社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

高崎禎夫「フリッシュ『物価指数論展望』吟味」『統計学』(経済統計研究会)5号, 1957年6月

2016-10-16 11:48:48 | 9.物価指数論
高崎禎夫「フリッシュ『物価指数論展望』吟味」『統計学』(経済統計研究会)5号, 1957年6月

本論文は, Ragnar Frisch “Annual Survey of General Economic Theory : The Problem of Index Numbers” Econometrica, vol.4, 1936 に登場した近代経済学的指数論の見解を紹介し, その問題点に言及することを目的としている。フリッシュは, それまでの指数論を原子論的物価指数論と関数論的指数論とに区分したことで有名であり, いまでもこの区分を踏襲する研究者は少なくない。筆者は, この区分が非本質的で, 理論的弱点を有する同一の主観価値説的物価指数論の関数論派による小区分にすぎないとし, もし学説的分類を行うのであれば, 主観価値説的物価指数論と客観価値説的物価指数論との区分でなければならない, としている。

以下, 筆者によるフリッシュの所説の紹介で, 原子論的物価指数論と関数論的物価指数論のおさらいをする。ただしその際, いくつかの留意点を, あらかじめ示しておきたい。まず, フリッシュ自身は関数論的物価指数論者であり, 原子論的物価指数論の紹介もその立場からなされたものであること。次いで, 筆者は原子論的物価指数論も関数論的物価指数論も同じムジナのなかにあるものとみていること。

さらに, 筆者はかなり細かくフリッシュの議論を紹介しているものの, 要約であることは否めないので, わかりにくいところが多々ある。また, 下記のわたしの要約は, その高崎論文をさらに要約したものなので, 一層わかりにくいものと思う。詳細を知ろうとするならば, フリッシュの論文に直接あたらざるをえない。この点をあらかじめ, 了解いただきたい。

 フリッシュが原子論的物価指数論の典型例としてあげているのは, アービング・フィッシャーである。フィッシャーにあっては, 平均物価概念が, 諸商品の物理的単位で定義され, 共通単位がない。これを克服するために, 原子論的物価指数論の中心課題であった確率論的方法が否定され, いわゆるテストの方法への言及がなされた。前者では, エッジワースの不定標準方法に対する批判が中心課題とされ, 原子論的物価指数論者による物価水準の確率論的定義を誤謬とした, ケインズ, ジニに同意を表明している。後者では, テストの方法を列挙し(同一テスト, 時点転逆テスト, 循環テスト, 単位無差別性テスト, 確定性テスト, 比例性テスト), テストのすべてに合格したものとしてP01=Σp1q/Σp0q(qは0と1時点から独立)をあげている。 しかし, 一定のqの仮定は現実的でないので, これを不合理とみなした。フリッシュは原子論的物価指数論のようにpとqを独立変数と考えるかぎり, この困難を克服できないと結論づけている。

次いで, フリッシュが説く関数論的物価指数論が検討されている。関数論的方法では, 価格と数量との一定の典型的(原則上, 観察し得る)諸関係の存在が考えられている。形式的な算式はともかく, 問題は客観的等価として準拠できる現実的なそれをいかに見出すかである。しかし, それに関する完全な情報の獲得は困難である。そこでいろいろな接近法が登場し, 「等価」の基準についてのいろいろな解釈が生まれた(フリッシュの”well being”, コニユスの”Bedurfnisstand”, ジニの限界効用の平均水準, ボーレーとボルトケビッチの「満足」, ケインズとハーバラーの「効用」, アレンとステールの無差別曲線の同等など)。また, 「等価」の客観的準拠が何によって得られるかが議論の対象となり, 客観的に観察可能であると仮定された行動媒介変数(パラメータ)が想定された。このパラメータの構成方法の一つが無差別法である。物価指数はこのようないくつかの仮定のもとで, 一つの選択指標が与えられ, かつ価格が定まればこれを確定する。しかし, 実際にはデータが不完全であるため, 「真の指数」に接近することはむずかしい。そこで考えられたのが, 「限界値論」(ピグー, ジニ, コニユス, ハーバラー, ケインズ, ステーレ)と「近似値論」(ボーレー, フリッシュ), 「弾力性理論」(フリッシュ)である。

 筆者は原子論的物価指数論と関数論的物価指数論との区別を価格と数量との間にある一定の関係を認めるか否かにあるとした, 上記のフリッシュの所説に疑問を呈している。筆者の理解は, 関数論的物価指数論が一義的定義に到達しえたのは, 価格と数量との関係を認めたからではなく, 指数の前提に一定の満足を得るための貨幣支出変化をおくとした経済理論があったからである。貨幣と数量との一定の関係を認めたか, 認めなかったかということは重要な事柄ではなく, 上記の関数論的物価指数論に経済理論が存在した(原子論的物価指数論者にはなかった)にあったとみるべきである。

 したがって, 原子論的物価指数論者に対して, フリッシュは価格と数量との関係の無視による定義の不確立に重きをおいて批判したとするのは筋違いであり, 批判は現実から出発して現実に帰る科学的態度の欠如に対して, またその結果としての研究の形式性に対して, さらにその結果である経済学的無意味性に向けられなければならなかった。

 関数論的物価指数論に関していえば, フリッシュの言うようにそれは「唯一の正しいもの」なのだろうか。その定義の本質的要素である「等価」の概念は, 「効用」あるいは「満足」のそれであり, この概念は本来個人がもつ, しかも測定不可能な, 心理的概念であり, それを社会的なものとして意義づける試みは乏しい。その厳密な理論的説明はあたえられていない。それゆえに, 関数論的物価指数論を「唯一の正しいもの」と断定する根拠はない。
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