日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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次郎長の生家ふたたび甦る

2017年07月11日 08時00分21秒 | 日記
 清水次郎長生家の耐震補強が済んでふたたび無料公開されている。これに呼応して最近、身辺に起きたことを記事にしておく。
 
 古いネット友達から埼玉県飯能市の親類に清水次郎長と三人目の妻「おちょう」さんの写真がある。親類はお蝶さんに関係があるのではないかという連絡をいただいた。また圡支田一家(どしだいっか)の三代目・篠信太郎も親類筋だということであった。

 小生が博徒・的屋の世界に若干の知識があるためと思われる。誤解がないように先に申し上げておくが小生は素っ堅気の土木技術者であって博徒とも香具師とも接点はない。ただ、子供のころから広沢虎造の浪曲はよく聴いた。

 そこで友人の問いに答えるべく、少し調べてみた。飯能には「居酒屋つるちゃん」ほか以前からの友人もいて小生にはなじみの深い土地柄である。件の親類は都築さんというそうである。そこで飯能・都築・次郎長などで検索してみると次々にヒットした。

 並柳清五郎。慶応二年(一八六六)の武州一揆のとき、「双柳には親分がいたので、村内へ指一本触れさせなかった」ということを聞いたことがあるが、年齢からしても高萩万次郎の弟分であったと思われる。本名は都築竜蔵という。

 次郎長も一目置いていたということで、明治四年、たまたま清水へ出掛けていて、逗留先の次郎長のところで亡くなっている。聞くところによると「碁を打っていて……」ということであるから、脳卒中ででもあったと思われる。

 清水市の梅蔭寺を訪れると、次郎長はじめ、大政、小政など、数人の身内の墓石が並んで一画をなしているが、次郎長が建ててくれた清五郎の墓石は、向かって右手の奥に「乾叟清元上座、明治四年正月十一日、武州、俗名清五郎」としてあって、その没年月日も飯能市双柳の秀常寺の墓と一致している。

 関係者の話によれば、その戒名からして、「次郎長もよほど厚遇していたものと思われる」とのことであった。なお、万次郎と清五郎の妻は、いずれも清水の女性であった。

 都築家に残る次郎長とその妻お蝶(三代目)の写真は、日本での写真技術の始まりの頃のものとしても貴重だとされている。

 次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。

 次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。


 鶴屋喜右衛門。本名は清水喜右衛門、通称、高萩の万次郎であり、当時、関東切っての大親分で、国を追われた清水次郎長が、しばらく身を寄せていたといい、次郎長物語にも必ず登場してくる人である。

 万次郎は、高萩宿(日高町)の由緒正しい家に生まれ、今に残る写真の、その風ぽうが示すように、温厚そうな顔立ちながら、眼光のするどさを思わせる人であった。

 次郎長と武州博徒との関係について少々述べてみたい。次郎長が「兄貴」と慕う博徒に、武州高萩(現埼玉県日高市)の高萩万次郎がいる。万次郎は当時「関東侠客の神様」という程に信奉され、まず上州の大前田に次いで、実力、名声とも衆を抜いていた。

 武州の他の侠客・小金井小次郎、小川幸八、師岡孫八、田中屋萬五郎などもまずこの人を頼み、親しく交際した。

 次郎長が万次郎の元を訪れたのは記録によれば、弘化二年、安政五年の二度のことと言われるがどちらも役人の目を逃れるための、のっぴきならない旅の途中であった。

 そのうちどちらの時ことであるかは定かではないが万次郎宅で開かれた盆の上の勝負で、次郎長は当時売り出し中だった上鈴木村(現・小平市)の博徒、平親王の平五郎を散々に打ち負かし名をあげた。
平五郎は背中に将門の紋々を入れていたため、「平親王」と恐れられかつては小金井小次郎とも大きな出入りを打った古強者である。

 圡支田一家(どしだいっか)は東京都練馬区に本部を置く暴力団。指定暴力団住吉会の二次団体。構成員は約120人。
 系譜的には博徒系で、大規模な指定暴力団にあたる住吉会の傘下組織のなかでも、2012年時点で100年以上の歴史を有する清水次郎長にゆかりのある老舗組織として知られる。

