社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

是永純弘「経済学における数学利用の意義について-西ドイツにおける最近の論争論-」『経済学研究』第13号,1958年

2016-10-18 10:49:07 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「経済学における数学利用の意義について-西ドイツにおける最近の論争論-」『経済学研究』第13号,1958年

かつて(1956-57年),西ドイツで行われた経済学における数学利用をめぐる論争から,F.オッテル,G.カーデの所説を紹介し,検討した論稿。この論稿を執筆した契機は,近代経済学における数学利用が久しく疑問の余地のないものとして一般に承認され,それが経済学研究の主要な方法とみなされているからであるが,とくに当時の数学利用論の方法論争が経済学の数学化による精密演繹的公理論的経済理論の形成と,数学的解析手段による経済理論の数理経済学的検証を主要な問題とし,新たな様相をみせていたからである。

節を分けて,オッテルとカーデの見解が解説され,吟味検討がなされている。まず,オッテルである。「国民経済と統計年報」1956年8月号で,オッテルは当時の数理経済学を批判している。批判論点は,次の2点である。第一に,数理経済学の対象である「純粋に量的な諸関係」は現実の経済から隔絶された関数関係にすぎない。第二に,経済の現実は数学的方法という自然科学的方法によってではなく,社会科学に固有の「理解的方法」によってのみ本質的に解明されうる。

 筆者は以下,この2点をパラフレーズしている。オッテルによると,数理経済学の対象である「純粋に量的な関係」は論理的トリックによって意識的に構成された観念的構成物である。現実の経済は複雑に入り組んだ構造をもち,数学の入り込む余地はない。数理経済学はこのような「思惟=思考の構成物」を対象としつつ,現実の経済的諸関係を理解するために必要な事実を忘却し,無意味なモデル作成にのみ関心をもつ。

オッテルのこうした見解は,ゾンバルトのいわゆる科学分類を継承している。ゾンバルトは数理経済学を「整序的経済学」とみなし,その方法を自然科学的方法と考えた。この自然科学的方法の使命は,計算することができ,かつ測定しうる事実の獲得である。しかし,こうして得られた事実は,「質のない数値」にすぎない。したがって,経済学が自然科学的方法を利用するとなると,それはつまるところ本質的認識の断念とならざるをえない。

 オッテルの経済学理解は,やはりゾンバルトに従った「理解経済学」である。オッテルにとって重要なのは,経済の現実であり,それはゾンバルト「理解経済学」がその対象として定義した「人間の生計資料の配慮として,即ち物財の調達(生産,移動,利用)に向けられた人間の活動」という概念である。経済学はこの人間活動の意味を理解することを目的とするが,数学的方法という自然科学的方法はこの目的の実現に寄与することができない。オッテルはこのゾンバルトの見解を踏襲し,その例証としてシュナイダー,ケインズを取り上げ,それらが経済全体の理解的記述よりも国民経済の総額計算と循環図式の説明に拘泥していると批判している。

 筆者はオッテルの以上の見解に一応の理解を示しながら,それがとりわけ新しいものではなく,すでにウィーン学派のカウフマンによって示されたものの亜流であること,対象の簡略化・数量化をつうじての自然科学の非実体化という評価は自然科学の発展の一般的傾向を正しく理解していないうえ,実証主義自然科学観の表明になっていること,当の批判の相手方である数理経済学の支持者の見解,とくに1930年代以降の新しい傾向,すなわち数学の思考方式を論理一般の地位にたかめ「数理=論理」の見地から経済学の理論の精密化の手段として記号論理の援用を要求する見解を十分にとりあげていないこと,など難点を多々もつ。「オッテルの数理経済学批判は,学説史的にもきわめて不十分な議論であって,その論拠もまた必ずしも正当ではないが,それにもかかわらず,数理経済学の対象が今なお,経済の現実から隔絶された単なる純数学的な量的およびその関係でしかないこと,質を疎却した量でしかないことは否定できないであろう。その限りで,数理経済学は依然脆弱な基礎の上に築かれているとしか考えられない」(p.178)と筆者はまとめている。

筆者は次にカーデによる「精密経済理論の中傷」と題する論文をまとめ,吟味している。その内容は,(A)オッテルに対する反批判,(B)経済理論におけるモデルの構成の意義(=数学利用の経済理論の側からの理由づけ),(C)数学の「存在論的中立性」と「公理論的構成」の意義(数学の側からの理由づけ)である。カーデはまず,ゾンバルト流の学問分類,すなわち「整序的経済学」「理解経済学」との分離対立を不当とする。こうした分類は,「経験の対象によって定められた一定の方法の様式に従って科学の範囲を限定する」方法論的に意味のない仮象問題であり,これに対する唯一の有意味な分類は形式科学と実質科学との対比,すなわち分析的命題対総合的命題なる論理的形式の差別による分類だけである。学問分類の基準は,対象の客観的性質にではなく,諸科学の命題形式の差にもとめられている。カーデによれば,オッテルの数理経済学批判は,誤った学問分類の上に展開された誤解にもとづく。

