障害者の子どもをもつ親として、昨日朝日新聞に稲川淳二氏の記事が掲載されていました。カミングアウトされたその文章に身をつまされる思がします。
仕事もプライベートも絶頂期だった時に我が子が先天的な障害をもって生まれてきました。その現実に対し妻やもう一人の子どもの将来を考えると、苦労するだろうと思ったそうです。その結果、その我が子にさされたチューブを外せば楽になると思いたち、気がつくと自分の手が延命のチューブのほん先まで延びていたという。
「障害をもって生まれてきた我が子を殺してしまおう」。
正直すぎる稲川氏のその告白に、ただただ私は驚くばかり。自分だったらどうだろうと重ねてみる余裕もなく、呆然とその記事を眺めていました。もし、自分が同じ境遇に遭遇したとしたら、稲川氏と同様な感情が芽生えただろうかと考えました。
いくら考えてもどういう感情が自分の中に生まれるか当事者でない以上はっきりと認識できませんでした。これは考えることではなく、感じることなのではないのかと結局はそう思うことで落ち着きます。稲川氏が抱いた同じような感情に襲われ、自分の手で自分の子を殺めることになっているかもしれません。逆にこれは神が与えた試練として受けとめ、私の人生の課題として前向きに取り組もうという感情になっているかもしれません。
稲川氏のその後の感情の揺れ動きは、最寄りの図書館にでもお立ち寄りいただき、記事を読んでいただきたい。体験経験に勝る人間力の向上はあり得ないという実感をおぼえるばかりです。
私たちは、「こうなったらどうしようとか、あ〜なったら困るなぁ」とか、様々な考えを頭の中に巡らして生きています。そしてできるだけ障害のない人生をおくるにはどうしたらよいだろうと模索し、我先に幸福を得ようと躍起になります。
自分の幸福のためには何も考えない日はございません。何かしら考えて、一日一日を過ごして生きています。悲しいかなリスクを避けて苦労を避けていきるにはと必死に考えても、その答えは見つかりません。ひとつの事実や現実が日々の思考錯誤を一掃させます。
考えることと、現実を感じることは大きく違うものです。いくら考えた所で人生の課題というのは事前の策として対処できないのではないでしょうか?仕事の困難は事前の思考によってある程度は回避できるでしょう。しかし、人間が生きるうえでの困難に対する心構えというのはのは起こってからでないと、どうしようもないのではないでしょうか。
世の中には障害を背負って生きている人がたくさんいらっしゃいます。たまたま私は健常者です。もし、障害者であればと思う時があります。自死という道を選択するだろうか?それとも強く生きようとするだろうか?いくら考えても分からない。考えることではないことを考えるには人生は短すぎます。
「神がお前は精神が弱いので障害を持たせなかった」と思い、障害をもっていないことに感謝するのではなく、障害者であろうが無かろうが、自分に与えられた使命と役割を知覚し、それを全うすることしかないのです。
妻の病名がやっと分かりました。マイクロプラズマ肺炎でした。昨日のお昼に妻から電話がありました。
「入院をお医者さんに勧められた」
「え、どういうこと」
「レントゲン撮ったら肺炎になっていると言われた」
私は一瞬うろたえてしまいました。
毎日顔を合わせて健康だった人間が、急に入院しないといけないという自体に直面して、すべての悩みが吹っ飛びました。
よくよく話を聞きますと、妻の場合は即入院ではございませんでした。経過に依ってはということで、ひとまず胸をなでおろしました。会社に連絡し早退を申し出ました。電話を切って現場から直接帰宅しました。
思った以上に元気そうな妻の顔を見て安心しました。予期せぬことに遭遇すると、「万が一という事態になるのでは」という、飛躍した考えを持ってしまうものです。私も一瞬よからぬことを思いうかべてしまいました。
当たり前のように目の前に存在していたものが当たり前でないという事実を知った時のショックというのは計り知れないものです。それの究極が「死」ではないかと思います。当然のように明日も生きていると毎日私たちは生活していますが、どんな人でもいつかは分かりませんが、この世から去るときが来ます。本人にさえその時が知らされないのです。周囲の人間には到底推測することは難いことでしょう。それだけにショックが大きいと言えるのです。
