E’s SQUARE

人生は無常!夢、目標・・・は変化するのです 執着しないで生きよう!
正しい道徳心をもって成功までのプロセスを楽しもう!

イクメンと草食系男子

2012-04-26 09:48:54 | 本 雑誌

いつ頃のことか忘れてしまいましたが、男性社員も育児休暇をとるようにと企業がいうようになりました。確か以前の職場でも取り沙汰されていたのを記憶しています。

「そのお言葉に甘えて、育児休暇をとると、復帰した時には自分の座る席はないよなぁ」と、総務からの連絡文を読んで同僚と揶揄していました。当時(17年ほど前)では、今のように男性が育児に参加するという風潮は全くございませんでした。

ところがいつからでしょうか?その潮目が変わったのは。ここ5年ぐらい前あたりからでしょうか?世の中の風潮が大きく変わってきました。昭和生まれの私には全く理解できませんでした。男子たるもの外で働き、女子は家庭を守るものというがちがちの固定観念をもって何の疑いもなく自分の思考を支持していました。

そんな自分のもろくて拙いポリシーというのは社会の大きなうねりで一蹴され、会社を休み育児に協力する男性がかっこいいという新しい観念が主流となってきました。「イクメン」などという新語も生まれました。

現代社会は男性の稼ぎだけでは、生活が維持できないようになりました。それに加え女性の社会進出が増し、企業も女性の活用を真剣に推進してきたことにより、働く女性が増えました。この社会現象の変化が男性と女性の性差をなくす原因になっているのではないでしょうか。

このことから、男性と女性という性の違いにより社会の役割が決められるという時代はもう到来しないと強く感じます。

そこで、この育児に関する現象と草食系といわれる男性の増加には何か相関があるのではないかと考えたのです。女性が強くなったから男性が弱くなったのではないと思うのです。

草食系男子というのは、女性の肉体をあまり求めがらない男性の事を指して言うようです。それは男性の社会的立場が弱くなったということが原因では無いと考えます。うまく文章にできないのがもどかしいのですが、今自分の頭の中にある考えを書いてみます。

実はこの考えをいだくきっかけになった本があります。それは、「ものぐさ精神分析」というエッセイのような本です。

以下引用

【生物学的な意味での雄とか雌とかということと本質的な関係はなく、役割ないし身分としての男女の性差別は女の肉体が商品化されたことに起因すると論じた。もし男性が能動的、女性が受動的ということが本能的に決定されているのでないとすれば、なぜほとどんすべての文化においてそうなっているか、なぜ男の肉体は商品化されないのか。この原因を後天的環境の為とするならば、一番考えられるものは男は異性(母親に)に女は同性に育てられるということである】
中略


【性において男が能動的、女が受動的なのは、単にそのようにしつけられたからではなく、男にとっても女にとっても人間としてこの世に生まれた初めて最初の快感と安心感を与えてくれたのが女(母親)であるからである。その為一生男は失われた最初の幸福を取り戻そうとして、女の肉体を求め続ける。他方女は、自分自身が女の肉体をもっているわけだらか、自ら満ち足りている所があり、また、女にとって男の肉体は男にとっての女の肉体のような意味を持たないから、男が女の肉体を求めるようには、男の肉体を求めない】


この文章を読んで草食系男性が生まれた原因は、これではないかと感じたのです。世の男性の育児の参加が増えたことにより、男性が女性の肉体を求めなくなったのではないでしょうか。

女性が強くなったのではなく、男性が弱くなったわけでもないのです。男性が子どもを育てる時代が生み出した現象だと私は思うのです。

「男が能動的であるのは幼児期に異性に接するので、ある種の性的満足を得るからだと考えられていた」。と、著書にも書かれています。

男性の手に育てられた女の子が今後もますます増えることによって、以前のような男性化がすすむ社会になるのではないかと考えています。ある意味愉快であり多様性の社会が実現することで、新たなビジネスも生まれるのではないかと感じ、ただただ傍観しています。