筆者はこのカーデの見解に対し,オッテルが陥っていた時代錯誤については了解しながらも,進んでカーデの学問分類論に関してはこれを肯定していない。真の学問分類は対象の性質にもとづいて行われなければならず,諸科学の命題形式の差によってなされるべきではない。くわえてもしゾンバルト流の学問分類があやまっているとしたなら,その誤りの根源は経済学の対象をゾンバルトがいかに捉えたかであって,仮象問題にあるのではない。

 次に経済理論におけるモデルの構成の意義に関してであるが,カーデにあっては,すべての経験科学の目的は法則定立的命題の確立である。この体系としての経済理論を構成する上で重要な用具は,モデルである。モデルは実験を行うことができない経済学に必要不可欠な方法的手段であり,可能な人間行為の経済的効果を研究するために必要な道具である。カーデはこのモデルを「純粋理論(=数学)の思惟的補助手段」であるとし,これを使った演繹法を経済理論の核心におく。そして,ここから経済学の認識目的である経済法則と真理性の結論を導出する。しかし,筆者の評価によれば「カーデにおいては,経済理論の骨格は,純粋論理としての数学的思考形式によって組立られた命題体系としてのモデルから成立ち,そしてこの思考像としてのモデルは現実に妥当するという意味における真理性をもちえず,ただ,思考の合理性に照らしてその有用性が判定されるだけの一つの道具である」。(p.183)

経済理論を,形式的整合性をもつ諸命題の体系と考える見解の最大の関心事は,理論の現実反映性ではなく,形式的論理的整合性である。この思考方法は,近代経済学,数理経済学に共通する「理論=道具」観である。この仮説演繹体系としての経済理論の理解は,理論の具体的内容を経験的な客観的実在と結び付けてその真偽を検証することの意義を認めない。その点にこそ経済学における数学利用を一般的,原則的に理由づける有力な根拠がある。これでは理論の具体的な内容は,客観的実在である経済の現実から切り離されることになり,理論から現実の問題に対する答えをひきだすことはできないし,ましてその帰結を生活の指導原理とすることはできない。

 最後に,カーデの数学論についてである。カーデにあっては,数学は「存在論的に中立な公理的性格(数学的命題の妥当性は論理的必然性だけに依存するという性格)」をもつ悟性の創造物である。換言すれば,数学は「一般的,仮説的=演繹的関係の理論」であり,伝統経済理論におけるモデルの構成の意義的形式論理学の発展結果としての記号論理学の一部である。経験科学への数学の適用は,したがって,数学的思考形式をその科学の理論体系の整序手段として利用することに他ならない。このことが可能になるのは,それぞれの科学の具体的対象領域に数学的構造をもつ認識対象が存在するかぎりにおいて(同型性),あるいはそれぞれの経験科学を数学化することができる範囲においてである。そうである以上,数学の利用可能性は経験諸科学の対象の性質によってではなく,対象(思惟の構成物)間の論理的関係の性質によって与えられる。このことは経済学への数学の利用がその対象の量的性格あるいは可測性を論理的に前提しないことを意味する。効用測定理論における基数節から序数説への移行は,その例である。数学は量の科学ではなく,関係の論理である,とされる。

 筆者はこうした見解に疑問を呈している。まず,数学の全体系を悟性の創造物とみなす純粋数学の見地は,数学的諸範疇の抽象性に幻惑され,数学者の思考の独自性を過信した結果である。数学の歴史は,他の諸科学の研究成果によって影響されている。数学において一見恣意的にみえる新たに発見された定理さえ,最終的には意識における外界の存在の反映以外の何物でもない。数学が取り扱う諸関係も同じであり,これらの諸関係がその各項としてもつものは客観的実在の一側面である。かつての数理統計学は,数学援用の論拠として,経済学の対象(経済現象)の数量的性格,可測性を問題にした。しかし,いまこの経済学は,客観的実在との正面からの対峙を回避し,カーデ流の「数学=倫理(関係の論理)」説に恰好な逃避の場を見出したかのようである。筆者はこのような「数学=道具」説に対して,いわゆる「公理論的構成の多産性」の保証を公理系の形式的無矛盾性にではなく,公理そのものの具体的な威容の現実性・客観性のうちにもとめるべきであると批判している。
「カーデの数理経済学擁護論を通じていいうることは,カーデが,経済理論の対象の性質をほとんど明らかにすることなく,ただその理論体系の公理論的構成のみを問題にし,理論の形式をその内容から切断するということによって,数学利用に対する原則的反論のすべてが克服されると信じているということである。しかしながら,・・・これは数学利用の可否の問題を解決したのではなく,回避したにすぎない」(pp.188-89)。

 以上,筆者による西ドイツで行われた経済学における数学利用をめぐる論争の評価は,現代の数理経済学における数学利用の論拠を難じたオッテルにしても,数学が経済理論体系の構成の論理たりうることを論証しようとしたカーデにしても,そこには継承すべき成果は認められない,ということであった。この論争の傾向は,オーストリア学派の後期,とくにウィーン学派の経済学方法論に共通している。そこには経済理論の形式があるが内容は無く,論理的必然性はあっても歴史的現実性は存在しない。

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