社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

松村一隆「戦時アメリカにおける指数論争」『研究所報』No.2,1977年

2016-10-16 16:14:54 | 9.物価指数論
松村一隆「戦時アメリカにおける指数論争」『研究所報』No.2(法政大学・日本統計研究所)1977年

 現在,物価指数と呼ばれているものは,第二次世界大戦前までは一般に「生計費(Cost of Living)指数」と呼ばれていた。それが戦後はほとんどの国で消費者物価指数と名称を変えた。日本の消費者物価指数は,アメリカのそれの直輸入で,戦後すぐにアメリカ占領軍の指導のもとに作成されるようになった。用語も直輸入である。本稿は,アメリカで消費者物価指数という用語が生まれた経緯,その背景にあった戦時中の指数論争を解説したものである。

 論争の経過が克明に活写されている。当時は戦時中で,軍事経済への傾向が進行し,軍需生産の拡大,消費財生産の縮小,諸サービスの低下が顕著だった。国民の生活は耐乏をせまられ,賃金は低くおさえられ,隠ぺいされた物価上昇が取沙汰されていた。労働統計局のM.J.Ulmer, L.B.Webbさえ,指数環境の悪化を認める論文を公表した。
なお,当時の生計物価指数は正式には,「賃金労働者および低サラリーマン労働者の生計費指数(Index Numbers of Cost of Goods Purchased by Wage Earners and Low-Salaried Workers )であった。

 こうした事情を背景に,労働者側から,指数の信頼性に対する疑義が活発に出され,独自の調査まで行うような状況が生まれた。こうした状況の直接の契機は,リトル・スチール・フォーミュラーによる賃金統制であった。リトル・スチール裁定(1942年)後も続いた賃金抑制策に対し,労働者の指数に対する不満と批判が爆発した。以下は,筆者のまとめによる指数の是非をめぐった一連の論争の経過である。

 労働者の指数に対する反発に対し,アメリカ統計協会は,指数を評価するミルズ委員会(Mills Committee)を設置(1943年5月)した。同じ頃,労働者の側も本格的な指数批判の論陣をはるようになる。その一つが,国際婦人オーバー製造業労働組合調査部長L.Teperの論文「労働統計局の生計費指数に対する観察」であった(1943年9月)。その主張は,批判の仕方がやや技術的であったものの,労働統計局の価格調査の問題点,指数の対象の性格規定の曖昧性をつくもので,重要な意義をもっていた。労働統計局はこの論文に対して短評を発表したが,その内容は冷淡で,提起された問題を検討しようという姿勢が微塵も感じられないものだったという。

 他方,先のミルズ委員会は,その報告書を提出した(1943年10月)。内容は,労働統計局の指数は物価の変化の信頼できる測度になっているという,徹頭徹尾,政府の指数を擁護するものであった。しかし,ミルズ委員会の報告では労働者の指数に対する不信を除去することはかなわず,政府の賃金抑制策と指数への懐疑は高まる一方であった。この状況を受けて,大統領は直属の「生計費委員会」(議長W.H.Davis)を立ち上げた(1943年10月)。その目的は,指数に対する疑問を検討し,指数作成方法を明らかにし,改善のための方策を提示することであった。労働者側(P.MurrayマーレイCIO[産業組合会議]会長)は,1944年1月,CIOの検討によれば,現実の物価上昇が労働統計局の指数が示すより2倍も上昇しているとの声明を発表した。また,G.Meany(AFL[中央労働組合]書記長)とR.J.Thomas(CIO副会長,アメリカ自動車労連会長)は,いわゆる「ミーニイ・トーマス・レポート」の生計費委員会への提出(1944年1月),独自の指数を示して労働統計局指数が低すぎることを明らかにするとともに,その欠陥を具体的に指摘した(実際の売買価格を下回る価格報告など価格調査の欠陥,調査標本の代表性の欠陥からくる誤差,品質の低下や等級の引き上げによる実質的な価格引き上げ)。

