青空エクスプ レス

日本ではオンリーワンの手書き地域雑誌『あおぞら』の編集発行人を経て、室戸市の政治を監視する改革派議員三期目。絵馬修復師。

地域おこし活動のバイブル『土佐のいごっそう地域論』を知っていますか?

2017-02-27 | 地域づくり活動
 高知県東部地域にお住いの皆さんはよく知っていただいていると思いますが、県外にお住いの読者の皆さんは、私が出版していた地域雑誌『あおぞら』の最終号として平成9年12月に発行した『土佐のいごっそう地域論』を知っていますか?
    

 『あおぞら』は地域のためになればと、44歳の平成2年9月に創刊して平成10年1月まで、苦しい経営の中を儲け度外視で出版し続けていた、全国ではオンリーワンの手書きの地域雑誌。全国表彰も二度受けましたが、この本は、多額の借金を考えて廃刊を決めた時に最終号として発行した。

 手前味噌になりますが、この本は、当時の高知県では盛んに各市町村の若者たちが「地域おこし活動」に取り組む中で、“地域づくりのバイブ”といわれ、評判を呼びました。

 十年ひと昔と言いますが、あれから二十年が経つ今、時代は移り変わり、今や「地域づくり活動」と言っても市区町村の自治体の下請けのようになり下がり、役所から補助金や助成金をもらわないと活動ができないだらしない状況にあります。

 40歳になりジャズ喫茶を経営しながら行っていた私の「地域おこし活動」は、赤字分を自分の店の少ない売り上げの中から毎月5万円や10万円のお金を室戸市を盛り上げるために企画したコンサートや映画会やTシャツ販売などに投資していた。4年間で28回の企画を実行し、いつも市民による活動の中心にいて働いてきた。

 その時、私は一緒に活動をしていた若い人たちにいつも言っていたことがある。

 「役所の金に頼らずに活動することが自分たちのためにもなる」、「活動をするための資金が足らなくても、自分のお金を出したり、市内の店に支援を頼み町おこしを応援してもらって、そうやって町全体の盛り上がりを自分たちで作っていくことこそ大事だ」。

 でも、頑固にそういう姿勢を貫いていた私が室戸市の“地域活動シーン”からいなくなった今、市民の「地域おこし活動」も精神的に弱体化してしまったのか、“寄らば大樹の陰”と考えたのか、みんな何かするというとすぐに役所に駆け込み、「補助金を出してください」と懇願する。役所はそれを「待ってました」とばかりに、すぐに「はい、それにはこういう補助金制度があり、こういう助成金が出せます」とお人よしの職員がすぐにお金を出している。

 これは、私が地域雑誌を出版していた当時にも室戸市役所の職員に厳しく言ったことがある。

 「あなた方は何かするとなるとすぐに市役所の補助金に頼ってしまうが、自分たちが考えた独自の活動なら、なぜ自分たちが持っているお金を出し合ったり協力者を募って寄付金を集めたりしないんですか」、

 「自分たちが行う活動なのに、自分たちのお金は出したくない。寄付金を募って回るのも面倒だし、時間がかかるし、恥ずかしい。でも、役所に行けば何の苦労も無しに金が手に入る。だからとこうやって役所に来ます」、

 「だが、考えても見なさいや。自分たちのお金を集めて活動を行えば、そのイベントなどが終わったとき、『俺たちの力でやったんだ』と高らかに宣言できるでしょ。でも、役所のお金でイベントなどをやっても、『俺たちの力でやったんだ』とは言えないよね。なぜなら、活動が成功したのは全部、役所の金のおかげだから」、

 「辛くても、苦しくても、自分のお金を出すのが惜しくても、自分たちの力でやった方がいい。そうしてこそ、自分たちの力も活動を行うたびに高まるし、その経験が後の時代に生きてきますよ」と。


 そして、「役所の補助金に頼ってくる人たちに向けて、なぜこう言ってやらないんだ。なぜそうやって育ててやらないんだ」、「役所がすぐに、簡単にお金を出して支援することが反対に、役所依存の住民を役所が創っていることになるよ」と教えたが、一人の職員が解っても他の職員や市長が解らなければ、組織は改革されることはない。

 しかし、二十年二昔。時代は移り変わり、自分のお金で地域おこし活動を行う住民は減少し、役所依存の住民ばかりになってしまった。それは誰の責任でもない、役所がこれまでそうしてきたからそうなってしまったということだ。全ては住民側にではなく、役所側に責任がある。

 優しくすればつけあがる。厳しくすれば止めてしまう。ほんに、人を育てることは難しい。

 あとに残るは、自立心のある人だけ。自立心がある人だけが、自分で自分を育て、最後まで生き残る。

 
   

 さて、私が地域づくり活動を行ってきた昭和61年から平成10年までの経験を基にその精神を説いたのがこの『土佐のいごっそう地域論』で、地域雑誌『あおぞら』の全86号の中から抜き出し、“本当の地域づくり活動”とはどういうものかをまとめた本です。

 その巻末に地方議員も学べる精神をまとめてありますので、それを記した後、少し付け加えたいと思います。

 その項目のタイトルは、「町おこしリーダーの条件」

 ①情報収集能力と思考能力を持ち、それを即、行動に移す勇気を持った人である こと。
 
 ②懸命な人に対しては、愛情豊かな人間性を発揮できる人間であること。
 
 ③一つの地域活動を始めた時、他人にやらせて自分は威張っている「仕掛け人」 であってはならない。
 
 ④キャッチフレーズを作る能力と活動を図式化する能力を持っていること。
 
 ⑤ボロは着てても心は錦。自分は貧乏していても、借金して地域の大事業が行える度胸を持っていること。
 
 ⑥大勢の仲間や協力者がいる一方、一人の寂しさ、孤独感にも耐えられる人間であること。一人だからといって、途中でやめないこと。全ての基本は一人で何ができるかだから。
 
 ⑦遊び心に裏打ちされたアイデアマンであること。但し、「遊び心」といっても、遊び人の持つ「遊び心」のことではないので念のため。
 
 ⑧リーダーとなれる人物であるに越したことは無いが、やる気を失ってしまった仲間たちが去ってしまい自分一人になったとしても、自らが実践行動してゆける強さを持っていること。
 
 ⑨いつも地域に危機意識と「俺がやらねば」という使命感を持っていること。
 
 ⑩地域の“宝”を発見する観察眼を持っていること。それには、自分の町を一人でよく取材・調査して回ること。知らないから、“宝”が発見出来ないのである。
 
 ⑪肩書きなどいらない。専門的な分野の情報整理能力を持ち、それを活かそうとする姿勢を持っていること。
 
 ⑫いくら忙しくても平気でいるために、若いうちから夜遅くまで書物で学んだり人の倍、体を酷使して働くなどして、自分の体を自らいじめて性根を鍛えておくこと。でなくて、若い時から人の目を盗んで怠けるような人間ならば、何をやっても大成しない。
 
 ⑬まちづくりは、企画力(方策)と演出(売り方)をどう組み合わせるかだと理解すること。


 
 以上が「まちおこしリーダーの条件」の十三か条ですが、地方議員にとっても参考になることがあるのではないでしょうか。

 これにいくつか付け加えると、議員でも地域リーダーでも、また町の商店主でも大会社の経営でも、そして行政の市町村長や職員も同じですが、これだけは覚えておいて下さい。

 ⑭【何事も、昨日の続きの今日、今日の続きの明日であってはならない】

 これが解かっておらず、おろそかになっている人が多いから、町はどんどん枯れていっているのです。

 この言わんとするところは、いわゆる「マンネリ化の打破」。毎日の仕事がマンネリ化しているから、「より強く、より高く、より速く」がなおざりになっている、ということです。

 日々新たで、頑張りましょう。


 (追記)この本をご希望の方は下記までご連絡ください。

 『土佐のいごっそう地域論』(定価1200円ですが特価1000円)別に送料が必要です。

 青空編集室 電話:0887-23-1214、携帯:090-4506-6343 谷口まで


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私の「観光振興事業」及び「文化活動」も今日が最終日

2016-01-20 | 地域づくり活動
 1月9日(土)から始まりました「谷口總一郎展」も今日、20日が最終日となりました。

 初日からたくさんの方々がおいで下さり、大成功に終わりそうです。

 そして観光客の皆さんも一階のジオパーク関連の展示場をご覧になった後、個展会場になっている2階に上がってこられ、室戸岬周辺の岩や海を描いた絵を見て、「これはいいですねえ」とお褒め下さっていて、室戸市の地質観光のPRに一役買っています。

 これまでにご来場くださったのは、昨日で300名を超えました。

 この中には市外の友人知人も含まれますが、その方々を除いた市外からジオパークセンターに来られた観光客の数字も150名近くになっています。

 昨日までに市内の企業社長数名に元教育長、元市議会事務局職員、そして市課長他職員の皆さん10名も土曜と日曜に集中して見に来てくださいました。

 これまでに室戸市の中心部から離れたこの会場までわざわざ足を運んでくださった皆さん、ありがとう。御礼申し上げます。
 

 さあ、今日が最終日です。この任期中は筆を絶っていて、たぶんこれが私の人生最後の個展となろうと思っています。つまり、あとは、「谷口總一郎遺作展」の時まで私の室戸岬を描いた作品を見ることはできません。それはきっと十年後か十五年後でしょうか。となると、あなたも10歳か15歳年を重ねていることになります。そうお考えになりますと「今見ておかねば」ということになりませんか?(ちょっと押しつけがましいかな、笑)

 今回の個展を開くにあったってジオパークセンターの前に個展案内の看板を取り付けたところ、一人の議員からクレームが担当課に来ました。「個展は議員が行うそうだが、あの『谷口總一郎展』と書いてある看板は公職選挙法違反で、売名行為になるんじゃないか」というものでした。

 私はそれを伝える課長にこう言って笑ってやりました。

 「議員である画家が個展をすることを売名行為と言っているそうだが、室戸市議会の中には別に職業を持っている議員が何人もいるよね。その人たちは巷に名前が出ることがあるが、それは売名行為にならないのかねえ。

 それと売名行為というが、自慢じゃないが私は40歳の時から度重なるように地域づくり活動を重ねてきたし、地域雑誌を出版してきた中で、イベントのたびに新聞紙上に紹介され名前が出たし、高知放送のレポーターもやらせてもらって毎週放送に加わり名前を知られてきた。また、地域雑誌を発行していた8年間でも何度も新聞紙上で紹介され、その8年間にはNTT全国タウン誌フェスティバルで2回、タウン誌大賞奨励賞をもらいそのたびに新聞で紹介された。

 課長、売名行為とは名前が売れていない人が作為的に行うときに使うべきもんで、私のようにすでに三十年も前から県東部地域に名が売れている人間が自身の画家という職業における作品発表を行う行為に対して言うべき言葉ではないよね。

 だから、その議員の指摘は明らかに邪推であり、議員としてもしっかりと仕事をしプライベートの画家としての力も知った上での、嫉妬心でしかない。

 しかし、笑ちゃうよね。男のジェラシーほどみっともないものはない」。


 私は「そんなことを言って人を陥れるヒマがあれば、勇気を出してこのジオパークセンターに私の作品を見に来ればいいのに」と今、思っています。そうして、「すごい絵ですねえ」と他人を評価し褒め称えることも学んではどうだろうか。

 昔から県庁内でも言われ続けてきたことだが、「とかく室戸市においては秀でた人物の足を引っ張り邪魔をする」というのが通説。

 その根幹を探ると、見えてくるのは「自分個人の腕を上げるために人の見ていないところでコツコツと励み探求するという行為に劣り、そのために個々の実力が上がらない。それが故に他人が高い能力を持つと嫉妬し、足を引っ張りたがる。決して応援をしない。だから当然、そういう実力を持つ人を認めず、支援せず、評価を下げようと懸命になる。今回の個展妨害事件もその一つ。その人間に実力があるかないかは推して知るべし。

 しかし、私はそんなもの怖くも何でもない。

 室戸という土地のため、室戸に住む人のために自分のお金を使って正しいことを40歳の年から約三十年間やり続けてきた私です。これからも堂々と“売名行為”を駆使して地域づくり活動を続けて行くことを宣言します!

