青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。

地方議会における「質疑」と「質問」の違い

2013-10-31 | 議会改革
 長く議員をやっていると質疑と質問との違いをよく勘違いして覚えている議員がいます。

 室戸市議会においても、それが常態化し、議長をしている議員でも初当選して以来、まったく議員の職務に関して勉強をしてこなかったことから、議会がそれでいつも混乱していた。議長の不勉強によって、本当に毎議会混乱していたと言ってもよい。


 曰く、地方議員は大綱質疑における「質疑」と一般質問の「質問」との違いが全く解っていない。

 因って、今日はこの「質疑」と「一般質問」の違いをここで短く示しておきたい。議員は勉強しない人が多いが、ネットを検索して勉強を深めている議員のあなたは真面目な議員であることは間違いありません。「勉強をしなくても毎月、通帳に報酬は振り込まれてくる」と言って開き直る木偶の坊議員は放っておいて、今日は是非このことについて学び、議員活動が実のあるものとなるよう、祈っています。


 市議会議長になった議員誰もがこの違いにルーズで、それなのに自分の誤ったその知識と判断を議員に押し付けることが続いたので私は、議員になって6年目の2009年に「一般質問」と「質疑」について、全国市議会議長会や全国町村議会議長会が編纂し発行している書籍(『地方議会議員ハンドブック』、『議員必携』)、また『市民派議員になるための本』で確認した。

 それらを総合して私がまとめたのが次の、2010年にこの一般質問と議案質疑について書いた記事。参考にして頂きたい。


●一般質問と質疑の違い

 (1)一般質問…一般質問は大半の議会が「事前通告義務」を規定し、申し合わせにより、「発言回数の制限」や「時間制限」を行っています。室戸市議会の発言回数は2回で、質問時間は執行部の答弁時間を除き50分と決められています。

 勿論、事前通告制。まず、質問原稿は事前に、執行部側に「こんな質問をします」と届けます。これも議員の専門書などでは「出来レースみたいなものだ」の批判もありますが、質問原稿の中身をすべて出すことはないが、質問の骨子・要点を事前に執行部に明らかにいないまま、議場で議員が突然にその場で思いついた質問を次々と行えば議場は大混乱し、議事は小休に入りストップしてしまいます。だから、一日につき議員4名ぐらいの質問を予定していても、一番目のその議員で議場が混乱すればその日の議事は終わってしまう事態も想定されます。

 それに、時間が押せば、焦った執行部は議員が望む答弁はおろか、5分、10分のやっつけ仕事で書いた答弁書で答弁を終わらせることもありえることから、結局は事前通告制にしておかなくては議員の側が損だということになる。よって、少なくても質問の問いの要点だけは執行部に提出が義務付けられています。

 又、この一般質問についてよく聞くのは、「原稿なしでやるのが議員だ」的な話。地方議会を見聞して書いた本にはこんな批判があった。

 ≪議会の質問や質疑、討論は事前に原稿を準備し、棒読みをしていることが多い。ほとんどの議員が原稿の棒読みである。それも立て板に水のごとくに読めば聞きやすいが、そうでないときは、「もっとうまく読め」と思う。本人は話し言葉で書いたつもりでも、その中にはどうしても文章体が入ってしまうので、聞いていて変だ。

 議会は言論の府。本議会での発言は議員や執行部や傍聴人に対して聞かせる内容でなければならない。棒読みには親しみがない。言論の府と強調するなら、議員は下手であっても自らの言葉で述べる必要がある。

 本会議での質問を演説と勘違いしているので、原稿を棒読みするのであろう。ある地方議会で原稿を用意せずメモだけで、とうとうと質問した議員がいた。本会議での審議を形式化させないために議員全員がこのような生きた発言をしてほしいものだ。≫


 上の三つの文のうち、前の二つはそうだと思いましたが、最後の一節には誤りがあると思いました。

 それは、原稿も持たずに質問をすればかっこいいでしょう。ですが、その“生きた発言”をした議員が何分の質問を行ったかは書いてないのでわかりません。5分ぐらいなら別ですが、そのように原稿なしで取りとめもなく私と同じように50分間、質問を行ったとすれば議会が混乱するだけだ。それよりも、質問した議員も議席に戻った後、自分が執行部に何を質問したのかを皆目、覚えていないのは間違いなかろう。そんなやりっぱなしで、自分が何を発言したかも覚えていないような質問なら、やってのことはない。

 かつての私を例にとると、一回目の質問で行う問いは、少なくて30問ぐらい、議会によれば多い時で約50問ぐらいにはなる。質問するその50問を全て理論構成した上で、質問の骨子を忘れることなく、50問を問いかけ、その問いのすべてを覚えている人物はいない。聖徳太子でも無理。それを試みた議員もいたが、聞いていて議員が何を問いたいのか、何を伝えたいのか皆目分からず、執行部も議員も困り果てたことがある。多分、自分が問うた話の内容は覚えていない。

 だから、数分で終わる質疑もそうだが、特に一般質問は必ず原稿を事前に準備し、棒読みにならないように出来るだけ話し言葉で行うこと。それが一番適切と言えます。カッコをつけて原稿なしでやるべきものではない。

 その方が執行部も議員も困りません。反省すべきは、私も制限時間いっぱいに原稿を作っているため、時に急いで棒読みになることで、この点はいつも「話し言葉で」と心している。

 それと、一般質問とは、「所信を問い質(ただ)す」ことにより、執行部の政治姿勢を明らかにし、その政治責任を明確にさせ、結果として現行の政策を変更・是正させ、新規政策を採用(事業化)させる目的と効果がある。

 この、「政治姿勢を明らか」にし「政治責任を明確」にさせることが、「現行政策を変更・是正」させ、「新規政策を採用」させるためのものが一般質問だと、よく認識しておかなくてはなりません。又、ここまで突き詰めて質問戦を戦わなければ、いったい何のために質問しているのかわからないともいえる。

 質問に立ち、10分ぐらい質問して議席に戻り、「あー、言うだけのことは言った」と質問に立った議員全員が喜んでいては、いつまでたっても行政組織は改革・改善されない。

 議員は市長と執行部に対し「物申す」ために市民に選ばれ、議場に来ている。その「物申す」姿勢や精神がなくて行政側に寄り添い離れずに密着するのなら、議事機関と執行機関の二元的な仕組みは無用であり、有害としか言えない。

 その程度の人間ばかりが集まった組織なら、議会はいらないし、議員もいらない。

 役立たずの議会を無くせば、例えば室戸市が一年間に使っている議会費の1億円は県市民税削減に使うことができ、その方が市民生活も少しは好転する。


 議会は市長等執行機関を公正に眺め、厳正に批判し、行財政上の重要なことについて適正で公平・公正な結論を見出して、これを決定するのが議会、議事機関。市長等執行機関側が違法や不公正や不公平、不適正な事業・業務運営を改めなければ、改めるまで徹底追及するのが議会議員というものだ。

 それが、地方議員に課せられた使命であることを各議員は自覚していなければならない。

 因みに私は、自慢ではないが市長や課長に嫌われようとも市民から負託を受けた立場として職責を果たすべく行政組織に対峙し、言うべきことを言い、為すべきことを為し、議員職にあった8年間ずっとそう努めてきた。


 (2)議案質疑・・・「質疑」とは、議会の議案審議の中で発言するもので、「疑義を質す」もの。つまり、疑問に思ったことを問うこと。但し、これは原則として「自己の意見を入れない」とされている。

 ただ、これはベテラン議員がよく間違うことだが、「私ならこうする」とか、「これはこうしてはどうか」などと事業などを“動かそう(変更させよう)”という意思を以って発言してはいけないということです。この「自分の意見」とは討論の段階で述べるような賛成、反対の意見をいい、自己の見解を述べないと質疑の意味を成さないもの、根拠や過去の事業経過・データを基に執行部を追及することまで禁止しているものではない。この点はよく知っておかなくてはなりません。

●一般質問と質疑で一番大事なこと

 議会が開かれて、一般質問が行われ、議案を審議する大綱質疑では質疑を行います。次に書くことは、私が議員になる半年前に買ってきた議員の教本を見て知り、「へー、そういうことか」と驚いたことです。他の議員諸氏には教えたくないが、毎日検索して当電子情報誌をみていただいている議員の方々には特別にお教えします。

 実は、「質問」と「質疑」は「知らないことを聞いてはいけない」のが基本です。これは、「議会が開会し、発言で登壇する前日までに自分が問いかける案件について調べ、大まかな状況がわかった上で聞くこと」という意味です。 だから、「全く何も知らないまま聞くと、失笑を買う事になる」との教え(議員の参考書の)と覚えておいてください。

 議会においての質問・質疑は、一般社会の会議、例えば商工団体の会議での質問・質疑や、いろんな団体、例えば農協や漁協、観光協会の会員が集まっての会議で行う質問・質疑とは全く異なります。議会の質問や質疑は、議員がわからないことを尋ねる場ではないということです。

 ではどうしたらよいのか。

 それは、質問・質疑のどちらも、あらかじめ知らないことや理解できない案件(事業・業務・問題)を担当課に聞きに行ったり、そこでデータを収集したり、先進自治体が同じ事業や問題点についてどのように対処・対応しているのかをインターネットで調べ、十分に調査しておき、それらを基に理論構成をし、それに自分の主張・意見を加え、執行部を問い質し、追及し、議論する。それが議会における質問であり、質疑である。

 それと、これは知る人ぞ知るだが、議会の中の調査活動に熱心な議員なら、ある事業においては執行部より豊富なデータや手法を持っているともいえます。その時、執行部の答弁よりも議員の質問の方が密な内容になっていて、市長や課長の調査不足と能力不足がその時にあからさまになってしまう、そんな場合もある。

 この「知っていることを聞く」の基本についても知らない地方議員が多いようです。本会議で登壇し、執行部に予算額などの数字を聞き、答弁を受けると納得している喜んでいる姿を見るとそれがわかる。そんなことから、執行部にも他の議員にもその議員の日頃の不勉強がわかってしまうし、自分の値打ちを自分で落としているともいえよう。(自分ではそれに気付いていないが)

 だから、質問原稿を作るのは議会と議会の間の2カ月あるからだれもができることですし、質疑は告示日(議会開会の一週間前)に渡された議案書や資料を基に質疑原稿を作ろうと思えば、大綱質疑の日まで13日と限られているので少し急がなくてはならないが、議長を除く全員が質疑原稿を事前に作っておく時間はたくさんある。あとは、議員各自がやろうとする意欲があるかないかだけだ。「忙しかった」は、毎月報酬をもらっている議員として、理由にならない。

●「要望」は、議会外で担当課に書面で提出するもの

 それと一般質問において、そのまち全体を展望しての提案は別ですが、中には一般質問の場で要望をしておいて、「答弁は要りませんので、よろしくお願いします」と降壇している人がいる。だが、これは見ていてみっともないからおやめなさい。

 議会の一般質問で要望するのは余程のことがないとしてはいけない。しては恥ずかしいものです。だが、そんな議員は、議員になった時から誰もそのことを教えてあげないし教えを乞おうともしないから、何期になっても議場で要望を繰り返している。

