青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。

室戸高等学校創立70周年記念式典に出席

2016-11-20 | 議員活動
   

 私はこの2日に満70歳となりましたが、時を同じくしてわが母校、室戸高等学校も今年で創立70年目を迎えた。

 だから、終戦の翌年の昭和21年にこの母校も誕生したことになります。

 それだけで私にとっては何か感慨深いものがあります。

 今年は特に、戦後すぐに高等学校を創立したところが多く、この「創立70周年記念式典」が全国各地で行われていますが、当地、室戸市にある唯一の高等学校、高知県立室戸高等学校も11月19日(土)に創立を記念した式典が挙行されました。

 生徒一人一人が70年という伝統を感じることができますし、この学校を卒業して社会に旅立った生徒たちも「母校」ともなると、その折々に「あー、あの頃が懐かしいなあ。あいつは今どうしているかな。あの娘は今どうしているかなあ」と思い出したことは一度や二度じゃないと思います。

 私にしても、「同窓会」と言うとすぐ室戸岬中学校当時の同級生が集まっての「同窓会」ばかりですが、この室戸高校を昭和40年3月に卒業した同級生が集まっての「同窓会」はあまり聞いたことがない。だから、今でも同級生の男の子や女の子が今どうしているかなど、時折、思い出して懐かしんでいる。

 同級生も70歳となると、中には先に旅立った友もたくさんいて、寂しい気持ちになります。2年生の時から親友だった山添美穂くんは電通(今のNTT)に勤務していたが30代半ばだったかに病気で亡くなり、松山市で行われた葬儀に出席して別れを告げた。そのほかにも、男の同級生、女の同級生と、既に亡くなった友は多い。

 私にしても、美大進学を希望していたが、父の「家業の製材所で働け」の一声で、涙を抱えて製材所で働いた。その3年後、20歳の時に6トン車に木製品を満載して真夜中の淡路島を走っていて居眠りをして反対車線を走りあと1秒で死んでいた話はこの前に書いた。あの時、トラックの下敷きになり死んでいたら、山添君より先にあの世に行っていたことになるが、私はあれから五十年生きてきた。人生、いつ何時、どう転ぶかわからないという一つの事例です。

 そうやってトラックの運転手として大きな丸太を摘んだり、杉の製品を積んで県外にと夜昼なしで走り続けた。それが40歳まで続きました。

 その後、自分が歩んできた来し方を思い起こし思い起こししながら人生を生きてきましたが、重労働で汗水をたらして働き、やがて地域雑誌の出版や、そこで培った知恵と技術で以って今現在、議会の場で議員として自分が考えたことをそのまま原稿に落とし込むことができるようになったことについては、「大学に楽に進学させずに自分の力で切り開かせようとした父親に感謝しなくては」と思うようになった。

 だから、この室戸高等学校を卒業する時、多くの同級生が県外の大学に進学するのに自分が行けないことに悔しくてたまらなかったことを今でも覚えているが、「人生、苦あれば楽あり。楽あれば苦あり」とか申します。18歳の時から70歳の今までを思い返すと、夜も昼も無しに人一倍働き、人一倍学び努力すれば、大学に行かなかっても大学出以上の能力はつくもんだと、ここ十年ばかり前から思えるようになった。

 父親は唯、昭和18年に創業した銘木製材所をつぶしてはならない、繁盛させなきゃと頑張って来ての、私が卒業する昭和40年の春でした。「息子が美術大学に行くとなると金もいるだろう」と考えても不思議ではない。それは私でもわかっていた。「どうせ親父はこの製材所で上げた利益を自分の学費に出したくないから反対なんだ」と思っていた。

 それは図星だったが、一方では私も「自分の学費のために製材所で稼いだ金を費やしていいのか」とも思っていた。だから、「すんなり」ではなかったが、少し怒りをぶつけた後、進学はあきらめ、製材所で働くようになった。

 室戸高等学校は私の母校です。

 あの入学した37年4月から卒業した昭和40年3月までの三年間、楽しかったこと、悲しかったこと、片思いもあった、みんなみんないい思い出です。生徒も少なくなり、室戸市の人口減少を考えると、行く末も案じてはいますが、子供たちはそれぞれが高校生活を楽しみよく学びして社会に巣立っていってほしいなと思っています。

 そして、次の創立80周年に向けて更なる室戸高校の発展を心から願っています。

 記念式典には多数の来賓の方々や同窓会、かつて先生だった方や職員が参加され、大変素晴らしい式典でした。生徒たちへのしつけがいいのか、生徒たちが起立して「礼」をする時、深く、そして長く、「礼」をしていることにうれしくなりました。おじさんたちも見習わなくてはなりません。

  

 ですが、校歌斉唱の時、歌っている生徒が見当たらなかったのはなぜだろうと思ったものです。どの学生さんも口が開いてなかったから歌ってなかったと思います。

 先生方はあの光景を見て何も思わなかったんでしょうか。

 おじさんは卒業して52年も経っているから書いたものを見ないと歌えませんでしたが、現役学生とならば大きな声で歌わなくてはいけません。

 校歌の歌い方は、前方の少し上を向いて、大きく口を開け、大きな声で「これが僕たち私たちの校歌だ」と堂々と歌うものだと思いますし、私も昭和36年から39年まで、そして学生生活最後となる卒業式までそうして歌ってきた覚えがあります。

 願わくは、一度、先生が「大きな声で歌いましょう」と、全校生徒が集まって大きな声を出して練習してほしい。何事も慣れてくれば、そしてみんなが一緒ならば歌えるようになるものです。

 「礼」は立派な態度だったのに、校歌があれではちょっと寂しい。

 まだ学校の校舎が木造の建物も残っていた、昭和37年の春に入学した一卒業生からのお願いです。

 「自分たちの学校の校歌は3年間の心の支えであるだけでなく、終生懐かしく思い出す歌でもあります。式典での校歌は大きな声で歌いましょう」。

 校歌に関して、こんなことがあった。

 2007年(平成19年)3月の議員1期目が終わろうとしていた時期でしたが、私はあの室戸高校が全国高等学校選抜野球大会で甲子園に初出場して第二回戦に進んだ日、大勢の室戸市民の皆さんと一緒に応援に行った。

 試合が終わって勝利の校歌が甲子園球場に流れた時のことです。隣りに座っていた大阪の人なのか他の県の方なのかわからなかったが、そのおじさんに笑いながらこう言われた。

  「歌詞が如何にも田舎っぽいなあ」。

 カチンときて、こうさらりと言ってやった。

 「あの歌詞がいいんよ、純朴な学生が田舎の自然豊かな風景の中で元気に育ってゆく姿を描き切っているでしょ?」「それに、高尚な歌詞を付けた校歌だからって、一概にその高校が立派な学校だとは言えないでしょ?」。

 おじさんからは何にも言葉が返ってきませんでした。

 本当は私もあの校歌の歌詞が他の都会の大きな高校の校歌と比べるとちょっと見劣りがするとは思っています。でもね、自分が卒業した学校の校歌は恋じゃないですが、甘酸っぱい味がするんですよ、感傷的になるもんなんですよね、たくさんの人が歌っているのを聞くと。その歌には思い出がいっぱい詰まっているもんなんですよね。

 昨日はそれが普通の聴力の私の耳に聞こえなくて、ちょっと寂しい気がしました。
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