 さて、個展です。

 今日が最終日。時間がある方、これまで見においでていない方。おいで下さい。私が会場でお待ちしています。

 尚、今日は午後4時で閉幕としますので、お忘れなくネ。


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個展も残すは、あと五日間

2016-01-16 | 地域づくり活動
 9日(土)に開幕した私の文化活動である個展も今日を入れて、残すはあと五日間となりました。

 結構、たくさんの方々が会場の「室戸世界ジオパークセンター」においで下さり、数えるとこれまでの7日間ですでに197名の方々がご来場下さっています。



 市職員の皆さんも土曜日や日曜日を利用して「谷口議員は落選後、これまでの三年半の間にどんな絵を描いていたんだろう」と来ていただき、私はそのたびに「退職後を期待しています」と脅しをかけています。これは冗談ですが・・。(笑)

 個展開催前には私の個展開催を妨害してやろうと、個展の看板を国道ぶちに掲示したことを指し「あいつの売名行為で、公職選挙法違反じゃないのか」という議員もいましたが、これまで法律をないがしろにしてきた議員だったので、笑って一蹴してやりました。その声を受けて看板を室戸市のど真ん中の室戸小学校そばの国道交差点へ移したことが功を奏し、その効果もあってたくさんの方がおいで下さっていて、うちの奥さんは「その議員に『どうもありがとう』って言うちょいたらえいわ」と喜んでいます。

 会場に来られた方々に人気の絵はもちろん、次のような室戸岬海岸の見どころと言ってもいい巨岩の作品です。
 

 

 その次が4点の七福神の絵馬。
  

 これも人気で、私がおすすめするのは初春を寿ぎ、その絵馬の前で柏ポンポンと手を打って「今年一年良い年でありますように」とお願いをすること。わたしがそう勧めると皆さん、笑いながらそうやってこうべを垂れ、祈願してくださいます。中には、「この絵の前に賽銭箱を置いてはどうですか」と教えてくださるお母さん方もいまして、しばし大笑いして賑わいます。

 さあ、今日と明日は皆さんの仕事もお休みです。たくさんの方が見においで下さることを期待しています。どうぞよろしくお願いします。

 丁度三十年前になる昭和61年3月に「文化果つる町室戸」と記者氏に軽くあしらわれた室戸市の文化程度で現在もなお低い文化水準ですが、どこかのお方が室戸市の予算を1千数百万円と使って行う文化財展と違い、一市民であり一議員である私が自分のお金で会場を借り、自分で作品を運び開催した、一つの芸術文化活動です。

 文化がなおざりにされている室戸市において、自分の個展を開くなんて出来事は皆無と言ってもよい環境にあり、それだけを考えても一見の価値はあります。


 「自分はこの町のために何ができるか」。困難なことも多々あるが、自問自答し、その困難を乗り越え挑戦することに意義があるものです。

 人はとかく、すぐに他人に助けてもらおうとします。何かあったらすぐに役所に駆け込み「金をくれ」という例が多い。ですが、それではあまりにも幼稚だ。そんなことを30歳代、40歳代、50歳代としてきたから、60歳を超え、70歳になっても80歳になっても自分でできることをすぐに人に頼ろうとするんだ。

 何事も苦しみながら自分一人でやってこそ、価値があるもの。そうあってこそ、自力がつく。

 他人に助けてもらうこともあってもよいが、それは自分でやってやってして、どうしても助けがいる。そんな時にだけ、助けを求めるものだ。

 「何事も、自分のことは自分がする」。これは人生を生きてゆく上において、たいへん重要な要素です。

 この機会に「地域づくりというものは自分のお金を使って行ってこそ、価値がある」と知るためにも、お越しいただきたい。

 「地域づくりとはこうやってするもんだ」、「文化活動とはこういうようにやるもんだ」ということもこの機会に学んでほしい。

 私はこれまでそう歩んできたし、今もこれからもそう歩んで行くことに決めている。


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アコウ樹修復作業のあの看板は、何処へ

2012-04-03 | 地域づくり活動
         

              

 上の写真、両方とも室戸岬突端の国道沿いにある、アコウの樹根。写真上の絵は、その木をあの有名な印象派の画家・セザンヌが生前に来日し、室戸岬にやってきて描いた作品、というのは真っかなウソで(笑)、昭和55年頃に私が描いた県展入選作品(80号)です。

 写真下は、その作品を描いた当時よりもだいぶ樹勢は衰えたが、その題材になったアコウの木です。

 室戸岬には南方の木であるこんな熔樹がたくさん自生していて、上の木もその一つ。室戸岬には他にもっと樹勢の強い大きなアコウの木がありますが、室戸市民はもちろんのこと、県民みんなが知らないことですが、実はこの木、老いたりと言えども、有名な木なんです。

 このアコウ樹は、あの日本画家の大家、東山魁夷画伯が昭和30年にこの室戸岬においでになり描いた、その木。画伯がこのアコウ樹を描いた作品名は、『樹根』(50号)といいます。残念ながらその写真は一度20歳代に図書館の美術画集でみただけ、以降、東山魁夷画集を買ってきても掲載されておらず、どこを探してもその絵は見つかりませんでした。

 ですが、今回記事にする機会にネット検索して探したところ、見つかりました。次のサイトに掲載されていましたのでご覧ください。題名は「樹根」です。

 この木のことをそんな大事な木だとは観光客はもちろん知らないし、室戸市役所の関係者や市民もそんな高名な画家が描いた木であることは誰も知りません。又、これは東山先生がこの室戸岬にこられた頃、そう、私がまだ画家になる夢を見ていた中学生だった昭和35年ごろから絵の題材にして特に大事にしている、貴重なあこうの木。

 で、この木に関して、数年前から一つ気になっていることがある。

 実は、まちづくり活動の一環として平成3年9月にこの木の修復作業を、地元室戸で造園業をしておられる中山造園さんなどの協力の下、国土交通省奈半利国道工事事務所も協力して下さって友人たちと行いました。それは、みんなの東山魁夷画伯が描いたこの木を枯らしてはならないという強い思いからでした。

 ですが、その修復作業を行ったことを記念して看板を立ててあったのに、この数年前からそれが見当たらず、探しています。

 20年前に設置したあの看板は一体どこに捨てられてしまったのでしょうか。室戸市の観光関係者の皆さん、知りませんか?

 これがその時の看板です。

         

 この写真はモノクロですが、当時私が発行していた地域雑誌『あおぞら』にその活動に参加して下さった仲間のことを記事にして紹介するために撮った一枚。

 この件は近く関係機関に問い合わせ、それを勝手に取り払い捨ててしまった人物を洗い出し、その人に同じものを制作していただき、もう一度同じ場所に設置してもらおうと考えていますが、何と言っても国に許可を頂いた上で私が看板屋さんに制作を依頼し自費で作った、大事な大事な看板。「えーい、こんなもの捨ててしまえ」ではことが足らない。
(しかし、室戸にはこういう悪質な人がいるんですよね。昨年の市議選の直前の3月のことですが、私に向かって「みんなが賛成した議案やないか、違法でも何でもえいきん賛成せえ。市長が行った違法業務を議会で批判するお前は、共産党か」と言った男、然り)

 もし、この看板の居所や、誰が捨てたかを知っておられる方は谷口までお知らせくださいますよう、お願いいたします。

 
 さて話はガラッと変わりまして、「まちづくり」という言葉について、少しだけ。

 よく間違うのがこの言葉、「まちづくり」を「町づくり」と、文言を誤記する例。いや、「誤り」というよりも、「適切な表記とは言えない」としておく。県議選の時、ある候補が選挙事務所の前に看板を設置して、「町づくりを・・・」と表記してあるのを見たが、あれは適切な表現ではなくて、「まちづくり」が正しいと指摘しておきたい。

 結論から言うと、国や都道府県や市町村の行政職員や議員が一般的に行政業務で使うのは、「まちづくり」。例えば、田野町や奈半利町が行う行政施策の意味が「町づくり」、北川村が行うのが「村づくり」、室戸市が行うのが「市づくり」という意味であっても、これらの市町村はそれぞれ「市づくり」「町づくり」「村づくり」とせずに、通常はこの地域づくりの総称として「まちづくり」の文言を使用するのが正しいし、皆さんそうしています。

 それが簡単に分かるのが、パソコンのキーをローマ字打ちで「M・A・T・I・D・U・K・U・R・I」と打つと「まちづくり」と表記されること。(「町作り」と表記される時もあるが)

 また、1981年に神戸市が、82年には世田谷区が日本で初めて制定した「まちづくり条例」。この「まちづくり条例」をどの自治体も「町づくり条例」とはしません。「それは、神戸市という『市』だからだ」の指摘は誤りです。

 ここでいう「まちづくり」は、区であっても、市であっても、町であっても、村であっても、これらの市町村それぞれのエリア全体で行われる地域づくりを総称して、「まちづくり」と指す。だから、室戸市の自治基本条例は「室戸市まちづくり条例」とすべきだし、馬路村であっても「馬路村まちづくり条例」、高知市も「高知市まちづくり条例」となる。勿論、奈半利町は「奈半利町まちづくり条例」となる。「室戸市町づくり条例」ではないし、「馬路村町づくり条例」でもない。ただ、「馬路村むらづくり条例」と名付ける場合はある。

