社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

山口秋義「ロシア帝国第一回人口センサス(1897年)について」『経済志林』第76巻第4号,2009年

2016-10-17 21:55:32 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
山口秋義「ロシア帝国第一回人口センサス(1897年)について」『経済志林』第76巻第4号,2009年

 筆者はこの論文で第一回ロシア帝国人口センサス実施の背景,センサスの方法論的特徴,調査組織と制度的特徴(実査組織,調査員の構成,調査環境)について解説している。

 当該人口センサスは1897年に実施されたが,その背景にあったのは農奴解放(1861年),国民皆兵制(1874年),人頭税撤廃(1887年)であった。すなわち農奴解放以降,人口移動の活発化,人頭税対象リストと実際の人口分布との顕著な乖離で,18世紀以降から当時まで実施されていたレヴィジャと呼ばれる人口調査が国民皆兵制に必要なデータとして意味をもたなくなったと認識されるようになり,その改善が緊急の課題とされた。またこうした国内要因の他に,バンコク統計会議を中心とした国際統計活動の影響があった。1853年ブリュッセルで開催された第一回万国統計会議では1846年ベルギー人口センサスで採用された諸原則が議論の対象となり,この内容はその後,1872年にサンクトペテルブルクで開催された同会議で決議され,各国への勧告となった。

 それでは実際のセンサスは,どのようなものだったのだろうか。筆者の紹介にしたがって,調査内容を示す。センサスによって集計,把握された人口は現在人口であった。調査時は露暦1897年1月28日(新暦2月9日)の朝,調査対象地域はロシア帝国全土とされた。標識としての調査項目は14(①名前,父称,またはあだ名,②婚姻状態,③世帯主との関係,④性別,⑤年齢,⑥身分,⑦信仰,⑧出生地,⑨定住地と住所登録地または国籍,⑩居所,⑪母国語,⑫職業,⑬識字能力,⑭身体上の障害)であった。民族属性,従業上の地位に関する項目はなく,また識字能力の基準は曖昧であった。
調査票は3種(A票[農民と農村住民用],Б票[農場主と農村の自家所有用],B票[都市住民用])用意された。調査票は実査の10日から15日前に事前配布され,回収は1月28日から31日にかけて行われ,調査員が点検して,地方における第一次集計結果とともに中央統計委員会に送付された。集計は内務省中央統計委員会センサス部が担当した。

 集計にはアメリカ製の電算機ホレリスが採用されたが,効果的な運用にいたらなかったようである。公表はセンサス実施から2年後の1899年から始まり,1905年に完了した。

 実査組織と調査員の構成は,次のとおりである。調査は「第一回ロシア帝国人口センサス法」の規程に従って行われた。センサスの全体責任者は内務大臣で,彼を議長とする中央センサス委員会(財務省,国防省,国家統制省からの代表)が基本計画を作成した。実務を担当する地方組織として県センサス委員会(県知事が議長),群センサス委員会(群貴族会長が議長)が設置された。しかし,中央センサス委員会,県センサス委員会,群センサス委員会を構成したのは政治家で,統計専門家はほとんどいなかったようである。都市部(サンクトペテルブルク,モスクワ,ワルシャワ,ニコラエフスク,クロンシュタット,オデッサ,セバストポリ,ケルチ)には特別センサス委員会が設置された。

 調査員の登用は各地方のセンサス委員会に委託され,全国で約13万5千人となった。筆者はサンクトペテルブルクを例に,調査員の構成を紹介している。調査区長から調査員にいたるまで,ここでも統計専門家は少なかった。サンクトペテルブルクでは,調査区長には中央統計委員会,土地省農業統計部,財務省,運輸省,市役所の代表がなり,他に大学教授,医師,兵士などが任命された。末端の調査には,軍将校,官僚,学生があたった。
調査は難航した。被調査者の間にさまざまな噂(徴税強化,強制移住,戦争・農奴制復活,土地分与への期待,迷信)がとびかい,調査忌避も少なくなかった。

 筆者はまた被調査者を下層農民,都市ブルジョアジー,都市労働者,貴族と聖職者に区分して,調査への態度を概括している。また全体として,教育水準の低さがセンサスにマイナスの影響を及ぼしたことを指摘している。
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