なかなか他にもおもしろい文章が書かれていますので、ご興味あれば手にとってお読みください。

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素敵な人生の翻訳者になりたい

2012-03-13 10:06:20 | 本 雑誌

私は、日本語しか話せないごくごく普通の中年男です。今さらながら、語学をもっと若い時に勉強しておけばよかったと、万人に共通な後悔をしている今日この頃です。

読書は欠かさず毎日行っている身として、外国語の著書を日本語に訳して翻訳書に仕上げるというのは単純に学問だけの知識で成せる仕事ではないのだなぁと、強く感じています。先日、村上春樹氏のエッセイ「やがて哀しき外国語」を読んで改めて考えさせられました。

体験から得た洞察やそのとき抱いた感情を、自分の心の中にどのように吸収できているのかで、翻訳の巧拙があらわれる。私は冒頭でも書いたように外国語は全くできません。翻訳が上手か下手かという評価など毛頭できないのです。ですので、一般的な書評を読んで、「あ、そうなの?」と思うぐらいが関の山です。

ただ単に外国語の語彙がたくさんあるという一般的な知識だけでは務まらないのです。翻訳者というのはほんとうに素晴らしい感性と知識を持ちあわせていないと、一流として認められるまでにいかないのだなぁと、つくづく思います。

さて、語学の翻訳は全くできない私ですが、日常のできごとについては、無意識のうちに翻訳にちかいというと語弊がありますが、同じような作業をして仕事をいています。目の前に起こった事実、あるいはそう見える事象を、過去の体験をもとにそれぞがもつフィルターを通して、無意識あるいは意識的に解釈を加えて考えています。そしてそれが個々の世界観として築き上げられ、またそれをアウトプットしています。

言語を翻訳するときのように、翻訳者がどのような概念や洞察をもっているかで翻訳書というアウトプットの質が変わってくるのと同じで、私たちの人生の質も観察力に培われた概念によって出来不出来が現れるのだなぁと考えられます。

知識だけをいくら吸収しても豊かな人生は送れません。知識とともに実体験を数多く経験し、色々な洞察やものの見方、考え方を道具として持っておくことが大切です。その道具が多ければ多いほど、苦しい逃げたい問題にぶち当たっても、逃げることなく目をそむけることなく、問題に立ち向かうことができるのではないでしょうか?

人生における一流の翻訳者を目指し、高尚な概念と多様なモノの見方を身につけたいものです。一冊の本の出会いからでもこれらのことは吸収できるのはありがたいことです。ビジネス書ばかりを読むのではなく、多種多様なジャンルの本に触れるということは、多様な実体験と同じことだと思います。人にもたくさん出会い会話し、一方で一人になって読書をする。この体験をバランスよく保っていけるようになりたいです。

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「うまい話」はあると思いますか?

2012-03-03 09:17:50 | 本 雑誌

世の中にうまい話はたくさん転がっていると思うか、そんなものは、まやかしであり、詐欺だと思うか、あなたならどちらですか?

私は、どっちが正しいとは言い難いと思います。そのときのその本人の心の傾き具合によって、「それはうまい話だ」と感じたり、「そんなうまい話があるわけないだろう」と、訝しく思うのではないでしょうか。

では、「いい話だなぁ」と、素直に積極的になる時というのはどういうときなのでしょう。私が思うのは、今いる自分の立場や状況に対して、前向きな悶々とした感情を抱いていて、その状況を打破したいと強く感じているときにわき起こってくるのではないか感じています。そのうまい話を信じようと、半ば半強制的に感じようしているのではないかと思います。本当のところは、半信半疑なのでしょう。心の奥底ではそんないい話が自分のところに舞い込んでくるのは、眉唾ものじゃないのかとは思っているのでしょうけれど、「前進しよう、向上しよう、おれもやったらできる」という感情が、その疑念を打ち砕こうとするのではないでしょうか。

一方の、「そんなうまい話があるわけないだろう」と感じる場合は、リスクに対して憶病になっていたり、今の安定的なぬるま湯状態が心地よいと感じている時ではないでしょうか。それが本当は一番危険なのでしょうが、それが本当かどうかの答えが出ないので、なかなか行動に移せないのです。