 ま、これらのことは参考にして頂ければと思う。

 行政用語で「まちづくり」と表記するのは、以上のような意味の「まちづくり」だと分かっていただけたでしょうか。

 論語に、「過ちては 改むるに 憚ること勿れ」と、そして「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」とある。

 私も含めて、誰に指摘されようと、過ちは素直に改めたいものです。


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長州での中岡慎太郎の足跡を辿る研修(一日目)

2012-03-05 | 地域づくり活動
3月1日(木)と2日(金)の二日間、土佐の国安芸郡北川村出身の幕末の志士・中岡慎太郎が長州において活動したその足跡を辿る研修旅行に行ってきました。

 主催は北川村の有志で結成している中岡慎太郎先生顕彰会(会長:大西学)。私も2月に事務局を担当している竹村氏からお誘いを受け参加した。参加者は、北川村議5名を含め、総勢25名。それに、お世話下さる高知ツーリストの添乗員1名が加わります。

 私も議員研修には沖縄久米島の海洋深層水温浴施設と富山に勉強に行ったことはあるが、一民間人として歴史上の人物の足跡をたどる研修は初めて。片道7時間ほどバスに揺られて山口県に到着というのも結構くたびれました。これほど長い時間乗ると、バスを降りても船酔いしたようになにかフワフワしてました。

 でも、道中、参加者25名がビールを飲みお菓子をつまみわいわい言いながら、また中岡慎太郎を題材にしたDVDで「土佐のむかし話」をや中岡慎太郎の歌「維新の若虎(いしんのとら)」を聞きながらバスは走りましたので、こんなゆったりした時間もいいなと感じました。

 私は中岡慎太郎の歌を今回の旅で初めて聞きましたが、いい歌ですね。あの歌は、歌う機会、聞かせる機会をたくさん作りもっともっと広く世の多くの人たちに聞いてもらったら、大ヒットするんじゃないかと予想しています。いい歌はジンワリと長くヒットしてゆくものだからネ。

 では、その取材記を写真を中心にしてご報告いたします。

 尚、この研修に県内の新聞社やテレビ局はどこも参加しておらず、わが青空編集室の単独取材となったことを申し添えておきたい。

 では、出発しましょう。


①3月1日:午前6時半、北川村健康センターを出発→高知自動車道・瀬戸中央道・山陽自動車道を通り、途中、下松SAで昼食を取って、午後1時過ぎに 山口県防府市多々良にある「毛利博物館」に到着、約1時間、見学致しました。

  

 土佐には“ついでのモチに粉はいらん”という例えがあります。ちょっと着ぶくれていますが、添乗員さんに頼み撮って頂きました。小生、当電子情報誌に初登場です。

    

 当施設は、侯爵毛利家本邸として大正元年から約5年の歳月をかけて建設され、大正5年に完成。旧長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品・歴史資料約2万点を収蔵、公開しています。これらの資料のうち、国宝が4件7点、重要文化財が約9千点、西日本有数の博物館として知られます。

 ただ、この施設の管理者の想いと相違して一行がこの施設で一番注目したのは、この番付表。

            

 「幕末維新防長異才番付」、つまり、江戸時代の幕末期から明治維新にかけて山口県出身で活躍した人物の番付表です。これを見た中岡慎太郎館の知原前学芸員が口火を切り、「土佐でもこんな番付表を作ろよ」と声が上がり、これから北川村の慎太郎顕彰会がこれに取り組む予定。(?) 東と西の横綱はもちろん、薩長連合に尽力した中岡慎太郎と龍馬であろう。

 尚、この企画を先にパクって作ったりしますと、私が訴えますぞ?!

②午後2時半から約1時間、大村益次郎鋳銭司郷土館を見学。

 長州の大村益次郎は、武士の廃止・国民皆兵の信念をもっていて、新しく徴兵制をしき全国民の中から剛健な体と強い精神、知識に長けた有能なものを採用して外国に引けを足らない軍隊の組織化を目指した。しかし、この計画を疎ましく思う武士たちに襲撃され、亡くなる。「鋳銭司」とはかつての地名で、ここが和同開珎(わどうかいちん)など銭貨の鋳造所があった場所ということでつけられた。

③4時から5時まで、下関市吉田の清水山にある高杉東行(晋作の号)の庵「東行庵」と高杉の墓地、そして高杉の没後100年を前に昭和41年寺の大修理が行われ、併せて東行の業績を顕彰するために建てられた東行記念館へ。

  

 この庵の玄関口の看板見字。達筆過ぎて判読しにくいですが、右から「東」、「り」ではなくて「行」、「庵」と読みます。
       

 この寺には翌3月2日に見学に行く高杉晋作が亡くなった「高杉晋作終焉の地」(下関市の厳島神社参道わき)からこの清水山にある高杉が結核の療養していた「東行庵」に移され、庵の裏山に埋葬された。

 墓地に上がって行き見ると、見た目、このころの偉人の墓石は押し並べて小さいと感じ、それは当時の幕末の志士らに対する一般的な人物評価ともいえると思います。慎太郎にしても龍馬にしてもあまり大きな墓石では無いことからもわかる。いまならばきっと、全国の有志が幕末期における偉人・高杉の業績を褒め称え、もっと巨大な墓石を使って建てられるだろうと思いました。

  

 下の段には高杉先生の銅像も建っていたが、刀の鞘の半分を持ち去った人間がいたのか半分が赤く光っていたのには、がっかりでした。

          

 これが一日目の研修で、その夜は下関市の海岸に近いプラザホテル下関に宿泊しました。目の前は九州は門司。その近さに驚きました。関門橋で渡ればすぐですね。

  


【中岡慎太郎と長州】参考資料を見ながら簡単に説明します。

 土佐の国安芸郡北川郷の庄屋の息子である中岡慎太郎は、世の動きに義憤を覚え、土佐の下級浪士の活発な動きを意気に感じ勇躍、脱藩。文久三年(1863)9月5日の朝、慎太郎25歳の時である。長州に身を寄せ、幕末の志士として本格的に活動を開始します。薩摩藩と会津藩が手を組んで尊王攘夷派である長州勢の追い落とし工作を行った、これが文久三年の「八・一八政変」。これ以後、尊王攘夷運動は終焉を迎え、この尊王攘夷派への弾圧が始まります。

 同時期には土佐でも山内容堂が家老の吉田東洋暗殺を企てた武市半平太ら土佐勤王党を弾圧する。半平太の開放を要求して野根山に立てこもり、やがては野根山から阿波の国牟岐に逃亡した下級武士ら23名、「土佐二十三士」はやがて捕えられ連行されて、翌日、奈半利川河川敷において全員斬首された。そういう時代であったが、10年もすれば文明開化の明治の時代。こんなに簡単に若き命を散らすこともなくなったことを考えると、武士の世は若者が想いを果たすのは難しく、はかなく悲しい時代です。

 慎太郎は、その「八・一八政変」により京から長州にまで都落ちしてきた三条実美ら七卿の護衛役を務めながら東奔西走。薩摩藩と長州藩が手を握ることによって新しい時代が切り開けると考え、その薩長連合の実現を夢見て奔走します。

 幕府は翌年の元治元年(1864)の禁門の変で第一次長州征伐、慶応元年(1865)第二次長州征伐を行い、長州は争乱の時代が続くことになるが、その幕末期の長州には脱藩した下級浪士が自分の「世を変えたい」との思いを叶えられる活動の場を求め、全国から続々と集まってきていた。

 慎太郎もその一人であった。慎太郎は、長州は功山寺にいる三条に会うため、長州は周防国三田尻(現在の防府市三田尻)に向かった。到着したのは9月19日。出発から14日間、2週間を要したことが分かる。因みに、慎太郎が長州で交流した人物には、高杉晋作や桂小五郎(のちの木戸 孝允・きどこういん)ら多くの長州藩士、資金面で慎太郎ら幕末の志士を支援した回船問屋の白石正一郎などがいる。

 さて、取材記が長くなりましたので、二日に分けてご報告したいと思います。ということで、一日目はこの辺でおしまい。


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、3月8日(木)付けGooブログランキング(169万1575ブログ)中、3597位でした。

 全国の中岡慎太郎ファンの皆さん、中岡慎太郎は“遅れてやってきた”日本の偉人。もはや坂本龍馬ブームは終息しました。本日からは慎太郎の正しい人生が世の人たちの範となり、全国の幕末の歴史の場を訪ね歩く歴女たちに恋い慕われるようになりましょうぞ。

 サアみんな、土佐の国は安芸郡北川村においでよ! 中岡慎太郎が待ってるぜ。
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長州での中岡慎太郎の足跡をたどる研修(二日目)

2012-03-05 | 地域づくり活動
走り走りですが、ここからは研修取材記二日目のご報告です。遅れずについて来て下さいよ。


④3月2日(金)の研修二日目は、下関市内の桜山神社から見学。この神社は高杉晋作の発議により殉国の志士の神霊を祀る「桜山招魂場」として慶応元年8月に落成した。(後に桜山神社)

     

 ここに祀られているのは、吉田松陰、久坂義助、白石正一郎、山県有朋(明治34年に追祀)など長州藩騎兵隊士のほか、報国隊や八幡隊士、遊撃隊士ら。神社横には武士や町民の隔てなく391柱の碑が並ぶ。

 神社上り口には「七卿史跡碑」がある。

     

 これは、文久3年(1863)8月18日の政変で世にいう“七卿落ち”となって長州に下った三条実美ら七卿のうちの五卿が、翌元治元年3月29日の下関防衛視察の折に開墾整地作業が行われているこの地(5カ月後に招魂場として落成)に立ち寄ります。そのことを顕彰するため、昭和56年(1981)5月、建立された石碑。

⑤桜山神社からは徒歩で厳島神社へ。
 
  

 嚴島神社の三柱の祭神は安芸国厳島神社の分霊を平家の守護神として安徳天皇の御座船におまつりされていたが、壇ノ浦の合戦後それが磯辺に放棄されていたのを里人が見つけ、文治元年(1185)に里人たちが社殿を建立したと伝えられている。更に安芸国厳島神社より分霊をあらためて勧請し、今日に至る。

 尚、この地は幕末明治維新の大きな原動力となった高杉晋作を始め奇兵隊諸士が活躍した明治維新発祥の地。慶応元年(1865)4月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、同2年(1866)6月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島県)・石州口(島根県)・小倉口(福岡県)の四境で兵力の圧倒的不利にもかかわらず、戦いの火ぶたが切らた。  

