社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

山田耕之介「経済学における数学利用について」『経済学研究』第14巻1号,1963年1月

2016-10-18 10:56:47 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
山田耕之介「経済学における数学利用について」『経済学研究』第14巻1号,1963年1月

経済学における数学利用の意義と限界について,筆者の見解を端的に説明した論稿。次のような三節構成からなる短い論稿である。「1.叙述=表現手段としての利用形態」「2.推理=分析手段としての利用形態」「3.いわゆる『技術=経済的』関係について」。 

「1.叙述=表現手段としての利用形態」では,科学の対象である物質の性格により,それを表現する科学の方法(手段)として,数学がどのように使われるべきかが述べられている。科学の対象は,自然科学であれ社会科学であれ,「物質」とその運動形態(法則)である。物質は質的側面と量的側面とをもつが,量的側面は質的側面に,当然,規定されている。量的規定性は,物質の運動形態にとって外的なものである。量的規定性のもつ意味は,物質の運動形態の複雑さによって大きくもなれば小さくもなる。社会現象は非常に複雑な存在であるので,量的規定性の持つ意味(重要性)は,比較的小さい。経済学における数学利用は,経済的諸関係と密接不可分の関係にある量的規定性について行われる。これが経済現象の量的側面を経済量として把握することの意味である。

 数学的方法の叙述=表現手段としての利用形態は,理論体系に不可欠な経済学的範疇についての相互関係の状態把握を特徴とする。近代経済学でいう定義式がこれにあたる。しかし,それは多くの場合,制度的関係や経済外的関係によって与えられる。マルクスの再生産表式はこれと異なり,それにいたる諸範疇の関係の表現で,一定の分析結果の総括的表現であり,その後に続く資本制生産の総過程の分析のための前提である。そこでの価値の量的関係は,2部門分割3価値構成(不変資本,貨幣資本,剰余価値)という質的規定性を受けている。

 叙述=表現手段として数学を利用することは,表現の明確性という点から合目的的であるが,一定の経済学的分析によってとらえられた関係の叙述という目的のために制約をもつ。分析はここでは,数学的方法に論理的展開を依存していない。
「2.推理=分析手段としての利用形態」では,数学的方法が前提と矛盾しないかぎりにおいて独自の展開をすることに注意を喚起している。数学的展開が示す方向が前提に直接盛り込まれていない経済学的諸規定と矛盾する可能性が出てくることがある。近代経済学にはしばしばこのことが見受けられる。そこでは「過程把握」が特徴で,経済量が関数関係でとらえられる。ワルラスの一般均衡理論は,その代表的なものである。方程式体系を構成するさいに必要な認識は,一定の生産物が一定種類と量の原材料から生産されるという自然認識と需要供給が価格によって変化するという経済過程についての一面的認識だけである。問題はこのような分析の現実的非妥当性を合理化する無矛盾性重視の思考方法である。

 これとは別に,経済諸量の関係を一定の関数関係でとらえることで,その量的依存関係を明らかにする試みがある。この場合には,独立変数の選択が問題になる。しかし,経済過程にたいする認識が全面的であればあるほど,諸経済量の相互連関が現象の多くの側面について明確になり,支配的要因が時間の推移とともに固定的独立変数を選択することが難しくなるという矛盾に逢着する。この場合,関係の関数的表現は支配的影響を与える目的が優先されることで解決されてしまう。質的規定性から解放されたこのような量的関係は,質的規定性をもつものとしての現実の経済諸過程における量的関係との間で齟齬をきたす。

 構造パラメータについて考えると,この値は関数関係が定式化されれば考慮しなければならない要素である。このパラメータが時点を超えて妥当性をもつか,安定性をもつかは,これを利用する関数式の現実妥当性にとって決定的に重要である。しかし,近代経済学では,構造パラメータの安定性は経験的に示されるにすぎない。現実の経済過程は矛盾の発展過程であり。一様な連続過程ではなく,中断と飛躍をふくむ過程である。資本主義経済ではまして,生産の無政府性と無計画性が支配的である。したがって,パラメータが安定性を示すとしてもその期間を予定することができない。これらの諸要因は,短期間であっても,パラメータを安定なものとして扱うことを阻むことになる。

 筆者はここで立ち止まって,数学を推理=分析手段として利用できるかどうかを問い直し,資本主義経済の分析にはその対象の性格(生産の無政府性と無計画性)ゆえに,この設問に否定的であり,社会主義経済の分析には,国民経済のあらゆる部面に計画の手が伸びているので,数学利用が一定の意味を持ちうるとしている。    

 「3.いわゆる『技術=経済的』関係について」では,パラメータの安定性を保証するために導入された投入係数(技術係数)の問題点が指摘されている。経済現象を自然的存在に還元して安定的関係を導出するというのがこの手法であるが,投入係数といえども価格変動から自由でなく,その安定性の保証を得ることは並大抵でない。

 企業経営における線型計画法も,技術=経済関係にかかわる手法である。この前提には企業の行動原理が利潤極大化にあるとされ,それらを生産費極小化と生産量極大化の二つの目的が掲げられる。生産費極小化の目的に利用される限りで線形計画法は経済活動に数学利用として,一定の成果を期待できるが,これは経済的諸規定を受けている量ではないから,経済学における数学利用とは言えない。

生産量極大化に利用される場合には,そのことはもっと明確になる。すなわち,生産量をただ極大化するのが企業の目的なのではなく,現実には売上高の回収ができなくてはいけない。しかし,生産物の価格は,市場での激しい変動のなかにあり,生産物を利潤として実現できるかどうかは当該企業の外側にある諸条件に左右される。線型計画法には一定の意義があり,企業にとって行動基準になることもありうるが,問題が経済諸関係における行動が中心である場合には,自然的諸過程における量的関係は何も語る資格がない。筆者の結論は次の一言である。「経済学における数学の利用の困難を回避するためにこの概念(『技術=経済的』関係-引用者)をもちいることはあきらかな誤りである」。(p.75)
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