社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「経済研究における数学の適用条件」『経済志林』第32巻2号,1964年4月

2016-10-18 11:00:01 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「経済研究における数学の適用条件」『経済志林』第32巻2号,1964年4月

筆者は本稿の目的を,数学的方法が経済学の研究方法としていかに評価されつつあるかを検討し,この方法が経済学にとってなしうること,なしえないことを区別するために,数学的方法の性格とその役割を解明すること,としている。本稿執筆当時,近代化・近代理論の採用という名目で,経済学の数学化が急速に進められ,その思潮がマルクス経済学にも及んできたため,筆者は敢えてこのテーマを設定したのである。全体は「数学の対象と数学適用の可能性」「数学適用の範囲」「数学乱用の原因」「数学的模型の意義」から成る。

 経済学に数学を導入する際に,2つの科学が「量」を扱うことを根拠にする見解がある。しかし,数学が扱う「量」と経済学が扱う「量」とは,意味が異なる。数学が研究する対象は現実世界の量的諸関係と空間的形式で,どちらも質に無関与であることが前提である。これに対し,経済学の研究対象は時間的・場所的に,すなわち歴史的に規定された存在である。したがって経済学が扱う「量」的現象,これを数字であらわす統計は,時間的・場所的に規定されている。両者は,別物である。ただ単に,2つの科学が「量」を扱うということを根拠に,経済学に数学の適用が可能とするのは論理の飛躍である。筆者はこのことを,商品の価格形態の本質規定(マルクスの価値形態論)を例に,説明している。商品というカテゴリー分析では,数学はとうてい「前提のうちに含意されている結論をひきだす」推理の機能はおろか,「論証または理論に正確さと厳密さとをあたえ,説明を簡潔にする」言語としての機能さえない(Leif Johansen)。

 数学は「質」も扱うという見解がある(E.コールマン)。集合論,位相数学,群論,束論などの諸領域で,「質」が研究されているという。しかし,ここで言われている「質」は,数の内部の区別であり,数よりも複雑な,数であらわされるよりも高次な運動形態としての「質」ではない。数学の対象を量的諸関係と空間的諸形式であるとする古典的規定は,数学を他の諸科学の研究方法として応用できる範囲の確定にも不可欠の規定である(p.40)。

 数学の他の諸科学への適用可能性に関しては,それぞれの科学の対象の特質にそくして確定されなければならない。換言すれば,個別科学への数学の適用は数学的推論の各段階で,研究対象の内的特質にもとづいて量的分析の意味を問うていかなければならない。ブリューミンは,次のように指摘している。経済学では諸カテゴリーの研究(質的分析)が量的分析に先行しなければならず,前者が深まるほどそれらと量的連関と依存関係が明らかになり,この深まりがなければ経済理論の内容は貧しいものとなる。数学の肥大化現象=質的分析にもとづかない量的分析の独走は,経済学を俗流化する。経済理論の深化に役立つ補助的手段であった数学的方法がいつのまにか目的化し経済分析を阻害する。結果として与えられるのは数学または数字の物神性にとらわれ経済現象の本質を見失い,もはや経済理論とは言えない「経済数学」である。

 ところがこのブリューミンの数学的方法の適用条件に関する見解にも落とし穴がある。それは質的分析の先行の必要性のこの議論(質的分析⇒量的分析)は,へたをすると,数量的分析の展開に保全されず,両者の機械的,形式的区別と,前後関係の規定に終わり,数学的展開の一段一段で経済学的カテゴリーの特質に則した意味づけを行うほどに厳重な量的分析の点検が要求されないのである。旧ソ連の統計学界は少なからずこうした陥弄におちいっていた(ネムチーノフの統計学理解,また部門連関バランスを推進した研究者の見解など)。重要なのは,数学的展開の一段一段で経済学的カテゴリーの特質に則した意味づけを行うことである。

 以上のように,数学の適用については,数学の対象としての「量」と経済量との区別,数学的方法の副次性が原則であるが,この原則の確認を妨げる観念がある。それは科学の発展を「定性分析⇒定量分析」という順序でしか考えない観念と,数学の対象および方法の抽象性についての誤解である。第一の量的分析優位の科学観によれば,科学が「精密科学」たりうるのは定量分析が支配する段階で(一部のマルクス経済学者もこれに同調),「経験科学的接近」(実証的研究法のことで,図式=モデルの構成と仮説=理論の検証という試行錯誤の過程)をマルクス経済学も取り入れるべきであると言う。近代経済学でこのような傾向が生まれたのは,理論のオペレーショナリティの高まりとそれを裏付ける統計数値の整備状況にもとめられるが,前者に関しては経験的に観測されないものの存在は認められないとする見地,同じことであるが経験的所与と客観的実在を同一視する見地である。筆者にあっては,この見地は到底認められない。後者に関しては,統計数字につきものの統計的調査過程の理論的検討がない点,また検証の機構が確率論的に処理される点で妥当でない。

 第二の数学の対象および方法の抽象性についての誤解は,諸科学への数学的方法の適用範囲を限定しない理由にその高度の抽象性をあげる考え方に潜む誤解である。抽象的概念を駆使すればそのまま,対象の本質にせまるものだとすれば,およそ分析などは不要である。経済学研究にも抽象力は必要であるが,それはこの科学に固有のそれである(分析と総合,簡単な概念から複雑な概念へ対象を意識的に再生産する過程)。

 最後に「数学的模型」の意義については,モデルが一般に経済諸量の相互関係が多変数に関する連立方程式として表現されるか(連立多元一次方程式),経済諸量の変動の相互関係がとくに問題にされる場合には同じ変数群についての微分方程式ないし差分方程式が定立され,その一般解,特解の存在条件と解法の数学的説明がなされる。このような分析にあたっては,変数の一次性の仮定のほかに少なくともその微分可能性,したがって変数の連続性と変数の無限分割性という仮定が認められなければならない。通常はこれらを経済諸量の性質にもとづいて検討しないで,単に仮定するだけで計算が行われる。したがって,例えば,生産物をその使用価値で捉えたものを変量とみなすと,この仮定は経済的に意味がないことになる。モデル分析には,このように変数には数学的必要条件であっても,経済学的内容を無視せざるをえないという意味で非現実的な仮定が前提されることが多々あり,重大な欠陥となっている。

さらにモデル分析の大前提は,均衡関係の成立を想定している。筆者はこのことを米田庄太郎の言説を借りて,指摘している。すなわちモデル分析は,経済現象の関数関係,すなわち経済的均衡を分析することに主眼があり,それは経済現象の原因を究明することではないと言うのである。米田のこの指摘はクールノー,ワルラス,パレートの経済学に対する言及であるが,筆者はこの米田の言が投入・産出分析を動学化し,一般均衡的成長経済学を数学的に展開したサミュエルソン,そして計量経済学のモデル分析にもあてはまる,としている。

筆者は,「要約すれば数学の本来の研究対象(質に無関心な量的諸関係)の本質から必然的に規定される数学的方法の性格,すなわちその抽象性,その外見的一般性,因果関係認識の放棄といった諸性格は,経済学へのその適用にあたって,たんに立論の前提の経済的意味の確定だけでなく,数学的展開の一歩一歩において,対象との対決・仔細な検討をも要求するということになる。したがって,「実証」「検証」「定量的分析」といったタームを,その方法体系の原則にまでさかのぼって検討することもなしにマルクス経済学の研究にもちこむということは,到底同意することができない」(p.52)と結論付けている。    
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