昨日、故城山三郎氏の著書で、「うまい話あり」という小説を読み終わりました。一人の大手企業に勤めるサラリーマンが、閑職に追いやられ、ガソリンスタンドの経営者になるストーリです。経営者になって初めて知る、仕事の大変さや、人を雇うことのもろもろのしがらみがとてもリアルに描かれています。友人から、うまい話があるというふれこみで始まり、今でいうところの、フランチャイズ形式の経営者になるのです。研修を経て見事経営者としての資格を取得するのですが、本社との理不尽な契約条項との日々の戦いに、結局は最後、失敗に終わります。

それに至るまでの様々な悪戦苦闘を通じて、経営者としての自覚のなさや厳しさが心理とともに、すんなり心の中に入ってきました。自分の利のためだけに経営していくのかという葛藤の場面は自分自身をおきかけて考えさせられ、とてもリアル感があり、読んでいて「頑張れ!」と、思わず言いたくなりました。

エンディングは、小説だからなぁと感じさせられる、ハッピーエンドにおわります。私はこの著書で、一番考えさせられたのは、人間の良心とビジネスの非情さの葛藤です。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という古典の名著に書かれている、隣人愛と利というものに、考え方を馳せました。

自分の利得ばかりに目をやってビジネスをするのが現代の姿なのか、他人への愛のためにビジネスをし、その結果として利を得るのが、求められる人間としての資質ととらえるべきなのか?私の心と思考は果たしてどちらに傾いているのだろう。

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人間は信じやすい動物なのか?

2012-02-22 00:15:33 | 本 雑誌

人生は一方向の出来事だけで成り立っているものではなく、プラスとマイナスという逆方向の現象が常に起こって日々送られています。ところが成功者といわれている人間というものは失敗よりも成功した事をよく覚えています。(私は、逆に失敗したことをよく覚えていますが)

また巷で喧伝されている成功法則では、そのように我々のお尻を叩いてくれます。成功体験を思い出すことで、成功者への一歩を踏み出すと信じ込まされています。私のように逆のパターンになるのはどういう場合で、成功者独特のパターンはどういう場合に起こるのでしょうか?

こちらの本でそのことが詳しく書かれていて、とても興味深く読ませていただいています。

上記の事が起こるには、「一面性のできごと」と「二面性のできごと」との区別にもとづくとあります。

以下引用しますと

二面性のできごとというのは、勝ち負けや成功失敗のように、二つの面を持ち、どちらが起こってもひとつのできごととして記憶に残りやすいものである。ある試合結果に賭けをしたとするとき、その賭けに勝っても負けても、印象に残るであろうし、注目もされる。またどちらが起こってもひとつのできごととして記憶される。そこで、こした試合結果のようなものは、二面性のできごとと考えられる。(中略)人びとの間で信じられている処世術は、こうした二面性のできごとはには当てはまらない。こうした二面性のできごとは、どちらが起こったとしても、印象に残りやすく、同じように記憶されると思われるからである。

一方で、一面性についてはお風呂に入っていた時に電話がかかってきたときの事例を引いて説明されています。

以下私なりに引用と要約として書かせていただきます。

一面性のできごとというのは、ある一面が生じた場合にだけ、注目され印象に残るような出来事を言う。例えば、「風呂に入っている時にかぎって電話がかかってくる」という場面を考えてみてほしい。どうしてこんな時に電話がかかってくるのだと普通なら、強烈な不快な感情を浮かべます。そして、お風呂を出て電話口に行くと、切れたりでもしたら相当な怒りとともに、その体験は記憶に強く刻み込まれるでしょう。

「反対に電話がかかってこなかったら、それは出来事として記憶されることはないでしょう」とあります。別に何も起こらないからです。こうした一面性のできごとにこそ、人びとの間で信じられている処世術でいうようなことがあてはまり、都合のよい情報だけが思い出されることになる。というのも、出来事の一面だけしか注目されないのであるから、思いだされるのもそうした面だけということになるからであると書かれています。

引用終わり

このようなことから、ジンクスというものは自分の受けた印象が勝手につくり上げたものであり、根拠のないものということが言えます。

だから、ある人は世の中は幻想だというのでしょうか?イリュージョンの世界に人間は生きているだけだということが言えるのでしょうか?何が真実で何が幻想かはその人それぞれの記憶と認知によって全く変わるということです。これは不確かな人生を歩んでいく上でとても心強い、アイテムのひとつになるのではないでしょうか。