健康でいられている時にこそ、死というものについて真剣に考え、その時に備えて日々を大切に生きていきましょう。
「それじゃ、2時で現地で待っています」と、私は口早に言いました。
すると、予想だにしない返答です。
「2時か?」「いや、1時半にサッシの件で寄るところがあるから・・・・」。
私は返す言葉を忘れ一瞬沈黙しました。
「2時過ぎぐらいで大丈夫ですか」となるべく穏やかな口調で私はようやく返答します。
「セメントを買いに行ってからやから・・・・・」。
「2時半だったら間違いないかなぁ」と半分あきらめと蔑みの気持ちで私は相手の言葉の上に重ねました。
電話を切り、あまりの陳腐な言い訳と、ビジネスマンとして最低のマナーの喪失に何のおくびも感じさせないもの言いに、仕事を依頼した自分が悪いと言い聞かせます。
この仕事が無事終わることがまずは優先しないといけない。「その後は仕事を一切依頼しなければいいのだ」という気持ちに切り替えることができました。
結局、2時半を過ぎても現場に現れません。もう怒りというものを通り過ぎて憐れみを感じるようになりました。
ビジネスの信用を得るには時間を厳守という常識が守れない人間って本当にダメだなぁと思うと同時に、反対側から見ると、私や依頼した仕事が重要ではないと相手に受け取られているということが見えます。
仕事の内容や相手によって自分の都合を優先し、約束を簡単に反故する人間が周囲にいますし、私も一時そういう行動をしていたときがあります。ですので常識を振りかざし相手ばかりを非難するのではなく、自分の誠意や人間性の悪さによって、相手に非常識な行動を起こさせているかもしれないと反省することも大切です。
2時半を10分ほど遅れて職人さんと2台の車できました。遅れるという電話は、ございませんでした。何の詫びの言葉もございませんでした。時間に遅れるということは、他人の時間を浪費させているという罪の意識はないのでしょう。そして、プライドとコンプレックスの塊の人間というのは、自分の落ち度を素直に詫びることをしないものです。
この経営者はそういう人間だという烙印を押しました。工事が無事終わるためには、ここで辛辣な言葉を浴びせることは避けなくてはいけないと思うことができました。できるだけ、平静を保ち作業内容を聞きました。
その内容も当初と全く違う内容です。見積書に書かれている作業内容と大きくかけ離れている内容を平然と並べたてていました。反論するのも馬鹿らしい。自分の馬鹿さ加減を呪いたくなりました。早くこの簡単な仕事を終えてこの人間とのビジネスとの関係を断ち切りたいとそればかり考えるのでした。
できあがった工事を身に5時過ぎに現場に戻りました。口ほどにきれいな仕事ではなかった。やはりしゃべりすぎる人間というものは信用ならないものだなぁと再認識しました。
小さな約束でもしっかりと守り、どんな人間だとしても同じように尊重する姿勢というものが、仕事をするうえで一番大切な能力だと強く考えるのです。上手なしゃべり、素敵な外面などよりもどんな時でも信用を重んじる真摯さを常に持ち仕事をしていきたいです。
常識にとらわれ過ぎると言うのも、どうかなぁと思う時もあります。その時代時代によって常識が非常識になるものです。しかし、普遍的な常識というものがあります。相手と交わした約束は守るということです。もし何かの突発的な事象で約束が履行できない自体に陥った時は、それが判明した時にすぐに相手に伝えればいいのです。
言い訳やこちらの事情を長々とおしつけがましくしゃべる必要はございません。素直に謝罪すればいい。その後のことは謝罪のあとに検討すればいいのです。言い訳の多い人間や他人をバカにした言葉をよく発する人間。そして自分を持ちあげたがる人間は、ビジネスの常識は通用しないという目で対処することが肝要で、できればお付き合いは止めることです。
反面教師にして自分のビジネスマンとしての真摯さを磨いていきます。
早朝にはめったに電話をかけてこない67歳になる個人経営者の方から、出勤途中に電話をいただきました。
予想通り自分の都合だけを口走ります。おはようのあいさつもままなりません。
「 今日セメントの乾き具合からしていい日なので、お昼から適当な時間に現場に行きたい」との事でした。
