社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

山田耕之介「経済学における数学利用と経済学の数学化」『金融経済』(金融経済研究所)第200号,1983年

2016-10-18 11:31:39 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
山田耕之介「経済学における数学利用と経済学の数学化」『金融経済』(金融経済研究所)第200号,1983年

 本稿の目的は,数学利用それ自体が自己目的化した感のある近代経済学の現状とともに,マルクス経済学の内部にもそれが飛び火するかのように経済学に数学利用を唱える論者の,すなわち関恒義の方法論を批判的に検討することである。具体的には関恒義『経済学と数学利用』(大月書店,1979年)が批判の俎上にあげられている。

 全体の構成は,「経済学の量的性格」「経済量の性格」「経済学の数学化」からなる。ジェボンスによれば,経済学への数学利用の最初の試みは18世紀初めのことと言う。そのような例もあったが,経済学は長く数学利用に積極的でなく,むしろ経済学への数学利用に対する批判的見解がたえず存在した。マルクス,ケインズしかり,マーシャル,ミル,マルサスも懐疑的であった。しかし,19世紀以降の自然科学や技術の目覚ましい発達,そして近時の情報機器の飛躍的進化はそれを担った数学への評価を高め,次第にいわば「外圧」として経済学も数学に対する誘惑にかられる傾向が強まった。その結果,経済学はそこに数学が使われれば使われるほど現実から遊離し,現実的有効性を示した例は何一つ現れない事態が招来した。

 関による上記の著作は,マルクス経済学の立場から初めて,数学利用の積極的理由を明らかにした。この著作は,経済学が社会科学の中で最も量的性格の強い科学である,という一文で始まる。関による経済学への数学利用の論理は,特別のものではなく,普通にみられるもので,要するに経済学が量的性格をもつのは,そこに登場する理論的範疇としての諸概念が貨幣表示され,一定の貨幣量として現象するという経験的事実にもとづく言明にすぎない。

 しかし,筆者は経済学の扱う理論的範疇の大多数が貨幣表示され得るという理由で,経済学が量的性格の強い科学であり,それを数学利用の根拠とするのはおかしい,と断ずる。ここで言われる根拠は,数学そのものが日常生活において必要とされ,利用されている理由にすぎず,この事実でもって経済学における数学利用の正当化の理由にはなりえない。

 このことと関係して,数学利用を主張する論者には,貨幣表示されている量が経済量であるという誤った先入観がある。筆者はこの問題提起を行って,次に経済量とは一体何なのか,関連して経済学が対象とするものの質と量とをどのように理解すべきか,という問題の考察に入る。いくつかの例をあげての考察になっているが,結論として言わんとしているのは,経済量というものは何か客観的存在として独自にあるものではなく,対象のどの側面をどういう目的でとりあげるかによって,ひとつの量が経済量ともなり,そうでなくもなるということである。

 関は「質と量とは,事物を規定する基本的な二側面である。この質と量との相互関係をあきらかにするところに,数学利用の根本問題がある」と述べる。重要なのはここで,関が質とはひとえに事物そのものに,また量は事物そのものにかかわる数(測定できる数値)であると思い込んでいることである。筆者によれば関の見解は誤りで,質はある物がどんな物であるかを示す規定性である。このある物を規定する質は,その物の多面性を反映して多面的であり,無限である。そしてそのひとつひとつの質はその質に規定された量をもつ。つまり,あらゆる物はその質的側面の多様性に応じてそれだけ多くの量的側面をもつ。したがって何を問題にするかという分析の目的に応じて,その問題にとって本質的といわれる質的側面が定まる。それぞれの個別科学によって扱われるのは,特定の事物の質的性格ではなく,事物の特定の質的側面とその量である。
筆者は経済学における数学利用というより,経済学が数学化していることに懸念をもっている。引き続き関恒義の議論を敷衍し,疑問を投げかける。関の見解は,人々が同質であると直接認識できるような形で存在しているものだけにしか数学が利用できないというのであれば,その利用の範囲が限られるが,異質と見えるもののなかに同質なものを見出せば数学利用の範囲が広がっていく,と解釈できる。質はそれぞれの事物について異なるが,量は諸事物に共通の側面である。具体的に存在する異質なものを前提として,それらの物のなかに貫く同質性を抽象することは,物質性という低次の質まで下降していくことである。あらゆる異質性が抽象されたのちに残る低次の同質性にたどりつくというこの主張に,「異質性をつらぬく等質性の抽象」という数学利用の必要・十分条件を重ね合わせると,この条件は自己目的としての数学利用に適う説明になるが,経済学にとって意味のある利用ということを考えると避けられなければならない。

 問題が経済学における数学利用である限り,それは個別科学としての経済学が対象とする質的側面に終始した利用でなければならない。数学は質的側面を捨象した純粋に量的な関係や形式を問題とするものであるが,質的側面の捨象というのは質を考えないということではなく,異なる事物の間に同質性を仮定することである。数学利用それ自体がただちに同質性の仮定になる。したがって,この仮定のもとで展開される数学的演繹の結果は現実にこの仮定が満たされるかぎりで現実に妥当する。
この同質性は3つの存在様式(無機的自然,有機的自然,社会)によって異なる。これらの存在様式のなかで,もっとも複雑な質的変化を特徴とする社会は,同質性を前提できる範囲が極端に狭い。

 純粋に量的な関係を扱う数学が経済学において補助的方法以上のものになりうることは,絶対にありえない。いまだ解明されていない経済過程を数学にたよって明らかにしようとしても,それは無駄な試みである。数学を推理=分析の手段として経済学で使うことは許されないことである。

 数学利用を説く人々が事実の問題として対象の質的分析をおろそかにし,数学的推論を用いて分析を行っている現状は,経済学における数学利用ではなく,経済の数学化を図ることにつながる。そこでは,数学を利用すべき経済学が独自の存在としてその主体性を失っている。
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