こんな不景気な時代に独立なんて、リスクが大きすぎて組織から抜け出せない。あるいはよくあるのが、住宅ローンがある、子どもがまだ小学生だとかという理由をなんだかんだつけては、結局不確かな世界に向かって挑戦しようとしません。幻想の中で生きているのに、自分で勝手に都合のよい事実をつくり出して、自分の殻を破ることから避けるのです。まさしく私の今の心境です。

人間がもつ心というのは複雑なようで、実は単純なものなのかなぁと感じます。要するに、どっちに感情が振れるかです。マイナスに触れる傾向があるのか、プラスに触れる傾向を持っているのか、このどちらかしかないのです。これは過去の体験が左右しているのでしょうけれど、過去に起こったことを精査してみれば、マイナスに考えることがバカらしいということが分かるような気がしてきました。 

でもこれ以上考えるのは今はできません。もう一度読み返してじっくり自分と対話してみます。

久しぶりに深く自分の思考をさぐることができる著書に出会いました。

お薦めです。

「人間この信じやすきもの」 著者 T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子 訳 

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速読では、古典は味わえない

2012-02-16 20:34:16 | 本 雑誌

福沢諭吉翁関連の著書を図書館で借りては読んでいます。文語体で書かれていてとても読みにくいのではないかと、懸念していました。でも、その懸念は福沢先生の文章を目にして、すぐにどこかに飛んでいきました。

なぜそうなのかなぁと考えました。ひとつ感じることは、文章のリズムがとても軽快だということです。適度な文章の長さで、「学問のすすめ」などは、学のない人間でも分かりやすい比喩がたくさん織り込まれていたりして、ついつい情景が頭に浮かんできます。

文を読みながらイメージが次から次に変わるような文章の校正が施されているのでしょう。随分と読み手のことを意識して書かれた、古典なのだなぁということをはじめて知りました。古典と聞くと、書き手の一方的な教養が大上段にあるものです。

現代では、速読法なるものがもてはやされたりしています。私は、どう考えましても、速読では何が書いているのか読み取れないと思ってならないのです。読書好きの方はいかが感じられているのでしょう。また、速読しないと読書量がこなせないという事も何だか問題だなぁと感じます。

じっくりと、一冊好きな本を読み込むということのほうが、読書から得られる滋養は大きいように思うのは私だけでしょうか。名著と言われる古典にはそのようなずっしりとした重みとともに、すっと心の中に溶け込んでくる教養があります。

文章から感じ取られる古の教えと思想は、速読では決して味わえない珠玉です。

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人生の楽しみは、どこから来るか分からない

2012-02-05 08:07:40 | 本 雑誌

昨日は、経済学者の岩田規久男先生の「福澤諭吉に学ぶ思考の技術」という著書を読みました。

福澤諭吉翁は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている」という言葉で有名な偉人です。

西洋の思想を頭ごなしに拒むことなく、よいところを受け容れようと実践した実利主義的な人物だったそうです。案外、知っているようで知らない点がたくさんあることに、改めて驚かされました。

私は、そもそも真剣に福澤諭吉翁の著書を読んだことがございません。上辺だけの知識でもちあわせず、冒頭の有名な言葉のみで分かったようなふりをしていただけだったなぁと強く今回感じました。

「学問のすすめ」という超ロングセラーの本と、「文明論之概略」という著書を分かりやすくひも解いていただいている著書に出会ったことで、がぜん福澤諭吉翁に興味がわいてきました。さっそく学問のすすめの現代語訳版でも読もうと考えています。

特に、福澤諭吉翁の思考法にとても魅力を感じました。異質なものを排除するのではなく、人生を生きるということは、実験の最中であるという考え方がとても心に刺さりました。

正しい答えを探すためではなく、自分の行動が世のため人のためになるのかということを実験しているにすぎないという考え方はとても参考になります。人生を豊かに幸福に生きるには正解があると考え、またそれを信じ、それを求めて生きようとしがちですが、そのような考えで人生に臨んでいれば、いずれは行動が起こせなくなるのではないかと、危惧しています。