「相手さんの都合もあるので、何時頃行けそうか職人さんと打ち合わせして連絡ください」と返答し、そっちの都合ばかりの話を聞きたくないという感情でもって電話を切りました。
いつもそうです。イライラさせられます。ビジネスには相手の都合というものがあります。自分の段取りを優先したもの言いをされると私は極端に虫唾が走る性質なので、余計にこの経営者の言動に憤怒の感情が沸き起こるのです。
「ビジネスのマナーや社会人としての常識がないなぁ」と、毎度私の心情を逆なでしてきます。今回も案の定の結果です。会社についても、段取りの電話がございません。プラン図作成の仕事をしていたので、その事を忘れていました。
お昼過ぎになって携帯に電話が入りました。
「今作業が終わったから今から行ってもいいかなぁ」
「そう急に言われても・・・・2時にしておきましょうよ」。「とりあえず、先方さんに聞いてみるから」と、私は電話をたたき切りました。「ほんまにこのオヤジ、アホとチャうか」という言葉が思わず出ました。
気を取り直し、お客さんに電話しました。間が悪いものです。先方さんは留守で電話に出ません。
「もしかしたら、あの方といっしょかも」と思いある方に電話をかけます。しかし、「一緒ではない」とのことでした。「携帯番号を知らないので、迷惑かもしれないけど伝えてほしい」と言いました。
「お安いご用よ」と言って下さいました。しばらくしてその奇特な方から電話がありました。「電話に出ないわ」。
「そうですか、すいませんでした」
しばらくしてから、会社から携帯に電話がありました。「2時でお待ちしていますとのことです」と事務員さんが伝えてくれます。
お願いした方にお礼の電話を入れました。その後すぐに、独りよがりの経営者の携帯にダイヤルしました。ところが、何とも信じられない返答とその後の対応に私は怒り心頭の状態になるのです。
つづく。
人間は二面性をもって生きています。一面だけで生きている人間はいないでしょう。よく私たちは好きになれない人間を捉まえて、「あいつは二重人格だ」とか、「裏表のある人間だ」と悪口陰口を言います。
私は、自分のことは棚に上げて他人を非難することにかけては人後に落ちない男だとずっと感じているのですが、なかなかその思考癖は治りません。できる範囲での抵抗として、他人の悪口を言わないとか、マイナスな言葉をできるだけ吐かないように注意しています。
少し効果が出てきたかなぁと油断すると知らず知らずのうちに、辛辣な言葉を独り言のように口走っている自分に気づく時があるのです。そうしてストレスを発散しているのでしょう。誰もいない車の中や自室やトイレといった場所なら、誰にも聞かれないですみます。そうして時々、心のゴミを出すことは大事でしょう。
プライベートの顔やオフィシャルの顔、仕事の顔たくさんのペルソナをもつことで、人間は社会生活を続けることができるのです。二重人格者とか多重人格者は、まっとうな人間ではないという意見もありますが、深く自分の行為や情動を推し量りますと私自身もそのような人間ということが簡単に分かります。他人を非難する前に自分はどうなのという質問をしてから言葉を発する癖をつけたいと思います。
他人は他人、自分は自分といういっしゅの冷めた思考も有効ではないでしょうか。他人の事をとやかく気にしすぎるから他人のあらが目についたり、自分との比較でストレスを感じたりするのが避けられるでしょう。
妻が先週の金曜日から寝込んでいます。今月は長男(小5年)がゴールデンウィーク中ずっと風邪で寝込んでおり、レジャーに出かけることができませんでした。今度は妻です。季節の変わり目は風邪の菌に犯されやすい体質なのでしょうか。長男と同じような症状です。咳が出て痰が出るようです。
私と妻は単なる風邪だと思っています。でも、いつもの風邪よりも酷いようなので、かかりつけのお医者さんに診てもらいました。インフルエンザではなかった。抗生物質と咳止めの薬を飲んで、あとはゆっくり静養するしかないと先生に言われたそうです。
妻が寝込むと食事の用意から後片付け。食料品の買い物。それにお風呂の用意と洗濯という家事を家族で分担してこなさなければいけません。
妻がパートで働きに出てからは私は食器洗いやお風呂の掃除を率先して引き受けるようにしています。自分の食べたお皿は自分で洗うということをできるだけ行うようにしていますので、後片付けはお手のものといったところです。