 「要望」とは、議会外で担当課に要望書としてまとめた上で、担当課長に提出するもの。その要望書には、住民からの要請が当然あっての要望だろうから、その住民の名を連名で書くか常会からの要請なら常会長名を書き、賛同議員として自分の名を書き添え、要請文をまとめた上で提出するのが正式の「要望」です。

 それと、なぜ口頭の要望ではいけないのかですが、それは担当課長が要望を受けたことを忘れてしまうから。だから、要望は書面で提出する必要があるし、そうした方が要望を行った側のためにもなる。

 
 最後に、議員のバイブルともいえる本、『議員必携』に、政治家の要素としてこんな文が書いてあるのを紹介して今日は終わりとしたい。

 ≪政治家に強く要求されるのが、「勇気」と「奮起」である。

 かつて、ある有名な外交官がアメリカの故ケネディ大統領に、直接会って、「政治家として一番大事なことは何か」と質問したところ、即座に「それは勇気である」と答えたという。勇気なくしては、思い切って発言し、行政や住民に訴えて説得し指導することができないというのである。

 又、その外交官がイギリスの故チャーチル首相に同じ質問をしたところ、、「それは奮起である」と答えたという議員自らが奮起して発言し、行政当局と住民に訴えてこれを奮起させてこそ、行政の進展も地域の振興発展も実現し、真の指導性の発揮ができるというものである。≫


 私も議員になった時からそう思い、勇気を以って、積極的に毎議会一般質問に登壇し、毎議会質疑原稿を構えておいて議案審議にも登壇し、懸命に議員活動をしてきた。その他にも、『青空新聞』を毎年3回か4回発行し、又、日々の議会の動きや個人的な議員活動については、このブログの記事で二日に一回はお知らせやご報告をさせていただいた。とにかく、議員の職にある間は自分の出来る限りの力を出して市民の皆さんのために働きたいと思って働いた。

 長くなりましたが、以上です。参考になりましたでしょうか。

 大事なことは、政治とは、室戸市長や市議会議員のように「市民には解らないだろう」と思って策を巡らし、ルールを無視してなし崩しに行うものではないということです。

 何事も、法律や規則や公正で道徳心に基づいて物事を行うべきもの。

 ひと言で言うと、「してはダメなことはしては駄目」。

 このことをよく勉強した上で理解し守っていれば、大半のことは健全に行われる。

 さすれば、「質疑」と「質問」の違いも自ずから理解できるのではないでしょうか。

 しかし、これほど議会のあるべき姿、地方議員のあるべき姿を認識し、職務内容を熟知し、それに従って忠実に実行していたこの私を室戸市の有権者たちは「市長の不正を追及するからあいつを落とせ」と落選運動を市内全域に広め、悪意と無関心を以って落としました。

 北川村のある議員は選挙後、いみじくも私にこう言いました。

 「議会で一番仕事をしてきたおまんを落とすとは、室戸の人もほんまに変わっちょうな」。

 私は「うん、私もそう思う。市政の不正を監視して取り締まる議員がいなければ議会の損失になることも知らずに。これからは小松市長も議会対策が楽になることは間違いないわ。議案に地方自治法違反や条例違反があってもそれも解らず議員は賛成して通してしまうんやきんの」。

 そうと答えたものです。 


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「為すべき手立て」を講じなければ政治も絵馬も老い朽ちる

2013-10-30 | 人間のあり方
 昨日の絵馬修復の記事を書いていて、次のようなことを考えました。


 江戸期の価値ある絵馬を修復もせずに放置してきたがために絵馬の絵が消えてしまった場合、その神社や寺の責任者たる人たちはみんな、責任が問われるべきです。

 なぜならば、価値あるものが失われると認識しておりながら何十年間も何の手だてもせず放置してきたからだ。

 これが如何に不適正なことかお分かり頂けるよう、例え話をしよう。 

 室戸市の政治において、小松市長は地方自治法に違反していると解っておりながら違法な事業を計画し、その事業が地方自治法違反の事業であるとよく認識しながらに高知県企画振興部長と副部長、市町村振興課職員らは不正な事業と解っておりながら1444万円の県費(補助金50%、貸付金50%)を支出し、室戸市議会においてもそれが違法な事業と知っておりながら私を除いた他の議員は議案に賛成、事業化を許してしまったのです。

 本来政治に関わる者たちが守るべき基本は、次のようなこと。

 ①首長は、日本国憲法や地方自治法、自治体の条例等を守り事業を計画し、その公正な事業案を議会に提出すること。それが首長職に課せられた任務の一つ。

 ②行政職員は、日本国憲法や地方自治法、自治体の条例等、さらに地方公務員法を守り事業を計画し、その公正な事業案を議会に提出すること。それが地方公務員職に課せられた任務の一つ。

 ③地方議員は、もし市長や市職員ら執行機関から違法な議案が提出されたことを議員が解ったら、表決においてその議案に議員全員が反対し否決、首長にはその違法を改めさせること。それが議員職に課せられた任務の一つ。

 ④又、高知県庁も県内市町村から違法事業への補助金要請があっても拒否し、その事業が適法な事業となるよう指導し改めさせ、その上で補助金などの支援を行うこと。それが地方公務員職である県職員に課せられた任務の一つである。


 
 本来はこんな職責を守り住民から頂いている給与・報酬に値する仕事をするなんてことは毎日、真面目にそして忠実にその職務責任に基づいて忠実に仕事をしていたら簡単なことなんだが、政治に関わっている自分たちのことを「おれは偉いんだ」と慢心しているのか、「法律が何だってんだ!」と思っているのか、これらのことが無視され蔑にされて行政が運営されている。

 平成15年5月から平成18年11月までの武井前市長時代と平成18年12月から平成23年4月までの小松現市長時代の8年間、私は市政運営と議会運営を真近でつぶさに見てきて違法な事業運営があり“見て見ぬふり”などせず追求してきた。正義感が強くコンプライアンス精神に富んだ不正を許さない私は一人、議会においてその地方自治法や条例違反追及の手をゆるめなかった。

 だが、他の議員たちはその不正に目をつむり表決においても知らぬ存ぜぬでやり飛ばしたし、小松市長は最後まで地方自治法違反と指定管理者条例違反という自分の非を認めず逃げ続けたのである。

 そんな状況の中、違法な政治を進める上において邪魔になる私は、それら悪人たちの手による「落選運動」によって落選の憂き目に遭い、議会から追放された。

 これらのことは全て、23年4月の市議選の翌日に告発を受けて知りすぐにこの電子情報誌を使って室戸市の有権者と世界中の人々に情報公開したので、すでに読者のみなさんはご承知の通りです。

 これらのいくつかの事件を振り返ってみて思うが、室戸市長も市担当職員も市議会議員も、高知県の部長や副部長や市町村振興課職員や県費を不正に支出した財政課職員ら、これらすべての不正な政治運営に関わった者たちはその「公正・公平・健全な市政運営・議会運営」ができなかったということになる。

 もしこの指摘に腹が立つのなら、室戸岬高速バスターミナルの建物は今でも違法な状態にあるんだから、今からでも遅くはない。議会全体で市長の不正を追及すればよい。私のようなそんな度胸がないから地方自治法という国の法律に違反した事業案に賛成したのであるが、もし不正な対し物申す度胸があると言うんなら、いつまでも市長に媚び諂って(こびへつらって)いないで、不正な政治にストップをかける姿を私や室戸市民に一度、見せていただきたい。さすれば、私はその議員を称賛し、全世界にその議員の行いを詳細に情報公開しよう。

 首長や地方議員は選挙の時に住民から「公正で健全な政治を休むことなく続けてくれよ」と負託され、「はい、解りました」と答えて職に着いている。でありながら、職務に着けばそんな住民との約束なんか忘れてしまい、自分の世界に入り込む。(最初から「選挙で当選したら後はもうこっちのもんだ」と思っているのが真相)

 議員になっても毎日に議員の職務・職責に没頭していないから、その時その時に為すべき手立てを講じないし、住民をだまし首長と議員と行政職員が一緒になって違法な政治を実行している。

 だから、愚かとしか言いようがない。
 

 お分かりだろうか。

 市長の市政運営に不正があると知りながらそれに賛同し支援して悪事を放置する市職員や県職員や市議会議員の行為も、歴史的に保存・管理しなければならない貴重な美術品の価値が失われると知りながら放置している宮司や氏子など神社関係者らの行為も、根本的には同じ。

 小さな町の政治が不正に進められると知りながら議員たちはそれに賛成し事業化を許したし、その事業予算を無心に行った市長と市の担当職員に対して多くの県職員はそれが不正とよく知りながら県補助金条例に違反することを充分に認識しながら1444万円を支出した。

 「悪いと知りながら賛同すること、悪くなると知りながら放置すること」。

 両者に言えることは、それらは何にも“為すべき手立て”を加えなかったから発生した出来事と言え、その“為すべき手立て”を加えなかった行為は「罪」と言ってもよい。


 つまり、議員たちは不正に起立して賛成してしまい、「政治は公正であるべき」の精神を貫き通した私のように「それは違法だ。改めよ!」と叫んで起立せず反対すべきだったが、そうできなかった。それは「罪」。

 又、神社及び寺院の関係者のみんなが町や村の神社や寺に保存されてきた絵馬の絵が消えてゆくのを知りながら何十年と放置してきたがために絵は消えてしまい、何の価値も無くしてしまった。政治家の悪さに比べれば軽いが、それもまた「罪」と言えよう。


 全国の神社や寺院の関係者の皆さんに、もう一度申しておきます。

 どんな美術品も当初の姿から変化してしまえば価値が薄れたりなくなったりするものです。

 神社などに奉献された大きな絵馬にしても、その周辺地域の言わば“宝物”として長く神社本殿の梁や壁に掛けられてきたものであろうし、その絵馬によって神社の品格まで高めていると言っても過言ではないと思うが、何点も掛けてあるそれらの大きな絵馬の絵の全てが消えかかっていて「いったい何を書いてあったのか全く解らない状態」を見ると、絵を描き長く藝術や地域文化に自費を投じ力を注いできた者としては悲しくなります。

 全国の神社関係者の皆さん、もう一度、あなたの町や村にある神社に行き、そこに掛けられた絵馬を点検してみてはいかがでしょうか。

 勿論、早めの修復がベストですが、もし、一見、「この絵馬はもう絵も消えてしまい、手おくれの状態」だとお感じになられても、一度、修復をお考えに為られてはいかがでしょうか。

 色が全て剥落していても、墨の線が少しでも残っていてそれを書き起こすことが出来さえすれば、色彩はそれ相応の彩色を行うこともでき、見違えるほど生まれ変わって良くなるものです。

 神社に奉献されている絵馬は明治期や江戸期のものが大半ですが、更にその以前に奉献された作品もあろうと思います。とにもかくにも、私は全国にある絵馬が絵が消えてしまい何の価値もなくなってしまってゆく現状を憂えていて、私ではなくてもいい、とにかくどなたかにその修復を依頼して更に100年先まで絵馬として保存・管理していってほしい。