正か誤。上か下。というような両端な思考で物事を考えることの弊害が、諭吉翁の著書には散りばめられているようです。混沌とした現代社会において、再読すべき名著ではないかと強く感じます。

遠い昔の封建的時代に、多様性を受け容れるということは、社会をよくし政治をよくするという考えをもつにいたった諭吉翁の慧眼には驚きを隠せません。私のような拙い頭脳の書くことよりも、どうか皆さんも福澤諭吉翁の書いた書物を手にとって一読あるいは再読されることをお願いしたいです。

どちらか一方に偏りがちな私の頭にとりましては、エポックメイキングを与えてくれると、著書を読む前からワクワクしております。実際に読んだ感想を後日このブログに書いてみたいと思っていますので、その時はよろしくお願いします。 

どこでどんな出会い方で、何と誰と出会うか分からないものです。だから人生はおもしろいのです。 

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実りによって彼らを知れ

2012-01-18 11:44:20 | 本 雑誌

2012年から毎朝、出勤前にドラッカー教授の「ドラッカー365の金言」と、文豪トルストイが文読む月日を読んでいます。

偶然、今日のドッカラーの金言を読んだ後、トルストイの1月1日より読み返していますと、「実りによって彼らを知れ」というマタイ伝の言葉が書かれているのに気づきました。

「善き樹は善き実を結び、悪しき樹は悪しき実を結ぶ」

「悪しき樹は善き実を結ぶあたわず」と、トルストイの本には書かれています。

これをドラッカー教授は、組織の成果に置き換えてわれわれに伝えてくれていたのです。私の解釈では、組織というものが目指す成果の評価基準が、社会にとって悪しきものであってはいけない。またその評価基準を見ればその企業が善き組織化悪しき組織化が分かるということです。

善き組織からは善き果実しか成らないということです。このことは、組織だけでなく私たちの日々の生活でも十分置き換える教訓です。自身の人生の成果は何なのか、また成果の評価基準はどこに置いているのかで、その人間が推し量れるというものです。

パートナーを選択する時に、この質問は大きな洞察をもたらしてくれるのは間違いのではないでしょうか。「善き人格からは善き果実が成り、悪しき人格からは悪しき果実が成る」。

この言葉をいつも心の奥底に意識し、自身の使命を全うしていける人間になりたいと強く感じました。読書というものはいつどこでハッとする気づきをもたらす分からないものです。エキサイティングでインテリジェンスであります。

善き本から善き果実が成るとするならば、短い人生でどれだけ沢山の良書に出会えるかが問われると同時に、良書と悪書を読み分ける知覚が、人生の幅を広げてくれるのです。

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知らない社会

2011-12-01 09:55:11 | 本 雑誌

普段生活していてよく知る社会と、ふと手にした著書や他人の話から知る社会があります。今読んでいる、「同和と銀行」という著書には、全く私が知ることのない世界のことが書かれています。どこまでが本当のことなのかどうか私には分かりません。今世間で喧伝されだした、芸能人と裏社会のつながりも具体的な名前が書かれていたりしてドキッとさせられる本です。

仮に著述の80%が真実だとすれば、自分は何とも世間知らずな人間なのだろう。きれいごとで世間を渡っていくのは何とも馬鹿らしいと言いますか、世の中の裏のからくりにはまともにぶつかっては歯が立たないものだということを強く思い知らされます。

まじめにコツコツと正直に仕事をしている人間が浮かばれないのは、こうした裏社会にうごめく利権と力関係のせいなのかと思うと、なんだかやるせない気持ちになります。世間が知らないところで大きなお金が動き、一部の企業に利が流れ込む仕組みが今でもきっとあるのでしょう。

物事には裏も表もあります。社会にも当然のように裏社会があります。でもこの裏社会と言われている社会こそが本当は表社会ではないのでしょうか。私たちが普段マスコミから見聞きしている社会はつくられた一種の幻想の社会かもしれないという思いを強くしました。