ところが、洗濯とアイロンがけは慣れていないせいもあり、手間暇がかかります。家事が残っているのと買い物に行かないといけないので、昨日は会社を早退しました。夕方3時ごろです。次女が洗濯物を取り込んでくれていて、アイロンがけをするというではないですか。
ちょっと手つきが心もとないのでは思って横目で見ていました。ところがどっこいどこで覚えてきたのか、ハンカチにアイロンをきれいにかけているではないですか。我が子の成長ぶりに感心しました。
普段はちょっとお手伝いをお願いしても、ぶつぶつ言ってやろうとしないのですが、子ども心にお母さんが病気でしんどいからそんなこと言ってられないということを察しているのでしょう。妙に素直に色々と私の言うことを聞いてくれました。
家族間では、何か困った時は自然と素直に協力できるのですが、事他人事となると人間というのは利害感が発生し非協力的になりやすいものです。家族であると他人であるとかお構いなしに、すすんで協力を惜しまない人間というのは本当に素晴らしいです。
困っている人がいれば、手を差し伸べるという慈悲の心を我が子どもたちにはいつも持っていてほしいものです。家族の病気によって家族の関係が改めて意識できる。健康であればなかなかこういう意識になれないものです。病気というのは本人には辛いものですが、ひとつ高いところが考えれば、病気もまた感謝ということです。
健康で生きることにこしたことはない。しかし、病気という負の出来事もあることで健康が引き立つというものです。それと予期せぬ家族の成長に気づく喜びも与えてくれます。天文の世界から見ると人間の営みなど些細なものです。今朝の金環月食からすれば、私たちが生きる時空というのは芥子粒ほどのものにすぎないことが分かります。
プライドに拘り、他人に意地悪をしたり、困っている姿を見ても助けてあげようとしない人間を見ていると、何とも情けなくつまらないものだろうかと思うのでした。
気易い仲間との対話はよく注意しておかないといけないなぁと思うことがありました。何気なく話している会話はその場では何の気なしに交わされています。しかし、よくよくあとになって内容を振り返ると、辛辣な物言いであったり陰口や悪口のオンパレードだったということに気がつくことがあるのです。
そして同調している自分のあわれさに愕然とします。昨晩のことです。ある67歳になる経営者の過去の言動や会話が思い浮かんできました。自分は外面的にも内面的にも素晴らしい人間だということを誇示したい心理のあらわれだと思います。仲間とおもわしき人間に対しても、身体的に劣った部分(禿げ頭)のことを笑い話のネタにしたり、あいつはいやしい性格だ!と罵った汚い言葉を何の躊躇もなく淀みなく口から次から次とそれも繰り返し吐き出してきます。
その内容に何の違和感を抱いていなかった時期が私にはあります。何とも情けないことなのだろうと反省すると同時に、その事に気づくことができたことに少し安堵する気持ちが沸き起こってきます。
私と会うたびに他人の悪口やネガティブな言葉を発する人間というのは、他所でも同じようなことをしているものです。ということは私のいないところで、私の外面内面の両方の悪口を吹聴しているのでしょう。他人の悪口を一緒になってしゃべっているとその時は楽しいのでついついこちらも悪口をおしみなく発してしまいます。こうなると人格も何もあったものではございません。
しまいには、あいつ、おまえのことこう言っていたぞと告げ口されることになるでしょう。これらのことから考えなくてはいけないことは、決して嫌いな人間のことでも悪口を他人に言わないことです。何より大切なことは、平気で他人の容姿を笑い話にしたり、辛辣な悪口を言う人間とはお付き合いしないことです。
人間鑑定の一番の要は他人をどう評価しどう表現する人間なのかという点に絞って観察すれば大抵が分かると私は感じました。すべてがすべてではないですが、80%〜90%あたっていると私の拙い経験からも言えます。
なかなか悪口というのはお互い話していると楽しいもので仲間意識を強めたりするものです。しかし、悪口や他人をバカにしたもの言いは、ただの毒舌、毒薬だとということを忘れずにおきましょう。
葵祭の行列の先頭が見えてきました。こうと府警の騎馬隊なのだろうか?