 神社境内につりさげられている大太鼓の由来は、この戦に際し高杉晋作はこの嚴島神社に戦勝祈願を行い、この四境戦争での長州軍の勝利は討幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口戦いです。小倉口戦いは、最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊の2隊を先鋒とし戦い、ついに慶応2年8月1日、幕軍は敗走。小倉藩は自ら城に火を放って敗走します。攻め入った長州軍はこの太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦の前に戦勝祈願を行った嚴島神社に大御神へのお礼にと奉納した、ということです。

⑥更に徒歩で厳島神社から出た参道の一角にあるのが、高杉晋作終焉の地

  
 
 高杉は下関小月吉田の清水山に小さな家を建て愛人・おうのらの看病による療養生活を送っていたが、身を案じた正妻のマサが看病のため萩から訪れたことを機に、この下関新地の林算九郎邸の離れ屋に移り住む。しかし慶応3年(1867)4月14日午前2時、明治維新のわずか2ヶ月前に、晋作は息を引き取ります。辞世の句として「面白きこともなき世を面白く」と書きましたが、そこで力を失い息を引き取ったそうです。27年と8ヶ月の短い生涯だった。遺骸は、晋作の遺言により、奇兵隊陣屋近くの清水山に埋葬された。

⑦更にそこから徒歩で白石正一郎邸跡へ。(現在は中国電力の敷地)

 白石正一郎とは、この地で回船問屋として商売をしていた人物で、国学に深い関心を持ち、尊王攘夷論の熱心な信奉者となる。当然、お金があった白石邸には中岡慎太郎や龍馬、高杉、三条実美らが滞在。幕末の志士たちが集まって、交流の場、情報交換の場になる。文久3年(1863)6月には藩名により下関を訪れた高杉と白石の話し合いによりこの白石亭において奇兵隊が結成される。(「奇」と「騎」の違いに注意)結成時には白石も奇兵隊に入隊、資金面から志士たちを支えた。志士たちは白石邸に寄宿していたが、幕末の長州でも“メッカ”のような場所ゆえ、すぐに手狭になり、阿弥陀寺(現・赤間神社)へ駐屯所を移している。

  

⑧今度はバスに乗って、下関市役所横にある大国神社へ。

 慶応元年閏5月6日、桂小五郎(木戸孝允)、坂本龍馬らは上京の途中、薩長和解のため下関に立ち寄る予定の西郷隆盛をこの大国神社で待った。しかし、西郷が現れず桂は激怒する。桂小五郎、32歳のことである。

 蛇足ですが、研修の一行が役所横を一段となって上がって行く途中、黒塗りの公用車から下りてきた紳士に出会いました。「こんにちわ」とお互いに一言、二言、声を掛けあっていると、「私の妻も高知の土佐清水市出身です」と。帰ってきて調べると、あの方は市議会議長の関谷氏らしい。氏には品格も備わっていて、すぐ行政改革と議会改革を妨害する高知県内のどこかの市議会議長さんとは違いました。

           

⑨次は、長州の奇兵隊が屯所を白石邸から移した赤間神社(慎太郎らが活躍した幕末時代は「阿弥陀寺」)へ。国道9号線沿いにある大きく立派な神社でした。慎太郎も長州藩士らと行動を共にしていたので、屯所を置くこの阿弥陀寺にやってきたであろう。

      

 山門をくぐり上がると神社本殿が。
  

 文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は御裳川で引き上げられ、赤間関(下関)・紅石山麓の阿弥陀寺境内に埋葬された。明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。明治8年(1875)に「赤間宮」に改称され、昭和15年(1940)に官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称された。その直後の第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年に新社殿が竣工された。今も天皇陛下がこの山口県に来られた時は神社横の安徳天皇のお社に参拝されると聞いた。

 尚、この神社の南奥には源平の合戦で散った平氏の武将たちの碑がある。前後2列にならんだ14基の塚と、その後ろに無数の五輪塔が建つ。名前の彫られた石板状の塚は板碑と呼ばれる供養塔で、彫られた文字などから1600年頃に建てられたものと考えられている。この中には壇之浦で死んでいない者もいるため、これは本当の墓ではなく赤間神宮の背後の山に散在していた五輪塔を集め、板碑を立て供養したものとされている。

⑩すぐ横の日清講和記念館へと歩く。建物横には講和会議に出席した伊藤博文と陸奥宗光の胸像が。

  

 この建物は勿論、幕末の歴史とは関係ありません。朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清(中国)は、明治27年に開戦します。これが日清戦争で日本が優勢に進み、明治28年の3月から4月にかけて日清講和会議が行われ、4月17日に講和条約(下関条約)は調印された。会議の場所はこの建物ではなくて、会議がなされた医院(のちに料亭春帆楼)に隣接するここに記念館を建設したものです。

  

 赤間神社からみた海峡です。

       

⑪さて、バスは長府観光会館に車を止めて、次はそこから歩いてこの研修旅行のメインとも言える施設へ。それは功山寺と、横の長府博物館。そして長府毛利家の邸宅へと。

 まずは、中岡慎太郎の覚書があると聞く下関市立長府博物館へ。下関周辺地域の歴史や民俗に関する資料の展示及び収集調査を行う施設。私が多いと感じたのは、下関戦争などに関する幕末前後の絵地図。なかなか見ごたえがありました。

  

 施設入り口で、長府博物館の学芸員が「くれぐれもお間違いなきように」と説明がありました。これは全国の歴史ファンがよく間違うことのようですので、ご注目を。

       

 教えて下さったのは、「山口県内で行われたことをただ一くくりで長州藩が行ったと考えては誤りがある」とのことでした。
「長州藩は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩で、藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口城に移ったため、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と称されることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して長州藩と呼ばれている」。

 この説明をお聞きして思ったのは、「長州藩といっても、幕末期から今現在までも萩藩に思い入れがある方と周防藩に思い入れがある方がいて、幕末期から維新後の長州において歴史上、何か成果があったことに関して、「あれはうちの萩藩の誰々がやったことだ」、「いや、あれは周防藩の誰々の功績だ」と山口県内でも議論が紛糾し葛藤があるんだなと理解した。

 そんな込み入った事情を知っている私は、日頃から、坂本龍馬の功績も明治時代以降の作家によって創られた歴史ゆえ、“話半分”で聞いている。

 なぜならば、龍馬のあの八面六臂の活躍がすべて本当なら、龍馬はやがてあと10年、20年もすれば「彼は実は、幕末の時代には空を飛んでいた」という伝記も出てこようと思っている。それほど歴史は郷土愛に突き動かされて創られる傾向があります。だから、皆さんも歴史上の人物の本や大河ドラマの中身を信じず、歴史の要素をつまんで書いたフィクションとして“話半分”で聞き、見た方がいい。

 本当は事実だけ書き、事実だけの大河ドラマを作れば子どもたちの歴史の勉強に寄与するのですが、事実だけを描けばどんな歴史上の人物でも全く面白くないストーリーになる、きっと。だから、作家やテレビ・映画の脚本家らは視聴率を上げ、本の売り上げを増やすために作り話を広めるのです。

 その例を挙げればきりがないが、龍馬伝のように薩長連合は龍馬の功績だなんて筋書きになったり、安芸市井ノ口の岩崎弥太郎と高知城下の龍馬が近所に住む幼馴染で弥太郎の家は埃だらけの貧しいお家なんて突拍子もない作り話になる。それを、歴史を知らない者や土佐を知らない全国民が信じ、事実として広まって行く。そういうことなんです。

 だから、長府博物館の学芸員は土佐国北川村から来た中岡慎太郎顕彰会の面々に「くれぐれも申しておきますが、一口に長州と言っても萩藩と移転しての周防藩があって、それぞれ違う歴史があるので、萩藩が行ったことを『あれは長州藩が行った』などと言っては歴史的には間違いになる場合もあります」と念を押した気持ちはよく理解できる。その通りだと思う。

 今の時代、いや、歴史は時代を経てますます創作されていっており、坂本龍馬に関してもやがて「龍馬はスーパーマンだった」という歴史本が出版されると考えている。

 さて、施設の展示品見学もそこそこに「中岡先生の顕彰会の皆さんだから、今日は特別に」と、いつもは一般見学者が立ち入れない奥へと通されました。そこで見せて下さったのが、中岡慎太郎自筆の覚書。覚書と言ったらちょっと意味が分かりませんが、所謂、借用書。慎太郎が下関で共に行動した回船問屋・白石正一郎から金子を借りたことを書いてある。
 
 その覚書は何と書いてあるかはちょっと読めませんでしたが、「十五両」借りたことだけは何とか読めます。慎太郎が石川誠之助の名で書いた借用書です。

 博物館を出ると、横の功山寺に。曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺。ここは、高杉晋作が奇兵隊からも賛同されないまま、伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊ら、わずか80人程度で挙兵した地でもある。境内には高杉晋作の騎馬姿の銅像が立っていました。凛々しく、りりしく。

 

 研修最後は、功山寺から歩いてすぐの長府毛利邸に。明治36年にたてられた邸宅で、明治天皇のご宿泊所にも使われていたそうです。が、これは幕末の志士たちの歴史とは関係のない建物であり、いくら立派な建物と庭園であってもここだけは私にはまったく関心が沸かず、お昼を回っていることもあって、数名の方々と一緒に早々に退散してきました。

 それよりも、国道9号線沿いの観光会館から功山寺や長府博物館までの小道はなかなかのもので、高く評価している。まず、アイガモがたくさんいる壇具川沿いの小路を歩いてゆき感じたのは、電柱と電線を地下に埋設してあること。これが通りの美観効果を上げていたし、小路沿いにある家々もみんな立派な庭のある風情たっぷりで、行った日は小雨が降ってはいましたが、「ここはいい所だなあ」とうれしく思ったものです。

 そうして、観光会館まで戻ってきて、やっと昼食。全員が2階食堂の座敷に上がり、地元長府観光協会の金田会長さんらに長府博物館の学芸員2名も加わり、和気あいあいの雰囲気で楽しく昼食をしました。食事がすむと、バスはすぐに高知へと出発するので、各自、1階の土産物売り場に向かい、高知からの一行が店内にある土産物を全部買い占めてしまいました。(笑)

 研修はこれでおしまい。2日の午後2時に地元の観光関係者と別れを惜しみつつ、バスは出発しました。

 行きも帰りも約7時間、バスに揺られて帰ってきましたが、大変だと思ったのは、バスに乗っていた我々よりも運転をしていた高知東部交通の運転手さんだと思いました。私も18歳から大型トラックに乗って県外に向け走っていたからわかるが、片道7時間は長い。途中でPAに寄りトイレ休憩はしますが、それでも長旅に運転手一人はたいへん。夜9時半に北川村に帰ってきてバスから降りるときには「ご苦労さん、大変やったね」と運転手さんにねぎらいの一声かけた。終始、にこやかないい運転手さんでした。
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長州での中岡慎太郎の足跡を辿る研修(補足)

