社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

長屋政勝「フラスケンパーの方法原則(第3章)」『ドイツ社会統計方法論史研究』梓出版社,1992年

2016-10-17 11:45:46 | 4-2.統計学史(大陸派)
長屋政勝「フラスケンパーの方法原則(第3章)」『ドイツ社会統計方法論史研究』梓出版社,1992年

フラスケンパーは,統計理論・統計方法論を論理的に検討し,認識目標の二元論を方法基準として社会統計方法とストカスティークとの対置を示した統計学者として知られる。本稿は,集団に対する個性的数量記述を目標としたそのフラスケンパーの統計方法論の吟味である。そこでは一方でフラスケンパーのストカスティークに対する原則的な対置の姿勢が出てくる根拠が解明され,他方で社会統計方法論構成のためにストカスティッシュな手法の部分的な批判的摂取を余儀なくされた方法態度の矛盾が検討される。

構成は「1.社会科学における数の意義」「2.統計的認識と大数法則」「3.フラスケンパーの残した課題」となっている。
「1.社会科学における数の意義」では,フラスケンパーが掲げた「事物論理と数論理の並行論」および「認識目標の二元論」の基準によって,社会統計的認識と数理的手法とのあるべき関係について,どのような方法論的原則が確立されたかが問題とされる。このことを問題とする意義は,第一にこの点にチチェク以後のフランクフルト学派の個性があらわれているからであり,第二にフラスケンパーのこの独自の観点が客観性・普遍性をもちえなかったことが契機になって,彼以降,数理的方法の導入・摂取をめぐって混乱がもたらされたと類推できるからである。    

 フラスケンパーにとって,社会統計的認識と数理的手法との関連は,その統計学研究の出発から大きな関心事であった。背景に1920-30年代のドイツ政府統計活動において数理的手法の広汎な伝播があった。彼はまず,諸科学(非有機的自然科学と社会科学)にしめる数量(・・)の(・)意義(・・)の考察から始める。どの科学にとっても量的思考は重要であるが,非有機的自然科学と社会科学とではその意味は決定的に異なる。前者では数量と数理的関係が事物の本質に対応し,数理的公式はその認識にとって決定的手段,形式となる。これに対し,社会科学では非有機的自然科学と異なり,全体を個に分解し,数量や数理的公式で対象の本質に迫ることができない。もっとも,社会認識にとって意味がないわけではなく,独自の意味は社会的数量が対象の計数と計測の結果として獲得される,すなわち社会的集団についての集団が量一般ではなく,初めから統計としての性格をもつということである。

フラスケンパーによればひとくちに社会的集団を統計的にとらえるといっても,社会現象を数量化するためには,諸事象の論理的加工を経なければならず,主体の側に「体系的分類」の準備,集団の構成単位の分類と帰属の実行が必要である。したがって,そこに何らかの主観的恣意性が入り込む余地ができる。また単位の限定には,対象の外面的特徴を分類基準にしなければならないので,そこに歪曲と変造が余儀なくされる。さらに社会的計数と計測の結果である統計数字は,その正確性について固有の問題を孕む。

 以上のように,フラスケンパーは社会科学における数量の意義,数量化の可能性の度合,正確性のもつ意味を明らかにし,そこから社会事象を数量化することの困難性と関連させてひとつの方法上の基準を示し,それを数理的方法と社会統計方法との融和をはかる原則とする。これが「事物論理と数論理の平行論」である。両概念の平行とは,どのような統計研究にあっても社会事象の論理的解明(量化を成立させる概念装置と得られた数量の関連づけに意味をもたせる概念)があって初めて数量的関連の研究手法(数理的思考形式)が規定されるという意味である。このことの含意は,社会科学的認識では数と尺度と数量関係が事物関係との対応を必要とすること,社会統計方法論が数論理だけで決して成り立たず,事物論理による社会事情の質的側面の解明をまって数論理の意味が規定されること,状況の論理が数論理に優先すること,にある。

 「2.統計的認識と大数法則」では,社会統計による認識の構造が論じられている。社会統計はその対象の性格のゆえに,非ストカスティッシュな認識が基本である。したがって,そこでは大数法則がなじまない。大数法則が(それゆえに確率論が)社会統計的認識に占める領域は限局されている。フラスケンパーによれば,統計学は社会科学の一分肢であり,社会的集団現象の数量的認識をめざす。具体的には,二つの認識目標,すなわち集団の計数と計測,さらには計算による大きさとその内部構成の把握,そして極めて限られた領域でのストカスティッシュな方法による安定的数値関係の究明を課題とする。フラスケンパーは,これを「認識目標の二元論」と呼ぶ。

