青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。絵馬修復師。

陶芸家・梅田純一さんの人生

2008-04-14 | プライベート
          
           海陽町(旧宍喰町)船津杭瀬で活動を続ける陶芸家・梅田純一さんと妻・千恵子さん。
           三年ぶりぐらいになろうか、久しぶりにお会いし旧交をあたためてきた。


今日、偶然、旧知の友人にお会いした。三年ぶりぐらいだろうか。徳島県海陽町(旧宍喰町)の珈琲専門店「ひこうせん」で、同町に在住の陶芸家・梅田純一さんに会った。

平成5年(1993年)9月にこの喫茶店の常連客として店長と奥さんから紹介を受け、知り合い、地域雑誌『あおぞら』の10月号で記事にさせて頂いた人。梅田さんは元々、宍喰町の住民ではなくて、この平成5年4月、43歳の時にこの地に移住してこられ、それから数えると十五年が経過する。

かつて、『週間ポスト』の巻末に連載中の「男の焼きもの」第108回で紹介されたこともある、中央で人気の作家で、宍喰町に移住するまでは滋賀県安曇川に工房を構えて活動していた。

では、なぜ「宍喰町」だったのか。この町との“出会い”は、三十六年前の、昭和47年(1972年)の21歳の頃に徒歩で日本一周の旅をした時のことでした。氏は、十代の頃から陶芸の世界に入り、いろんな工房で修行を積んでいたが、どうしても学校や組織、団体などの型にはまった場所に身を置くことに耐えられず、20歳を過ぎて旅を始めます。

「線と線を結ぶような旅じゃなくて、点と点をつなげていって線にする、そんな旅がしたかった」。

そんな一年近い徒歩旅行の途上で、宍喰町の風景や人との出会いがあり、「自分が陶芸家としての実力を付けた後、ここに住みたい」と思い、決意する。

平成5年に取材した時に梅田さんからお聞きしたのが、「周回遅れのランナーだって、次の時代のトップ」の持論でした。
だから、宍喰の山の中に入って一人寂しく、とかいうのじゃなくて、日本全国と勝負するぐらいの足固めの場、どしっと根を張った活動の場所がほしいと考え、同年5年に家族四人で宍喰町の中心街から17キロも山に入った船津杭瀬の、昭和61年に廃校になった旧杭の瀬小学校に移住。そこに大きな磁器窯を設置し、「梅田純一工房」と名付けて作家活動を再開した。そして、旧講堂を「杭瀬独学舎」として町民や小中学生に開放して交流を続けてきた。

あれから、十五年が経ち、梅田氏も58歳になった。二人の息子は作家として生長し、兄は京都で、弟は石垣島でそれぞれ芸術活動を続けているとのことでした。


今日は久しぶりにいろんな話をさせていただいた。
「この年齢になって、自分のこれから後の残された人生を如何に生きるべきか、生き方をこれまでとは少し変えてみようと考えている」と、お考えを伺いました。

「谷口さん、私もこれまでは父が50歳で亡くなっているから、55歳までの人生を描いてやってきました。でも、いま私も58歳になって、これからは今まで高島屋などでの作品展を年二回にして、85歳まで作家活動を続けてゆきたいと思うようになってきた」。

「谷口さん、相撲も全部勝とうと思ったら、八百長をしないといけなくなります。だから、私はこれからの人生、“型”にこだわって、白星を重ねていきたいと思うようになりました。全勝で無くても、それで勝ち越せばいいんじゃないですか。今、あなたが言われたように、自分の持ち味を生かして自分の後世を送れば」。

このお話をお聞きして、悩みも少しは軽くなった。

心を開いて人生を語り、お互いに分かり合える、そんな友人は本当に貴重です。この日の一時間は私にとって、特別のひと時となりました。


梅田さんは、文学者、ドナルド・キーン氏とも親交をもつ、人間としても卓越した大きさを持つ作家。二人の息子、竹生さん、要さんも中学生、高校生の時に芸術の世界に飛び込み、今はそれぞれが別の分野で活躍している。これからは、この御家族の生き方に学ぼうと、思います。


梅田さんは、「これまで『人生55歳』と思っていたが、これからはゆっくり歩んで、85歳まで、作家活動を目指す」という。そして、「全勝を目指さず、“型”にこだわりたい」とも。この生き方から学ぼう。
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