社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「經濟學に於ける數學的方法の意義について」『經濟學研究』第5号,1953年

2016-10-18 10:46:41 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「經濟學に於ける數學的方法の意義について」『經濟學研究』第5号,1953年

 筆者25歳に,公にされた初論文。F.カウフマンの論稿(「数学的方法は経済学に対していかに寄与しうるか(Was kann die mathematische Metode in der Nationalokonomie leisten ?)」[1930-31])をとりあげ,経済学における数学的方法適用の意義を考察している。カウフマン論文をとりあげたのは,彼が経済現象の分析への数学的方法の無批判的適用の成果を評価するという方法ではなく,その「論拠」を問うているからである。また,彼の理論が中山伊知郎を代表とする数理経済学者による数理的方法援用論の基準的見解になっているからである。

 叙述の順序は,カウフマンの議論の展開にしたがっている。まず,カウフマンのいわゆる「数学的方法」の原理的確定,次いで経験科学一般,自然科学(特に物理学)および社会科学における数学的方法の意義の検討,さらに経済学における数学的方法の検討,である。

 数学的方法の原理的確認として,カウフマンが総括したテーゼは次の3つである。(A)数学的方法それ自体は現実について一言も語らない。(B)初等数学と高等数学との間に原理的な差別はない。(C)数学的方法の適用は対象の測定可能性(可測性)を前提しない。(A)について,カウフマンは「数学上の諸定理は世界に関して何事も主張しないのであって,ただ二種類の異なったSymbol Komplex (象徴複合)の意味の同等性を,ある種の象徴的表現の基本的規則に準じて明らかにするものである」と定義する。幾何学についても然りである。(B)について,彼は数学全体の基礎をペアノの公理論にもとづく自然数論におき,数学の全法則,全計算を自然数列の構成原理から一義的に確定し得るとみなす。初等数学と高等数学とはいずれも自然数の公理から記号・術語の簡潔化として導かれたものであり,両者の間に原理的差別はない。(C)に関して,彼は数学的方法の現実への適用が必ずしも「測定」に限られないとし,例として射影幾何学や位相幾何学をあげる。要するに,カウフマンの主張の特徴は,(A)(B)で語られているように,数学的方法が現実と全く無関係なものととらえていること,数学的方法の展開とその現実への適用が表現の「簡潔性」に主眼をおくことにあるとしていること,にある。

 それでは一般に数学的方法の経験科学への適用は,可能なのだろうか。カウフマンの回答はこうである。それは可能であり,経験科学の科学的認識目標に沿う。しかし,数学的方法の適用は,経験科学の精密化を結果する効果をもたらすことはなく,その有効性は自然科学とくに物理学で大きいが社会科学ではそれほど大きくない。数学的方法は必ずしも対象の可測を前提としない。またその適用は可能な限り簡潔で,統一された認識連関を得ようという科学的法則認識の目標にかなう。

 しかし,その方法を適用しても,絶対精密(因果法則について「同一原因から同一結果」という命題が絶対に成立し,こうした経済法則が超時空的普遍妥当性をもつこと)に妥当する経験法則や因果法則の解明は原理的不可能であり,その意味で完全に精密な経験科学は存在しない。それ自身現実について何も語らない数学的方法が経験科学に適用されるとき,そこに期待されるのは数学の諸定理から出発して演繹された結果に至る数理的思考のみである。その有効性は,自然科学では社会科学よりもはるかに大きい。
数学的方法適用には2つの基準があり,その第一は数学的方法の適用によって得られた法則がその内部構造において簡潔で,その相互の関係において論理的に統一されていること,第二にこの基準に反することなく,しかもこれらの数学的諸法則の妥当性を検証することが経験的に確定できることである。社会科学は,カウフマンにとっては,ウェーバーにならって,「人間の社会的行為の意味をその動機にまでさかのぼって心理的に理解する」学とされているので,この「理解」的方法と数学的方法との関係が問題となるが,実は両者は互いに排除しあう関係にある。結局,自然科学における数学的方法の有効性は,これらの基準にてらして,社会科学への適用におけるそれよりもはるかに大きいのである。 

 最後に,経済学という特殊領域における数学的方法の適用可能性はどうなのだろうか。カウフマンはこれに肯定的である。彼にあっては,経済学とは一定量の商品相互,または商品と貨幣との数量的交換関係=経済行為を対象とし,その意味を「理解」する学問である。従来,経済学は直接に計測不可能な感情量(欲望など)を対象とするので,数学的方法の適用が不可能であると考えられていたが,カウフマンはこれに反駁し,欲望や効用の大きさは経験科学の基礎概念足り得ないとしてこれを排除し,反対論の大前提を否定することで数学的方法適用可能性に理解を示す。しかし,「数学的方法からは経済法則は生み出されない」「数学的方法は経済法則を精密化しない」「経済学に固有な方法は理解であって,数学的方法は理解による経済的法則認識を補助する限りで有効な発見的手段たりうるにすぎない」として,数学的方法に対する過度な評価を戒めている。

 筆者はカウフマンの議論を以上のように要約したうえで,問題点に言及している。第一は,数学的方法に関して数学の発展をペアノの公理論にもとづいて展開しているが,この理解は一面的である。数学といえども現実と無関係ではありえない。第二は,数学的方法の諸科学への適用の可否とその有効性の判断基準が示されているが,この基準は本来,当の個別科学の対象に求められるべきであるにもかかわらず,カウフマンにあっては法則認識の簡潔性,統一性におかれ,対象に対する方法のとらえかたが逆立ちしている。第三は,社会科学,とくに経済学においてそれらの主要方法である「理解」に対する数学的方法の位置が明らかにされていない(経済学の研究方法として「理解」が重要とされる理由が十分に展開されていない。それが正しい方法なのかも問題であるが,筆者はその点には深入りしていない)。要するにカウフマンの主張は,彼独特の科学観(簡潔かつ統一的法則認識)に最大の誤謬があった,という指摘で本稿は締めくくられている。
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