イン・ザ・プール (奥田英朗著)を読んで

2017-09-02 08:49:13 | 日記
「イン・ザ・プール」という表題作を初め、ほかの短編にも共通しているのは、患者全員が「あるべき姿」のようなものに固執し、それによって不調を起こしていて、伊良部は極端に「あるがまま」を体現しているがゆえに、それに引きずられておのおののほどほどな気持ちの持ち方を見つけていくということだ。
それが医療行為として正しいのかどうかはともかく、患者にとって必要なことだったのは確かなのだろう。
常識的な判断をする人間だったら、伊良部のように患者と泳いだりはしないし、オーディションに来たりはしないだろう。
ある意味「伴走型支援」なのかもしれない。
社会で生きている以上、あるがままでいることは難しい。表向きにはペルソナを見せつつ、何とかしのいでいるのだと思う。
ただ、余りに自分はこうでなければならないということに縛られ過ぎると、かえって苦しくなることもある。
そういうときには大森のように、水泳みたいな趣味(依存対象?)を見つけることも必要な場合もあるだろう。
さすがに泳ぐために窓は割れないが。
もう何年も泳いでいないが、競泳をしていたころは毎日のように長距離を泳いでいた。
あのころを思い出して、久しぶりに泳ぎたくなった。
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武者小路実篤著「友情」を読んで

2017-07-08 23:08:48 | 日記

随分と余裕のある小説だなと、読み終えてから感じた。余裕とは「考えている余裕」のことである。
この小説では野島の内面の描写がしつこいぐらいに書かれている。杉子の反応に一喜一憂し、都合のいい願いを神に願う姿は滑稽であるが、多かれ少なかれ、人はおおむねあんなものなのかもしれない。
そういう描写は同時に、そういったことばかり考え続けている余裕があるということだ。
その余裕は、同時代に生きた作家である夏目漱石が長編でたびたび用いた「高等遊民」をイメージさせる。
翻って、自分は余裕は持てているだろうかと思った。人情の機微を感じるような、季節の移り変わりを感じるような。余り持てていないように感じる。
あれもしなければ、これもしなければばかりではなく、たまには立ち止まってみたほうがいいのだろうという気がした。
ただ、この小説のラストは余り共感できない。野島はそのまま立ち直ったのだろうか。果たしてそんなに楽観的な終わりにしてよかったのだろうか。
その違和感も何かを感じさせるという意味では、それもまた十分な効果を示しているのかもしれない。
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「死都ブリュージュ」を読んで

2017-06-03 23:11:03 | 日記
ヨーロッパは不思議な場所だ。国がつながっている。
当たり前のことなのだが、どうにもそれが飲み込めていない。
隣が別の国と地続きというのは、どうにも落ち着かないような気がする。
侵略される、アイデンティティーを損なわれる緊張はそこにはないだろうか。
鐘楼はその緊張に対抗するものだったのかもしれない。信仰は、都市と人を結びつけ、ローデンバックは都市を、人をスケッチするように、描いた。

ブルージュに対する知識というのは、ベルギーの一都市で、大きな塔があるということぐらいだった。
いつか映像でみたブリュージュは美しかった。だから、「死」とはどういうことだろうと、タイトルを見たときに不思議に思った。
だが、かつて交易によって反映したこの地は、歴史とともにその機能を失い、かつての繁栄を美しい景色に残したままのむなしい場所になってしまった。その「死」を描きたかったということが読んでいるうちによくわかった。景色を描くだけではなく、人間を動かすことで、まさに死にゆく都を活写したのだ。

愛する妻を失った男は、長い悲しみの後につかの間の幻を見たのではないか。死んでゆく都に、生きたものはふさわしくない。
失ったものは、戻ってこないのだ。
そういうことが、この小説には焼きつけられているように思った。


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「レインツリーの国(有川浩著)」を読んで

2017-04-08 10:22:53 | 日記
メールというコミュニケーション手段というのは、不思議なものだなと思う。アドレスさえ知っていれば、どこにでも、誰にでも送れてしまう。
それだけでは、ある意味、文通と似ているのかもしれないが、そこに時間的な障壁がないというのが、物理的な距離を部分的に縮めているように思う。
その上に、ブログである。個人的には「ちょっとどうか」と思うぐらいに、多くの人が個人的なことをネットに書き連ねている。
そこから始まるメールのやりとりというのは、要は、ある一定の理解(解釈)がメールの送り手側にできている状態ということだ。それはあくまで送る側の解釈であり、ブログの書き手に対する理解を意味しない。
また、書き手は、ほとんどの場合、それをある程度期待しているものである。自分のなりたい自分に、なりたかった自分に成り切ることで、現実との折り合いをつけているという部分もあるのだろう。
お互いにそういったずれを抱えながら登場人物は出会ったわけである。
ずれている部分が最初にあったからこそ、それを埋めることが、二人にとって苦しくもあり、幸せなことでもあったのだろう。
そんな読後感を覚えた。
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「ワルボロ (ゲッツ板谷 著)」を読んで

2017-01-09 00:36:28 | 日記
立川には一度行ったことがある。
初めて駅の改札を抜けたとき、随分都会だなという印象を抱いた。
大きなビルが立ち並び、交通機関も複数あり、私の地元とは比べものにならないと感じたのだ。
しかし、モノレールに乗ったとき、その印象はもしかしたら違うのかと思い始めた。
先ほど都会と感じた町並みがすぐになくなり、窓から見える景色の緑が占める割合が大きくなっていった。
遠くなる後ろの景色を見たときに、あれは本当は書割りだったのではないかと感じた。
まるで、あの「都会」の部分だけ、不意ににょきにょきと生えてきたかのような。
一つの街が抱えるには余りに大きなアンバランスさを見たような気がしたのだ。
その奇妙な印象は、記憶の片隅から消えずに、なんとなく居残り続けていた。

それから何年も経って、案外その印象は間違っていなかったのかもしれないと、この本を読んで思った。
立川という街は、急激に変化した場所だった。登場人物たちが生きた時代は、いわばその混沌の頂点の時期だったのだろう。
彼らは彼らなりに、それに適応しようとしていたのだろう。
けんかに次ぐけんか。正直言って、感情移入はできなかった。私はここまで衝動的に行動できない。
だからこそ、街に視線が向いたのかもしれない。
養蚕、軍需産業、アメリカ軍。その時その時で翻弄されながら、生きてきた街だったのだ。
それらと、コーちゃんたちの生き方は反対を向いているようでそうではない。


私としては、あの奇妙な印象を残した街の理由がすこし解けただけでも満足である。
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