 圡支田一家(どしだいっか)初代の榎本新左衛門は北豊島郡大泉村元上土支田村(現東京都練馬区土支田)に、庄屋の次男として生まれる。

 新左衛門は博打に目がなく、神山栄五郎親分の盆に年中出入りしていた。栄五郎親分は新左衛門にほれ込み、自分の兄弟分である清水次郎長のもとへ預けることにした。

 新左衛門は清水次郎長の若い衆として4年間男を磨き、清水次郎長から子分二人をもらって故郷の土支田村へ帰り、そこで土支田一家を設立した。

 明治8年、神山栄五郎が抗争に巻き込まれて亡くなる。清水次郎長は兄弟分の神山栄五郎の死を深く悲しみ、これをきっかけとして新左衛門を五厘下がりの舎弟分になおす出世盃を行い、これから一家を束ねていく新左衛門を励ました。新左衛門は清水次郎長の後ろ盾を得て土支田一家は躍進していった。

 明治21年に榎本新左衛門は享年42歳で亡くなる。二代目を継いだのは「大門山の忠造」こと佐久間忠造であった。「喧嘩の忠」と異名をとるほどの喧嘩に精を出した親分で、力ずくで一家の縄張りを拡大していった。

 佐久間二代目は初代榎本新左衛門の兄貴分である清水次郎長の死に水をとった一人であり、清水次郎長のいくつかつくられた位牌の一つを渡されている。現在でも圡支田一家では代々総長に清水次郎長の位牌が受け継がれている。

 三代目を継いだのは「コブ信」こと篠信太郎であった。篠三代目は博打が得意であった。昭和14年に病死した時、一家への遺言として「カタギに絶対迷惑をかけるな」との言葉を遺しており、これが現在に至る土支田一家の家訓となっている。

私の友人は最近、日高町に家を新築して転居しました。とりとめのない話になりましたが以上です。
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韓国は 歴史認識 改めて

2017年06月29日 17時25分16秒 | 日記
 「大韓民国憲法」の前文では、「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未三一運動で大韓民国を建立し(中略)檀紀4281年7月12日に憲法を制定する」 となっている。檀紀4281年とは西暦1948年のことである。

 韓国=大韓民国の独立の宣言は1948年(昭和23年)8月15日に初代大統領の李承晩が行っている。では、憲法前文で大韓民国が建立されたという「己未三一運動」とはどんな運動であろうか。それは1919年(大正8年)3月1日、日韓併合時代の朝鮮半島で起こった、反日暴動のことである。

 この運動を要約すると、33名の宗教家が独立宣言書を作成し、それに共鳴した民衆がデモを起こしたという事件で、デモに参加した人数は多いものの運動は約2か月で収束し、処罰された人数の少なさや量刑の軽さ、何の成果もあげられなかったことを客観的に見ると「建国」とはおよそほど遠いのが実情だったが、彼らに言わせると宣言書を読み上げただけで、大韓民国臨時政府ができたということのようらしい。

 彼らの歴史認識では、その後、大韓民国臨時政府は上海、重慶と場所を移しながら光復軍を創設し、それをもって連合国の一員として日本と戦い、最終的に勝利したことにより自力で独立を勝ち取ったという話になっている。つまり、大韓民国という国は自国の建立の歴史を、国際社会が認めた李承晩の独立宣言ではなく、自分の都合のいいように書き換えていることが、この前文から分かるわけだ。

 このことを、分かりやすく書けば

 朝鮮(清の属国)→大韓帝国(1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号)→大日本帝国(1910年(明治43年) 日韓併合条約により、大日本帝国と併合する)→アメリカ軍政(1945年8月15日~1948年(昭和23年)8月15日)→大韓民国

 という本来の歴史を

 朝鮮→大韓帝国→日本植民地→臨時政府→大韓民国

 というふうに書き換えているということである。

 以上、韓国が自国の都合のいいように歴史を書き換える国であるという説明です。

 では、なにゆえ建国日にそこまで拘るのかといえば、戦勝国として賠償金をせしめるためであろう。ところが彼らの目論見は実現しなかった。韓国は戦争当事者国ではなくて第三国と位置付けられたのである。三国人という呼び名はこれに基づく。

 1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。

 日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。

 1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した。

 また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国)としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた。

 日韓両国は1965年(昭和40年)に締結された日韓基本条約の付随協約により、当時の国家予算の二倍強の協力金(日韓は戦争しておらず賠償義務がないため賠償金とは呼ばない)を日本が韓国に支払うことにより日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的」に解決されたことを確認している。

