【牧野氏まつり】
いよいよ牧野氏まつりの本番です。まつりを盛り上げるのは川越藩火縄銃鉄砲隊(以下川越藩鉄砲隊という)ですが、今回は長岡から栃尾衆鉄砲隊が加わりました。 また開府400年を2年後に控えた長岡市からも大勢の関係者が駆けつけました。
幕末には前橋市の中心部は前橋(厩橋)藩越前松平家17万石の領地でした。 しかし川越から移ってきたのが慶応3年(1867)で、それ以前は前橋は川越藩の分領でした。すなわち寛延2年(1749)前橋藩に入封した越前松平家は明和4年(1767)に利根川による崩落がひどく川越藩に移り、前橋は分領としました。養蚕で財をなした前橋の商人は、越前松平家の前橋への復帰を画策し、慶応3年に川越から100年ぶりに戻ってきました。従って川越藩鉄砲隊は越前松平家に属していたと言えます。
長尾氏は群馬県にも総社長尾氏や白井長尾氏がありますが、みな「九曜巴紋」です。
また長岡藩にとって川越藩は庄内藩と三方領地替えで、長岡が川越に移る予定でした。領地替えは前代未聞の御沙汰止みになりますが、この後で長岡藩は大事な領地の新潟港を失いました。
長兄信康が自刃の後は二男として徳川家を継ぐ順番にあったのですが、すでに豊臣秀吉の養子となり下総結城家を継いでいたので後継者には選ばれませんでした。
関ヶ原の戦いののち秀康は北ノ庄75万石の城主になりました。 秀康の子供から5家が分かれ津山松平家(10万石)を本家に、福井松平家(32万石)、松江松平家(18万石)、前橋松平家(17万石)、明石松平家(8万石)があります。さらに松江藩から広瀬藩・母里藩、福井藩から糸魚川藩が生まれますので全部で8大名家になります。
(前橋市) ・・・つづく・・・
いよいよ牧野氏まつりの本番です。まつりを盛り上げるのは川越藩火縄銃鉄砲隊(以下川越藩鉄砲隊という)ですが、今回は長岡から栃尾衆鉄砲隊が加わりました。 また開府400年を2年後に控えた長岡市からも大勢の関係者が駆けつけました。
幕末には前橋市の中心部は前橋(厩橋)藩越前松平家17万石の領地でした。 しかし川越から移ってきたのが慶応3年(1867)で、それ以前は前橋は川越藩の分領でした。すなわち寛延2年(1749)前橋藩に入封した越前松平家は明和4年(1767)に利根川による崩落がひどく川越藩に移り、前橋は分領としました。養蚕で財をなした前橋の商人は、越前松平家の前橋への復帰を画策し、慶応3年に川越から100年ぶりに戻ってきました。従って川越藩鉄砲隊は越前松平家に属していたと言えます。
(祇園まつりの大通りをパレードする九曜巴紋を付けた栃尾衆鉄砲隊)
長尾氏は群馬県にも総社長尾氏や白井長尾氏がありますが、みな「九曜巴紋」です。
また長岡藩にとって川越藩は庄内藩と三方領地替えで、長岡が川越に移る予定でした。領地替えは前代未聞の御沙汰止みになりますが、この後で長岡藩は大事な領地の新潟港を失いました。
(鉄砲隊が養林寺に到着し牧野忠昌様と記念撮影、忠昌様の向かって左が忠慈様)
長兄信康が自刃の後は二男として徳川家を継ぐ順番にあったのですが、すでに豊臣秀吉の養子となり下総結城家を継いでいたので後継者には選ばれませんでした。
関ヶ原の戦いののち秀康は北ノ庄75万石の城主になりました。 秀康の子供から5家が分かれ津山松平家(10万石)を本家に、福井松平家(32万石)、松江松平家(18万石)、前橋松平家(17万石)、明石松平家(8万石)があります。さらに松江藩から広瀬藩・母里藩、福井藩から糸魚川藩が生まれますので全部で8大名家になります。
(川越藩鉄砲隊が本堂と牧野家墓地に参拝、中央金色の兜は松平様)
(前橋市) ・・・つづく・・・