社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「経済理論の公理論化について」『経済研究』13巻1号, 1962年

2016-10-18 10:55:19 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「経済理論の公理論化について」『経済研究』13巻1号, 1962年

 公理論という考え方がある。日本では表立って議論されることは少ない。本稿の内容は, ドイツの経済学者G.カーデ『理論経済学の方法論としての数学的経済理論の論理的基礎づけ』で主張されている経済理論における公理論化の批判的検討である。

 経済理論の公理論化とは, 経済理論を形式的に無矛盾な命題の体系にすることで, そのために公理論(ユークリッド幾何学にみられるように, 限られた公理, 公準を基礎に定義と証明を繰り返し演繹的な論理体系を構築する)が使われる。
 筆者の整理によれば, 公理論化を主張する論者の思想は, 2つの方法論的意義の強調からなるとされる。第一は, 公理論化によって, 経済学への数学ないし数学的方法の適用への否定的姿勢は除去される。第二は, 公理論化によって, 経済理論が精緻化される。

 カーデには独特の数学観がある。カーデによれば, 数学はたんに量の科学ではなく, ひろく事物の関係一般を記号化された論理で処理する学問, すなわち公理論である。数学は公理によって固定された限界内では例外なく妥当する判断の体系であり(数学の存在論的中立性), 数学という公理系の特色は, 記号化された言語の使用である。したがって, 経済理論への公理論の適用は, 経済学の数学化に他ならない。数理経済学の絶対化である。「数学の適用」=「精密な論理計算の利用」にたいする原則的な反対(経済学への数学の適用が原則的にできないとする見解[W.ゾンバルト])は, 精密な思考の拒否に他ならない。

 また, 公理論よる「理論の精密化」とは, 理論体系の内的無矛盾性の確保であり, 叙述の始点におかれる基本的仮定からの, 他の命題の論理的誘導過程が記号化された論理によって形式的に進められることを意味する。理論はそのことによって曖昧さを払拭し, 論理的整合性が与えられる, とする。

 カーデの主張を, 概略以上のように整理したうえで, 筆者は経済学の科学性の基準としての, その現実反映性と論理的整合性の保証を点検している。まず現実反映性に関しては, 公理の内容が現実を反映しているかどうかが問われなければならず, もしそれが恣意的な思い付きであれば, その後の論理は空虚な公式遊びにすぎなくなる。また, 公理の内容が現実を反映していたとしても, 公理が科学の始点におかれる一般原則であるかぎり, それは単純な定義や原則であってはならず, 公理論には具体的な経験から一般原理にまで高める理論展開の原理はもともとそなわっていない。「公理はもっとも単純な普遍化であり, 諸概念, 諸判断, 諸推理の最初のもっとも単純な形式としても, やはり経済社会の客観的関連の深い認識の成果, 一定の段階における研究の最終的結果としてあたえられるべきものである」(p.55)。
それでは論理的整合性については, どうなのだろうか。筆者は公理論が理論の論理的整合性を保証することは確かであるが, 推論的過程における思考の相対的独自性を絶対化し, 推論的過程の形式的同一性を理論の内容的同一性にすりかえ, ある理論の妥当性を公理的展開と同型の理論の妥当性によって証明する絶対的方法をとるとすれば, それは科学の真理性の基準からずれていると言わざるをえない。

 「・・・何を公理の具体的内容とするか, 同型の公理論のいずれをとるか, といった問題に対する答えを公理的方法そのものの中に見出すことはできない。経済理論の公理論化が真に経済学の科学性を高めうるためには, 分析の一歩一歩が事実と実践とによって裏づけられた具体的内容的な研究が必要である」(p.56)。経済理論の公理論化(=数学化)は, 経済現象の歴史的性格, 具体的で多様な性格を捨象し, 記号化によってそれらの本質をぼかす危険性をもった行為である。
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