 いや、絵馬修復を強制するものではないが、絵馬を地域の有志から奉献された立場ならばそうあるべきで、神社・寺院に関わっておられる方々はそうすべきだと提案する。


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絵馬の修復をしませんか

2013-10-28 | 私の絵画制作活動
 また全国の神社宮司及び氏子さんや寺の住職及び檀家さんに向け、絵馬修復の営業活動です。


 あなたの近くの寺や神社に奉献されている古い絵馬で絵が消えかかっていて困っている方はいらっしゃいませんか? おられたら、ぜひ私にご一報ください。

 高知県内、高知県外は問いません。

 小品ならば絵馬を引き取りに行きまた運んで来る往復の旅費分を別途頂きましたら、又、大作ならば宅配便で当家に搬送して下されば、県外の神社仏閣からの要請も喜んでお受けいたします。

 本日も福岡県内の神社関係者から「うちの神社にある大きな絵馬の修復をしたいが、・・・」というお電話を頂き、「検討する」とのお答えでした。

 このようにどこの県の神社の絵馬であってもご依頼を下さり当家に搬送して頂いたら、修復をさせていただきます。


 皆さんは神社やお寺に奉献されている古い絵馬に対して結構、関心を持っておらず、絵馬の絵具が剥落したり更に下書きの墨線まで消えてしまっていてもあまり重大事だと思っていないのではないでしょうか。
 
 そこで本題です。

 どこの神社も秋祭りが近くなると本殿などを大掃除をします。

 私も小学生だった昭和30年ごろから秋の神祭で「棒打ち」の踊りに参加したことがありよく知っていますが、その神社でも氏子らが掃除をするたびにあろうことか、知識不足から江戸時代の土佐派の絵師・金蔵(絵金)が描いた絵馬が墨で描かれた絵と知りながら濡れ雑巾で拭いていたようで、やがて五年、十年と年月が経過すると徐々に何が描いてある絵馬やら分からない絵になってゆき、今では何を描いてあったのかまったく判別できなくなってしまっていますた。

 そういう例があります。

 私は年々消えてゆくその絵を現場で見ていたたまれなくなり、20年ぐらい前の平成の初めにその点を神社の宮司に指摘すると、宮司も「あんたが修復してくれないか。頼む」と言っておられた。でも、私は「宮司の一存で修復を行うとあとで氏子の中で異論を唱える方がいては私も困るので、ぜひ氏子さんたちに集まってもらって修復の承諾を頂いてください」と要請してありました。

 しかし、その話もそれで立ち消えたままとなった。それからも時々見に行きもしたが、絵馬の色絵具は既に剥落し黒い墨の線も消えてゆき、いまや何を描いてあった絵か、誰が描いた絵なのかの名(めい)までも判別できなくなってしまっている。

 これほど残念な話はありません。

 いくら有名な江戸期の絵師が描いた絵馬であっても、色が剥落し、下書きの墨書きまで消えてしまってはもうその絵馬の価値はゼロだ。「この板額には絵師金蔵が描いた武者絵が描いてあったんだ」と言っても、世間の人たちは「それがどうした」程度の反応しか返ってこないであろう。

 だから思うが、現在、県内各地にある寺や神社の本殿に掛けられた絵馬について、もし宮司や住職、氏子や檀家さんたちが「この絵馬の絵が消えてしまってもよい」と考えておられるのならばそれはそれでいいでしょう。檀家や氏子さんが「それでよし」と納得をしているなら、私がとやかく言う筋合いの話でない。

 ですが、それでは、かつて江戸時代や明治時代に絵師に何がしかの制作料を支払いその寺や神社に絵馬を奉納した有志の方の深い思いやその絵馬の価値・値打ちはその時、消えてなくなってしまいます。

 私はそんなことは許されないと思う。

 
 国の文化財でもない、県の文化財でもない、市町村の文化財に指定されているわけでもないかもしれない。だが、ある程度の文化的価値がある絵馬とか江戸期などに奉献された大きくて古い絵馬ならば、はやり修復してさらに100年後、200年後へと今に生きる人々が継承してゆくべきだと思います。それが、寺社を管理し運営している者たちの責任というものです。

 「消えてしまってもいい。手を加えたらいかん」という考え方は「文化財の保存・継承」を考えない、勝手極まりない考え方だといえます。


 以上のように、神社や寺にある古い絵馬は100年もたてば修復してこそで、そうしてさらにこれから100年、200年と次代に受け継いで行くべき財産だと思っています。

 私はかつては神社や寺の大きな絵馬を修復した経験もありますので、「うちにあるこの絵馬も修復せないかんが、誰かやってくれる画家はいないかなあ」とお考えの宮司・氏子さんや住職・檀家さん、是非とも当方にご一報ください。

 費用もそれほど高くありません。「えっ、そのくらいの修復料でやってくれるんですか!」と驚くほどの金額で修復いたします。(だからと言って、1万円や2万円じゃできませんが)

 そして小生の絵を描く腕前は、次に掲載した七福神の4点の絵の出来栄えを見て下さればお分かりいただけるのではないでしょうか。

 大げさな話ではなく、絵馬修復の経験がある私がもしいまから10年ぐらいして死んでしまえば、その後、この高知県内に大きな絵馬を修復してくれる画家はいなくなります。なぜ私でないと消えかけた絵馬の修復が無理なのかというと、消えた線が見えるのは私しかいないからです。(笑)

 そうして下絵が消えてしまった絵馬を修復した絵馬が室戸市内に二か所にあります。

 一つは、室戸岬の「最御崎寺(ほつみさきじ)」(通称:東寺)。ここには土佐藩二代藩主・山内忠義が寛永年間(1640年頃)に土佐神社とここに二双の絵馬を奉献しているが、東寺には『牛若丸と弁慶図』がある。

 その時、撮影した写真です。

 ①弁慶・・・修復前の状態

  

 ②弁慶と牛若丸・・・修復前の状態

  

 ③弁慶と牛若丸・・・修復中と、修復完了

  

 ☆修復完了を伝える新聞記事

  


 もう一か所は、室戸市室戸岬町三津の「杉尾神社」。ここには絵馬2点と「大正天皇即位御大典記念祝賀演劇会」として開催された村芝居の配役を記録した板2点が保存されていて、その全てを修復した。

 ①日本武尊(やまとたけるのみこと)と熊曽建(くまそたける)の闘い・・・修復前の状態(上の女装が日本武尊)

  

 ②村芝居記録板・・・修復前の状態 

  

 ③村芝居記録板・・・修復完了 

  

 ☆修復完了を伝える新聞記事

  

 この時、私は修復を依頼されたことへの感謝から、自分からも絵画や版画を数点、この神社に奉献した。
 

 ● 七福神の絵馬

 1、「七福神乗合宝船」

  

 2、「七福神富士旭光宝船」

  

 3、「七福神頼光伝説大騒動」

  

 4、「歌舞伎七福神宝の酒盛り」

  

 この4点の絵馬のどれかを購入し、あなたが住んでいる町や村の神社の絵馬として奉献しませんか?

 絵馬の修復および七福神の絵馬購入について、是非、お気軽にご連絡ください。

 (連絡先)住所:室戸市室戸岬町2845-2  
      電話:0887-23-1214
      画家、絵馬修復師  谷口總一郎 


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、10月29日(火)付けGooブログランキング(194万6196ブログ)中、3183位でした。

昨日、私の電子情報誌もブログを初めて5年8カ月目でやっと閲覧数が100万を超え、 1,000,407 PVに到達いたしました。これが早かったのか遅かったのかはわかりませんが、何でも一つのランクを超えることは悪くはないと理解しています。
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連載:「南海大地震と津波」 (6)宍喰町大日寺「慶長九年・大変年代書記」(下)

2013-10-25 | 青空編集室
 地域雑誌『あおぞら』第56号(1995年5月発行)から紹介するのは、これで七回目になります。

 特集「南海大地震と津波Ⅰ」から、「(2)南海大地震とその史料」の「室戸半島に残る南海道地震の古文書と碑」から、徳島県南部の宍喰町(現・徳島県海陽町宍喰)に残る地震の歴史を記した古文書を取材した記事を紹介した。

 そこで、今日は先日掲載した宍喰町大日寺の「慶長九年・大変年代書記」の「第一度目書記」に続いて、「第二度目書記」の部分を紹介する。

  

 尚、これもまた長文が休みなく書かれているために判読が難しくなると考え、小生の判断で改行させていただく。では、始めましょう。


               「慶長九年・大変年代書記」  

 乙巳正月廿一日ニ相尋書記候(あいたずねかきしるしそうろう)(慶長十年一月二十一日にたくさんの人に聞いて書いたものである)

 一、慶長九年十二月十六日 大変年代書記

               浦里(宍喰浦)真言結衆 大日寺 栄宥  歳三十七歳
                                真福寺 宥真   四十九歳
                                正福寺 有厳   五十弐歳
                                西光寺 良雄   四十五歳
                                成福寺 宥応   三十四歳
                                円頓寺 宥慶   二十六歳
                                大日寺 栄有   (年齢不詳)

 之儀(このぎ=このこと)は先に書記通(書き記した通り)、御影(みかげ=亡くなった人の姿)おひなから(目で追いながら)流出召され(大津波に押し流され)いたわしき事と申暮候。仍之(じょうし=これにより)、正月廿一日ニ於正福寺(正福寺において)、為栄宥(栄宥住職のために)、正福寺宥厳志ニ而(それに加えて)、五ヶ寺打寄(五つの寺の住職が集まって)、廻向(えこう=死者のために経を読んで供養)申候(したことだった)。其頃(その頃)、栄宥命日(亡くなった栄宥住職の命日を)廿一日と定候(さだめそうろう=決めた)。

 第一(※この部分は先日記事にしたので、省略)

 第二度目書記、八ツ時宥真同道ニ而、町筋ニて書也。第一山野凌之内ほうろく(焙烙=豆を煎る時などに用いる素焼きの平たい土鍋)ニ而、食等煮焼して命をつなき申候。一代一代之内にこもかふり(昔は「まこも」という草を織ってむしろを作っていたものを「こも」と言ったが今は「わら」で作る。「こもかぶり」とは、こもを被っていた「乞食」を指す。寄ってこの「こもかふり」は「まるで乞食のような恰好をして」の意)と成りたつ事、平正のあやしきよりも大切成事(大切なりしこと)の処、くれくれも申たる事ニ候。古こも(古い「こも」)迄も流し候事故(「事故」ではなく、「流しそうろうことゆえ」と読む)、大切成事、至極成至極成(至極なり至極なり=「もっとも最も大切なことだ」の意)。

 一、当寺且中(円頓寺の管轄下では)流死人数(流死した人数は)老若四十三人、大日寺且中二十三人、真福寺且中九人、長福寺且中六十一人、里分両方の且中も入込死申也(津波が入り込み、死にました)。自他共惣人数一千五百余人と申候。あわれ成事を見聞いたし候也(哀れとしかいいようのない情報を見聞きした)。

