高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
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八王子宿の武田家の謎に迫る(その4)

2010-01-23 01:46:36 | 歴史

「御旗盾無御照覧あれ!」、合議をむねとする武田の頭領が、この言葉を発するときは、何人も異議を唱えることはできない。越後長岡藩の参州牛久保の壁書きにある「常在戦場」と同じである。御旗は武田家の祖の新羅三郎義光の、源氏の日の丸の旗であり、盾無は盾もいらないほど強固な鎧で、甲斐源氏の棟梁の持つものである。
武田の野望を秘めた埋蔵金が、それほど簡単には見つかると思わない。武田家の埋蔵金に関しては、信玄の埋蔵金、信玄の娘見性院(信松院とは姉妹)の夫の穴山梅雪の埋蔵金、大久保長安の埋蔵金の3つがあるといわれ、いずれも未発見である。この中でも信玄の時代には金山の開発で、莫大な量の金を溜め込んだと思えるし、大久保長安も佐渡の金山や石見の銀山でかなりの蓄財がある。しかも方位に滅法強いし、金山開発、石見検地や甲州街道の宿場で見せた土木工事にも優れている。ここはじっくり謎を解き明かすよりない。


(頂点が躑躅ヶ崎と富士山の菱形の追分の対角は?)

地図に重要点をプロットすると、追分から富士山Bと躑躅ヶ崎の館Aは、ほぼ同じ距離にあることがわかる。すなわち追分はB-Aを底辺とする二等辺三角形の頂点に位置する。
武田の紋は武田四つ割菱で、外形は二等辺三角形の合体でもある。c-d線で二等辺三角形を折り返し、その中心線の向うところが、埋蔵金の最も有力な地点とみた。はっきりと指し示しているのは、南アルプスの麓の遠山郷である。ここは武田家と関係あるところか調べてみた。
飯田市の遠山郷、信玄や勝頼の忠実な部下の、遠山氏の治めた所である。現在は国道152号線が通っているが、中央構造線の大断層地帯で、極めて峻険な谷や山のある地帯である。信玄も大軍を持ってこの地を通り、遠州に遠征するが、この付近で軍隊を分けたという。遠山氏は武田方として三方原合戦や長篠合戦にも参加、武田の有能な武将の一人である。また石見検地が行われたとされるのは、甲斐、越後、信濃、美濃、山城、石見などがあげられ、信濃は検地の場所とも符合する。
Googleの拡大地図で、この地点をさらに虫眼鏡で見れば何かあるかと探したが、液晶画面の汚れしか見えなかった。


(信松院を囲い込むことが重要、あなたならどんな図形を書きますか?)

推理としてはなかなかだが、追分と富士山、躑躅ヶ崎の館のトライアングルは偶然で、財宝は以外に近い八王子宿の地下に眠っていることも考えられる。
八王子宿の重要な場所は、追分n、大久保長安屋敷跡h、富士浅間神社fである。宿の中ならいくら穴を掘っても、宿建設でごまかすことができる。この地点は図形の頂点になっても、この真下に隠すことは、あまりにも単純で考えられない。とすれば狭い範囲で描けるのは武田菱である。
重要ポイントを頂点に武田菱を描くと、m、k、e、gの4箇所がでてくる。この菱形の中に長安の屋敷が入る。そしてもう一人重要なのが、武田一族の心の支えとなる松姫が建立した信松院(しんしょういん)が、囲みこまれていることである。
父の信玄の「信」、そして松姫の「松」から信松院と名付けたが、「信」は許婚の織田信忠の文字でもあると推察できねば、埋蔵金を探すのに性格的に向いてない。
左の武田菱は私が画像に乗せたもので、この位置には特別の意味はない。現地を訪れた時に、追分の交差点の歩道橋は絶対に菱形だと思った。でもまったく意味のない形をしていた。八王子市内が猪の被害のように、掘り起こされるのも心配だが、何か新しい手がかりもつかもうと思う。まずこのパソコンだが、解像度がかなり悪く、埋蔵金探しには適していない。
明日から数日間、埋蔵金探しの旅に出かけますが、遠山郷ではないのですが、千人同心に関係ある場所です。

(八王子)
コメント (12)
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