2012-03-05 | 地域づくり活動
 長州に行っての研修報告の最後に、近江屋での暗殺事件の新説をここで明らかにしておきたい。

 いま手元に、幕末維新史の研究者・木村幸比古氏の著書、『幕末維新入門』がある。この本では幕末から明治にかけて活躍した人物1名を見開き2ページに紹介している。その12ページにわれらが地元出身の偉人・中岡慎太郎先生が紹介されていて、そこにはこう書かれています。

 「中岡慎太郎は龍馬と違い、武力によって幕府を倒す(倒幕)ことを狙っていたが、晩年は龍馬の説得もあって考えを和らげていた。どちらかと言えば、死後有名になった龍馬に比べ、中岡慎太郎は幕末の当時から(京都や長州では)名を知られていたため、薩長連合や大政奉還の一番の功労者は中岡であったという見方もある」。


 このことを考えると、慶応3年11月15日の夜、京都河原町で醤油屋を営む近江屋にいた龍馬を訪ねた陸援隊の中岡慎太郎は午後8時頃、話しをしていたところを十津川浪士とみられる男たちに襲われ亡くなった、そして襲われた主人公はこれまで坂本龍馬とされてきた。だが、もしかしたら、本当の狙いは幕末期に龍馬よりも名高かった慎太郎であったとも充分考えられる。彼らは中岡慎太郎が龍馬の所に入っていくのを確認して慎太郎を襲ったもので、龍馬はただその場にいたからついでに殺害されたともいえる。

 全国の皆さんはこれまで、先入観で、また明治時代以降に土陽新聞(今の高知新聞)の新聞記者や作家が書いた書物で暗殺事件被害者の主人公たるのは坂本龍馬で脇役が中岡慎太郎と思いこんでいて、慎太郎は巻き添えを食ったものと今まで考えてきたと思いますが、真実は、十津川浪士の狙いは慎太郎で、龍馬はこの暗殺事件の脇役であり、巻き添えを食ったのは龍馬の方だったのです。だから、慎太郎が近江屋に入って行かなかったら龍馬は殺害されていなかったことになる、・・・との考え方も成り立つ。

 つまり、暗殺の目的は、慎太郎が50%で、龍馬が50%ということです。

 皆さんお分かりかな。こういう説も当然考えられます。だから、歴史は本やテレビを見て知ったからといって、「あー、こうだったのか」と先入観で見てはいけないんです。今の韓国ドラマの時代劇と同じで歴史物は史実ではないフィクションが多いんだから、あらすじは最初から疑って読み、疑いながら見ないといけません。

 私も幕末期の歴史に関心を持った地域雑誌を出版していたころからこう思ってきたし、これからもそう信じて生きてゆきます。「幕末の時代に、坂本龍馬は脇役だった」と。

 いまや史実に相違してスーパーマンとなってしまった幕末の志士・坂本龍馬とちがい、長州の雄・高杉晋作と盟友だった中岡慎太郎の歴史だけは真実を語り継いでゆきたいものです。それが歴史において正当に評価される一番の近道だと思うから。

 最後に。

 しかし、思います。幕末期に活躍した人たちはみんな短命であったが、そのどなたもが名を残しています。中岡慎太郎が29歳、龍馬は32歳、高杉晋作は27歳、吉田松陰は29歳等々と。あの時代はそれほど激動の時代だったんでしょうね。

 若くても名を残すことができた理由として考えられるのは、人口が少なかったこと、動乱の政治に関わる人が少なかったこと、若くても名を為すためそして悪政を改めようと血気に逸った時代だったこと、そう考えて故郷を捨て命を惜しまず勇気を以って戦いの場に出て行ったこと、当時の人間は非常に短命だったことなどが挙げられます。

 私は特に、当時の日本の人口がそうさせたのではないかと考えている。嘉永3年(1850)の日本の人口は約3228万人、明治5年(1872)は約3481万人だったことから、その真ん中の1861年(文久元年)の人口はおよそ3354万人と想定できます。これは、現在の日本の人口の約4分の1。民主的ではない幕末時代の国の悪政と戦って名を成すパーセンテージは、当然、上がってきます。いま若者が国の政治に関わっても、部分的には力になれても国を大きく動かすことは不可能。・・・なんてことを考えます。

【特別付録】

●中岡慎太郎語録
「何ぞ一時貴賎を以って心を動かさんや 継がんと欲する所の者は大道耳、一家一族の比に非ず」
(志とは、目先の貴賎で動かされるようなものではない。今卑しいと思えるものが明日は尊いかもしれない。君子となるか小人となるかは家柄の中にはない。君自らの中にある)

●高杉晋作語録(高杉辞世の句)
「おもしろきこともなき世をおもしろく…」
(面白くない世の中を自分たちの手で面白くしよう)

 破天荒で、一旦こうと決めたら貫かずにはいられない頑固な気質の人で、辞世の句も自分の信じる道を走り続けた、実に高杉らしい一句。

●大久保利通語録
「為政清明」
(政治を行う者は清らかでなければならない)

 これは大久保利通が座右の銘にした言葉ですが、政治において違法・不正を行うことやその違法・不正を止めることを何とも思っていないどこかの市長や議員に聞かせたい言葉です。大久保は独裁的な政治を行ったことから、私利私欲で政治を行う奸賊として最後は暗殺されている。この言葉がそんな人物の言葉とは私は思えないが、市長選で「公平・公正な政治を行います」と演説して当選した後、違法を繰り返す市長がいることを考えれば、この言葉も悪質な政治家特有の人を騙す虚偽発言であって、「人の口に戸は立たん」の類か。

●吉田松陰語録
「斯くすれば斯くなるものと知りながら、止むにやまれぬ大和魂」
(このようなことをすれば、結果、こうなるものと解っていたが、大和魂ゆえにやらねばならなかった)

 この言葉は、幕府老中・間部詮勝暗殺を企てたことで捕えられ、松陰が江戸へ護送される途中、赤穂浪士の墓地の前を通った時に読んだ詠んだもの。法に背いてでも主君の仇討ちをした今は亡き赤穂の浪士たちの気持ちも今の自分の気持ちと同じだ、との思いを吐露したものだった。

「天下才なきに非ず、用ふる人なきのみ、哀しいかな」
(才能がある者がいないのではない。その才長けた人物を重職に用いるだけの才能を持った人物が上にいないのが哀れである)

 その通りです。これは今の企業や組織においても同じことが言える。「上に立つ人間は能力があり、部下はその人よりも能力が劣る」とは言えないことで解ろう。むしろ、欲の皮が突っ張った能力と品格に欠けた人物が上に立っている例は多い。あなたのまちにも、あなたが務めている会社にもいるんじゃないですか?

「大事を断ぜんとと欲せば、先ず成敗を忘れよ」
(大事を成し遂げようとするならば、成功するか失敗するかを悩むよりも、まず行動を起こせ)

 何か行動を起こそうとするとき、人は失敗を恐れて逡巡するものだが、長州でも武闘派だった吉田松陰は「まず行動せよ」と説く。その失敗を恐れる心こそが行動の妨げになることを知れと教えている。自らがそう実践してきたことだから私にはよく理解できるが、違法な議案だとわかっておりながら勇気がないために議会の表決において「まーいいか」と賛成してしまうどこかの議員さんたちにはこの松陰が言わんとする所が解らないだろう。
 “大和魂なんかあるわけはなく、勿論、天才でもなく、成功はしたいと思っているのに行動を起こせない。ただ夢描くのは、他人以上に金が欲しい”。そんな政治家は全国に山といるが、そういう人間に吉田松陰先生のこの教えなど理解できるわけがない。

「何事もならぬといふは なきものをならぬというは なさぬなりけり」
(何事においてもできないということはない。それは、行動していないだけだ)

 これは、私の師・上杉鷹山の教え「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成さぬは人の為さぬなりけり」をただ言い変えただけの言葉とみた。吉田松陰先生にしては少々ひねりに欠け、含蓄力も乏しい。

 私は鷹山がいう“行動哲学”を基礎にしたこの言葉を更に変化させ、物事にはチャンスとなるタイミングがあることを「為すべき時に 為すべきことを 為せば成る」と平成3年の地域雑誌を発行している時から読者に向け伝えている。

 どんなに成功しそうなことでも、行動を起こすそのタイミングを逸すれば絶対に成功しないと。

●福沢諭吉語録
「心事高尚ならざれば 働きもまた高尚なるを得ざるなり」
(心に高い志を持ち努力を惜しまず働かなければ、あてもなく時は過ぎ去り、良い働きもよい結果も生まれない)

 その通り。これは福沢諭吉の著作『学問のすすめ』に書かれている有名な言葉。諭吉は、今の自分に満足せず常に目標を掲げ努力することが大切だと考え、新しい知識にどん欲で、その知識欲から数多くの著作を生んでいる。

●勝海舟語録
「ただ行うべきだけを行えば善い 自分で自分を殺すやうなことさへなければ宜しい」
(自分が信じた道を進めばいい 辛くても、貧乏でも、決してあきらめるな)

 自分が決めた道なら、例えそれがどのような結果になろうとも、納得できるものだ。だから、結果がどうなっても途中で投げ出さず、初志貫徹の精神で最後まで貫くことが大事だと教えている。何か大事を前にした時、このような先人の言葉を目にすると、自身に自信が沸いてきますね。 


※電子情報誌「高知発!青空エクスプレス」のアクセス数は、3月5日(月)付けGooブログランキング(169万0442ブログ)中、2625位でした。大変たくさんの方々に当電子情報誌にお越し頂き、うれしく思っております。
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自らが先頭に立て

2012-02-08 | 地域づくり活動
 私はかつて1990年(平成2年)9月から1998年(10年)1月まで取材記者、カメラマン、全て手書きページの編集人、訪問販売員、発行人などをすべて一人でこなし月刊として地域雑誌『あおぞら』を発行していました。この雑誌は、私が昭和61年から開始した地域おこし活動の経験を基にしてそのあるべき姿を訴え続けた地域誌で、当時は毎月、まちづくりのあり方に関する記事を何かを想起するたび連載のように書いていて、それらをこの『あおぞら』の最終号(第87号)として平成9年12月に発行した単行本『土佐のいごっそう地域論』にまとめた。

 今日ご紹介するのは1992年(平成4年)6月に発行した第20号の誌上に掲載した記事。記事の内容は、地域づくりはまず自分が先頭に立ってこそ値打ちがあるもの、自分が矢面にたってこそ評価に値するものだとの教えとして書いたものです。尚、文中の年代などの記述は記事を書いた平成4年5月当時のものと解釈してお読みいただきたい。