 翌日(慶長九年十二月)十七日八ツ時(1時半)ニ下り候而見申所(に山を降りて辺りを見回したところ)、城山より西北方一面の人の死骸、目も当てられす候。東より北往還(東から北に戻る)道筋へかかり候而も右の通りニ候(「右の通り」とは、この文書の「右に書いた」=「辺り一面に死骸が」の意)。其節、久保之在所之内ニ而も二ケ所惣つかいにいたし死人埋申候(其の折には久保という家の二か所に人を使って死骸を埋めました)。其後(そののち)、地蔵、石仏、相立置候祇園西手の山きわなり(祇園の西側の山際に地蔵や石仏を建立しました)。

       慶長九年十二月十七日 未刻記之(午後1時半に記す)   円頓寺 宥慶


 (※17日の午後1時半に山を降り、死骸を見つけ、久保家の2カ所に穴を掘らせて死骸を埋めさせ、その後に地蔵や石仏を建立し、寺に帰ってきて、午後1時半にこの地震に付いての文書を記したと記載されているが、この日付は「山を降りた時刻」か「文書を記載した日付」かのどちらかに誤りがある)

 (※この後には「追而書記」として、第三、第四、第五、と続くが、特に注目したいのは、其の最後の記述でした)

元文四巳未年二月廿四日申上刻
円頓寺ノ玄関ノ二階ノ目板ノ間
鼠ノ巣内ヨリ見出ス。即刻拝見
真福寺大雩(う)写

            円頓寺住持 嘉明  (印)

            真福寺住時 大雲  (印)


 (注:「雩」(う)には「雨乞い」「雨乞いの祭祀」「虹」の意があるが、ここでは「祭祀を行い」の意ではないか)。

 意味は、≪慶長九年(1604年)に発生し宍喰町にも大きな被害を及ぼした南海大地震について記録された「大変年代書記」と呼ばれる古文書を、元文四年(1739年)二月二十四日に、円頓寺玄関のすぐ上の、一階と二階の間に敷いた敷板の間から見えたネズミの巣の中から見つけ、取り出して早速開いて見た。そして、それを基に真福寺の住職が書き写したものである≫

 だから、この文書が1604年から数えて409年後の今に伝わっているのは、慶長九年に書かれた文書を円頓寺の住職が何回か「追記」しながら後世に継承してきたが、途中で紛失。しかし、偶然にも、最初に書かれた1604年から135年経過した1739年、その円頓寺のネズミの巣の中で見つけたから、ということになる。

 縁は異なもの味なもの、と言いましょうか、ある種の驚きを持つ。

 (解説)一番最初の「乙巳正月廿一日」とは、翌、慶長10年1月21日のこと。この日に住民にあって地震の時のことを聞き歩いて、それを聞き書きしたものだという但し書きが「相尋書記候」である。

 では、これまでと同様に、内容を要約してみたい。

 (「第一度目書記」から)

 「この宍喰浦は慶長9年12月16日の午前9時から午後4時ごろまで大地震は続いたが、これは前代未聞のこと。同日の午後6時、付きが出るころから大津波は凄まじくなり、泉が湧き出ている場所から二丈(6m)も上に津波は上がった。その他、地割れは続き、とろ水(今で言う“液状化現象”のこと。地面の割れ目から泥水が噴き出す現象)が湧き出している。何とまあ言語を絶する大事よ。

 その頃、他の人々がひなんするのも寺から西北西の方角に古城のある小山があるが、そこに逃げた人は170余人。それも、老人や子供はまだ道路にいた時に津波に打たれ、みんな流されて死んでしまいました。私たち(寺の者たち)も御本尊と寺建立の証文、知行の折紙(土地の権利書か)、棟札などや、その他、周りの物を手当たり次第に持って命からがら逃げました。

 長福寺では開山願主・東林の本尊を背負った。この上に家があり、日比原村へのその道筋は堤の下になり(?)、御本尊を背負っていたが老人のことだから足が遅くて、ついに大津波にさらわれ、溺死してしまった。東隣の真福寺の僧・宥真と私は本尊の周りにある物を持っていたので命は助かった。

 三つの寺が協力し合った中でも大日寺の僧・栄宥は一度ご本尊を背負い山に上がったが、また「大師像を取りに行く」と言って山を下り御影堂の坂の下まで大師像を背負ってきたところ、津波の引潮に引きずり込まれ、ついに波に打ち倒され、さらわれて亡くなってしまった。その遺体が長福寺の囲いに引っ掛かっているのを見つけたが、その時は全ての寺の者みんなが首をうなだれ胸打たれる思いがした。

 津波が引いて静まった後は用心のため、山や野に三日三晩、仮の宿を取った。その後、みんなどうしていいのかに困って、そのうち、神が変化したようだとまで思った。

 当寺の八幡祇園の拝殿から下の家屋は全て流出し、一方、当寺は津波に打たれ山の方に倒壊流出。それは林の木に引っ掛かっており、特に祇園宝物大般若六百軸は祇園内殿に残っていたので、みんな流れなくて良かったと宍喰浦氏子一同が集まってきて、過ちが無くてよかったと喜びあった。

 「それよりも里の祈祷のために大般若軸を転読し始めたい」と僧・宥真が願い出て、宍喰浦の里にある六つの寺が協力しあいみんなが集まって祇園において転読(お経を声を出して読むこと)を行う。

 (慶長10年)1月11日を定日にして修行し、相井の三つの寺も津波によって倒壊したので急いで寺山という峠から大きな松の木を一本をもらいうけるよう多田庄助殿がお上に伺って下さり、当寺に取り立て(伐採・譲渡)が許された。他の寺にも相応にお上から竹や木を下さった。その他のところへは不用になった物や米麦なども渭津(いのつ=徳島城の城山が猪山と呼ばれるところから、徳島のことをいう)から船に積み廻漕され、救われた。もっとも、これは津波で流出した後、早々に調査をして下さったからでした。

 何かと筆に書き遺したいことは山々あるが、この大津波の被害状況は言葉にもし難く、筆舌にも及びがたいことであるが、せめて国元への道しるべに書き残しておく。どう考えても哀れなこと。後世の人たちも驚くべきことだ。  (後略)


 古文書に書いてある内容はだいたい、以上のようなものです。

 この後には、 円頓寺の中では溺死者43人、大日寺では23人、真福寺では9人、長福寺で61人の死者が運び込まれ、葬った。因みに、この時の宍喰浦の溺死者は1500人余人であったという。(※この死者数について、『土佐古今大震記・全』では、「男女三千八百六十余人死、猶潮入る限」とある)

 翌17日の朝、城山から下る時に西北の方を見ると、「一面死骸の山で、目も当てられない状景だった」と記述されており、この六、七つの寺の僧も涙を流しながら葬式を済ませたのではないだろうか。この後、久保家の土地の二か所に総塚として死体を埋め、後に地蔵、石仏を建立している。

 少々長引きましたが、二回にわたって掲載してきました徳島県宍喰町の大日寺に伝わる「慶長九年・大変年代書記」がやっと終わりました。

 しかし、私はこうやって時間を掛けて記事を書いていますが、南海大地震で大きな被害が予測されている高知県など太平洋側に住む人たちがこの記事を見てくれているのか、それだけが気がかりです。

 次回の「南海大地震と津波」は、『宍喰町史』に掲載されている昭和21年の何枚大地震で受けた被害についての記事。又お楽しみにお待ちいただきたい。


 (ご報告)何年ぶりかでテンプレートを変更いたしました。珈琲好きの私にふさわしく、暫らくこれで行こうと思っていますので、よろしくね。


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県展最終日、作品の搬出に行ってきました

2013-10-21 | 私の絵画制作活動
 栄えある初入賞を果たした今年の高知県展もようやく終わりました。

 昨日が県展最終日で、応援している大リーグはR・ソックスの上原投手が出る試合が勝利で終わった午後1時になると同時に室戸を出発し、高知市の高知県立美術館まで作品を搬出に行ってきました。


 私が作った教訓、『為すべき時に、為すべきことを、為せば成る』は間違ってはいませんでした。

 県展が終わり、今は「努力はウソをつかない」の感が強い。

 こうして念願だった県展初入賞の夢を果たすことができたのも、室戸市議選を悪い人たちが企んだ落選運動によって二年六か月前に落選した後、少年時代に持っていた画家になる夢に向かって取り組むことを許してくれ応援し続けてくれた、愛する妻のおかげ。

 平成15年に初挑戦し3回出馬した市議選では、きっと心細かったであろうが、私が決めた“夫婦二人だけで選挙活動をする市議選”について来てくれた。

 平成23年4月の室戸市議選では「谷口は小松市長の不正な事業運営を議会で唯一追及しているから、あいつを落とせ」の指令が飛び、敢え無く落選した。それを投票日の翌日、私たち夫婦に告発してくれた人がいて、その全貌を知りました。議員職を奪われ4年間の職を奪われた私たち夫婦は怒り、いつかその悪人たちを見返してやりたいとずっと思ってきました。

 それから二年六カ月、努力を重ねてきました。入賞が自分をもう一度生き返らすことができるように、入賞が「応援してきて良かった」と妻に思ってもらうために、そして室戸の政治に関わっている多くの悪人たちを見返してやるため、画法を研究し技術を凝らし、自分の個性を画面に表現するにはどうすればいいのかと取り組んできた。

 そうして、昨年7月に一カ月かけて白と黒の絵具だけを使って描いた作品『舌状岩Ⅱ』をもう一度、明暗をたくさんの色を使って表現しようと考え、8月始めから一カ月かけて更に小さな面相筆を使って微細な部分まで描き込んだ。そうして、県展出品作品『岩、迫る』は仕上がった。

 この作品を描いた私も、「描き込んだことによってそれが固い岩ではなくて、まるで生き物のようになった」と、自画自賛。以前よりもずっと作品のランクは上がったとうれしくなった事を覚えています。

  
                     (ちょっとピントが合っていませんが、県展会場にて妻と)

 その出来栄えを見て、いつも私の作品を吟味している我が家の“審査員”である妻も、「おとーさん、これは前よりもよーなったわ。うん、えい」と、高く評価。(笑)

 考えるに、描き始めて二年六カ月がたち、最近やっとこれから続けてゆく独自の技法が見えてきた気がしていて、今後の画業に少しは自信めいたものも生まれてきた。


 洋画部門の審査員、智内兄助画伯のおかげも忘れてはいけない。

 申し訳ない話であるが、私は9月中旬に「県展洋画部門の審査員が10月1日の午後6時から審査講評を行う。洋画部門は智内兄助氏」と高知新聞に発表されるまで洋画部門の審査員が智内画伯であることも、智内先生の名前も、その作品も知りませんでした。

 出来たら、智内画伯と直接お会いしてお話し、入賞作についてやアクリル画を描くにあたっての心構えなどをお教えしていただきたいとは思うが、それはとても無理な話であろう。でも一度はお目にかかりたいと思う。