 「生計費委員会」のデーヴィス議長はただちに,この「ミーニイ・トーマス・レポート」を労働統計局とミルズ委員会へ送付し,コメントを依頼した。労働統計局は,これに対し「ミーニイ・トーマス・レポートの評価と批判」と題するレポートを「生計費委員会」に提出した(1944年2月)。レポートの大半は,計算技術上の事柄に関わることで,「ミーニイ・トーマス・レポート」が指摘する点は,全体的な観点からみれば影響の小さいものとする内容であった。労働統計局のレポートの発表から2か月後の1944年4月,議員上院のペッパー委員会のレポートが発表された。また,「生計費委員会」のデーヴィス議長は,労働統計局の指数を評価するためにW.C.Mitchellを長とする技術委員会設置した(1944年3月)。

 この委員会はその報告書を「生計費委員会」に提出した(1944年6月)。このレポートでは,労働者代表が指摘した労働統計局指数の欠陥については全面的に容認したが,物価上昇率については労働者側の試算を認めることなく,労働統計局の数字に近いものであった。筆者は,この内容について,「名を与えて実をとる」という問題解決の政治的解決策ではなかったか,と評している。

 「ミッチェル・レポートもまた,ミーニイ・トーマス・レポートに対する広範かつ公然たる評価の一致をつくりだすことができなかった。しかし,当時の戦時経済から平時経済への転換の展望を背景にして,ミッチェル・レポートの作成者たちの名声や,労働者の賃金闘争強化への指向や,指数の誤差の推定により,たとえ僅少とはいえ労働者の主張が認められたこともあって,労働者の労働者側指数への批判はしだいに沈静化した」(p.27)。

 この間,全国産業会議所(NICB)は「生計費に関する「ミーニイ・トーマス・レポート」の批判的分析」を公表した(1944年4月)。その中身は,労働統計局指数もNICB指数もともに名称は「生計費指数」であるが,その内容は小売物価指数であるといった労働統計局の主張の確認であった。さらに6月には,マーレイ・トーマス・レポートが公表されたが,内容はミーニイ・トーマス・レポートを認める方向での報告であった(1944年6月)。

 結局,当然の成り行きであるが政府・経営者側と労働者側の対立は埋まらず,「生計費委員会」議長のデーヴィスは,1944年11月に大統領宛最終レポートを提出した(内容においても方法においてもミッチェル委員会の見解に依拠)。デーヴィスの報告が草案してだされたおり,経営者側はこれを受け入れたが,労働者側は容認を拒否し,大統領には結局デーヴィス・レポートともにトーマスとミーニイの書簡が提出された。

 以上の経過を経て,労働長官シュウェーレンバッハは,当時の指数の名称を「大都市中所得世帯に関する消費者物価指数」に変更したと発表し,以後,アメリカでは生計費指数ではなく消費者物価指数の名称が定着することになった。

 この論争の最大の問題点は2つあり,一つは生計費指数の測定対象が何であるか,もう一つは生計費指数が賃金調整の基準たりうるか,であった。労働者側にとってはこの2つの問題は関連しており,その主張は生計費指数に全ての生計費を反映させること,それができないのであれば生計費指数を賃金調整に使うことはやめよ,ということであった。これに対して政府側の主張は,ミルズ・レポートに代表されるごとく,指数は諸単位価格の変化を測定するものであり,労働者側の主張は認められない,後者の問題に関しては指数が全国平均なので,地域的に利用するには十分でない,というものであった。

 筆者は最後に述べている。ミルズ・レポートに代表される政府擁護の見解は,この論争の中で理論的にも実際的にも批判の対象となったが,この論争は労働者の賃金闘争の一部として戦わされたのであり,これをめぐる諸条件の変化を背景にして,十分な解決にいたらなかった。また。「消費者物価指数という名称が生計費指数という名称より,より正確な表現であるとはいえないこともまた明らかであろう。それは敢えていえば一つの「誤解」を避けようとして異なった「誤解」を生むことになり,しかも今日では,これがたんなる「誤解」でなくなり,内容も変えられ,指数の性格が変えられつつある」(p.31)
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