 フラスケンパーは以上を踏まえ,統計方法論のあるべき形,社会統計と数理統計とのあるべき関連を総括的に7つの命題で示した。それは概略,以下のとおりである。①統計方法論は,社会科学では,例えば物理学の場合とは本質的に異なる観点を有する。②社会統計方法論は2つの部分に分かれる。事物論理的部分と数理的部分である。前者はドイツ統計学において高度に完成されたものである。③どの統計学も,しばしば最も初等的なものであるにせよ,同様に数学である。数理統計学と非数理統計学の間に明確な境界はない。④高度な数理的手法は,一般に獲得不可能な全く特定の種類の解明を得ることを目標とする。⑤高度な数理的手法の適用が実り豊かなものであることは,近年の実務をとおして明らかになりつつある。解決されるべき基本問題は,数理統計学がどの程度意義をもつかの解明である。⑥数理統計学と非数理統計学とは実際には相互に依存しあいながら発展してきた。非数理統計学は事物論理の領域で価値ある実績を示さなくてはならない。この方向が取り組むべき課題は,数理統計学では無視されている。⑦数理統計学はその一面性を避けるために,事物論理と数論理の間の厳しい平行論の成立と維持,相応の認識価値以上の結果の正確性をもとめない,方法の洗練さ,帰結の形式的計算の正確さと出発における資料の正確さとは相対立するものではない,などのいくつかの観点をもって運用されなければならない。

これら諸命題の全体に感じられるのは,平行論にもとづく数理的手法の摂取を含んだ一般統計方法論,あるいは「社会科学の数理統計学」の構想である。筆者はその構想にプラグマティックな考え方の表出がみられると断定している。

 最後の節は,「3.フラスケンパーの残した課題」として,彼の議論が数理統計学との融合を唱えながら,実は後者の導入の地均しになったことを明らかにしている。そうなった理由は,実はフラスケンパーが事物論理を示すことで,社会現象の非数理的本性を承認しながらなお,数量化との接点をもとめて,数理による記述に意味をもたせようとすれば,いきおい数理が成立し活動する場を認識の側から対象のなかに設定することになる。数量化を目指した主観の側の論理的整合・構成能力がここにもとめられる。フラスケンパーの平行論と二元論は一見,数理的手法の社会統計的認識にしめる意義を狭く限定するかのようでありながら,対象そのものに内在する論理から離れて措定されたため,結局のところ主観の論理的構成力と認識目標・関心を優先させ,対象分析過程に数理的手法を強引に注入することになった。もっともフラスケンパーにあっては,社会統計学体系を(積極的に高度な)数理的手法の導入によって豊富化すると展望するとき,後者には確率論的要素をもたないものが考えられていたのであるが。

問題とされるべきは,フラスケンパーの理論にときおり垣間見られる,統計調査と統計解析を認識目標達成のための手段,道具とみなす姿勢,数理解析法の技術的中立性への過信,結果としての数理統計学への安易な妥協である。筆者が結論的に指摘するように,フラスケンパーが想定したような,社会統計方法への数理的手法の導入,また確率論的性格をもった手法であればその性格を払拭した移植が現実に実行可能となりえないこと,比較的単純な数理ではもとより,手法が高度になればなるほどその困難性が大きくなることは,それらの数理統計学内部での展開(相関係数,標本調査法,統計量の有意差の検定など)をみればあきらかである。

「数理統計学へのフラスケンパーのこのいちじるしい妥協は,ひとつに,・・・根本的次元での社会現象の数量と数量関係に対する論理的考察にみられた欠陥から,次には,当時のドイツ統計学の現状への安易な追認からでてくるものと考えられる。・・・一面的導入をいましめながらも,フラスケンパーは利用価値のあるものと思われる数理的手法の応用に積極的である。しかし,その社会統計的研究での利用価値の有無を判断する論理的方法論的基準の考察にフラスケンパーの理論は独特の科学観(W.ディルタイの科学観-引用者)と結びついた欠陥を内在させていたといわなくてはならない」(p.233)。筆者の結論は,これである。
ジャンル:
きいて!きいて!
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 長屋政勝「ティッシャーの統... | トップ | 長屋政勝「統計的因果研究-... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む