 ただ、昨日、県展に作品を搬出に行ったとき、高知県展事務局の高知新聞社の担当者が教えてくれました。

 「10月1日の夜に高新会館ホールで行われた審査員講評会において、智内先生が谷口さんの作品を特に選び、大きなスクリーンに映し出し、『この作品は大変良い。私の作品よりもいい作品だ』と高く評価していましたよ」。

  

 私はその担当者に「それは過分な評価ですが、智内画伯にそう言ってもらえたことはうれしいし、これからの励みにもなります」と伝え、「何とか一度でいいから、先生にお会いできて何か一言でもアクリル画を描く上で大切なことをお教えしていただけたらいいが、それはなかなか叶わぬことですね」と話した。

 県展会場には先生の作品がかけられていて、それは室戸岬の砂泥互岩層の岩を描いたものであり、「先生は以前、室戸岬に来ておられたんだ」と解った。今後、もし室戸岬に来られることがあればぜひ一目お会いできたら、そう思っている。

 県展中も思い、県展が終わった今も思うに、もし今年の高知県展の洋画部門の審査員がアクリル絵具を使って作品を描く智内兄助画伯でなくて油絵具を使って具象画を描く画家先生であったならば、きっと、いや間違いなく私の作品は入選どまりだったのではないか。そう考えている。つまり、作品に塗り込んだ絵具が30%から40%痩せてしまう性格を持つために画面に絵具の盛り上がりができないアクリル画は、絵具を盛り上げようとすればいくらでも盛り上げられる油絵具で描いた作品と比較するとどうしても貧弱に見え、重厚さに欠けるのは否めない。

 今もその点を気にしながら描いているが、絵画は“盛り上げてなんぼの世界ではない”と解釈、片をつけ、今回の受賞で更に決意し、アクリル画をこれからも描くことに決めている。

 シナベニアを買ってきて、それでパネルを作成し、下塗りを何度も何度も施し、下塗りを重ね、やっと作品に取り掛かる。高価なキャンバスなんか買ってきて使わなくても、有名画家も私と同じようにシナベニアでパネルを作り作品をものにしている事を考えると、無理はしなくてもいいと思っている。

 そうして、日本でたった一人、室戸の海岸の岩を描き続けている画家であり続け、これからも作風として【線の画家】であることを忘れないで、色を置いてはサンドペーパーで画面をいじめ、また色を置いてはいじめという作業を続けながら、色彩がハレーションを起こしているような画面づくりを目指し、最後は小さな筆で細かい部分まで書き込んでゆく。そういう手法でこれからも制作に没頭しようと思う。

 さあ、県展が済むと、今度は北川村での「谷口總一郎展」の準備を始めなくてはと思っています。それと同時進行で来年の高知県展に出品予定の変形100号の作品「家・庭」(仮題)も描き進めていく。

       

 尚、個展は11月15日(金)から11月24日(日)まで。読者の皆さんも、県外の方々は無理としても、高知県の方ならおいでいただける距離だとと思いますので、是非ともおいでになり、お友達との話のタネにでもして頂きたい。展示するのは、七福神の大きな絵馬が4点と、今回の県展で「山脇賞」を頂いた作品など室戸岬周辺の海岸の岩を描いた作品が9点の、合計13点。小生は小品は描かない主義ですので、全て100号の大作ばかりです。

 又、同時に、平成2年から10年まで高知県内で発行してきました地域雑誌『あおぞら』のバックナンバーや平成20年ごろに発行した地質写真集『青空地質博物館』、吉良川町の古い街並みを描いた画集『民家美術館』も同時に展示し、販売いたしますので、是非、お友達とつれだってご来場ください。

 以上、長くなりましたが、県展最終日のご報告と、個展案内でした。


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高知県展初入賞は私を生き返らせてくれました

2013-10-20 | 人間のあり方
 私はこれまで、いつもこう思って生きてきました。

 ≪苦難があっても挫けず、また夢描き、それに向かって真面目に日々努力していたら、夢はきっと叶うものである≫

 それは間違っていませんでした。


 10月2日の朝は高知新聞が来るのを午前2時半ごろから寝床に居ながら待ちに待ちました。

 3時ごろだったか、外でコトンと音がしたので、「新聞屋さんじゃないかな」と思い、起きて、外の郵便受けに手を入れると「来ている、来ている」。

 不安いっぱいの気持ちで新聞を開いた。

 勿論、宝くじと一緒で、上の特選の方から文字を追った。

 「多分上の特選にはないだろうが、褒状に初入賞したいなあ」と思いながら特選から褒状の方に目を走らせようとすると、途中で「あれっ」と目がとまった。

 特選の名前と褒状の名前の間に「いま確か自分の総一郎という名前があったような」と、バック、バック。

 「アレー! 山脇賞に自分の名前がある」、「作品のタイトル『岩、迫る』も書いてくれているから間違いなく自分のことや!」。

 「アレー! その横の県美術振興会奨励賞にも自分の名前と作品名がある」と二度、驚きました。

 「なぜ?」、「二つも賞をいただけるの?」

 いつもなら、妻をすぐ起こすんですが、今朝は起きてくるのを待って、こう言って驚かせました。

 「おい、落選した」って。

 すると、ニコっと笑って、「ウソ。入選はしちょうろ?」と言うから、「ほら、まー早う新聞を見てみいや」と、すでに私の名前に赤線を引いてある紙面を見せた。

 「エッ、何、これ? 山脇賞ってなに? それにもう一つここにも県美術振興会奨励賞って書いてあるけんど、これもあんたがもらえるの?」。

 「そう、山脇賞いうたら、“洋画部門で受賞経歴のない、将来性あふれる新進作家に贈られる賞”だと前の県展目録にある。山脇信徳という高知出身の『停車場の朝』などで知られる日本の印象派画家の業績を称える意味から賞として設定されたもんよ。おれも前からこの賞をもらった作家をうらやましく思うてきたけんど、まさか自分がこの山脇賞をもらえるなんて思っていなかったし、その点でもほんまにうれしいきんなあ」。

 入賞はうれしいが、これからの県展出品が大変だと痛感しています。

 来年以降に出品する作品は今年の入賞作品以上の作品を制作しないといけないというそのプレッシャーは、入賞して初めて感じるものだとよく解りました。

 来年、県展を見に来られた人たちに「なんだ、昨年山脇賞を受賞した作家なのに、ただの入選か。この作品の出来はなんだ」何て言われないように、今年よりももっと精魂込めて作品づくりに打ち込まないといけないなと、いま思っています。

 そうして夜が明け、7時ごろには室戸市内の友人Kさんから「おめでとう」の電話があり、すぐ後には知人の安芸市議会のK議員からも「おめでとう」のメールが入り、早速の祝電に感謝した。

 初めて県展で晴れやかな入賞。この18日午後2時から高知市の高知新聞会館7階の高新会館ホールで開かれた晴れの県展表彰式に行って参りました。頂いたトロフィーと賞状を読者の皆さんにご披露させて頂きます。

 まず、「山脇賞」の賞状とトロフィーです。

  

  

 そして同時に受賞しました「高知県美術振興会奨励賞」です。

  

 もしかすると、これが私にとっての最初で最後の高知県展入賞になるかもしれませんので、これらは早速、額縁を買ってきて自分で建てた議員事務所で今はアトリエに使っている部屋に飾りました。

 入賞した日は驚きと戸惑いがありましたが、表彰式を終えると賞状とトロフィーを頂いたからか(笑)喜びがあふれて来るとともに、更に精力的に苦心と努力をし続けなければと決意しています。

 そして、これは終世忘れてはならないことですが、私の作品を山脇賞と県美術振興会奨励賞に選んでくださった洋画部門の審査をされた智内兄助画伯には感謝してもし尽くせない気持ちでいる。きっと、アクリル画を使い面相筆で描き込んでおられる智内画伯が審査員でなくて油絵具を使い具象の絵を描かれる別の画家が審査員だったら、私の作品は今回のように高く評価されることはなく、入選どまりであっただろう。

 特に、アクリル画を長く描き続けて来られた先生であるとお聞きし、同じように私も30歳代の県展出品時に使っていた油絵具から離れて三十年ぶりに再び筆を持った二年半前からは、同じアクリル絵具を使って描いてきたことから、県展会場にも室戸の岩を題材にした先生の作品も展示されていましたが、これからは画伯のアクリル画の描法を研究してそこから学び自分の作品に活かしてみたいと考えています。


 今の心境は、「努力は惜しみなくするもんだなあ」と思うのと共に、「長く苦労をさせてきた妻にこの入賞で少しは報いることができただろうか」とも考えている。

 「23年4月の市議選では落選しましたが、この入賞で私に投票して下さった328名の有権者の皆さんにも少しは報いることができただろうか」。

 又、真面目に議員としての職務に従い忠実に働いていた私をその市議選で「市長が行う不正な市政運営を追及する谷口は落とせ、投票させるな」と落選運動を行った室戸市の悪意ある人たちをこの入賞で少しは見返すことができたと、今は思っている。

 「上位当選したよ」と。

 さすがに、県展の審査は室戸市議選と違って「谷口を落選させろ!」という落選運動はできなかったようだ。

 その違いは、県展審査は作品に関して観察眼のある世界的に活躍されておられる芸術家が正しく判断する。

 だが、市議選の投票は候補の実力に関する観察眼が入り込む余地は全くなく、有権者は地縁・血縁・利害等々で投票し、それに“落選運動”という悪意が入り込む余地もあることから、有権者に因る候補の公正さ・能力・意欲を無視した誤った投票判断が大半を占めると断言してよい。

 だから、後援会など作らずに妻と二人だけで選挙戦を戦った法律を厳守する有能な候補が落選し、市長が行う不正な事業に賛同し応援する無能な候補が当選するという実態がそこにある。


 残念ながら、地方の議員選とはそういうものだ。


 室戸市職員で私を応援してくれている皆さん、入賞したよ! 市民で私を地域雑誌出版の時代、議員当時からずっと応援し続けてくれている皆さん、入賞したよ!