 ちなみに、日韓基本条約の交渉時に日本政府は未払い賃金等の個人債権は直接個人に対して補償すると提案したが、韓国側がそれを断った経緯があるので、条約締結後の個人補償義務は韓国政府にある。

 しかし、韓国政府が意図的に自国民に条約の内容を知らせないでいたため、いまだに多くの韓国民が、その事実を認識していない。もう一つ付け加えれば、この時、韓国は朝鮮半島を代表する国家として北朝鮮の分も受け取っている。だから将来的に日本が北朝鮮に協力金を支払う義務があるとしても、日朝の国交が開始された時点で支払い義務は日本にではなく韓国にあるのだ。

 日韓両国間で最大の障壁となっている従軍慰安婦問題について、ソウル大学で韓国経済史を研究する李栄薫教授は「従軍慰安婦は売春業」と発言したため、元慰安婦らの前で土下座させられ、長時間にわたり罵倒を浴びせられ続けたという。つまり、韓国社会において親日的な発言は自殺行為なのである。

 韓国に対しては謝罪や賠償をしたからといって和解が成立するなどと考えない方がかえって腹もたたないのではないか。




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似ていても仁義と啖呵は違います

2017年06月25日 12時20分06秒 | 日記
 高倉健主演の『昭和残侠伝』という映画があった。

 劇中に池辺良演じる風間重吉が神津組の玄関先で仁義を切るシーンがある。仁義を受けるのは菅原謙二演じる江藤昌吉である。このシ-ンは「軒下の仁義」としてユーチューブにアップされているので是非ご覧いただきたい。フーテンの寅さんとは一味違う香具師の仁義である。

【仁義の口上】

※ 軽い会釈の姿勢のまま、

●:「ご当家、軒下の仁義、失礼ですがお控えくだすって・・・」

○:「有難う御座いやす。軒下の仁義は失礼さんにござんすが、手前控えさせて頂きやす。」

※腰を中腰に落とし、右手の手のひらを見せるように前へ突き出し、そのままの姿勢で、

●:「早速ながら、ご当家、三尺三寸借り受けまして、稼業、仁義を発します。」

○:「手前、当家の若い者で御座います。どうぞ、お控えなすって下さい。」

●:「手前、旅中の者で御座います。是非とも、お兄いさんからお控え下すって・・・」

○:「有難う御座います。再三のお言葉、逆位とは心得ますが、手前、これにて控えさせて頂きます。」

●:「早速、お控え下すって有難う御座います。手前、粗忽者ゆえ、仁義、前後を間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います。向かいましたるお兄いさんには、初のお目見えと心得ます。手前、生国は大日本帝国、日光 筑波 東北関東は吹き降ろし。野州は宇都宮で御座います。稼業、縁持ちまして、身の片親(かたや)と発しますは、野州宇都宮に住まいを構えます、十文字一家三代目を継承致します坂本牛太郎に従います若い者で御座います。姓は風間、名は重吉。稼業、昨今の駆出し者で御座います。以後、万事万端、お願いなんして、ざっくばらんにお頼申します。」

○:「有難う御座います。ご丁寧なるお言葉。申し遅れて失礼さんにござんす。手前、当神津組四代目川田源之助に従います若い者。姓は江藤、名は昌吉。稼業、未熟の駆出し者。以後、万事万端、宜しくお頼申します。

●:「有難う御座います。どうか、お手をお上げなすって・・・」

○:「あんさんから、お上げなすって・・・」

●:「それでは困ります。」

○:「では、ご一緒にお手をお上げなすって・・・」

●:「有難う御座います。」

○:「有難う御座いました。」

と、まあ文字に書き写せばこんなところでしょうか。「御座います」は「ござんす」と発音しております。
仁義というのは渡世人同士のパスポート或いは身分証明証みたいなものと考えると理解しやすいと思います。

一方、啖呵というのは「啖呵売」や喧嘩のときに啖呵を切るというように威勢よく歯切れよく発する口上です。
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静岡のお茶の始まり狐石

2017年06月23日 19時02分31秒 | 日記
狐石(きつねいし)

静岡茶発祥の地の足久保には、「狐石(きつねいし)」と呼ばれる日本で一番大きいと思われる松尾芭蕉翁の句碑がある。

天明8年(1788年)、現存する茶舗「竹茗堂」の先祖である山形屋庄八(竹茗と号した)が建てた石碑で、句碑としては日本一の大きさ(幅約8m、高さ約4.5m)だろうとされているものである。