≪突然ですが、何事をするにも他の人と一緒になってやらないと不安だ、という人がいます。

 原因は人それぞれ色々あると思うが、まず考えられるのは「経験がないから」ということ。そして、「苦労を一人で背負いたくない」、「みんなとやると負担も責任も分散で来る」、「自分が赤字を負担しなくて済む」、「一人でやるほどそのことについて一生懸命になってやる気はないが、友達や異性が来るからグループに入っておこう」など、理由は千差万別だろう。

 この中で、「経験がないから」というのは仕方ないにしても、地域おこし活動においては後者の考え方を持つ人では少し困ります。“その他のスタッフ”もイベント当日にはありがたいが、やはり、自分から何かやってみたいという気持ちを持っていないと地域づくり活動は成功しない。いつも「他力本願」ではこの土佐の国は良くならない。

 よく聞くのは、「仕掛人」という言葉。(※平成24年の今、あまり聞かなくなったが)

 私は地域おこしのイベントなどでいうところのこういう「仕掛人」の立場にしか立てない人が大嫌いです。それは、一言で言うと、責任を取らないからです。責任転嫁、責任回避する人ばかりで、それでいてスタッフの中では一番偉そうにしているから。

 そこで「仕掛人」と呼ばれる人間はどういう性格を持った人間なのかと辞書を引くと「仕掛人」という言葉はなくて、「仕掛ける」があった。そこには「①し始める ②仕向ける。行動に出る ③準備する」とある。

 そこで、ここでいうこれらの意味を地域おこしでよく使われる「仕掛人」に当てはめてみると、①の「し始める人」というよりも、②の「仕向ける人」と言う意味の使われ方の方が多い。で、「仕向ける」をもう一度、辞書で引くと、「相手にあることをするように働きかける」とある。だから、「仕掛人」とは、「自分が先頭に立って働くのではなくて、相手にあることをするように働きかけるだけの働きしかしない人」と言うことになる。

 つまり、この記事でいう「仕掛人」とは、先頭に立ってやり始める人」のことをいうのではなくて、「横から、後方から仕向ける人」のことをこう呼んでいるんです。

 だから本来、「いよー、仕掛人」などと呼ばれると腹立たしいものですが、偶に「あの人がこのまちおこしイベントの仕掛け人です」と新聞やテレビなどマスコミで取り上げられると納得してしまって喜んでいるのには、可笑しくなってしまう。なぜなら、先頭に立って、全ての出来事の矢面に立って活動している人を指して「仕掛け人」とは言わないからです。

 それが例え、そのイベント等の活動をその人が仕掛けたのであっても、仕掛けて先頭に立っている人ならば「仕掛人」とは呼ばずに「実践家」と呼ぶだろう。だから、仕掛けて、先頭に立たずに責任も取らない人は、所詮、「仕掛人」でしかないといえる。

 くれぐれも言っておきますが、地域おこし活動をしておられる方は周りから「仕掛人」と呼ばれてうれしがらないで頂きたい。

 何が問題かというと、「仕掛人」には失敗した時に責任がない、いや違う、「仕掛人」にも失敗した時には責任があるんだが、責任を獲らないという点に問題がある。本物の地域リーダーならば、まず自らが先頭に立ち、その一つのイベントのすべての責任を自分が持つぐらいの勇気がほしいし、また、そういう形がないと成功も内と言える。

 次に、もう一つ聞く言葉に、「黒子」というのがある。

 平成4年2月に富山県氷見市で開催された同県主催の地域づくり会議「裏方さんの夜なべ談義」に参加して、地域づくりに関してはリーダーが情報交換を行うことが非常に効果的だと考え、高知県内ではまだ一度も開催されていなかった地域づくり全国大会をこの年に室戸市の国民宿舎を借りて開催しました。その「四国地域活動交流会議」には全国から87名の方々が参加して下さった。

 会議参加者の中に徳島県内のある町職員がいました。その方が言うに、町役場の職務に関連して住民の地域づくり活動を支援していると言い、「今は黒子に徹したい」と話していたが、言っていることに何か違和感があり、釈然としませんでした。どこが疑問だったかと言うと、公務員が自分が担当する課の職務に関連して住民の地域づくり活動を町役場の予算を使って支援しているのに、「私は黒子に徹したい」という点。自分は役場に勤務して国民や徳島県民、そしてその町民の税金が原資である町予算から給与を貰い職務をしている立場なのに、一般住民が地域づくり活動をしている時に言うようなことを言っていて、根本的に考え方が間違っていたこと。

 こういう考え違いは如何にも公務員的で、地方公務員だけじゃなくて、国家公務員もやってしまう。

 だから、先の「今は黒子に徹したい」も、「ほんとうは私が私の町の住民が行っている地域づくりの仕掛け人ですが、今は黒子に徹したいと思います」と言っていると解釈できる。

 言っておきたいことは、国家公務員も地方公務員も同じで、国民や住民からお給料をもらっている職にある限り、その職務を全うしてそれでプラス、マイナス、ゼロで、「その事業はおれがやってやった」なんて自慢事は言えないと知るべし。だから、公務員の職にある者は表(生えある場)へ出ずに「黒子に徹する」のは当たり前である。しかし、どうしても首長や行政職員や地方議員など公務員は「私があの施設を作ってやった」とか、「私があの道路と水路を作った」とか、「私があの住民たちの行っているイベントの仕掛け人」なんて見当違いのことを言いたいし、そんなおごり高ぶりがある。

 そこで、この「黒子」とは何を指すのかとまたまた辞書を取り出して引いてみたところ、「黒子」(黒衣)とは「歌舞伎で、黒い着物を着た、役者の後見人」とあった。

 だが、これは芝居の世界の話で、世間で抽象的に使われている意味ではない。では本来、巷で使われている意味はどうなのか。

 それでは「役者の後見人」と言うからと、「後見」を引いてみた。これには、「①人の後ろ盾となって世話をすること ②代理や補佐をする役目」とある。これを「後見人」に当てはめると、①が「世話人」、②は「代理人」、「補佐役」の意味になる。

 だから、地域づくりにおいての「黒子」とは、「助ける役、補佐役」の意味と、「これまでいろいろあって疲れたから表舞台にはあまり出たくない。出ると、自分への風当たりが強くなり、自分にとって都合の悪い不利な状況が生まれる恐れがある。役場内での昇進にも響く。こう考えている人物」という意味だと解釈できる。

 又、「後見」の意味の①は今でいうところの「裏方さん」で、地域おこし活動の分野では重要な位置を占めるが、先に示したこれまで町の地域づくりに関わってきた町役場職員の言う「今は(「これからは」の意味)黒子に徹したい」とは、②の方の気持ちが強く表れた言葉。

 その町役場職員からこう聞いた時に私は、「あー、そうですか」の一言であとは何も言わなかったが、内心、「黒子に徹すると言うが、ならば、あんたは役所に勤めていて、これまでどれだけの一流のことをしてきたんだ。町役場の仕事である業務を行い、その代償として住民からお給料をもらいながら地域づくりの仕事もやらせてもらっていただけなのに、それじゃあ、まるで住民の中で先陣を切って、身銭も切ってまちおこし活動をしていた人みたいじゃないか、でも違うでしょ? それと、あんたは自分が行政マンの仕事の一環として給料をもらいながら住民が行っている地域活動の支援をしているだけなのに、値打ちをつけて黒子に徹するなんていうが、あんたはただ飽きたからやめたくなっただけでしょ?」と思いましたね。

 大したことのない人に限って、その途中でこう大見得を切るし、大見得を切って去ってゆきます。

 これらのことから学ぶことは、いつも自分のいる立ち位置は明確につかんでおくことと、実績を踏まえた発言をすることです。

 公務員がよく見当違いをすることは、住民から毎月給料をもらって国や県や町の税金を使って公的な職務に従事していることなのに、住民に対して行う業務(これを「住民サービス」なんて言うから勘違いするんだ)を「してやっている」と思っている公務員が如何に多いことか。よく基本を勉強して認識を改めてほしいが、公務員は住民に雇用されている立場。だから、頑張って仕事をして、それで当たり前。頑張らなければ、それは給料泥棒になり、税金の無駄遣いと言ってもいい。又、行った業務が大きな成果を挙げても、それも当たり前のことだから、自慢してはいけない。

 国家公務員も地方公務員も同じです。

 だから、国会議員や地方の政治家など国や地方の政治に関わった人間がよく褒章をもらっているが、国や地方の県や市町村から毎月給与や報酬をもらっている立場の人間たちになぜ勲章を与えるのかと、毎年その時期になると怒りにも似た気持ちになる。

 公的な職に就き給与や報酬をもらっている立場の人間は、職務の代償として既に毎月、国民、住民の税金を原資とする金をもらっている。そのことは疑いもない事実だ。そんな人間が、その上になんで褒美を与えるに値するといえるのか。いくらその首長や議員が町や村の地域に貢献したからと言っても、その人には町に貢献してもらうために税金を使って首長と行政職員には「給与」という褒美を与え、議員には「報酬」と名のつく褒美を既に与えてあるではないか。その上に何で更に褒美を与えてやる必要があるんだ。

 国の褒章というものは国内外の日本人で、芸術や文化、スポーツ、技術などに優れ、公的な職になくて税金から給料をもらった過去がない人に与えるべきもので、長年、税金で飯を食っていた人に与えるべきものではない。

 これらのことを関係者はよく覚えておいてほしいし、考えてほしいものだ。

 さて話を戻すが、地域づくり活動においてのこの二つのタイプ、「仕掛人」と「黒子」に該当する人物では決して、この高知県の元気を表現することはできません。早く言えば、どんな職業においても、偉くもないのに段取りばかりして本来の自分がしなければならない仕事をほったらかしにしている人はいるものだから、皆さんも良くお分かりと思いますが、相方としては当てにならないというか、信用できないんですよね。

 そして更に、ここに二つの言葉がある。

 高知県が進めているふるさと創生事業のキャッチフレーズ「自ら考え、自ら行動する」。

 そして、もう一つは、故ケネディ大統領就任時の有名なフレーズ、「(前略)だからこそ、米国民の皆さん、あなたの国があなたのために何ができるかを問わないでほしい。あなたがあなたの国のために何ができるかを問うてほしい」というもの。

 このどちらもが「自らに問い、自らが発想し、それを基に自らが先頭に立って行動を起こしなさい」という教え。それがたとえ一人の行動、運動であっても、地域に何がしかの貢献をすることができますよ、という意味だ。

 「一人では何も出来ない」とか「一人でやっても成功はしない」と考えていては何をやってもダメで、「自分がやれる精一杯のことをやれると思い、汗と、時には涙も流し、少しでも高処(たかみ)を目指し頑張ってみる」、そういう気持ちで他人を当てにせずにやってみれば、長年の夢もきっと達成できるだろう。