 これまでの応援、ありがとう。感謝しています! 皆さんの応援があったからこそ、ここまで頑張れました。ありがとうございました。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、10月20日(日)付けGooブログランキング(194万2439ブログ)中、3953位でした。
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R・ソックスの上原にしびれている

2013-10-15 | 文化・芸術・スポーツ
 「一週間のご無沙汰でした。玉置宏です」・・じゃなかった、谷口です。

 県展入賞以来、当電子情報誌の記事掲載が滞っていて、皆さんには申し訳なく思っています。

 ここからは言い訳です。


 県展とは関係のないことで色々と忙しく、身近な記事でもいいから書けばいいと思うのですが中途半端が嫌いな性分ゆえ、記事を書くに至っていません。

 県展への作品搬入は9月29日でした。県展入賞が決まったのは10月2日。

 その前夜の1日の夜と2日の深夜には庭にアナグマが入り込み、朝、庭に出ると、アッチコッチに小さな穴を掘ってミミズを探した痕跡が。さて困りました。

 知人に聞くと「アナグマは放っておいたら毎日のように来るぞ」とのこと、どうしたものか。

 自宅前の市道沿いの15mぐらいの区間に自作した板塀の下が約15センチぐらい空いていることから、そこから入ったと判断。3日はその防護策としてその板塀下の空いた部分に4寸巾の縁板を打ちつけて地面からほんの5センチしか隙間が無いように改修した。

 すると、4日の朝起きて庭をチェックすると、何の痕跡も無く、やっと一安心。

 6日は妻と高知市の県立美術館に県展の見学に。(このことについては先日、記事にした)

 7日から14日までは9月中旬から描き始めた変形100号の新作「家・庭」(仮題)の制作に夢中になり、記事は書けずじまい。(※この作品は来年の県展出品作品のうちの1点)

 それとともに小生は大リーグファンとあって、ずっと応援してきた松井秀喜が昨年で引退した後、今シーズンは4月から元巨人ということもあってボストン・レッドソックスの上原を応援している。

 彼も昨年はレンジャーズにいたがポスト・シーズンのメンバーに入れず、彼のブログ「コージ・ウエハラ・ドット・ネット」には悔しい言葉が続いた。

 そうして、幸か不幸か、いや幸運にも昨年末にR・ソックスへ移籍した。

 R・ソックス入団以来、セットアッパーなどを務めていたその上原が6月ごろからだったか抑え投手がケガで出られなくなり、彼が抑え投手に格上げされた。それもヤンキースのマリアーノ・リベラ以上の完璧な投球術に、私は酔いしれ、もう夢中になりました。チーム状態もそれをきっかけにして急上昇します。

 彼が最終回に出てきてランナーを一人も出さずに10球ぐらいで簡単に試合を終わらせるナイスピッチングに、地元ボストン市民らも熱狂し続けた。県展の作品出品前の9月上旬から中旬にかけては上原もポストシーズンがかかった大事な試合が続いた。

 私は作品「岩、迫る」の仕上げも大事、R・ソックスのポスト・シーズン進出も大事で、悩ましい日々が続いたが、R・ソックスはア・リーグ東地区で優勝。プレーオフ進出が決まって私もやっと一安心した。

 そうして、5日からのレイズとの地区シリーズでは3勝1敗で勝ち上がり、この13日の日曜日からはア・リーグ中地区のタイガースとのア・リーグ優勝決定戦が始まったが、R・ソックスはその第1戦にヒットが打てず、完敗。翌14日の第2戦もヒットが打てずこの5対1のまま完敗かと思っていたら、タイガース先発のシャーザーが7回でリリーフと変わってからは形勢が一変。8回裏に出てきたタイガースの抑え投手ベラスに襲い掛かり、満塁から“ビッグ・パピー”の愛称で知られるR・ソックスの巨漢スラッガー、オルティースが1球目をライトスタンドに満塁ホームラン。

 私は昼食を食べながら「ここでオルティースがホームランを打って5対5の同点になれば9回表には上原が必ず出てくる」、そう願って見ていたら、あのホームラン。

 食事はそっちのけで打った瞬間、「これは行った―!」と大声を張り上げた。向かい合って食べていた妻も驚き、「エー、なにー! 上原君のチームが打ったがー?」。

 私「入ったー」。

 私の横の椅子に座っていた愛犬のパグ、アニーが何事かと目を見開いてビックリ顔で私を見ていました。その目は「70歳近くなって、年がいも無く。歳を考えろ」、そう語っていました。

      

 でも、そんなことは知ったこっちゃない。

 私はお構いなしに、「よしっ、こうなったらこっちのもんだ」。

 もう、我が家はお昼ごはんそっちのけで大騒ぎ。

 9回の表。「さあ、今や大リーグ一の抑え投手、上原君の登場です。ウエハラ、ビシッと行けよ!」。

 その状況は上原君のブログをご覧ください。彼は大リーグでは珍しく、自分が投げた投球の状況を毎試合、日本のファンの皆さんに報告していて、実に筆まめな男。気まじめな性格がそのまま記事に現れていて、遠く日本にいても応援したくなる選手。アメリカでも、日本でも、これほど毎試合毎試合ブログに記事を書いている几帳面な野球選手はいないのではないか。それも、試合後の疲れがピークに来ている時間であっても。本当に彼の気まじめさには感心する。

 そうやって9回の表を3人で片付け、9回の裏、先頭バッターの三遊間のゴロを捕ったショートのイグレシアスが1塁に暴投、3塁に進んだランナーをサルタラマッキアが三遊間のヒットで返し、サヨナラ勝ちした。当然、上原が勝利投手になった。

 ほんのそこまで2連敗の危機が近付いていたが、R・ソックスはリリーフ投手と抑え投手に不安があるタイガースのその弱点を付き、なんとか勝利をつかんだ、そんな試合でした。タイガースのファンには酷な試合結果となったが、R・ソックスのファンにはたまらなくうれしい試合となった。

 試合終了後、いつものようにハイテンションになった上原はチームメートとハイタッチ。満塁ホームランを打って試合をイーブンに戻したパピーともハイタッチした後は、いまや恒例になった担ぎ上げをしてもらって、上原は子どものように喜びを爆発させた。

 快刀乱麻のピッチングをした日の夜も、20試合に一回ぐらい打たれた日の夜も、書いているブログの最後を彼は、いつもこう結んでいる。

 「後ろを振り返らず、これからも前を向いてコツコツとやってゆきます」。

 その記事を私は毎日見て、「彼から学ばなくてはならない」と思い、日々精進しています。


 怪我を押してチームのために努力し続けてきた大リーガー松井秀喜は2003年から20012年まで私とともにあった。懸命に努力する熱い男・上原も巨人時代からずっと応援し続けてきて、これからも野球界から引退するまで応援していこうと思っている。それは、二人ともが挫折してもたゆまず懸命にチームのために努力を続ける男だからだ。

 だから、記録達成はすごいとは思うが、“ホア・ザ・ジブン”のイチローのファンにはならない。それは、イチローは室戸市の政治家のように“いの一番は自分のため”が先に立ち、“市民のため、自治体のため、議会のため、組織のため”が眼中にないからだ。

 物事で一番大事なことは、自分の身を投げ出して地域に貢献することや組織に貢献すること。自分の慾得を優先させる人間は私の眼中にない。

 ただ、これらのことを心底理解している人は室戸市にはいない。

 さて、明日は個展看板の制作作業。出来たら17日に設置に行く予定。場所は、奈半利町から北川村に入るT字路の角と、北川村民会館への入り口の角の、二か所。今回の看板は昨年のようなプリンターで印刷したものを切り張りした自作じゃなく、安芸市の看板屋・ヤマシタ工房さんに作ってもらったから、立派なもの。たくさんの方が来てくれそうな予感がしています。北川村周辺の皆さんは是非ともおいで下さいね。

 そして、18日午後2時からの県展表彰式に出席します。妻はパン屋に餅の注文が入ったそうで一緒に行けなくなったが、もしかしたらこれが人生最初で最後の県展入賞かもしれませんので、一人で参加する。

 20日(日)の県展最終日は午後5時に作品の搬出。これは一昨年、昨年と同じように、妻と二人で行ってきます。

 その後は、個展を広報するチラシの印刷して知人に配布、また11月15日からの個展に展示する13点の作品で額縁のない7点ぐらいに額縁を作る作業が待っています。額縁といっても、作品の周囲に巾2寸×厚さ6分の仮縁のようなものだから、一日もあれば出来上がる代物。加えて、地域雑誌『あおぞら』のバックナンバーも個展会場に出品する予定でいるので、その在庫を出す準備もしなくてはならず、忙しくなります。

 こうして、来月15日までは来年の県展出品作になるかもしれない新作「家・庭」(※作品の下描きをサンド・ペーパーでいじめたところ。今はもっと描き進んでいますが、それは来年の県展まで、ヒ・ミ・ツ)を描き進めながら、個展の準備を進めています。

  


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、10月17日(木)付けGooブログランキング(194万1408ブログ)中、3181位でした。

 長らくお待たせしましたが、私の電子情報誌を愛読して下さっている方々は記事投稿とみてすぐに戻ってきてくださいました。ありがとうございます。

 尚、連載中の「南海大地震と津波」は文章が一部、古文のため、非公開の下書き状態のまま一文字一文字書き連ねてはいますが、その作業に手間取り、未だ投稿に至っていません。必ず連載は続けますので、申し訳ないが今しばらくお待ちいただきたい。
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県展の入賞発表後、初めて行ってきました

2013-10-07 | 私の絵画制作活動
 昨日は高知県展初入賞の発表後、初めての日曜日。

 朝は7時に室戸を出て、約2時間の道のりを走り、県展会場となっています県立美術館に行って参りました。

 最近は妻と高知に行く時には途中の芸西村琴ヶ浜への入り口にある「かっぱ市」に寄るのが習慣になっているので、トマトやキュウリ、たまねぎの野菜や地元でとれたチリメンジャコなどを買った。

 それと必ず私の要請で、米のポン菓子を買う。子どもみたいですが、これは懐かしい戦後の駄菓子なんで、70歳近いオジサンが童心に帰って恥ずかしげもなく買っている。(笑)

 その後、野市町の繁盛喫茶店「クリヤ」に寄って、夫婦でモーニングとしゃれて朝食。

 毎日の朝食は夫婦二人分を元喫茶店主の私が5時ごろから台所に入ってモーニングを作っていますが、高知市の方に夫婦で行く時には必ずと言っていいほどここに寄り、自宅にない雰囲気を味わっている。

 さあ、そこから県立美術館までは半時間足らず。会場の県立美術館に着いた。

 自分の作品の展示が気になって気もそぞろでしたが、順を追って1階の先端美術部門の屋内展示を足早に見て、洋画部門の部屋に入り作品をじっくりと見て回りました。

 続いて2階への階段を上がり1階の会場入り口で頂いた私たち二人の入場に必要な出品者証と入選バッジを係の職員に見せるためにポケットから出そうと探すが、ジーンズの左ポケットに入れた出品者証がない。

 「アッ、さっき1階の洋画作品展示の部屋でポケットのバッジを出す時に落としたな」と気付き、慌てて1階の会場に取って帰す。

 そうして部屋全体をキョロキョロと見渡しながら床を探していると、60歳ぐらいの美女3名が「あのー、出品者証を探しているんじゃないですか?」とその券を手に持って差し出してくれた。「アッ、そうです。あー、すみません。ありがとうございました」と美女たちに一礼、苦笑いしながらもう一度、頭を下げ、妻の待つ2階会場入口へ。

 思いました。「やっぱり美女は心もお優しい」。

 一安心して妻と会場に入ると、その会場のすぐ左側の中央に私の作品『岩、迫る』が展示され、絵の下の方には「山脇賞」、「高知県美術振興会奨励賞」、そして作品名と私の名前が書いた札が付けてあった。

 (※7日付けの高知新聞には審査員の講評だけでなく、下のように拙作の写真まで掲載していただいたのには驚いたし大変うれしく思いました)

   