この石には、松尾芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」という句が彫られている。

現在、日本一の生産量を誇る静岡茶は、駿河国安倍郡栃沢出身の聖一国師円爾が南宋から茶の種を持ち帰り栽培に適した足久保の地へ播いたのが嚆矢とされる。因みに足久保は釜石峠を越えて栃沢へ帰る途中にある。
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七月の俳句色紙を書きました

2017年06月17日 13時12分15秒 | 日記
故郷の祭太鼓は臍(ほぞ)まで鳴り響く。(季語は祭りで夏)


帰省した息子は自衛隊員で妻はかいがいしく迷彩服を洗濯してやっている。(季語は帰省で夏)



海道は東海道と思えばよいが古代の海道は福島県あたりまで含まれていた。焼津は日本武尊の故事に因む地名で焼津神社に伝わる「荒祭り」の神輿渡御は勇壮である。(季語は祭りで夏)



海や山へ避暑に行くこともない貧しい庶民にとっては切ない大暑である。(季語は大暑で夏)



手相が貧相な手のひらを紫蘇で真っ赤に染めて梅を干している。(季語は梅干しで夏)


通っているリハビリの通所者には切り絵や塗り絵、書道、俳句などを嗜む人がいます。小生も下手な俳句を色紙に書いて掲示してもらっています。
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茄子漬けて糠味噌女房堂に入る

2017年06月10日 09時53分29秒 | 日記
女房と所帯を持った直後に実家から糠味噌の元を少し分けてもらって養ってきた。
あれから40年・・・女房は新妻から山の神に変身した。糟糠の妻は堂より下さずである。糠味噌の味はますます豊かになった。



私が通っているリハビリには日除けのゴーヤが植えてある。リハビリには沖縄出身の職員がいて、ゴーヤチャンプルーなど苦瓜の話が弾む。


私は生ビールは飲むが瓶ビールや缶ビールは飲まない。居酒屋では日本酒を冷でやるのが通例である。


梅干しを染めるのには紫蘇を用いるが、先ず紫蘇の葉をよく洗い、少量の塩でよく揉む。すると青黒い汁がでる。さらに揉んで青黒い汁が出なくなったら固く搾って梅酢に浸ける。すると瞬時にして鮮紅色に発色する。
掌も赤く染まって手相は一段と鮮明にみえる。


夜泣石や子育て飴の伝説で有名な小夜の中山は東海道金谷宿と日坂宿の間にある。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という西行法師の和歌でも有名です。
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みじかよの ゆめにりゅうりの あめをきく

2017年05月07日 14時35分06秒 | 日記

じんがいに みみずのかわく ひなりけり


ふうりんに ふるゝはたれが こんぱくぞ


ひやむぎの あかきいちるを すゝりけり


ゆびぶえの うちびるかわく むぎあらし

有季定型句も墨書してみました。
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筆で書く古稀の手習い捗らず

2017年04月26日 17時34分50秒 | 日記
天城山深く分け入り甘茶を探す
16歳、高校一年生の時、伊豆の天城山を縦走した。この時、ヤマアジサイの変種アマギアマチャを採集した。山中で2泊して3泊目は松崎の大沢温泉の河原に野営したが生まれて初めて混浴の露天風呂に入った。
今から54年前のことであるが鮮明な記憶が残っている。

たんぽぽの茎の草笛ほろ苦し

ワンカップ大関空けて薊一輪を挿す
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蕨煮て漸く春を堪能す

2017年04月14日 20時02分24秒 | 日記
「蕨・わらび」

 これは何かの折りに聞いた話である。太古、地球上に恐竜などの爬虫類が跋扈していた頃には、植物界でも羊歯類が全盛で、大型の羊歯植物が繁茂していたらしい。当然、草食の恐竜もいて、豊富な羊歯類を鱈腹喰らって繁栄していたようである。

 その羊歯植物だが、この仲間には所謂、毒草と呼ばれるものが存在しないそうである。

 有毒植物は羊歯植物から顕花植物への進化の過程で出現したようだ。しかし、毒が無いからと言って羊歯類全体が食用に適しているわけではない。

 羊歯類の中で一般的に食用されているのは、「蕨・わらび」「薇・ぜんまい」「清滝羊歯・きよたきしだ」「こごみ」などである。

 「こごみ」は山菜としての呼び名で植物学的にはオシダ科クサソテツという。これら食用の羊歯類に共通することは、冬になると地上部が枯れ、翌春に若芽を出して更新する夏緑性植物であるということだ。だから、春先にその柔らかな若葉を採って食用にするという次第である。

