社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

上杉正一郎「近代理論経済学批判-中山教授の俗流性-」伊豆公夫編『近代主義批判』同友社,1949年

2016-10-18 10:45:10 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
上杉正一郎「近代理論経済学批判-中山教授の俗流性-」伊豆公夫編『近代主義批判』同友社,1949年

 日本で近代経済学の本格的批判の先鞭をつけたと目される論稿。具体的には,批判の対象として,中山伊知郎『経済学一般理論』(1944年)が取り上げられている。論点は静態均衡の理論と価値・価格論に限定されている。

 筆者は,静態均衡の理論に対して,杉本栄一の批判が既にあることを伝えている。杉本の指摘は中山学説の批判ではない。しかし,静態均衡の理論は経済的変動の一般的依存関係と経済諸量の一般的均衡関係とが混同していること,前者は誰もが否定できない現実であるが,後者はローザンヌ学派の論者が仮想した単なる構想物にすぎない,と述べている。筆者はまず,この杉本の見解が中山学説にも完全にあてはまる,としている。   

 筆者は中山の見解が資本主義的生産の現実に合致していない,と批判する。資本主義経済は蓄積が正常な状態である(もちろんこのことの指摘は資本主義的生産が単純再生産の状態におかれ,縮小再生産することがある可能性を否定していないが)。中山が資本主義経済の現実を誤認したのは,彼が「農業の如き事前的生産」に重点をおいてこの生産を見たからであろう,と筆者は推測する。次いで,中山は経済の循環が何によって維持されるかを問い,それを農民の「長い間の経験」にもとめる。筆者は,中山のように,経済の循環の由来を,農業生産を例にあげて説明するのは正しくない,と述べている。静態均衡論における均衡状態はいずれにせよ,現実には存在しない代物であり,仮想による所産である。

 これに対して,3つの反論が考えられる。第一は,理論はもともと仮説的なものであり,事実判断を与えるものではない。この反論に対しては,理論の抽象性,制約を攻撃しているのではなく,それらが現実的な前提から出発した抽象化なのかを議論しているのであり,否定されるのは頭のなかで勝手に作りあげられたドグマであるとの反批判が対置される。第二は,均衡状態の有無が理論にとって根本的な問題ではなく,経済主体の行う経済活動の様式のなかに均衡の成立に導く要因が働いているのをみとめることが重要なのだという反論である。これに対して筆者は,与えられた条件のもとで最大の満足を求める静態的経済主体の活動や均衡状態に近づくための人間の努力によっては,全体としての社会における均衡の成立は証明されえない,とする。第三は,均衡から離反した状態が恐慌や大きな不況が歯止めになるのであるから現実の経済は均衡への傾向をもつとも主張されるが,恐慌や大きな不況が証明するのは資本主義の矛盾であって,均衡の存在ではない。

 それでは中山による価値・価格論はどうであろうか。中山によって経済価値と呼ばれている価値は,主観価値である。この価値の内容は,効用である。財の性能はただちに効用ではない。効用はこの性能に対する人間の判断である。中山はこのように財の性能とこれに対する人間の判断を区別し,効用と効用の比較という概念を取り入れるが,古い主観価値説を修正しても,それによって従来の主観価値説のドグマから脱却できるわけではない。別の箇所で中山は,経済行為の標準が「経済価値」としているが,資本主義経済における経済主体の標準は利潤であるとするのが現実的である。中山の主観価値論の特質はその使用価値視点のみに立脚した交換の定義,あるいはそれと価格との関係や貨幣の果たす役割の誤解にもあらわれている。

 なかでも問題なのは,価格論の実質的放棄である。中山は自身では「一層完全なる価格論」を展開しようと試みる。その内容は無差別曲線ないし限界代替率の理論であり,その中身は諸財の効用の一定の関係から出発し,諸財の一定の組み合わせと他の組み合わせとの間の比較である(効用の可測性の仮定を迂回するために)。しかし,立論を吟味すると,効用のある組み合わせの大いさと他の組み合わせの与える満足の大いさとの比較が前提となっていて,ここでは明らかに量的比較が問題になっている。中山の当初の意図は成功していないと言わざるをえない。

 さらに問題なのは,資本主義的生産の概念に対する無理解である。筆者によれば,中山のその理解は生産の技術的条件だけに触れ(生産は生産諸力の結合で,その目的は生産物の生産),そこには生産費の法則(生産費の縮小をめざして行われる生産の結果は結局,その財の価格と生産費とが均等になるところで決まる。利潤はここに含まれない)が働いていると述べる。中山理論では,資本制生産が生産物ではなく利潤を目的に行われること,収入が生産要素の提供に応じて発生するのではなく,生産された剰余価値が配分される。価格が生産費の法則にのっとって決まるのではなく,その価格の動揺こそが資本主義経済の常態で,競争が長期にわたり生産費に等しい状態にあるのを許さないことが全く看過されている。生産費の法則が無利潤の状態のもとで成り立っていること,むしろ生産者が利潤の消滅するまで競争することを正常な状態と考えていることも,非現実的である。背後にあるのは,単純生産者間の競争と資本家的競争とを意図的な取り違えか,混同である。
中山は意識的にではないが,事実上,資本主義社会に階級の存在を認めている。ただし,それは資本主義社会のなかに「企業能力を有する人々」と,企業能力を全く持たないかあるいは持っていてもそれを用いることを有利とせず,生産要素(労働など)の提供によって生産に参加する主体とが存在するという形態においてである。前者は消費財と生産財の一定量またはこれを購入する貨幣の一定量を所有する人であり,これらは企業者が企業者たりうる条件であり,企業能力の客観的基礎である。後者は労働者がこれらを全く有することなく,労働を供給するのみであることを意味する。彼らがそうせざるを得ないのは,服従労働に従う以外に何の能力もなく,生産手段から全く切り離されているからである。中山は資本主義社会にこのような二大グループが存在することを認めているが,なぜそのようなグループが存在するのかを問うことがない。二つのグループが生まれたことの基礎をただ(主観的な)能力の有無にのみ認める。したがって,それらの間に客観的階級対立を認めず,それぞれ能力に応じて生産に関与するとみる階級調和を予定する。資本主義経済の弁護者としての中山の理論の本質は,ここに明確である。
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