まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

榊の枝、端末をハサミでカットした

2017年12月16日 | Weblog

表題は、変な表現かな。

毎朝、水替えをする榊、一部、ちょっと元気がないので、切った。

よく水を吸い上げるようにね。

なんてことをしつつ、上のおばのことを思い出していた。

水に浸かってできたヌメリは、指で取るんだけど、だんだんね。

枝の端っこが、硬化してくるとでもいうのか、なので、そこを。

チョキンとして、真新しい細胞にしたわけだ。

いつだったか、榊の話になり、くだんのおばがそう言っていた。

それを思い出し、やってみた次第。

そこに、彼女がいるんだよね。

もちろん、リアルでも、まだ存命中ではあるんだから、変な表現でもあるんだけど。

しかし、そこにたしかに、おばは存在している。

ということは、思い出す、とか、記憶を蘇らせる、とかの中に、生命が湧き出す、とも言えて。

頭の中で考えれば、リアルに存在するおばとわが脳内に存在するおば、二つながらの生き様。

朝から、見ようによっては、世迷いごとのような文章でもあるけれど、これがわが今、でもあり。

昨夜は、妹も帰ってきていて、忘年会を一次会で引き上げ、急いで帰宅後、2度目の。

呑み、に参加。

長男坊も来ていて、ということなんだけど、そこでの会話のネタに。

わが父親、昭ちゃんが登場し、呑みのネタなら誰にも負けないくらいの仕込みもあり。

なんてこと、思い出すことが、亡き人への供養になるよ、なんてお坊さんはおっしゃるよね。

先ほどのおばの話じゃないけど、そこに存在する、たしかに存在するわけで。

お勝手からの出入り口、つまり勝手口が、以前は、くぼんでいて、そこからの出入りが可能だったんだけど。

そこへ、わが昭ちゃんが、お酒に酔って落ち、かつ、そこにはまり込む、というような。

大パフォーマンスがあったらしく、妻が、早速、彼女の父親に連絡して。

子どもたちが落ちると困るから、という言い訳で、ね。

そこを塞いでもらった。

それが残っているんだけど、そこには、わが父親と妻の父親、二人が存在しているんだよね、今でも。

もちろん、二人とも黄泉の国へ旅立ち済み、ではあるんだけど。

昨日は、母親もショートステイからの帰還がなり、都合、5人の団欒で。

僕の帰った時には、すでに、母親は眠りについていたんだけど、それにしても、人が集まると。

そこへ登場するネタは、共通の人、共通の出来事になるわけで、まさに、追善供養の宴会。

とまではいかないくらいの呑みの量ではあったけどね。

さて、本日は、御案内のように、さくめさんへうなぎを食しに、というおじおばの会。

この会の名称も、おじは、老健施設に入り、ということなんで、正確には違って来ているんだけど。

そこはそれ、先程来のストーリーまんまの、名称でもあるね。

そこにいなくても存在する、という意味でも。

というわけで、そろそろ、ルーティンのワークに入るとします。

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