 県展で名前と作品名以外の札が付けられたのは初めてだったもので、「これもいいものだなあ」と、初入賞を二人で喜び合いました。

 妻は言ってくれました。「よかったね。これまでいろんなことがあってあんたも辛い思いをしてきたけんど、これで少しはその無念も晴れたやろ?」。私は黙ってうなずいた。

 そのあとも作品を順に鑑賞してゆき、審査員の智内兄助先生の作品の前に来た。

 智内先生が県展洋画部門の審査員になられることを新聞で知ったのは9月15日ごろの、“審査が終了した2日の午後6時から審査員による審査講評会を高新会館ホールで行う”という記事を見てだった。その審査講評会のお知らせ記事を見て、まだ作品搬入日の前で入選するかしないかも解らない時点だったので、私は「どうせ入賞しないから、講評を聞きに行くことも無いだろう」と思っていました。

 ですが、今回の驚きの初入賞。入選・入賞が新聞発表された10月2日は一日中、「行こうか、行くまいか」と迷った。

 でも結局、智内先生の私の作品に対する講評はどうしてもお聞きしたかったが、午後6時ごろから高知市でということから「室戸からいっても帰るのは9時も10時にもなる」と、取りやめた。講評をお聞きできなかったこのことだけは今でも残念に思っている。

 その智内兄助先生の作品の前にきた。

 智内先生の作品を目にするのは初めてだったもので、見た途端、「私の作品と相通じるものがある」と、本当にマジマジと作品に目を近づけてひと筆一筆の動きを洞察し、少しでもその技術から学べる点があれば学ぼう、盗める点は盗みこれからの画業に活かそうと、しばしの間、じっと目を凝らして見つめ続けた。

 私が住んでいるのが高知県でも末端の小さな町ゆえ、私には絵の描き方を直接習った先生も絵を描いて共にその腕を上達させてきた画友もいません。でも、何事においてもそうだが、そういう人がいなくても自分が根を詰めて突き詰めて研究し続ければ何かが見えてくるものです。版画家・池田万寿夫氏の著作ではないが、絵を描くことだけでなく、音楽や陶芸など芸術はすべて“模倣から創造へ”で上達してゆく。

 私も20歳代からたくさんの作家の画集を見て、いろんな展覧会に出品された絵を数多く見て、30歳になって初めて絵具を買ってきて本格的に絵を描き始め、途中、30年間のブランクをものともせず二年四カ月前からまた描き始め、そうやって絵を上達させてきた。特にこの2年余りは画家のように毎日絵に打ち込む時間ができたこともあって、急速に作品の出来が高まったように思っている。

 さて、私が展覧会に行って長く一つの作品の前で立ち止まるのに妻はもう慣れっこで、智内先生のその作品の前で長居する私を振り切った妻はさっさと先に進み、もう姿は見えなくなっていました。

 智内先生が描いた作品は私の作品同様に、室戸岬の岩を題材にした絵。私が初めて入賞できたのはアクリル画を描き続けていると聞く智内兄助先生が今回の県展審査員になっていなかったら100%、私の入賞はなかったと確信しており、恩人と思っています。

 私が「室戸半島の地質を観光に活かせ」と平成3年から地域雑誌『あおぞら』で2回、特集号を出版し、更に平成20年に地質写真集『青空地質博物館』を出版し全国に向けて情報を発信するなどの活動を続けてきて国土交通省と高知県からの働きもあってやっと室戸市が事業に取り組み始め、いまや世界の室戸ジオパークになった室戸岬。

 智内先生がその室戸岬においでになり作品にしておられることと、県展にその作品を出品しておられたことに驚きました。

 もう、審査員をされた智内兄助先生からアクリル絵具を使っての作品づくりについて一言お言葉を頂くことなどできないでしょうが、今朝の高知新聞紙上に「県展審査評」が掲載されていて、そこには私の作品の写真と次のような講評が載っていました。

 【室戸に人が地元のジオパークを描いた。しかもこのタイトル。直球勝負だ。

 これだけ描き切るというのは、室戸の風土とか地球の生い立ちだとかへの畏敬の念が相当強いのではないか。

 ずばりはまった。】


 何か、先生は私が平成3年から“室戸半島の地質を観光に活かそう”と地域雑誌や写真集を出版して活動してきた来し方(きしかた=過去)を知っておられるような評価で不思議な感じがしたし、「直球勝負」は議員当時からそのままで言い当てていると感じ、「もしかしたら私のことを知っておられるのかな」との思いも持ちました。

 又、「畏敬の念」とは、「神仏のようにそれに対して慎みを以って敬う心情のこと」。私が22年前から室戸半島の地質の素晴らしさを世に広く知らしめたいと数百万円の自費を投じて活動してきたのも、室戸の地質を神や仏のように大事に思い「何とかそれが注目されてその重要性を広く全国の人たちに理解されたい」との願いから行ってきたもので、その私の行いについても智内兄助先生はまるで私のこれまでの経歴を知っているかのように指摘されている。驚いています。

 この私への講評を見て、「描き切っている」の評価には「面相筆を使って何度も何度も線描を加えたことが評価され、努力は無駄ではなかった」と喜んでいますし、「室戸の風土や地球の生い立ちなどへの畏敬の念が強いと感じた」の洞察には感服します。

 出品作は昨年描いた作品に更に色をおいて面相筆を使い細い線で描き込み、加えて上部にV字型の空間を空けてなんとか仕上がった作品。「これだけ描き切るというのは」との評価は智内先生から「ここまでよく描きこんだ」と評価されたものであり、とてもうれしくその講評の文章を読んだ。

 また機会があればジオパークにも興味を持たれているらしき先生からアクリル作品に取り組む心掛けなどお聞きできればうれしいが、そんな機会はもうないだろう。

 私もようやく智内先生の作品から離れ、共感したり技術的に参考にしたい作品があると立ち止まり、遠くからじっと眺め、近くによってはその作品作りのテクニックから学ぼうと画面に目を凝らしながら会場の中を見て回った。

 この後、18日2時から高知新聞会館ホールで行われる入賞者の表彰式に初めて出席する予定。晴れがましい場所で、私と妻にとっては初めて最後の表彰式出席となるかもしれないのでこれには、妻も同行するように伝えてあります。「うん、仕事は早う終わらせてもらっていくようにする」。

 県展最終日(20日)の午後、搬出に行った時に見るまでにもう一度、この18日の表彰式に出席後の室戸に帰る途中、自分の作品が洋画部門の入賞者がたくさん展示されている2階展示室に展示されるのはこれが見納めかもしれないので、会場に寄って見たいと思っている。


 ここからは昨日、2013年の県展に行って思ったことです。

 以前、まだ市議をしていて絵を描いてはいなかった2010年秋、県展を見に行って感じたそのあり方について同年10月11日、この電子情報誌に記事を書いた。

 それから一年たった2011年の県展。県展の展示方法が少し改善されているのを私は見てとった。その時、私は思いました。「この改善されたのを見ると、記事を見て下さった高知県展の無監査作家の先生方や高知新聞の県展関係者の皆さんが、私が書いたブログ記事を基に検討、協議をして下さったな」とすぐ解った。

 それを受け、昨年2012年の県展の時期に県展無監査作家のT先生が高知新聞の「声・広場」に「素晴らしきかな県展」と題する記事を投稿、その改善ぶりを評価されていた。

 そんな今年、日曜日に県展を見に行って私は思いました。

 「室戸市議会議員だった時もそう考えて議員としての職務を厳しく遂行し続けてきたが、県展というイベントに関しても同じだ。

 自分の立場は例え悪くなったとしても、誰かが厳しく指摘して正しい方法に改善を求める言葉を公の形で言うことでその組織やイベントが改善されて良くなることはあり、その行動は世間から評価されない場合もあるが、そういう人間の行動とはとても大事なことだ」。

 そう思って私はこれまで生きてきた。

 今年の県展の(洋画部門だけについてですが)展示方法は良くなったと思っています。通称いうところの“段掛け”であっても、廊下の狭い場所に展示されるよりもみんなが見てくれる点から、特に2階の回廊への展示や県展無監査作家の作品にS100号(162×162)などという大きな作品が並ぶことがなくなり、その分、入選者や入賞者の作品が以前よりも多く2階展示室に展示されるようになったと推察され、大変良かったと感じています。

 入選や入賞の選択は審査員が行ったものであり県展関係者がその当落に介入できない部分であるから、入賞した私からそのことを関係者の皆さんに「ありがとう」というべきものではないとは思いますが、言わば“出過ぎたまね”とも取れる私のブログ記事を見てこの展示方法を改善して下さったことには、本当に心から感謝しなくてはなりません。

 室戸市議会において室戸市長のたび重なる地方自治法違反業務や既に倒産状態にある指定管理者に条例違反の赤字補てんとなる6000万円もの支援を行ったことなどを「政治は公正・公平・健全な形で行うもの。改めてください」と追及したところ、市長は「これは適法だから改めることなくこのまま事業を継続する」「これは財政支援で条例違反の赤字補てんではない」などと突っぱね、不正を認めなかった。すると、そのことを面白く思っていなかった市長の支持者の一部の人たちは23年の市議選で「市長の違法事業を議会で追及した谷口を落とせ!」「谷口には投票したらいかんぞ」とたくさんの市張支持者が落選運動を行い、私は7票差で次点となり敢えなく落選しました。

 このことは、室戸市民のみならず私のブログをチェックして下さっている皆さんは既にご存知です。

 一方、高知県展の展示方法について私が指摘したのは私がまだ室戸市議だったころの2010年の秋。その後、2011年4月の市議選で落選し、その二カ月後の6月から30年ぶりにまた絵を描き始めて今に至っていますが、高知県展の関係者の皆さんは純粋なのか入選もさせて下さったし、すぐさま改めても下さった。

 このことから思うに、≪組織体質によっては、組織のあり方について厳しく指摘され改善を求められた時にすぐ改善しようとする健全な組織と、指摘に反論し違法で不健全な体質を温存したまま継続させようとする不健全な組織があることが解る≫。

 前者は改めるでもなく、反対に指摘した者に反論を加え、更に組織から排除するために手下に指示して落選運動まで行った。一方、後者はすぐさま改めようと検討協議し、次回の県展から展示方法を苦心しながら改め、翌年の県展でも更に改めるべきところはないか考えて下さり、小さな作品を出品した作家や初入選の作家の作品にも心を配り展示してある。

 私はこうも考えました。

 「室戸では市長の不正を議会で追及したら次の市議選では“あいつは市長に楯突くから落とせ”とたくさんの室戸市民が動いた。同じように県展にも2010年秋の県展を見て展示方法について厳しく指摘したから、そのブログ記事を見た県展関係者や主催する高知新聞社の関係者が室戸のような人たちばかりならば私は落選かもしれん」。

 でも、私はその高知県展で2011年、2012年に入選、今年はついに念願の初入賞までさせていただいた。審査員の手前、落選や入賞を取り消すはできないという事情もあるが、関係者は私の作品を三年間、落選させなかった。

 展示方法を改善したのを見て「高知新聞社と県展関係者には室戸の市議選で悪意を持って動いた人たちと違い、“健全な心と組織体質を改善しながら発展させてゆきたいという強い思い”があるんだなと、感じ入りました。