 最初に有毒の羊歯植物は無いと申し上げたが、これら羊歯類の山菜も大半は、生の状態ではアクが強く、エグ味があるので生食には適さない。

 私は蕨を食うときにいつも思う。木灰を利用して蕨のアクを抜く方法を最初に発見した人は、河豚を最初に食った人と同じくらいに人類に貢献したのではなかろうかと。

 さて、蕨の話である。蕨はウラボシ科の羊歯類だから花の咲かない隠花植物である。地上部は冬に枯れるが、地中には延々と地下茎を張り巡らせている。

 蕨の地下茎には良質の澱粉を多量に含んでいる。この地下茎を掘り採って擂り潰し、水に晒して精製したものが蕨粉である。蕨粉から作る蕨糊は接着力が強く、傘や提灯を貼るのに用いられる。蕨餅は蕨粉から作った餅で黄粉や黒蜜をかけて食べる。

 枯れた蕨は明るい茶色である。他の枯れ草と色彩が少し違うから注意して見るとすぐに判る。蕨を採るということは、即ちこの枯れた蕨を探すことである。

 前年の冬に枯れた蕨の下には翌春必ず早蕨が萌え出すのである。

 蕨採りには小さな鎌を使うと具合が良い。なるべく根元から刈り取って家に持ち帰る。蕨を食うためには最初にアクを抜かなければならない。

 アクの抜き方には幾通りかある。先ず、蕨を手に持って軽くポキッと折れるところで折り、根元の硬い部分は捨てる。残った柔らかな部分を器に並べ、木灰を振りかけてから熱湯を注ぐ。一晩放置してから真水で木灰を洗い流す。これでアクは完全に抜けている。

 木灰が入手できないときは、稲藁を一把燃やして藁灰を作る方法がある。また、硬い部分を取り除いた蕨を茹でて木灰を塗す方法もある。

 生のままの蕨をたっぷりの塩に漬け込んで保存する方法もある。

 一番簡単なアク抜きの方法を伝授しよう。

 薬局から胃酸過多の人が服用する重曹を買ってくる。硬い部分を取り除いた蕨に、重曹を薄く霜が降りた程度に振り掛ける。

 蕨全体が浸かるまで熱湯を注ぎ一晩放置する。翌朝、重曹の液を奇麗に濯ぎ流してアク抜きは完了する。

 灰にせよ重曹にせよ使用量が多すぎると蕨は溶けてしまうので、量を加減することが肝要である。

 蕨の料理方法について申し上げよう。私は毎年、最初に収穫した蕨を必ず味噌汁にして味わう。

 収穫量が多くなると、今度は油揚げなどと一緒に煮て食べる。アクを抜いた蕨に花鰹と醤油をかける、所謂、「蕨のおひたし」なる食い方を私は好まない。

 美食家として夙に著名なかの北大路魯山人は、山の蕨は海の河豚に匹敵すると言っていたそうである。

 河豚と同様に、味は淡白だが、それだけに料理人が腕を揮うのに格好の材料となるようだ。

 なにやら取り留めの無い話に終始したが、今回からは山菜の話にお付き合いいただくことにする。



◆誰にも教えないわたしひとりのわらび山  白兎
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佐渡遊女みほのが情話はつしぐれ

2017年04月04日 16時00分30秒 | 日記
 僞(いつはり)とこちは思はじ初時雨  佐渡遊女みほの
 
 この句には「仰ごとはちがひ候へどもこなたはまことと存じ候」との前書きがあり作者は佐渡遊女「みほの」とだけ書いてある。夜半亭蕪村編輯《玉藻集》に採録されている句で季語は勿論「時雨」で冬である。

 佐渡金山華やかなりし頃、時の幕府は、鉱山労働者を確保するために、相川に歓楽街を設置し、それを手厚く保護した。労働者の労働後の楽しみと言えば、飲む打つ買うである。佐渡の遊郭は、江戸の吉原よりも先にできた。まず最初に山咲町に遊郭ができ、後に水金町に移った。