 以前こんなことがあった。

 昭和63年だったか、ジャズ喫茶をやりながら地域活動を実践している私のところに県東部、中芸地区(5か町村)で地域おこし活動をしている人たちが来て、地域活動の拠点となる建物を自分たちの力だけで建築しようという計画が持ち込まれた。それを私にも手伝ってほしいという話だった。

 私が喫茶店を開業したのは昭和61年2月でしたが、その翌月の3月のこと、高知新聞に本社への異動が決まった室戸支局長がコラム「土佐あちこち」に書いた「文化果つる町、室戸」という室戸の文化の低調さを嘲笑ったような記事が掲載された。30歳代は高知県展で8年間入選を重ね一応は県展作家として活動してきたこともあって、その記事に怒りを覚え、その記事をきっかけにして私は精力的に文化活動を開始しました。

 そのように映画会だコンサートだと、地域おこしと呼ばれている町の文化活動を続けていた関係から、「室戸の谷口にも参加してもらおう」となったのだと思う。

 私の店にやってきた田野町や奈半利町の人たちの話を聞き、私は「その建物をみんなで建てることが地域おこしの地域PRになるし、完成すれば拠点となって地域おこしに関わっている人たちの会議の場、情報交換の場になる」と考え、「よしっ、それは面白い話だ、やろう」と大いに賛同し、うちの店で室戸での第1回目のミーティングは終わった。

 そのみんなの帰り際、本当に冗談のつもりだったんですが、「みんな、やり始めたからには途中でやめたりしなよ」と笑いながら、会議に出席した人たちに声を掛けたものでした。

 それから約2週間後、2回目の会がうちの店で持たれた。集まったのは6人。最初の会議には15人ぐらいの人で店は大賑わいだったから、初めから変な予感がしていた。そして、この計画を企画した二人がおもむろに話し始めました。「実は、あの計画だが、私と彼はいろいろな世間のしがらみがあるので、表立って活動できない。それに私の知人のAさんも『その計画は無理よ。やめちょきや』というし」と、計画を全面的に中止しようと言う。(※注:「私」は商工団体の職員、「彼」と「Aさん」は公務員)

 彼らの名誉のためにこれ以上、詳細に書くことは止めるが、その時に考えたのは、地域づくりにおいて、計画し経費を計算していざやろうと決めた後に赤の他人である部外者に「やめちょけ」と言われたからと、男がいったんやると決めたことをそんなに簡単にあきらめられるのだろうかと思いました。

 そんなに我が身が可愛ければ、なぜ発起人として先頭に立ったのだろうか、そんなリスクは初めからわかっていることなのに。

 やろうと決めて動き始めたときに誰かが「そんなこと無理よ。やめておけ」と言ったからとすぐやめてしまうぐらいなら、なぜ彼らはそんな大きな話を多くの人にして集めたのか。

 この時期、このことについていろいろと考えを巡らしました。

 要するに、この地域活動の拠点づくりの計画は最初からその九分九厘を私たち民間の人間にやらせて、彼ら公的な職にある者たちはもともと先頭に立つ気はなくて、「仕掛人」のつもりだったのです。そのことを周りの「よしっ、やろう」と参加した後発の人たちは知らなかったのである。彼ら、計画を立ち上げた中の二人は、さいしょから「自ら考え、自ら行動する」のではなくて、「自ら考え、他人に行動させる」つもりだったのだろう。

 ですが、思うんですよ。そんなにみんなが楽ばかりしてちゃあ、この土佐は良くならないぞ、と。

 みんなが考えてばかりじゃ、矢面に立ち行動する人間は一人もいないってことだぞってね。

 「解ってんのか、おみゃあ」って。

 日本全国、地域おこしだ、まちづくりだって活動している人はたくさんいるが、その大半の人たちは、家庭の無理解、自腹を切って作った借金などによる金銭的な苦労、睡眠不足、休日不足など、多くの悩みやリスクを抱えながら、両肩にはそんな重い荷を背負い、それでも自分の町や村が良くなるのならと、元気になるのならと思い、やっているのである。勿論、無給でだ。決して公務員の仕事のように、給料をもらいながら町や村のことを考え行っているのではない。

 「そんな辛いことは、いや」、「アイデアだけ出して他人にやらせる仕掛人がいい」、「裏で指図する立場の黒子でいたい」、「しかし、町は元気になってほしい」では、考え方が甘すぎます。又、「あの谷口さんと一緒に活動してたら一つ済んだらすぐ次とやりまくるから、堪らん」と言った人もいた。

 こう「休みなくやるべき」と言えば、意欲に欠けた人は、「そんなまちづくり活動は、ちょっとしんどいなあ」と言うかもしれませんね。 

 一生懸命が嫌いな人にとっては、そうかもしれません。

 でも、そもそも地域づくり活動とは「楽しい」から始めるものですが、いつまでも「楽しみ」の中にあれば遅々として地域づくりは進展していかないだろう。やはり熱中して、余所の市町村の人たちに負けないように頑張り、余所の市町村の、県外の人たちを自分たちの活動ぶりで感化させるぐらいの考えを以って、「高知県はすごい。地域活動なら、高知に行って学んで来い」と言われるぐらいに行動を高めないと、だめ。

 最後に私が言いたいことは、公職にある人とまちづくり活動をする人たちは、みんなが我欲を捨て、もっともっと我が身を痛めつける根性と先頭に立つ勇気を持てということです。(こういうことは、理解できる人は理解できるが、理解できない人はいくら説明しても解らない)≫


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真の“やり出しっぺ”こそが地域を変える

2010-08-23 | 地域づくり活動
(以下は、小生が地域雑誌を出版していた当時、高知新聞から要請され、平成9年1月7日付の「新春随想」に掲載された記事です)


(表題)「真の“やりだしっぺこそ”」

 ≪ 高知県民の地域おこし活動がここ二、三年前から低調になったように見える。「バブルが弾けたから」と短絡的に言うリーダーもいたが、それは大きな見当違いで、地域おこし活動の浮沈は景気とは関係ない。

 そこに責任転嫁するのは卑怯だし、金の流通が悪くなったから自分たちの活動も高まらなくなったという論理は、自らの無力を公言しているようなものだ。

 少し地域おこし活動のあり方について考えてみたいが、まず忘れてならないのは、「どうしてもしなくてはならないことではない」ということだ。つまり、「地域活動は、自発的に集まり、自然に動き始めるものでなくてはならない」。みんなそれぞれ自分の生活を中心に生きているのであり、広く「地域」についてどうしても何かをしなくてはならない理由はないからだ。

 だから、「おれがやらねば誰がやる」と考え、個人的に何の得にもならない活動ー地域を良くしたいと考え、色々な手段によって行う無償の仕事を、まず一人で始めるのが、地域おこしの原点。そして、その活動を見て、「おれも協力しよう」、「おれにも手伝わせてくれ」と、一人の“やり出しっぺ”の周りに仲間がたくさん集まってきて一つの集団ができる。これが、地域おこしグループの正しい誕生の仕方。

 だが、その集団が何かのきっかけで大きなイベントを開催したとしても、そこに真の“やり出しっぺ”がいなかったり、途中で彼がグループを去ったりするとバランスが崩れ、みんなの気持ちがバラバラになりやる気を失ってしまう。自ずと活動は長続きしなくなる。過去の地域おこし活動にこういう例がいくつかあるのではないだろうか。

 行政や商工団体などの組織が、年一回行っているイベントの場合などはちょっと違う。こちらは村祭り的な恒例行事。年一回の花火大会や鎮守の神様の祭りなどに集まる時は、“やり出しっぺ”はいなくても、スタッフや周辺住民の総意によって祭りは達成されることが多い。

 これはこれでいいと思う。悪い形ではない。でも、そういう中から地域おこしのリーダーは決して出てこない。なぜか。それは、そういう催しは組織の長がリーダーとなって号令を掛け、人を集めているからである。それは知事であったり、市長村長であったり、また農協や漁協の組合長であったり、商工団体の会長であったり、神社総代であったりする。

 そんなとき、若者たちはスタッフとして駆り出されることはあっても、決してリーダーとしてイベントを差配することはない。そういう下積みの活動を経験していれば次の時代に活かされるということもあろうが、かといって、若い時代に地域のリーダーになって悪い理由はない。

 上の人は70歳か80歳の町や村のリーダー。一方、いつも組織の下の方でイベントなどの段取りに動きまわって働くのは、20歳から30歳の若い人たちである。そんな年齢の差が考え方のギャップを生む。

 若者たちがイベントの企画に少しでも口出ししようものなら、「そんなことやっても、人は来やせん。若いもんは黙って動いてりゃあいいんだ」と頭ごなしに命じる。これでは若い人が抜け出したくなるのは当然だし、斬新なアイデアも生まれてくる余地がない。

 本当は、そういう新しい発想と他を抜きんでたやる気を持った若者こそ地域の中で活かされるべき人材なのだが、余り評価もされない。それでは若者の気力もいつか萎え、やる気も失せ、やがて一人もんもんと悩むか町を出てゆくか。そうやって、そんな停滞した町や村の状況が十年、二十年、三十年と続いてゆくのである。
 
 しかし、地域がそんな旧態依然とした状況にあっても、「おれは正しい。おれがやらねば誰がやる」と立ち上がる人物がいたとしよう。その人は、障害があればあるほど勇気と力が湧いてきて、自分のできることからやり始める。

 そういう人がリーダーとなるべきで、この“やり出しっぺ”の活動を見て、仲間が前の組織から抜け出し「おれも協力しよう」と参加してくる。そこへ、「おれにも手伝わせてくれないか」と三人目がやってくる。こうして、“正しい地域おこしグループ”が誕生する。

 その人数がどのくらいというのは問題ではない。こうまでして結集したのだから、ちょっとやそっとでは壊れないだろうし、“やり出しっぺ”であるリーダーの情熱も何年たっても薄れたりはしない。いわば、踏ん張りの利く地域おこし集団だ。

 この集団は自分の思いを大事にすることから生まれたので正しいと言えるし、そこに自分たちのやり方という自主性が尊重されるからこそ連続して行う活動がやっていて面白いし、続けていて楽しくなるのである。

 もし、もしもその集団にいて飽きてきたり意欲をなくしたりして一人去り二人去りしてみんないなくなったとしても、その“やり出しっぺ”には「自分がやらなきゃ、誰がやる」という強い信念があるので、例え一人になってもやり続けてゆく。その姿勢が町を知らない間に変えてゆく。

 こんな絶え間ない地道な活動こそ、国の補助金を引っ張り出して使って一日や二日で終わってしまうイベントよりも、何十倍も価値がある。人生の道を踏み外し、いま世の中を騒がせている人の大半が金で失敗している。やはり、必要以上に金を欲しがらないことが一番、賢い生き方と言えるだろう。後の世に誇れる人生を送っていれば、金は後から付いてくる。