様々な衣装をきたエキストラさんが次から次と目の前を闊歩していきます。
およそ30分から40分ぐらいかかったでしょうか。ようやく最後尾が通り過ぎました。
気がつけば辺りは御所から並行して歩いてきた見学者などがなだれ込み、私の前は人だかりの山となっていました。

見学のあとは真っ先にこちらの老舗コーヒー店に行こうと思っていたのですが以前から立ち寄ってみたかった吉田神社が近くにあることを思い出します。ちょうどお昼だったのですが、お昼ご飯を食べずに、家から持ってきたクッキーを頬張りながら京大正門の時計台を左に見ながら、小高い山に鎮座する吉田神社にお参りしました。
本宮で手を合わせますと、さっと爽やかなそよ風が吹きました。なんとも言葉では言い表せない爽快で軽い心持ちになったのです。「あぁ、来てよかったなぁ」と、葵祭の感動が、期待外れだったことを忘れさせてくれました。
吉田神社から真如堂へは小路がつながっています。


新緑が映え、とてもゆったりとした時間が感じられました。桜や紅葉の観光シーズンではない京都ならではの贅沢なひと時です。今いる時空を独り占めしているように思うと何とも言えない満足感が生まれます。
地元では黒谷さんと親しまれている、金戒光明寺から平安神宮の大きな鳥居が見えました。私にとりまして京都の東山地区というのは、何とも言い難いこころの落ち着きと、静けさを感じさせてくれるスポットです。
黒谷さんを足早に立ち去り、西南に向かって下っていきますと岡崎公園がありその横に平安神宮があります。観光客の話言葉が聞こえてきました。中国語です。白人さんもちらほら見受けられましたが、一時のようにはいらっしゃらず、やはり中国パワーでしょうかアジア系の観光客が富に最近は目立っています。
出町柳を出ておよそ2時間近くあるいていることになります。時計を見ますと3時近くでした。京阪三条の繁華街をとおり、最終目的地のイノダコーヒー本店に無事辿り着きました。
高級老舗喫茶店で有名で、池波正太郎氏のこちらのエッセイに何度も登場します。
店内は満席でした。
時間も時間でしたので、池波氏ご推薦の本店メニューのビーフカツサンド(1730円)をテイクアウトしました。 子どもたちに食べさせてあげたかったのです。
ひとつ私もいただきました。価格>価値と残念です。次の機会には、モーニングセットをお店の中でゆっくりと妻といただきたい。
自宅に着いたのが4時ごろでした。天気も最高で少し顔がひりひりしていました。子どもたちはもう学校から帰っていてピアノに習字と、習い事に出かけていました。
子どもたちの喜ぶ顔がはやく見たかった。ふたばの豆もちとイノダコーヒー本店のビーフカツサンド。京都が誇る老舗人気店の和洋を楽しめるのは幸福です。
思いがけないチャンスのことを、僥倖といいます。
5月15日に毎年開催される京都の葵祭が雨のために順延になりました。15年ぶりだそうです。以前から見学したいと思っていたのですが、なかなか仕事の休みとあいませんでした。来年はちょうど休みの日にあたると考え、今年に行くことは諦めていました。ところが冒頭の理由で延期となり、次の16日はちょうど休日でした。予定を急きょ変更して、左京区の出町柳に行くことにしたのです。
当日は申し分のない天候で、汗ばむ陽気でした。はじめは下賀茂神社で見学しようと決めていたのです。京阪出町柳駅に10時30分ごろ到着。下賀茂神社に行列が来るのが11時30分ごろの予定と駅でいただいた葵祭のスケジュールに書かれています。
1時間近くあるので、妻が大好きな「ふたばの豆もち」を混雑する前に買っておこうと思い向かいました。長蛇の列というほどではないのでしたが既に数十人のお客さんが店先に並んでいます。それほど待つことなくお目当ての豆もち一個170円を5個買いました。
待つ間の腹ごしらえもふくめて田舎大福(よもぎ餅)をひとつ別でお願いしました。あっという間になくなりました。どこから見物しようかと思案していると、ある一組のご夫婦が沿道を警備している京都府警のお巡りさんに質問しています。
「どのあたりが良く見えますか」
「そうですね、この辺りは道が狭くなっているので、もう少し離れたあちらの方がよく見えるのではないかなぁ」と警官は少し困った表情をしながら親切に受け答えしていました。