 遊郭に身を投ずる遊女は、佐渡の貧しい家庭に育った娘がほとんどであった。彼女らには、苦界に身を置いて居ると言う意識はほとんど無かった。その理由は二つある。一つは、貧しさからの解放である。彼女らには、着物、風呂、化粧、食事の心配が無く、しかも遊郭経営者により手厚く保護されたからだ。二つ目は、江戸時代に広まった儒教の影響で、親孝行の意識があったからである。

 親が娘を遊郭に預けると前貸し金をもらえる。遊女は10年間の年期奉公だが、その間の賃金は、全てそれらの利息の支払いに当てられる。だから遊郭を出るためには、前貸し金の支払いが必要であった。それが支払えない場合は、遊女は再び遊郭で働き続けなければならない。何とも悲しい話ではあるが、当時の佐渡では、それでも遊郭に身売りする娘は大勢いたようで、幕末の佐渡奉行だった川路 聖謨(かわじ としあきら)は、「佐渡で安いのは魚と女だ」と言ったとされる。

 金山の隆盛時は、コンドームなどない時代である。妊娠しにくくなったら一人前の遊女と言われた時代だ。そして性病の検査も治療もできない時代である、遊郭通いで性病に苦しんだ男達が平癒祈願の絵馬を神社に奉じたのもむべなるかなな時代であった。だが、現代のように多彩な娯楽の無かった時代である、彼らは性欲を満たすために、唯一の娯楽である遊郭へとこぞって通った。現代でもそれを目的に性風俗店通いをする男共を批判はできまい。

 川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。
 豊後日田代官所の役人の息子に生まれながらも、まれにみる才幹を示して、勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任している。そして、勘定奉行在任のまま海防掛になった。 幕末きっての名官吏で、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。

 夜半亭蕪村編輯《玉藻集》は千代尼の序、田女の跋を付して安永3年甲午(1774)に刊行された。時に蕪村59歳8月であった。「玉藻」は伝説の美女玉藻の前(たまものまえ)を指すと思われるが、その正体は金毛九尾の妖狐。失礼ではないかと思いきや、田女は跋に「天地をうごかし鬼神を感ぜしめし女の歌仙、數ふるにいとまあらずとや」と記し、その命名に異議はないようである。

 女性俳人の作のみを集めたもので蕪村の句は含まれないが、蕪村の審美眼を知る意味でも、また有名無名の如何なる俳人があったかを知る意味でも興味深い。当撰集は大正11年に東京市神田の有朋堂書店より活版で出版されたことがある。それ以外の覆刻については未詳。

ここに遊女と肩書の付いた句だけを抜粋してみよう。

俳諧玉藻集     平安 夜半亭蕪村輯

色紙や色好みの家に筆始      遊女 利生

夕立やいとしい時と憎い時     遊女 しづか

蟲干や具足櫃から轉び出る     遊女 小源

朝夕に見る子見たがる踊哉     遊女 花崎

朝顏のはえあふ紅粉のねまき哉   遊女 高尾

月はのう淋しいでこそ哀なる    京遊女 九重

秋の千種の哀れなるが中に     遊女 長門

僞とこちは思はじ初時雨      佐渡遊女 みほの

兒の親の手笠いとはぬ時雨哉    遊女 夕霧

我袖の蔦や浮世の村時雨      遊女 薄雲

慰めし琴も名殘や冬の月      遊女 いくよ

我子なら供にはやらじ夜の雪    遊女 ときは

千鳥啼出れば雌か雄かの      遊女 いくよ

 遊女といえばもっと古い万葉集にも「うかれめ」の歌が残っている。「うかれめ」は、天平時代(一一六五~)の万葉集に、万葉仮名で「遊行婦女」と記されている。「遊行婦女(うかれめ)」とは、宴席に侍り詩歌音曲を奏する云わば芸妓であるが、錚々(そうそう)たる万葉歌人と同席して歌を詠んでいる。それらの歌は万葉歌人と同等、若しくは、優るとも劣らぬ詠みっぷりである。

 万葉集には四人の「遊行婦女」が名を残していて、名は、「土師(はにし)」、「蒲生(かまふ)」、「左夫流児(さぶるこ)」、「児嶋(こじま)」である。

 現代のキャバクラ嬢の無知・無教養に比べたら昔の遊女はなんと奥ゆかしいことかと嘆息せざるを得ない。
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