定な経営を強いられることになるのです。運が続いている時はいいでしょうが、そうは人生甘くございません。しっかりと、時間をかけて成果と結果に対する分析を行い、顧客の変化を読み取り、自社の商品の改善と販売方法の改善を繰り返していかなければいけないと思います。

偶然の成果を成功ととらまえるのは、一番危険なことなのです。 

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科学の発展と人間の発展について感じたこと

2012-03-21 14:05:06 | 雑記

改めて考えますと、世の中には「法則」というものがたくさんあります。

科学や物理学では質量保存の法則、慣性の法則、オームの法則、フレミングの法則などが今わたしの少ない知識の中で思い浮かびました。そうそう、オイラーの法則というのもありますね。ただし、これがどういう法則なのかと聞かれましても返答に窮するというところが、いい加減男の私らしさとも言えます。

さて、この法則が確立されるにあたり、膨大な時間が要されています。その果てしない勇気と努力のうえで様々な法則が確立されたという事実を考えますと、偉人の方々には本当に頭が下がる思いです。そしてそれらの叡智によって、私たちは今こうして豊かに暮らせているわけです。

同時にそれに飽き足らず、知の探索を次世代の人間に明け渡そうと、努力を続ける人間って、本当に底の計り知れない生物だと感じずにいられません。そして、人類は内面的な部分にも法則なるものを見つけ出そうと努力しています。こちらの方は、スピリチュアルな雰囲気が強く、科学のように確固たる法則として認知されるというにはまだ道半ばといったところです。

人間の内面というのは目に見えない感情です。その動きというものやさまざな外部環境の要因が絡み合って表象されるので、実証が難しいのです。身近な例で言いますと、社会科学の中の経済学がその典型ではないでしょうか。

株価の変動や景気の変動を予測することはできず、物理学の法則のように一定性が確認できないのです。数学のように正しい解が経済学では導き出せません。何が関与してどうのように人間の感情が反応し、心理が変化したのかが視覚化できないのですから、致し方ないと言えばそうです。だから、法則なるものではなく、○○論とか箴言、格言という形にとどまるのでしょう。

社会や経済というのは機械や物質がつくり出しているのではなく、目では見えない感情をもっている人間の営みによってつくりだされるものです。人間は視覚化できないものを信じるという能力は、古代から退化しつづけています。文明の発展と引き換えに私たちが失ってきた大切な力のひとつです。

これだけ文明が開化した世の中になったのだから、もういいじゃないかと思う時がありますが、人間の本能といいますか、遺伝子のプログラムといいますかその目に見えない力が、やめようとはしません。

遠い宇宙にまでいま人間は探索を伸ばし続けています。決していけないことではないと思いますが、一度、原点に立ち戻ることも必要ではないかと思うのです。それは、自分自身を解明する意識を、もっともっと持つことです。

人間が本来持ちあわせていた霊的な理性を取り戻す時期ではないのでしょうか?失われた物を取り戻すには、完全になくなる前に探し出さなければ取り返しがつきません。その為にも、外部への思索よりも、心の内部に向かった思索に力を注ぐ必要があると思うのです。 

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できるだけ、遠くに視点を置く

2012-03-20 09:22:14 | 雑記

宇宙から見ればかたつむりが動いた程度の事に、人間は自分の存在感のなさに打ちひしがれます。どうしてそのような感情が、何の前触れもなく急に我が心に襲いかかってくるのでしょう。

日々、自意識が敏感に働いているのが原因なのでしょうか。反対に無能力感、無価値感を強く抱きすぎているのが原因なのでしょうか。いまだはっきりしたことは私には分かりません。

自分では志をもって何かを為さねばと考える反面、行動と結果がついてこないという現実に苛立ちを覚えます。そしてすぐに喪失感と絶望感が入り混じったこころの波のようなものが、押しては引き、こころの海をかき回していく。

この息苦しさから解放される考え方はないものかと考えていますと、ふとしたことから、ひとつのキッカケのようなものが見つかりました。それは、近い視点で見れば大きな動きや力に感じるが、遠くから見ればほんの些細な動きにしか感じないということです。対象物の大きさによっては、全く動いていないように見えたりもます。このことから、自身の心を見るときの視点は、できるだけ遠くに置いておくことが肝要ではないかということに気づきました。

近視眼的に物事を見たり感じたりすると、心の揺れが大きく感じられるので、できるだけ遠くに遠くにもっていく。そうすれば、物事もよく見え感情のブレ幅も少なく的確な判断が下せるのではないでしょうか。

高所大所から物事や事象を見るというのは昔から尊いことと言われています。短期的に物事を判断するのではなく、長期の視点で物事を判断する。また、長期的な視点で自分の現在の在り方を観るようにしたいものです。

身近な人間の行動や言動にこころを惑わされてばかりでは、感情の均衡を保つことは難しいのです。あったこともない賢人や、古代の偉人の思考を学び、一番近い自分を傍観する術を身につけたいです。 一足飛びに身につけることは難しいですが、諦めずにコツコツ、感情に揺れ動かされながら会得していきたいものです。

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食事制限で体質改善できた?