 入賞させて下さった審査員の智内兄助先生はもちろんのことですが、私の作品を排除せずに他の作品と同じように公正・公平に取り扱って下さった高知新聞の県展関係者の皆さんと展示方法の改善を考え実行してくださった県展無監査作家の先生方に、ここでお礼申し上げます。ありがとうございました。そして、今後も高知県内で文化活動に精を出して市町村の文化を支えている作家の皆さんの発表の場としてこの高知県美術展覧会、高知県展が発展されるよう、皆様方のご努力に敬意を表しながら、期待しています。

 ただ、心配なのは高知県内の人口が急激に減少していること。人口減少、それは文化に関わる人口も同じように減少していることになります。つまり、県展に出品する県展作家の減少。イコール、高知県展出品作品の“質”の低下になる。

 私は30歳代(昭和50年代)に約5年間、県展に出品して入選も重ねてきましたが、その時の県立郷土文化会館に展示してあった作品の熱気といったらすごいものがあった。しかし、今は県展会場が二か所に分かれたこともあろうが、当時と比べると熱気は半分以下かもしれません。これは月日が経てば仕方ないことかもしれないが、今はあの熱気がほんとうに懐かしい。

 最後に思うに、私は二年四カ月前、室戸の政治に関わる不正な人たちが行った落選運動によって陥れられ議員職を失いましたが、それに屈せずに正しい道をまたコツコツ努力しながら歩んでいたら、この栄えある受賞。「努力していたらいつか報われるものだ」と痛切に感じています。

 以上、少し長くなりましたが、初入賞に喜び、日曜日に妻と二人して県展に行ってきたことをまずはご報告させていただきました。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、10月7日(月)付けGooブログランキング(193万7466ブログ)中、3433位でした。そして、昨日の10月8日(火)付けGooブログランキング(193万7843ブログ)は、3434位でした。
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日本野球機構はCSシリーズ制を公正に改めるべきだ

2013-10-04 | 文化・芸術・スポーツ
 数日前、プロ野球のCSシリーズのあり方について記事を書いたことを読者の皆さんは覚えておられると思います。 

 昨日、その日本のプロ野球のCSシリーズについて、「ヤマさん」から次のようなコメントを頂きました。

 ≪阪神、中日の両チームを応援していますが、今年の阪神がCS突破することを期待しつつ、CSのシステム自体がおかしいことには賛同いたします。

 日本シリーズの覇者がペナントレース3位チームとなった前例もありますし、そのチームがアジアシリーズに出たら、どうして日本の3位が韓国の1位と対戦するのだろうか?と疑問を抱かれるだけ。

 アメリカ、韓国などの国際的視点から捉えてもおかしな図式。≫


 私の意見に賛同して下さったと感じ、私は次のようなコメントをお返しした。

≪ヤマさん、

 あなたもそう思うでしょ。制度がおかしいよネ。

 首位から15ゲームも20ゲームも離された3位のチームがリーグで勝ち残って、日本シリーズでまかり間違って日本一になったりしたら、そんなのおかしいですよネ。

 こんなことが日本のプロ野球ファンもそれほど大きな問題と捉えることも無く、日本プロ野球界で堂々とまかり通っていることに、昭和30年ごろからのプロ野球ファンの私は大変違和感を以って秋のプロ野球シーンを見ています。

 これは、日本野球機構がリーグ終了から日本シリーズまで何日間も間があくこととその間も利益を上げようと画策して講じたもの。

 又、大リーグの物まねをしてるんでしょうが、大リーグのプレーオフや地区シリーズ開催は勝率の点から理屈が通りますが、日本のCS(クライマックス・シリーズ)はまるで最下位のチームがCSに進出している点から、理屈が通りません。

 簡潔に言うと、私はブログ記事に書いてありますように、「シーズンで弱いチームが恥も外聞も無く、日本シリーズに出るな」、「日本シリーズに出たければ、強くなって首位になってこそだ」と言いたいのですが、間違っていますでしょうか?≫



 是非とも、日本野球機構はもう一度このCSシリーズについて検討会を開き、日本のプロ野球ファン全員が納得できる公正な制度になるよう協議していただきたい。そう強く思っています。

 とにかくいまのCSシリーズは不公正で不公平な制度であり、改めるべき制度であることは間違いない。


 ではどのように改めるか。それは先日の記事にも書いたように、次のような改革案を提案する。

 プロ野球CSシリーズ改革案(CSシリーズ出場三要件)

シーズンを終了した時点に
①勝率が5割以上であること
②首位とのゲーム差が10.0ゲーム以内であること
③順位が3位までに入っていること

 以上の三つの条件をすべてクリアしているチームのみがCSシリーズに出場する権利を有する。


 なぜ「首位と10ゲーム以内」かというと、「日本シリーズに出たいなら、3位で5ゲーム差は厳しいとしても、せめて首位と10ゲーム差の位置にはいなさい」ということです。

 つまり、今年を例に挙げると、セ・リーグは巨人が優勝してCS出場を決めている。阪神は2位で勝率は5割以上だが、首位と13ゲーム離されており、CS出場は不可。又、広島も3位であるが、勝率がシーズン終了まで5割を切っていたらCSに出ることはできないし、首位と16.5ゲーム差であるから言っても、CS出場は不可。

 よって、既にセ・リーグはリーグ優勝している巨人が日本シリーズに出場決定とみなす。(注:巨人と阪神のゲーム差が今の10ゲーム以上のままシリーズが終わった場合)

 そして、パ・リーグの方は、楽天が優勝を決めている。2位のロッテは勝率が5割以上で首位とのゲーム差は8ゲームであるから、CSシリーズへの出場は決定。又、3位の西武は勝率が5割以上で首位とのゲーム差は10ゲームだからCS出場は今の時点で可とする。加えて、西武と同率で4位のソフトバンクも勝率は5割以上で首位とのゲーム差も西武と同じ10ゲームだから、残す2試合の成績と西武の成績次第ではどちらか3位に終わったチームがCSに出場できることができると推察する。

 よって、パ・リーグは楽天、ロッテ、そして西武かソフトバンクのどちらかのチーム、この3チームでCSシリーズを戦うことになる。


 そういうことになります。 

 もし、プロ野球機構の方々が「いまのCSシリーズは公正で公平な制度だ」、「まるで最下位のようなゲーム差の弱いチームが日本シリーズに出て何が悪い」と言われるなら、市議会で市長の違法・不正行為を追及していたコンプライアンス精神に富んだ当方にちゃんと筋の通る回答(この記事にコメント)を頂きたい。

 室戸市長の答弁のようなその“へ理屈と言い訳に終始するコメント”は全世界に情報公開し、不公正で不公平な制度をそのまま放置し続けているあなた方日本野球機構という組織の皆さんを私一人でとっちめてあげるから。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、10月4日(金)付けGooブログランキング(193万6541ブログ)中、2616位でした。

 検索数を見ると全国のプロ野球ファンの関心は高く、やっぱり現行のCSシリーズが如何に制度破綻しているか、解ろうというものです。
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県展初入賞のご報告

2013-10-02 | 私の絵画制作活動
 今朝は高知新聞が来るのを朝の2時半ごろから寝床に居ながら待ちに待ちました。

 3時ごろだったか、外でコトンと音がしたので、「新聞屋さんじゃないかな」と思い、起きて、外の郵便受けに手を入れると「来ている、来ている」。

 不安いっぱいの気持ちで新聞を開いた。

 勿論、宝くじと一緒で、上の特選の方から文字を追った。

 「多分上の特選にはないだろうが、褒状に初入賞したいなあ」と思いながら特選から褒状の方に目を走らせようとすると、途中で「あれっ」と目がとまった。

 特選の名前と褒状の名前の間に「いま確か自分の総一郎という名前があったような」と、バック、バック。

 「アレー! 山脇賞に自分の名前がある」、「作品のタイトル『岩、迫る』も書いてくれているから間違いなく自分のことや!」。

 「アレー! その横の県美術振興会奨励賞にも自分の名前と作品名がある」と二度、驚きました。

 「なぜ?」、「二つも賞をいただけるの?」

 いつもなら、妻をすぐ起こすんですが、今朝は起きてくるのを待って、こう言って驚かせました。

 「おい、落選した」って。

 すると、ニコっと笑って、「ウソ。入選はしちょうろ?」と言うから、「ほら、まー早う新聞を見てみいや」と、すでに私の名前に赤線を引いてある紙面を見せた。

 「エッ、何、これ? 山脇賞ってなに? それにもう一つここにも県美術振興会奨励賞って書いてあるけんど、これもあんたがもらえるの?」。

 「そう、山脇賞いうたら、“洋画部門で受賞経歴のない、将来性あふれる新進作家に贈られる賞”だと前の県展目録にある。山脇信徳という高知出身の『停車場の朝』などで知られる日本の印象派画家の業績を称える意味から賞として設定されたもんよ。おれも前からこの賞をもらった作家をうらやましく思うてきたけんど、まさか自分がこの山脇賞をもらえるなんて思っていなかったし、その点でもほんまにうれしいきんなあ」。

 入賞はうれしいが、これからの県展出品が大変だと痛感しています。

 来年以降に出品する作品は今年の入賞作品以上の作品を制作しないといけないというそのプレッシャーは、入賞して初めて感じるものだとよく解りました。

 来年、県展を見に来られた人たちに「なんだ、昨年山脇賞を受賞した作家なのに、ただの入選か。この作品の出来はなんだ」何て言われないように、今年よりももっと精魂込めて作品づくりに打ち込まないといけないなと、いま思っています。

 そうして夜が明け、7時ごろには室戸市内の友人Kさんから「おめでとう」の電話があり、すぐ後には知人の安芸市議会のK議員からも「おめでとう」のメールが入り、早速の祝電に感謝した。

 初めて県展で晴れやかな入賞。

 今の心境は、「努力は惜しみなくするもんだなあ」と思うのと共に、「長く苦労をさせてきた妻にこの入賞で少しは報いることができただろうか」とも考えている。

 「23年4月の市議選では落選しましたが、この入賞で私に投票して下さった328名の有権者の皆さんにも少しは報いることができただろうか」。

 又、真面目に議員としての職務に従い忠実に働いていた私をその市議選で「落とせ」と落選運動を行った室戸市の悪意ある人たちをこの入賞で少しは見返すことができたと、今は思っている。「上位当選したよ」と。県展の審査は市議選と違い、さすがに落選運動はできないようだ。

 室戸市職員で私を応援してくれている皆さん、入賞したよ! 市民で私を地域雑誌出版の時代、議員当時からずっと応援し続けてくれている皆さん、入賞したよ!

 これまでの応援、ありがとう。感謝しています! 皆さんの応援があったからこそ、ここまで頑張れました。ありがとうございました。

 私はいつもこう思って生きています。

 苦難があっても挫けず、また夢描き、それに向かって日々努力していたら、夢はきっと叶うものです。

 歌にもある。「星に願いを」(ビリー・ジョエル)。ルイ・アームストロングも 「星に願いを」と歌っています。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、10月2日(月)付けGooブログランキング(193万5819ブログ)中、2876位でした。
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