社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

松川七郎「統計学史研究における5つの時期-政治算術・国状学を中心として-」『ウィリアム・ペティ-その政治算術=解剖の生成に関する一研究』岩波書店, 1967年

2016-10-16 21:26:38 | 4-1.統計学史(総説)
松川七郎「統計学史研究における5つの時期-政治算術・国状学を中心として-」『ウィリアム・ペティ-その政治算術=解剖の生成に関する一研究』岩波書店, 1967年

本稿は, 17世紀のイギリス政治算術=解剖の再評価を, 17-18世紀のドイツ国状学との対比で歴史的に検討することを課題としている。この検討が18世紀末葉から第二次世界大戦後の現代までに刊行された海外の諸文献をとおして, なされている。大変おおがかりな仕事である。文献を渉猟し(その文献リストが末尾に掲げられている), 通読するなかで, 2つの事実に気付いたという。一つは, この2世紀足らずの時間を, 5つの時期に大別できるとの感触があったこと。もう一つは, これらの評価, すなわち統計学史研究がドイツ社会統計学派によって担われてきたことである。そしてこれらふたつの関係について, 統計学史の5期区分は, ドイツ社会統計学派の前史を含めた形成, 確立, 解体のおのおのの時期と無理なく照応している。

 5期とは, 以下のとおりである(年次は, リストに挙げられた文献の刊行年次による便宜的なもの)。(1)国状学の対立, 混乱, 衰退期(1785­1829),(2)「社会物理学」=近代統計学の形成期(1835­65),(3)社会統計学の発展・確立期(1867­1911), (4)社会統計学の解体期(1921­-44),(5)第二次世界大戦後(1945­)

 筆者はこれら5つの時期を展望する前に, 17世紀イギリス政治算術=解剖と17­­18世紀ドイツ国状学のそれぞれの特徴を次のように要約している。

 両者は17世紀の60年代に生まれた。政治算術はこの世紀の70年代に学問的形を整えたが, 国状学は18世紀の40年代に確立した。政治算術が統計学史上, 高く評価されたのは近代統計学の基軸となる数量的研究方法の先駆けとなったからである。重要なのは, この数量的規則性が「自然的」であると同時に, 「政治的(社会的)」であるとされたこと, その意味をいっそう明瞭にするために, 人口現象を土地ないし人民(労働)の問題として研究しなければならないと考えられたことである。政治算術は, 17世紀の自然科学(とりわけ数学)の発達によるところが大であったが, 経済理論を背後にもっていた。

 ドイツ社会統計学はどうだったのだろうか。筆者によれば, ドイツ社会統計学はイギリス政治算術とくらべて, 一般に著しく低くしか評価されなかった。数量的方法の位置づけ方に問題があったからである。コンリングが創始した国状学は, 各国の国家記述を体系づけたものであり, 絶対主義的領邦国家の統治者の実務に役立つ学問であった。アッヘンワルは, コンリングのそれを生かしながら, 土地と人民をもって重要な総括的基礎概念とする「国家顕著事項」の総体としての国状に関する学問を構想した。アッヘンワルの統計学は数量的方法を否定していなかったが, 実際にはその方法を使っておらず, 数量的観察を行わなかった。アッヘンワルの統計学を全体として評価するならば, それは国家の現状について, 客観的な諸事実にもとづく正確な知識の獲得というメリットをもっていたが, 社会経済現象のその記述は平板であり, 表面的な事実の羅列に終始し, 記述を統一する経済学上の理論を欠いていた。アッヘンワルの統計学との関連で, 筆者はジュースミルヒのそれについても, 一言している。ジュースミルヒはイギリス政治算術をドイツに移植した人物として, また数量的方法や確率論的思想に着眼した人物として, さらに人口現象に生起する規則性を発見した人物として評価され, それは確かにそうなのだが, 彼が行ったことは政治算術の数理的形骸を宗教的信念に支えられて取り入れただけであり, その本質はアッヘンワルと同様, 国状学者であった。

 17世紀イギリス政治算術と17­18世紀ドイツ国状学について, 筆者は以上のように概略的な整理をおこない, これらが18世紀末葉以降, 5つの時期にまたがってどのように評価されたかを展望している。

(1)国状学の対立, 混乱, 衰退期(1785­1829)
ナポレオン戦争による絶対主義ドイツの崩壊からドイツ関税同盟成立直前まで。この時期は, ドイツ国状学の内部対立(新学派と旧学派), 混乱, 衰退によって特徴づけられる。新学派(クローメの表式統計学)と旧学派(モイゼルなど)の対立は, 統計学の学問的性格, 研究対象, 方法などを基軸とした。論争は究極的には, 統計的方法と経済学理論との関連であり, 新学派は社会経済現象の数量化のみを問題とし, 旧学派はとうてい数量化できない社会関係を重視した。リューダはこの両学派の論争を批判したが, その中身を統一的にとらえることができず, 統計学そのものを全面的に否定した(リューダの悲劇)。