2012-03-19 10:29:22 | 健康

糖質制限食をはじめて約3カ月がたちます。完全に糖質ゼロという食事はできません。ただ一番気をつけていることは、炭水化物類とでんぷんを多く含んだ食物を極力食べないようにしていることです。妻には料理が面倒と苦情を言われますが・・・・。

あまりストイックに食事制限するのは、本末転倒かと思いますので、大好物のチョコレートを一粒ぐらいいいだろうと、ついついつまんでしまいます。また、妻の嫌がらせでもないのでしょうが、冷蔵庫を開けた時に美味しそうなチョコレートが増えていたりしますと、意思が大きく揺るがされることがあります。

糖質制限食をはじめたころは、その誘惑に打ち克っていました。でもこのところ、その克己心が徐々にに蝕まれ、ひと粒だったのがふた粒、み粒と食べる量が増えてきています。いけないいけないと思うのですが、何かと言い訳をつくっては口するように今はなってしまいました。

まぁ、それでも不思議と体重は大きく増加することはございません。BMI値では痩せすぎという数値で推移しているぐらいです。そこで、糖質制限食事を行って体質改善かなぁと感じることを3点だけ報告させていただきます。

1、お腹が空いたぁ〜という強烈な空腹感が無くなった。(糖質を含まない食べ物はお腹いっぱい食べてもよいことになっているのです。脂質、たんぱく質のカロリーを気にしなくていいのです)

2、便が綺麗になった。(ちょっと表現が可笑しいかも)。色や便の硬さがほどよく、トイレットペーパーに汚れがあまり付着しなくなった。(お食事中の方にはすいません)

3、抜け毛が少なくなったことと、寝不足でもお昼に睡魔が襲ってこなくなった。

この3点が大きく変わった点として感じることです。特に、3番目の抜け毛が減ったことは、もともと頭髪が薄く淋しい中年ですので、とってもうれしい改善です。

私は48歳です。まだ糖尿病を患ってはいません。ただ、父が糖尿病です。糖尿病は遺伝する可能性が高いと聞きます。そのことからも、予防のため、ダイエットのためと思い糖質制限食を始めてみたのです。

まだ3カ月足らずですが、今のところ副作用や健康を害したという自覚症状はございません。 ですので、この食事法を継続していきたいと思っています。

あとまだ確証までとは至っていませんが、この時期悩まされ続けている、花粉症についてです。

子どもたちはこの1週間で、花粉症の症状があらわれてきました。でも、私には今のところ目立った症状が出ていません。昨日、鼻が痒いなぁと強く感じることはありましたが、単発ですぐおさまりました。

花粉症とアルコールの摂取量の相関関係がどうなっているのか、私には分かりませんので、何とも言えないのですが、わたしは、アルコール摂取を昨年の6月から断酒に近い状態でつづけています。ほとんどアルコール類は口にしておりませんので、その影響があるかもしれません。

ですので、今回の糖質制限食により、花粉症が改善されているということは、誤信かもしれません。

何か新たな体質改善が確認できましたら、ご報告兼ねて書かせていただきます。

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土俵際の踏ん張り

2012-03-18 09:49:44 | 雑記

相撲は中学生の時に、塾仲間の同級生のひとりが元関脇の荒勢が好きだった。塾の休み時間によく遊びで相手をさせられた。がぶり寄りとモミあげが特徴で、その真似をして勉強の合間の一時を笑わせてくれたのが今でも鮮明に覚えています。彼はどうしているのでしょう?家業の電気店を継ぐためなのか、工業高校に進学したのは知っていますが、中学卒業後、一度もあったことはございません。

ところで、昭和40年、50年代の娯楽といいますと、プロ野球か相撲観戦でした。高度経済成長の真っ只中で、今のよう多種多様な遊びというのはございませんでした。ですが、現代のようなどんより重苦しい閉塞感というのはそれぞれの家庭にはなかったように思います。どこの家庭も希望と未来に展望を抱いて、仕事仕事の忙しい毎日をおくっていました。