「なるほど、これはいいことが聞けた」。警官が示めした方に向かいました。この辺りで良いかなぁと思い立ちどまったところに、地元の商店街の人らしいおじさんがいらっしゃいました。
「このあたりですと、よく見えますか?」と聞いたのです。
「こっち側より向こう側の方がよく見えるよ」「こっちは車が走るから見えにくよ」と親切に教えてくださいました。おじさんは何度も何度も見ているのでしょう。わざわざ向こう側に行くようすはございません。
「ありがとうございます」とお礼を言って向こう側に渡りました。まだ予定時間までには30分以上あります。見学人はぱらぱらでした。横断歩道をわったところに少しくぼんだスペースがあるのを見つけました。
上はアーケードになっています。日陰で直射日光を浴びて行列を待つことは避けられる。同じ考えの男性が一人に横に立ちました。大きなカメラを首にぶら下げています。
沿道を警備する警官が、「そろそろ行列がこの前を通過します」と言いました。私の前は人がだんだんと増えてきます。「これでは見えにくいかもなぁ」と思っていると経っている後ろに太めの鉄製のガードが施してあるのが分かりました。「よし、行列がきたらこの上に乗ればばっちり見えるなぁ」と、密かにほくそ笑みました。
つづく
やらないといけない。やりたくないけど仕方ない。このような感情で行動したり、仕事している方はたくさんいると思われます。私もその一人。ただ、初めはそういう感情で始めたことが、いつの間にか好きになっているということもあります。
例えば私の場合ですと、ウォーキングです。「ちょっと体がだるいなぁ、今日は行かないでおこうか」と思う時が1ヶ月に数日あります。でも、体か脳かどちらが作用しているのかは分かりませんが、自然と服を着替えてウォーキングに出かける体制になっているのです。行動に安定感が定着しているという感じでしょうか。
何事も始めた時は強要や強制という力で行動しています。ですので不安定です。強要の向こう側には抑制という感情の力が蓄積されていきます。この抑制が解放に変わると楽しみとなり自然と行動に移せるようになります。そこには悪性のストレスは存在しなくなる。
しかし、抑制力がますます増えばかりですと、地下マグマのごとく見えない心の内側で沸き立ってきます。火山の噴火にみるように貯められた行き場のない抑制のエネルギーは爆発を起こします。人間でいうならば、衝動的で理解に苦しむ行動を起こすことになるのです。
抑制の力があるうちは不安定な状態が続くということです。今自分が不安定な精神状態だなぁと感じているならば、何かに抑制されていないか内面をチェックしてみてはどうでしょう。無理に抑制力によって仕事に従事していては、いつ均衡を保っていた精神が崩れます。
いつ起こるか分からない自然災害と同じです。自身の精神の爆発に意識を向けて暴発暴走の防止を施しておきましょう。過度の使命感や、「ねばならない感」を定期的に検証し、心の解放を時には行うことが大切だと強く考えられるのではないでしょうか。
同じ1時間でも感じる長さが大きく違うことがあります。あっという間に過ぎる1時間がある一方で、まだ30分しかたっていない。その感覚の違いはどこから生じるのでしょう。
好きか嫌いかという観点がまず挙げられます。好きな仕事をしている時や好きな人、価値観の合う人と話している時は、すぐに1時間が過ぎる。それどころか、まだまだ話したい欲望にかられその場から離れたくないという感情に占有されます。
ところが、気乗りしない仕事や、なんだか陳腐な話題だなぁとか、つまらない人間と一緒にいる時というのは、極端にいえば1分が10分、30分が1時間経ったように時間の流れが極端に渋滞します。時間というのは好き嫌いで長短が変化するものではございません。どんな時でもどんな立場であろうが、1時間は1時間で等しい。
このことからすぐに時間が過ぎるという状態にもっていくか、そういう時間をもたらしてくれる人とお付き合いするように心掛けたいところです。ただ自分勝手に選択したり、振る舞うことはできまないのが辛いところです。
私は、時間の経過が長く感じた時にその理由を捜すようにしています。どうして、時間が過ぎるのが遅く感じたのだろうと考えるのです。例えば、自分の興味の起こらない話題だったのかとか、理解できていな話題だったのか。また、こちらの意見をすべて却下されたり、一方的に話をされ、同じ時間を共有するのが苦痛に感じたからなのか等です。