(2)「社会物理学」=近代統計学の形成期(1835­65)
この時期の統計学は, ケトレーのそれによって特徴づけられる。時代は「統計の熱狂時代」(各国の官庁統計の整備, 家計調査, 労働統計, 経済統計に対する要請)であった。ケトレーは統計学をさまざまに定義している。一方では, 統計学は一定の時期のある国の存立に関するあらゆる要素を数えあげ分析し, その結果を他国あるいは他の時期のそれらと比較することと定義している。この定義は国状学のそれである。他方では, 統計学は人間それ自体, あるいは人間の社会生活における数量的合法則性(大数法則)の究明を課題とする, としている。これはケトレーのいわゆる社会物理学の考え方である。後者は政治算術に通じるものであるが, 社会科学の理論をそなえていない点で, 政治算術と異なる。この時期, ドイツの統計学はいまだその前史の論争をひきずり混乱していた。この状態から統計学上の見解で, 統一の道を開いたのがクニースである。その結論は, 旧学派を歴史学の一部とすること, 新学派を独立の科学とみなすこと, であった。クニースのこの結論はケトレー的であり, 従がってケトレーに固有であったイギリス政治算術の理論的側面の無理解をも共有していた。

(3)社会統計学の発展・確立期(1867­1911)
 この時期には, 統計解析の数理技術が発達し, 英米を中心に方法学派の台頭が目立った(ジェヴォンス, ラスパイレス, パーシェなどの物価指数算式の作成, ゴールトン, ピアソンなどの数理技術的な統計解析法の展開を見よ)。この流れのなかでドイツではケトレー=クニース的方向が決定的となったが, その最大の担い手は歴史学派の巨匠ワグナーであった。「ワグナーによって規定された統計学は, ・・・人間社会および自然界の構造を数量的に解析し, そこに存在する普遍的合法則性-大数法則-を導出するために, 系統的に大量観察を行う帰納法である」(p.430)。筆者はこの点に関してケトレーの「社会物理学」のドイツ版と評価した大内兵衛の文言を引いた後, 意思自由論争を境に, マイヤーの社会統計学が登場してくる過程に言及している。ここからマイヤーの統計学の紹介が始まるが, この中ではドイツ社会統計学が, 実はケトレーの衣をまとって再生された国状学, という筆者の指摘に注意したい(p.431)。
先のワグナーは, 筆者の紹介によれば, 統計学の歴史を次のように構想していた。(1)古代・中世および近世における官庁統計調査および国家記述の歴史, (2)コンリング・アッヘンワル, シュローツァー的方向における記述の学としての国状学の歴史, (3)ジュースミルヒ(その先行者としてグラント,ペティ,ハリー)・ケトレー的方向(その先行者としてのラプラス)の「本来の統計学」, (4)19世紀初頭以降における大量観察の体系としての官庁統計調査の発達史。もっとも, その統計学史理解は, ケトレー=クニース的方向で自らがうちたてた統計学の見地にたって, 方法論史的に過去を割り切って構想したもので, とりわけコンリング=アッヘンワル以来のドイツ国状学の道程を方法論史的に確認したものである(p.432)。(この後, ドイツ, フランス,イタリア, イギリス,ロシアの統計学が紹介されているが, 省略)

(4)社会統計学の解体期(1921­44)
この時期は第一次世界大戦の末期から第二次世界大戦の終結までの時期で, ドイツでは第一次世界大戦による敗北, ワイマール憲法の制定, 第二次世界大戦によるその崩壊によって特徴づけられる。この時期, ドイツ社会統計学は, チチェク, ティツカ, ツァーン, フラスケムパーによって担われた。この時期の社会統計学は, 基本的には数理統計学が無限軌道としてもちこまれ, 「事実上, 社会経済現象の数量化による社会的制約性を見失いがちになり, 方法学派に接近し, 解体してゆく」(p.436)。このあたりの叙述では, フラスケムパーが近代統計学の源流を官庁統計の発達, 国状学, 政治算術の三者に認めつつも, 従来, ドイツ国状学の評価が不当に高すぎ, それは現代の統計学と緊密な関係をもっていないと指摘したという記述に, 興味が惹かれた。しかし, だからといって国状学が否定されているわけではなく, その国状学が数量的に表現しえない社会的事実や諸関係を記述すべしとしていたことの正当性は, フラスケムパーにあっても認められる。フラスケムパーは「統計学一般における確率論の広汎な適用を主張しながら, その反面, 社会統計における『対象についての全体認識』や『質的すなわち意味的関連』の重要性を強調し, 『社会的事実の核心は質的な性質をもち, したがってそれは根本的には数量化しえない』と考えて」いた(p.438)。フラスケムパー独特の理解である。筆者はさらにドイツ以外の国々の方法学派にも射程を伸ばし, デンマークのウェスターゴード, 英米のフラックス, ウォーカー, ウィルコックス, イタリアのガリヴァーニの統計学史の簡明な紹介を行い, この時期の特徴として, それ以前の第三期にみられた統計学史の画一性が失われたことを強調している。

(5)第二次世界大戦後(1945­)
この時期には統計学史の研究として注目すべきものは, ほとんどないと述べられている(少なくともこの論稿が書かれた時点まで)。ドイツは東西に分裂し, その研究業績を統一的に俯瞰できなくなった。ソ連に関して, 筆者は統計学論争を紹介し(関連して東独の論争にも言及), ここでは統計学と経済学とが密接に関連して捉えられている点に注目している。また, 統計学の歴史的発展を社会発展との関連で, また政治算術を経済学との関連で考察しようとしていることにも関心を寄せている。西ドイツの統計史研究ではロレンツ(近代統計の由来を「国家政策および行政」「官房学的国家科学」「政治算術」とみなす), オーストリアのそれではクレーツル‐ノルベルク(近代統計学が対象としてきたのは, 「実務的な官庁統計」と「統計理論」とする見解)を取り上げている。
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