社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

松川七郎「A.F.Lueder の統計学批判について」『経済研究』第10巻第1号,1959年

2016-10-16 21:47:17 | 4-2.統計学史(大陸派)
松川七郎「A.F.Lueder の統計学批判について」『経済研究』第10巻第1号,1959年

 リューダー(1760-1819)は,ドイツ社会統計学の系譜で異色の存在である。それは「リューダーの悲劇」に象徴される。ドイツ国状学の伝統を受け継ぎ,ジュースミルヒ,ビュッシングが担った政治算術の流れに警鐘を鳴らしながらも,旧態依然として時代から取り残された国状学への飽き足らなさを予感し,ついには統計学の存在そのものを否定するにいたったのがリューダーである。「リューダーの悲劇」は,このことを指している。リューダー自身は,アダム・スミスの信奉者でもあった。筆者はそのリューダーの思想をときほぐし,そこに彼が生きた時代と社会の反映を見ている。

 筆者が読み込んだリューダーの著作は,『統計学および政治学批判(ⅩⅨ)』(1812年)である(冒頭にリューダーの詳細な文献目録が付されている)。リューダーは統計学を統計学=国状学の牙城だったゲッチンゲン大学で学んだ。直接の師だったのはアッヘンワルの後継者であったA.L. シュレーツァーである(もっとも筆者は,リューダーがアッヘンワルやシュレーツァーの国状学をどう発展させたかは定かでない,としている)。また,筆者によれば,リューダーはおそくともゲッチンゲン大学を卒業して間もない時期にスミスの『諸国民の富』に接していた。あるいは,リューダーはシュレーツァーについて国状学を学んだのと併行して,スミスを学んでいたと言える。スミスの学徒として位置づけが決定的になったのは,1800-04年に出版された3巻の大著『国民産業と国家経済』(スミスの諸原理の解説書)によってであった。この書物が公刊された40歳ごろのリューダーは英仏の進歩的思想の摂取に努め,新しいドイツ的なものを生み出そうとした経済学者・統計学者であった。

  統計学の歴史でよく知られた国状学派(旧学派)と政治算術学派(新学派)との論争(1806‐11年)はナポレオンが近代統計を重視し,彼の幇助者たちによってプロイセンの統計が完成された時期)で,それ以前に始まった国状学派の信奉者による「表派統計学」への激しい攻撃を契機としていた。言うまでもなく,国状学は国家の福祉に顕著な影響を及ぼす諸事実,諸事項を政治・経済・社会・文化の全般にわたり,言葉によって正確に記述し,国家の現状を明らかにすることを課題とした。言うところの「国家顕著事項」は,国家生活の全面に及ぶもので,そのなかには数量的には観察しえないものも含まれていた(精神的文化的な事項)。対する政治算術学派は,数量的に把握しうる社会経済現象のみに着目していた。国状学の側からみれば,これは魂の抜け殻に他ならなかった。

 リューダーは論争のこの内容を,上記の『統計学および政治学批判』(ⅩⅨ)のなかの「統計学の歴史」に関する章で要約した。このなかで,リューダーは旧学派の批判の論点をあげ,次いで新学派の側の旧学派批判をまとめ,結論として両学派があわれむべき状態にあることを示した。

それでは,リューダーの独自の見解はどのようなものであったのだろうか。まず,リューダーの見解は,統計学が「国家の現状(国家の諸力と国民の福祉)」を対象とする学問であるとし,国家がいかにあるべきかを教える政治学に材料を提供する役割をもつとする文字どおりの国状学の立場によっていた。この見地にたって,リューダーは新旧両学派のそれぞれの統計的諸方法を批判するが,それは上述の論争のむしかえしであって,新味はほとんどなきに等しい代物であった。新学派による死亡率の法則性の発見における寄与は評価していたが,新学派が言うような真の国力の測定などは土台無理な話で,それを一義的に計量することは不可能とした。旧学派に対しては,彼らのいわゆる精神的なものを明らかにするには,人間の道徳的・宗教的・政治的・生理的等々のいっさいの性質が究明されなければならないが,階層分化の顕著な人間についてそれを実行することを旧学派に期待することなどできない。こうしてリューダーは新旧学派に最後通牒をつきつけ,統計学を全面否定した。

 筆者は書く。リューダーの統計学上の諸見解には新旧両学派のそれが不統一のままに混在している,「啓蒙的」絶対主義のイデオローグとしての旧学派に同調しつつ,社会経済現象をただ計量し羅列するだけであるとして新学派を批判したことは正当である,しかしその際に彼が強調したものは精神的なもの,眼に見えない内面的なものという観念的なものであった。このことはスミス経済学の導入者としてのリューダーの資質を考えると,奇妙なことである。他方でリューダーは,新興市民階層のイデオローグとしての新学派に親近感をもちつつ,旧学派の観念性を衝いたのは妥当であった。しかし,新学派の政治算術は社会経済現象を価格関係のみに着目し,この点で創始期のイギリス政治算術の思想に遠く及ばなかった。リューダーにおける政治算術との親和性はたぶんに,スミスの経済理論の未消化に帰せられるべきところが多い。

 リューダーの生きた時代のプロイセン社会は,一方でイギリス産業革命,フランス革命の影響を強く受け,他方でナポレオン戦争による敗北によって深刻な状況にあった。プロイセンはこの状況のなかで,ナポレオン支配からの脱却によって民族的統一と独立を勝ち取ること,絶対主義の軍事警察的支配の克服と市民社会の実現という歴史的課題があり,しかも後者の課題を支配者であるナポレオンの助けを借りて解決しなければならない,矛盾した岐路にたたされていた。リューダーの統計学批判=否定は,全欧でのナポレオンの隆盛のもとでのプロイセンの矛盾した状況のなかで闘わされた統計学論争に対する結論であった。この結論に時代の投影をみることは,それほど難しいことではない。

 リューダーが統計学そのものを否定することになったのは,統計学の歴史のなかでこれを評価すればまさしく「悲劇」であった。しかし,この否定のなかに実質的に提起されている問題,すなわちスミスの経済学上の諸理論と社会経済現象の統計的観察とをどのように関連させるかという問題は,実は未解決問題を数多く含んだ基礎的な問題である(その後の統計学を体系化したケトレーやワグナーにおいても依然未解決)。この点が筆者の結びである。
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