まだまだ知らない世界がこの社会には蔓延っているのでしょうけれど、まじめに働いている人がバカを見る社会にだけはなってほしくないです。

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人間の運というものについて

2011-11-06 08:57:06 | 本 雑誌

いい加減に生きている人間が世間では羨ましがられる生活をおくり、不器用なりにもまじめに生きている人間がわりをくうような生活を強いられている現実を目のあたりにします。この省察はあまりに表面的で短絡過ぎているのかもしれませんが、そう感じるたびに人生の不思議さを感じずにはいられません。

でも、時間軸をどうとらまえるかで妙に納得できたりします。というのは、運命というものを一人の生きる時間軸でとらまえるのではないのです。2代3代前のご先祖から連綿と続く時間の流れとして考えるのです。すると合点がいくことに気づきます。

つまり、ご先祖様の生き方が、現在生きている自分の運勢に影響を与えていると考えてみるのです。ご先祖様が世間に対して身を粉にして貢献をしてきたが、そのご先祖の生きていた時間内では、その恩を受け取れなかったとします。そこで、そのご先祖様の血の流れをくんだ人間が、ご先祖様にかわりその恩をいただくことができると考えます。

そういう流れは目には見えませんが、もしあるとするならば、今生きている人間がチャランポランであっても、先代の功績という借りを返してもらっているので、人生がそこそこ楽しく生きられるようになっているのです。このようなとらまえ方を持つと、冒頭のもやもやした感情がすっきりします。

その本人はどう考えても徳のあるよう人格ではないのですが、ツイているという人間はその人間が素晴らしいからではなく、ご先祖様が素晴らしかったのではないかと言えるのです。どうしてあんな人間が、良い目ばかりするんだろうと訝しく感じる人間が周囲にいると思います。その時は、その人本人を憎たらしく思うのではなく、その人のご先祖さまの功績だろうなと思うようにすれば、怒りとやるせなさも静まるのではないでしょうか。

この考察はこちらの著書を読んだことで納得感を強めました。

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血のつながりを考えさせられる

2011-10-27 08:42:23 | 本 雑誌

何の疑いもなく我が子と思って育ててきた子どもが、実は取り違えられていたと知った時、どんな感情に襲われるのだろうか?

「ねじれた絆」という、沖縄で実際に起こった赤ちゃん取り違え事件のドキュメンタリーのこちらの本を読みました。沖縄という狭い地域で起こったこの事件で二人の女の子とふたつの家族の感情の揺れ動きが見事に描写されています。

子どもを持つ親としてなおざりですが、血のつながりというものの尊大を改めて感じることができました。物心つく前にその事故を知ることができていれば、その後の人生は大きく変わらなかったかもしれませんが、取り違えを知ったのは6歳を迎えた時です。自分というものを感じられる年頃です。そんな幼さの残る年齢で、「実は私はあなたの母親ではない」と言われる子どもの心の揺れ動きと驚きは想像だにできません。

何の疑いもなくお母さん、お父さんと思っていた人が、全くの赤の他人だと宣告されたら、私ならどんな行動に出るのだろうと考えますと、言葉が出ませんでした。結局は生みの親のもとにお互い戻されるのですが、血のつながりだけで、「ハイそうですか」とはいかないのが人間の素晴らしいところであり、厄介なところなのです。

当然二つの家庭ではそれぞれにすごい葛藤が起こったことが書かれています。読み進みますと二人の女の子が成長しどうこの現実を消化するのかに私は興味がわいてきました。人間というものは成長し歳をとるだけでは、いくら家族として生きてきても、心のわだかまりを解きほぐすことは、難しいのかなぁということを強く感じました。お互いを認め尊重できるようになるには、父親母親が経験してきた、我が子を生むという体験が必要なのだろうかと思わされました。

取り違われた一人は結婚し子供をもうけることができました。一方では、30歳でまだ独身だそうです。(文庫版出版当時)現在はどうなのかは定かでございませんが、この数奇な人生をお互い笑いあっていることを望むしかございません。