自分がどういう時に時間の経過を長く感じるのかを記録しておくと、あとで、そのことは改善するべきものであると分かったならば、すぐに取り組むようにしないといけません。逆にこれは自分の価値観との相違で発生したものだから、これは次回には避けるようにしようとすればいいのです。生理的に受け付けない事柄もあるでしょう。無理にすべてを改善することは生産性やパフォーマンスを下げることになる恐れがあります。
成果をあげるために時間を短く感じるタスクを増やすことに取り組んでみたら仕事や対人関係に楽しみが見いだせるかもしれません。今は、価値を見いだせない作業や人間との会話はできるだけ避けたいものですが、自分の成長によってそれが180度変わり、時間がすぐ経つようになるかもしれない可能性がありますので、頭から切り捨てることはせずノートかメモに記録しておき、機会を見て時間感覚の変化があるかフィードバックすることを実行したいものです。
たいていの人間が、他人が自分のことをどう考えているのかということを常に気にして生きています。組織で働いていると四六時中ずっとその事で頭の中が一杯で、目の前の仕事が手につかないこともあるでしょう。本当は他人よりも、自分が何を考え今日一日を生きるのかが大切なのですが、なかなかそういう方向に思考は向いてくれないものです。
その原因は、幸福というものを相対的に考えるからです。絶対的な主観でもって幸福というものを考え感じられる人間というのは、いくら貧乏でも幸せ者なのでしょう。人間社会に生きるいじょう仕方ないと言えなくもない。では隠遁生活に入れば幸福者になれるのでしょうか?
隠遁者になること自体今の社会では難しいですが、仮にできたとしてもそうは簡単に解決できないだろう。主観的幸福観というものは、精神的な内なるものを追い求める過程において育つと思うのです。自分の人生に何を残すのかという使命感というものがふつふつとわき起こらない限り、どんな環境に身をおいても幸福という泉の水を飲むことはできない。
受動的姿勢による考えから自動的態度でもって人生を形成しうる気概が芽生えることがまずは先だろう。他人が何と言おうがどう思おうが、自分がやりたいことや人生において後世に残しておきたいことに、体と頭を使うことができた時に真の幸福感をもつことができるのだと思うのでした。
実力を発揮して成果をあげようと焦る気持ちをどうすれば抑えることができるのだろう?
諺にあります。
「強いてはことをしそんじる」。
正解は、「急いてはことをしそんじる」です。焦ることで無理にことを進めようと強要したりするから、前者の漢字もあながち間違いではない。
しかし正しい言葉は後者です。
この意味から察しますと、「急ぐ」ということはものごとを成就するには弊害となるということでしょう。この言葉がつくられた時代と今とは違います。ゆっくりと泰然と構えていられるほど、現代の時間の流れはゆっくりとは過ぎてくれません。
それに人生とは案外と短いものです。たとえば明日、私たちはこの世から去らなければいけない事態に陥るかもしれないのですから。
仕事をしていていつも頭の片隅から離れないものがあります。それは成果を早く出したい、組織の上司に認められたいという感情です。そして早く成果がほしいがために、ルールを逸脱してしまうことがあったりします。加えて利益を最大化することに拘泥し、他人に迷惑をかけることを犯してしまいます。
このように成果を求めて思考が急ぐと、よからぬことが起こる確率は高くなります。ではどうすれば現代において、急いでも事を仕損じることなく成果をあげることができるのでしょう。
私が考える唯一の方法は、工夫を続けるということにつきます。例えばもっと生産性が上がる方法はないのかとか、習慣を見直してやらないことを見つけることです。そして大切なものに時間を振り向ける割合を増やすことに意識を集中すること。
決してやってはいけないのは、結果が出ないからといって諦めることです。自分には能力がないとか、自分を責めすぎないことです。
