シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

後藤由紀恵『ねむい春』を読む

2013年05月10日 | インポート

後藤由紀恵さんの歌集『ねむい春』(短歌研究社)を読む。

祖母の死や、父の病、結婚など、いろいろと生活の変転はあるのだが、それを淡々と静かに受け入れるように詠んでいる。派手ではないが、じっくりとした味わいがあり、ときどきふっと立ち止まらせられる、という感じ。
読者のほうも、あまり焦らず(表現の新しさ、といった難しいことは考えず)、ゆっくり作者といっしょに歩くような感じで読むといいのではないか。
そんなふうに歩いていくと、ほのかに明るく、やさしい風景が見えてくる。

  野火のごとはげしき声に目覚めしが雨と気づきてまた眠りおり

  見下ろせば桜は白き道となり坂の上にてふいに途切るる

  弔電の例文集をいつよりか常備せしわれの小さな机


一首目は「野火」という比喩が鮮明。二首目の桜が「白き道」に見えるという表現は、新鮮で、春景をうまくつかんでいる。三首目の事務職のつつましい日常の把握も、なるほどと思わせる。

  ぽつぽつと仕事の話をする君の昼間の顔を見ることのなし

  自動ドアの向こうで小さく手を振るはたしかに父の顔をしており

  うすがみに筆圧つよく名をきざむ作業ののちに婚はととのう

  ほんとうに恋だったのか隣には夫となりたる君のてのひら

  夫のほかわたくしの名を呼ぶひとのなき町にいて花を買いたり


一首目は、恋人の「見えない面」がつかめないもどかしさが伝わる歌。「昼間」という一語がよく効いている。
二首目はこれだけだとわかりにくいが、父の重病が背景にある。「たしかに父の顔をしており」に、父の姿は眼前にあるのに、不安で揺らいでいる感じが、静かに伝わってくる。
結婚を詠んだ三首もそれぞれ印象的で、「ほんとうに恋だったのか」という語にあらわれているように、生活の現実は歌われているのだけれど、まだとまどいがあり、うまく実感できていない感じが自然に歌われていて、私はそこに共感する。

  「さっきはまだ温かかった」母の言う「さっき」にわれは間に合わなくて

  かたく眼をとじている祖母 終の夜のその眼はすでに海なのだろう

  惚ける前の夏の笑顔を遺影とす なかったことには出来ぬ六年

  「しょんしょんと歩いていたね」弟の内なる祖母よしょんしょん歩け


祖母の死を歌った歌も、素直な歌いくちのなかに、やりきれない悲哀がこもっていて、読者の胸に沁みる。晩年の認知症が、深く影を落としているのである。
四首目の「しょんしょん」というオノマトペは、弟の会話の中で出てきたものだが、不思議に祖母の姿を彷彿とさせる。さびしくも、あたたかな歌だ。

  派遣会社ことなるわれら時給には触れずランチはなごやかに過ぐ

  夫という輪郭を持つとうめいな壁とわれとに冬の陽は射す

  ひき割りの納豆買えば不機嫌になる夫の居てそんなに怒るな

  手作業に洗う写真を見つめてはいけないそこに笑顔があれば

  部屋中にロープ張られて干されたる写真にじっと見られておりぬ

こうした歌には、現代社会の断面が、さりげなくあらわれている。
一首目の派遣の問題、二首目の夫との関係。
三首目はとてもおもしろく、「ひき割りの納豆」を買うと不機嫌になる夫の人物像がなかなか生き生きしている。(気持ちはわかるけど。私も納豆は粒があるほうがいいな)
「そんなに怒るな」という結句がよくて、いろいろと問題はあるんだけど、ぎすぎすせずに、やわらかく生きていきたい、という願いが、日常の歌の背後にそっと置かれている感じがする。
そうした姿勢に、私は共鳴するところが多かった。
四~五首目は、震災のあとに、写真を洗浄するボランティアをしたときに作られた歌のようだ。震災の問題も、大上段に詠むのではなく、身のまわりのできる範囲で、とにかく手を動かして、そこから生まれてきた言葉を大切にしている。それがいいのではないかと思う。
「写真を見つめてはいけない」。そう、あまり考えすぎずに、目の前にある、自分のできることをこなしていくことが大事なのだろう。

あえて書けば、句切れがなく、上から下まですっと読めてしまう歌が多いので、ややリズムが単調になっているところが惜しいかもしれない。


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