 新年を迎えて、意義ある仕事を地道に一年でも長くやり続けたい。ただ、そう思う。 ≫


 以上が13年前に私が書いた記事ですが、いかにも固い文章ですね。ただ、昭和61年から喫茶店経営や地域雑誌出版をしながらその売り上げを地域づくり活動にどんどんと投資していた頃ですから、今と同じように真剣に地域のことを考えていたのは間違いありません。

 記事の中の「オレがやらなきゃ、誰がやる」の精神や、上に立つ人間が圧力をかけても「オレがやり出しっぺになる」と突き進む勇気については今も変わらず、この雑誌記者時代と同じ気持ちで以って、地方議員の仕事を全うすべく頑張っています。

 谷口は、議会では「法令順守・公正・公平・適正」を厳しく追い求め、正しく判断するよう努めています。このように、室戸市の重要な行政と議会の出来事を情報公開する議員としての務めを果たしているのも、私一人だけです。
 
 市民の皆さんにはどうかこれからも室戸市議会の改革会派「鷹山会」の谷口をご支持・ご支援下さいますようお願い申し上げます。


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陶芸家、新田義治の、立派な人生

2010-08-06 | 地域づくり活動
 今朝の高知新聞に、小生がかつて地域雑誌を出版していた時期に大変お世話になったし、親しくさせても頂いていた方の死亡広告が掲載されていて驚きました。

 特に議員になってからは、近くまで行きながら自宅までお会いしに出掛けておらず、不義理してきたことが悔やまれます。

 そのお亡くなりになった方の名は、安芸郡北川村木積(こつも)の新田義治さん(満86歳、享年88歳)。

 新田さんには、私が平成2年9月から平成10年1月まで高知県東部の地域雑誌『あおぞら』を発行していた関係から、何度となくその誌面に登場していただいた。

     

 葬儀は、本日8月6日(金)の午前10時半から、安芸郡田野町にあるJA安芸田野葬祭会館において執り行われました。参列されたのは、200名あまり。80歳を超えた故人の葬儀にこれほど多くの方が弔問にご参列されるのは室戸でもあまり見かけたことがないので、斎場に入ってまず驚きました。

            

 これも、かつて新田さんが障害者用の食器を陶芸で制作していたことと、娘さんの新田文江さん(63歳)が女流陶芸家であることなどから、交流が北川村の村民にとどまらず、県内や県外の方にまで及んでいるからであろうと思った。

 参列者のお顔を見渡すと、行政には全く関係していなかった一人の老いた住民の葬儀に北川村長や教育長、村議が全員参加というのも室戸では全く例がないし、村民はもちろんのこと、雑誌記者だった私と同様にかつて取材した後に親しくさせていただいていた元高知新聞社のY記者の名代として奥さんと二人の子どもさんも参列されていた。出棺の時、その奥様と小学生の娘さんが目を泣き腫らし、涙を流して霊柩車をじっと見送っていたのが印象的でした。

 生前の新田氏の活動は障害者用食器の制作のほか、親しくなった方々には細やかな気配りで「絵手紙」と呼ばれるハガキをまめに描いて出していた。それがまた仲間内で人気を呼び、奈半利町郵便局をはじめとしてあちこちで何度かその「絵手紙」の展覧会を開催していたことを思い出します。

 陶芸家・新田義治さん(享年88歳)の遺し方を平成8年の取材記事から辿ってみたい。

 大正12年12月、安芸郡加領郷の漁師、谷村牛馬・熊恵夫婦の四男として生まれる。

 家は貧しく、昭和12年に小学校を卒業すると義姉の伯父である宮内庁の 御弓師・石津重貞氏(写真一枚目の左ページの弓を持つ人物)をたどって東京に出る。14歳の時だった。 

 最初は、お得意さんに弓を届ける書生に。そのうち「そこがいやになって」(新田さん談)、埼玉県大宮市の伯父・広末金一郎という人の所に移る。その人は友人の横浜市の貿易商・宮地氏(田野町出身)に頼んで新田少年を丁稚に雇った。が、義治少年はすぐに肺尖カタル(結核の初期症状)を患い、結局、体を壊して昭和14年に加領郷に帰ってくる。

 「学校に行くぞと思い東京に出て行きながら、それを果たせずノコノコと帰ってきたというのは、私にとって人生の大挫折でした」。

 帰ると父に叱られると思っていた義治は、父から「兄がしっかりしてないから、十五や十六のお前が失意で帰ってこんといかんなった。子どものお前に苦労をかけたなあ」とねぎらいの言葉を掛けてもらう。失敗だと思っていたのがその言葉で救われ、嬉しかったそうだ。父親は「急に船に乗せるのもかわいそうやなあ。高知の土佐簿記学校に行くか」。

 一年間の学校生活だったが、親が漁師をしながら行かしてくれた学校。「熱心にやりました」。

 昭和16年(18歳)で学校を卒業すると、地元、加領郷漁業共同組合に事務員として就職した。それは、16年12月8日の真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が勃発する直前だった。

 やがて、みんなと同じように陸軍の志願兵になろうと志願するも、肺結核の関係から不採用に。それでも16年末には徴用され、すぐ広島県呉の海軍工廠に入り、労務課に配属され三年間勤務する。

 新田さんはこの頃のことを、「こう聞いてもらってわかるように、私の人生には何一つ、完成したものがない。全部中途半端で挫折の繰り返し」。こう語り、「まあ、この時代、大抵の人がそうでしたがね」と笑っていた。

 そうして戦争は終わり、そのうち、北川村の新田家から「養子に来てくれんか」という縁談がくる。「金儲けのためにバリバリ働くなんてのはは好きじゃないから、あんな山の農村で、田畑を耕して暮らすもいいなあ」と思い、20年11月に結婚。満22歳になる一か月前だった。

 その結婚も、当時の新田家の新田義信さん(義父)が言うことには「うちには跡取りの数恵という東京美術学校(現・東京芸術大学)を出た姉がいて、それが終戦の時には中国の青島(チンタオ)で教師をしていたが、いまだ生死不明だ。だから、うちに養子に来て、農業や山仕事をしながらその数恵の帰りを待っちょってくれ。悪いようにはせんきん」と。

 新田家に養子に入るも、やがて妹の幸寿と結婚。そんな翌21年のこと、姉の数恵が中国から帰ってくる、やつれ果てて。

 義治さんは姉にこう話した。「私はこの家に来るに当たりこうこういう条件がありました。お姉さんがこうして帰ってきましたので、私たちは家を出ます。後のことはどうかお姉さんがお願いします」。

 姉は涙を流してこう言ったそうです。「どうぞ、そんなことを言わんとって下さい。私は帰ってきたばっかりで、そんな力ら、ありません。それよりも、義治さん、これまでこの新田家を守ってくれて本当にありがとうございました。私はこれから知人を頼って高知市へ出て、元の教師になって生計を立てます。こんな体では私にはとても畑仕事はできんし、お父さんやお母さんの面倒をみる力もない。この家のことはすべてあなたにお任せしますき、どうぞここにおって下さい。お願いします」。
 
 そして新田義治さんの義姉の数恵さんは家を出て高知市に移り住み、丸の内高校の教師になりました。

 義治さんはその後、22歳から40歳までの17年間は山師や農業で生計を立てて暮らした。そんな昭和41年のこと、農協の知り合いから誘われて置き薬のセールスマンに転職する。それから4年間は給料も上がって、大学に入った娘・文江さんへの学費の心配もなくなった。

 やがて41年には北川村農協の理事に、44年には組合長になるが、積極的に体質改善を進めたために職員との関係が悪化、一年で辞職する。45年には高知市の住友銘木に入社。床材の製造技術が評価を得て、四年後の昭和49年に独立する。こうして新田義治さんは、ついに独立したのでした。

 好事魔多しという。独立して二年目、昭和51年のある雨が降る夜のことでした。高知市から北川村の自宅に帰る途中、安芸郡安田町唐の浜の国道55号線を走っていて、転落事故を起こす。

 脊椎損傷で約三年間の長い入院生活が続きました。口はきけるが、体は全く動かなかった。昭和53年に家に帰ってきたが、それからもリハビリが約二年半続いた。その後は、事故を起こす前に建設した娘の文江さんの工房で、リハビリの意味もあって土をこね、少しずつ陶芸を始めます。

 平成に入ると、新田さんは同じ障害を持つ人たちのために「らくらく食器」を考案する。
 
  

 その利便性が障害者への明るいニュースとして新聞や雑誌で取り上げられ注目されるようになると、注文が殺到。社会からのニーズは生きがいを感じたが、注文に間に合わせようと頑張ることの苦労も味わいました。

 又、この「らくらく食器」は安藤百福賞など、何度か表彰もされました。

 雑誌取材の最後に、私は新田さんに「新田さんはそう思ってないかもしれませんが、もう立派なプロの陶芸家です。陶芸には飾るだけの食器がありますが、これは使える食器。それもいろいろな苦しい目にあって体に障害を持った人たちのためを思い作った立派な食器です。『私の人生は挫折の人生』なんて言わんといて下さい」。「僭越ですが、人生には無駄というものはないと思います。良いことも悪いことも、全て積み重なるものです。それがあって、40代、50代、60代の人生があると思っています。ぜひ、これからもがんばって陶芸をやり続けて下さい。新田さんの人生は立派な人生です」。そうお願いしたことでした。

 ここで、平成8年の雑誌『あおぞら』の取材時に、かつて山仕事をしていた昭和30年代に新田さんが撮影した写真をお借りして掲載したものを紹介する。きっと、なかなかの腕を持ったそのカメラマンぶりに驚かれると思います。

  

  

  

  

 どうですか? この見開き3ページの子どもを撮影した写真なんか、いい写真だと思いませんか? 私は取材当時にこれらたくさんの写真を見て、なかなかの芸術的センスを持った人だなあと感心したものです。陶芸ができたことやこの写真テクニック等を見て思うに、新田さんにはもともと何かこれらに通じる芸術的センスがあったということでしょうね。

 親しくして頂いた新田さんが亡くなった今、思います。 戦前、戦後を生きてきた人はみんな、苦労して人生を送ってきたんだなあと。

 新田さんの人生は、いまの金と肩書にばかり卑しくて職責はまったく果たそうと努力しないどこかの田舎の政治家たちに比べれば、ずっとずっと立派な人生だったと思います。

 「立派な人生とは、こういう人生を言うのです!」

 障害者食器を作り続けた陶芸家・新田義治氏にはご生前のご厚誼に感謝し、ご冥福をお祈りします。


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