どこかで悪しきサイクルを断ち切るんだということを常に考えると同時に、今は自分の時代ではないという考えも持つことで精神に余裕が生まれます。世の中や自分に対して諦めの感情を沸き起こし行動しないというのではないのです。
自分の実力が発揮する機会の到来に向けて実力を蓄えるように日々努力を重ねることが大切なのです。今は自分に力をつける時だとじっと構えて焦らず急ぐ気持ちで、修練しておきましょう。そして活躍の時が来た時にすっとその勢いにのれるように準備することです。
知りながら他人に害を与える場面に遭遇した時、どう行動するだろうか。その事実を告げることで、自分の利益あるいは報酬がゼロになるのです。このジレンマは毎日私たちの目の前で起こっています。
その葛藤を認識し、良心の呵責を感じるか、そんな感情など全く感じることなく毎日の歯磨きのように私利に走るかの違いは、どこから生まれるというのでしょう。
普段の心がけに尽きると私は思っていますが、事はそう単純ではないでしょう。労働の対価といいますかパンをいただかなければ生活できないという現実が目の前に垂れさがっています。非常に難しい問題です。私のような俗人的な人間では、はっきり言ってお手上げの難題です。
おそらくすっきり解決できない永遠の課題でしょう。ひとつだけ考えられるのは、自分の置かれている状況によって、こちらがとる態度が変わるのではないかということです。
ある程度の経済的自由がある状況であれば、他人に害を為すことは慎むだろう。しかし、経済的に貧窮し今日のパンを食するのにも危うい状況となると、おそらく何の躊躇も起こらないでしょう。真に愛に満ち溢れた賢人聖人は、自分の置かれている苦しい立場に関係なく、あくまで他人のために相手にとっての最高の利を提供するのでしょう。
しかし、悲しいかなそのような人間に今だであったことがございません。この世の中に神のような人間は存在するのだろうか?人間について考えれば考えるほど、性悪説に偏って行く私は邪悪な人間ということなのかなぁ。
思想や哲学というものを突き詰めて考えるのは、私のような俗人には危険な毒薬なのかもしれません。
「心のよくする所に従えども矩をこえず」
孔子が残した有名な言葉です。その時、孔子は70歳でした。当時において、70歳まで生きられるということは珍しかったことだろう。「それだけ人生を長く生きてくれば、自分の思うがままに行動しても正道を外さない徳や倫理観をたずさえているだろう」ということで解釈できます。
ただ、のべつまくなしに70歳まで生きたからと言って、この心境には達しない。それは周囲の70歳を目前にした方を見ていてつくづく感じるのです。携帯電話の使用料支払い要請の通知書が来ている経済情況なのに、マカオにギャンブル旅行を企てている。来月その計画は実行されるようです。
現代の70歳と言うのは孔子が活躍していた時代でいいますと40歳ぐらいなのだろうかと思わされます。あまりの人間力の貧弱さには唖然とさせられる。「今まで、何を人生の目標として生きてこられたのか」と、聞きたい。だけど、「そんなものない」という答えしか返ってこないでしょう。あまりにもその返答が手にとるように見えるのです。あえて聞くだけ無駄だと思う。
聞かずともある程度の答えは次のようだろう。「おまんまを食べるためや」、「好きなことをするためや」「美味しい酒を飲むためや」。あとはご想像どおりの、快楽的なものをあげるのは必定です。
ところで、どうして私の周囲にいる70歳前後の方で人生を真剣に考え欲望に抗いながら生きてきたという方が少ないのだろう。今度は自分の方に目を向けてしまいました。自分がそういう人間であるから周囲にもそういう人間が集まってくるのだろうか?類友の法則が強く機能しているからなのだろうか。
孔子の有名な言葉がもう一つあります。こちらの方がメジャーです。「四十にして惑わず」です。人のことばかり言っている私ですが、人生に迷いっぱなしです。軸がまだできていません。あと数年で、50歳です。もし、70歳になった時にこのブログを読み返すことができたなら、どう感じるだろう。何とも愚かなことを書き散らかしていたのかと、一人赤面しているのかもしれない。いや、案外孔子の域に達していることも考えられる。
今を正しく生きるには、未来の自分の人生観の達成を意識して行動することで得ることができるのではないかと気づきました。