久しぶりに魂を揺り動かされる著書に出会いました。我が子はどう見ても外見上、私にそっくりですので、その心配がないことだけはここに記しておきます。

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読書だけでは、山は動かない

2011-10-18 09:21:33 | 本 雑誌

何かを為そうと考えたならば、行動しかないのです。いくら時間を使って戦略を立てて、ヴィジョンを打ち立てても、意志決定と行動が伴わないと何も成果は生まれません。ドラッカー教授が口酸っぱくどの著書にも書かれている言葉です。山はブルドーザーでしか動かない。

ドラッカー教授の本を読んでいると、どこからか「本を読んでいるだけで、行動を起こさないとダメだ」と言われている気がしてきます。本を読んでその気になるだけなら万人誰でもそのような心境になります。しかし、その心の変化を行動におとしこめる人が少ない。

自己啓発のセミナーに参加しても、その後の行動が伴わないと高い授業料だけ収めたでけで、何度セミナーに参加しても成果は生まれません。

行動が変わらなければ、何も変わらないのです。行動を変えたければ、言葉を変えること、習慣を変えること、付きあう人を変えることです。環境を変えることで、心が変わり行動力を養うことができると思います。

一気に変わることは人間には不可能です。徐々に淡々と変わろうと心に刻み込み、小さな行動を積み重ねていくことしかないと思います。自分の強みを探しその強みをどう強化することができるか、その強みによってどのような成果が期待されるのかしっかりと考え、行動に移しかえていきましょう。

自分のブルドーザーをフルに使いこなし、たくさんの動かざる山を動かせる、行動人間になりたいものです。

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ケチ

2011-09-19 08:38:23 | 本 雑誌

ケチを難しい言葉で「吝嗇」といいます。吝嗇と表現すると高尚なイメージに感じますが、大阪ではシブチンという言い方もします。普通はお金にシビアな人のことを指す言葉です。

昨日の日経新聞朝刊の文化面に、「現代人は時間にケチである」と書かれた興味深い記事が掲載されていました。

「インタビューの極意」と評されるエッセイです。「散るぞ悲しき」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家の梯久美子さんが書かれていました。以前に読んだことがあるのですが、新聞に掲載されている著者の写真を見てびっくり。もっと年配の女性だとずっと思っていたのです。

著者がふと目にした光景からインタビューの極意をつかんだと書かれています。それは、対談者と自分をすっぽりと包む繭のようものが構築することだそうです。

私たちビジネスパーソンにとりましても、とても参考になります。お客さまのお話を聴いているようで、実は何かほかのことを考えていたり、今でしたら携帯の着信音にすぐに反応し、会話途中でも平気で電話に出たりしています。

私も経験がありますが、携帯に何の躊躇もなく出られるととても嫌な気分になります。着信者を見て電話に出られると、今話していることよりも、そちらの方が重要なのかと思わされるからです。

あなたに割ける時間は少ないのだと言わんばかりの行為は、時間にケチになったということではないかという筆者の示唆に強く感心させられました。忙しくなる一方の現代人に忘れされた時間の価値を今一度考えさせる秀逸の記事でした。

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読書も量から質への転換が大事

2011-08-17 11:39:28 | 本 雑誌

セカンドライフ。この言葉を聴いて、第二の人生と思い起こされると思います。

今回はそちらではございません。

2007年にブームとなり、これからは仮想社会に新たなビジネスが生まれるともてはやされましたWeb上のコミュニティーサービスです。当時は登録者が1000万人に達していたそうですから、当時の人気と期待はうかがい知れることでしょう。

時がたち、今ではツイッターやフェイスブックがソーシャルメディアの主流をなしています。セカンドライフという言葉じたいが、もう死語と化しています。メディアでもネットでもほとんど活用や活躍の声を聴きません。当時は私もこの仮想社会にビジネスの将来性を感じ、興奮したことがありました。でも今となっては何だったのだろうと思うばかりです。

昨晩、偶然積んどくしている著書の中かあら、「ウェブ仮想社会セカンドライフ」という新書を見つけました。一度も読まずに埋もれていた新書です。購入していたことすら忘怯とされていました。

ちょうど検証するにはいいのではと考えました。書かれている内容が今どうなっているのか読んでみたくなりました。結論は全く陳腐な内容でした。書かれている未来像が全く現実化されていません。日産自動車がいち早くこのセカンドライフに取り組み、自動車の販売増に寄与されていると書かれていますが、今はどうなっているのでしょう。時間がある時にセカンドライフにログインして、調べてみようと思っています。