そんな生活を強いられていても、現代のようなそこそこの収入をえる従業員は少なかった。でも、今踏ん張ればきっと楽な生活がまっているという、展望の光がランランと輝いていたのではないかと、当時を振り返りますとなおざりですが感じてなりません。

いま我慢して努力さえしていれば、家族が幸せになるなどの、未来への不確かさ性が低かったのでしょう。ですので、精神的にも肉体的にも辛いというところまで追い込まれても、土俵をすんなりわることなく、最後まで力を振り絞れたのではないかと考えています。見えない未来や予測できない将来に対して抗う力を、多くの社会人がもっていたということです。

ひるがえって現代では、錯そうする情報と悲観的な報道に社会が惑わされ、何を信じていいのか分からなくなっている、あるいは考えすぎて行動することに憶病になっている人が多くなってきているのではないかと思います。

その根底には人生に失敗すると社会から抹消され再起できないのではないかという不安があるからではないかと推察されます。これが強くなると失敗しないように無難に生きよう生きようと考えるのは必定でしょう。するとよけい社会がどんよりと停滞した低気圧のようになるのです。

私のいまの現状は、土俵際まで押されて、俵に足がかかっている状態です。ここで踏ん張らないといけないと自分に言い聞かせてはいるのです。いつまで踏ん張りができるのか、私自身にも分かりません。ただ、土俵をわるにしても、簡単に無策のまま無抵抗に投げ飛ばされたり、押し切られたりされないことだけは自分に言い聞かせるようにしています。

荒勢のがぶり寄りを彷彿させる行動力が、みんなで発揮できる社会構造が構築できれば理想でしょう。しかし、単純な一本調子の行動で成果があげられる社会は、残念ながらもう来ないでしょう。

知識を知恵にかえて、社会環境と顧客の変化に対応した業務改善を行うことでしか、組織の明るい未来は見えないのです。その道は非常に険しく難しいですが、それこそが踏ん張りどころであり、皆が知恵を出し合い、土俵際から押し返すことに力を注がなくてはいけないのです。

もう駄目だと思考を停止させるのは簡単です。そして、停止させたと同時に土俵の下に押し倒されるという現実が待っているということだけ肝に銘じて明日に向かって今日を生きましょう。

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精神論から、具体性のある会議にしよう

2012-03-17 10:12:46 | 雑記

部下の成果の少なさや、会社の業績の悪さに対して、具体的な改善点を示せないということに問題があるのではないかと思うのです。よくあるのが、精神論に逃げ込んだ発言に終始することです。「やるしかない」「うだうだいっていても仕方ない」「余所はよそ、うちはうちで努力するしかない」「顧客が少なくなっているのだから、人間的魅力で勝負するしかない」など、毎回聞き飽きた言葉ばかりです。

毎回同じことをミーティングなり会議で時間を使って話あっても、何の進歩もないのが分からないのでしょうか?何が問題で、どう改善するのが成果が上がりやすいのかということを話し合う。これが本来求められる業績の悪化した企業の会議なのではないでしょうか?

無為に時間ばかり使って、部下の弱みや自社の弱みにばかりを議論しても何も得ることはないのです。それに具体性のない会議ほど、つまらないものはございません。建設的な意見が出てこないということは、根本的な仕事のやり方が間違っている或いは、時代にそぐわなくなってきているということを自覚する必要があると思うのです。

魚がいないところで、いつまでも同じえさをつけた釣り糸を垂れていても、魚を釣り上げることはほとんど徒労に終わることは必定ではないでしょうか?それを精神論で、何が何でも釣るんだと海面に向かって気合を入れて大声をあげても魚が釣り針に食いついてくれるわけがございません。

「営業力、営業力」と、いつまでもお題目のように唱えていても、業績アップの改善にはならないということに早く気付いてほしいものです。能のない上司をもつ部下というのは本当に悲惨です。一番たちが悪いのは、過去の栄光にしがみついて、そこから脱却できない上司です。変化というものを口では言うのですが、行動と思考に結び付いていない上司にどうすれば、この知識・情報社会の変革を知ってもらうことができるのでしょう。

ただ、知ったところで、改善するには知識を知恵に変えなくてはいけません。精神論しか打ち出せない上司に、期待すること自体間違った行為なのかもしれません。

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