今回のことで、過去に書かれた本を読み返すことで、その著者の思考の浅さ深さや、時代の流れが如実に分かり、とても参考になるなぁと思いました。逆にいえば、長らく読み継がれている古典に書かれている内容は、普遍的であるといえます。

ドラッカー教授の各著書は、40年以上前に書かていても、全く古さを感じさせられません。むしろ、つい最近書かれたのではと錯覚するぐらい先見性に富んだ内容ばかりです。読書というのはこういう示唆に富んだ普遍的な内容の本をどれだけ読みこなすかが問われるのではないかと感じました。

読書も量を求めてから、質を求めるように転換していくことを目指していきましょ。時間は未曾有にはないのです。

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一文字違いで大違い

2011-08-09 08:40:02 | 本 雑誌

日経新聞は毎朝、最終紙面の私の履歴書から読み始め、一面の春秋をさらっと読みます。曜日別では、日曜日が一番読みごたえがあります。特に読書コーナーの「半歩遅れの読書術」が好きです。月替わりに作家や学者などの著名人がご自身の読書体験をもとに、お薦めの著書などを紹介してくれます。

先月7月は林望氏で、紹介されていた「古今亭しん生」の落語の文庫本をさっそくアマゾンで購入してしまいました。今月は失念しましたが女性作家で、柳田邦男氏の「空白の天気図」を紹介されていました。日々の生活に活力を感じていない時に読み、生きる力がみなぎってきた体験が書かれていました。さっそく、図書館で借りて、読んでいます。

今まで、正しいと思い込んでいたことが全く違っていたという恥ずかしい体験をしたことが何度もあります。今回は、著者に対して起こりました。

「やなぎだくにお」っか。あの民俗学の著者が書いた本か?と思いこみました。「遠野物語」のやなぎだくにおです。いつもお世話になっている図書館で調べますと、あまり蔵書がないのです。おかしいなぁと思いながらも何の疑うこともなく他の本も借りました。

民族学とはほど遠いドキュメンタリーの本も書かれるんだなぁと思い読み進めていて、ふと違和感が沸き起こってきました。ネットでもう一度検索しますと「邦男」と「国男」の違いが分かりました。

一文字違いの作者がいらっしゃるなんて。これは安易な調査からくる思い込みの弊害なのかなぁと思いました。そこで、「遠野物語」を「とおやものがたり」それとも「とおのものがたり」どちらと読むのだろうかという疑問が・・・・。「とおのものがたり」と読むのが正解。今調べました。

まだまだ、勝手に思い込んでいる間違いがあるのではないかと考える、気持ちがざわざわしてきました。一文字違いで全然違うものにいきつきます。ですが、新たな知的好奇心に出あうことができました。感謝です。間違いもプラスの方向に受け取りましょう。

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自分の頭で考えないと始まらない

2011-07-15 10:51:43 | 本 雑誌

読書をしている人を見ていると勉強家だなぁと思います。ショウペンハウエルの「読書について」という名著に、読書の巧拙が書かれています。

「読書は自己の頭によらず、他人の頭をもって思索することである」という言葉がとくに印象に残っています。

最近とくにこの言葉がしみじみと感じてなりません。他人の頭を借りているだけなので、なかなか自分のものとして消化することが難しい。そうなると行動に至るまでにならないのが今の私です。

ビジネス書は本当に同じ記述の焼きまわしのようで、めっきり読まなくなりました。それに変わり古典と呼ばれる著書を中心に読んでいます。

読書を毎日続けてきて感じることは、真さえ押さえれば何冊も読む必要はないということです。同じ本を何度も読み返すことのほうが、しっかりと自身の血となり肉となります。読書をすることは、たくさんの著書を読むことではなく、何度も何度も同じ本を噛みしめて読むことに尽きると思います。

読了数をもとめるのではなく、自分の目的と目標に適った古典書を何度も読み返すことをめざしましょう。読み返すたびに新たな気づきをいただけます。よっぽどこれはという本しか買わないように改めようと思いました。

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