社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

池永輝之「経済学における数学利用」『統計学』第49・50合併号,1986年

2016-10-18 11:35:50 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
池永輝之「経済学における数学利用」『統計学』第49・50合併号,1986年

 1970年代半ばから,社会統計学の内部で経済学における数学利用の意義の再評価の動きがみられた。それらは数学利用の可能性と有効性を認め,主要な研究方法として積極的に位置づける潮流を形成した。筆者は,それらの動き,潮流が従来のこの分野での議論の到達点とどのように関わるのか,それなりの吟味が必要という視点で本論稿を執筆している。
まず,数学利用推進派の見解が2つのグループ,すなわち野澤正徳と置塩信雄によって代表されるグループと関恒義,横倉弘行によって代表されるグループについて要約され,次に批判派の見解が是永純弘,山田耕之介の両者の見解についてまとめられている。

 野澤正徳と置塩信雄の見解は,概ね次のとおりである。経済科学が政策科学としての課題を果たすには,経済全体の数値的分析が必要であり,そのためには数理的数量的手法の援用が不可欠である。その理由としてあげられているのは,①経済は複雑な相互依存の構造をもっている,②政策提言は諸政策間の整合性をもった具体的数値で提示しなければならない,③各政策がもたらす長期的,間接的波及効果の測定,予測が必要となる,というものである。上記のように社会統計学の分野ではこれまで,計量経済学の研究方法に対して,モデル構築過程における恣意性,質的側面の捨象,確率モデル導入の問題性であった。これらの従来の批判について,野澤正徳,置塩信雄の見解は,計量モデルにおける諸量は具体的質的規定をもった定量なので質的捨象という批判はあたらない,パラメータの安定性については政策科学が考えるモデルによる予測は将来の外生変数のあれこれの推移のもとで変化の方向性を示すことなので,係数一定の現実的妥当性は重要な問題ではない,確率論利用については,計量モデルの攪乱項に関わる想定が現実妥当性をもつかは証明できないので,確率論的接近によってモデルの推定が現実と合致するか否かに関わらずその接近法は有意義である,というものであった。

こうした見解は,筆者によれば,手法の正しさが分析目的との兼ね合いで決まり,また手法の正しさは相対的な有効性の度合いで判断すべきものとする,数学利用そのものの方法論的問題の検討の放棄に他ならない。  

関恒義の見解は,次のとおりである。数学利用の根拠は,①経済学は量的性格の強い科学であり,経済諸量の相互関係の究明には数学利用が不可避である,②民主的経済モデルの提示には計量経済学の諸手法を批判的に活用しなければならない,経済学における数学利用のあり方は,質と量との,異質性と等質性との相互関係の解明,とりわけ異質性をつらぬく等質性の析出が原則で,析出した等質的な関係を厳密な量的関係として表現することである。関にあっては,数学利用によって客観的対象の認識が深められるとし,その推進を主張されるが,そのことを論証しえていない。そこで民主勢力のよりどころとしての民主的経済モデルの提示という主張を導入して数学的方法の有効性を根拠づけるが,成功していない。関の計量経済学批判の観点は,それを構成する経済学の性格に絞られ,その固有の方法については積極的に評価されている。結局,計量経済学に対して批判すべきは,その利用の仕方につきるのである。

 推進派の2グループに共通する見解は,「計量モデルの提示→経済諸量の相互関係の分析を経済学の主要課題として設定→数学利用」という論理構造,と整理できる。

推進派の見解に対し,数学的分析の方法的性格という観点から批判を展開したのは,是永純弘,近昭夫,山田貢である。是永は推進派の立論の基礎に,数学的方法の適用によって研究の厳密性が保証されるという誤解があり,これをただすために多岐にわたる批判を行うが,その中心論点は2点である。一つは数学的分析の方法的性格に対してであり,他の一つは経済諸量の連関分析を経済学の主要課題として設定する姿勢に対してである。前者は関恒義の数学論と関係し,関が言うところの,異質性を貫く等質性を抽象し,その関係を厳密な量的関係として表現することが必要(異質性のままでは数学が利用できないとする見地)というのは誤りで,数学は質的に無関与とでそのことを行いうるのであって,個別科学が異質なものから共通性を導き出すことに数学は関わらない。諸科学における量と数学が扱う量を認識する方法には本質的な区別があるが,それを見ないのはそれらの認識方法の理解が不十分と言わざるをえない。

後者は,数値的分析が重視される以上,計量経済学的諸手法の摂取,批判的活用が要求されるが,このような課題の先取りは計量経済学の方法体系がもつ原則的誤りが軽視されることになり,その利用目的の当否でこの体系の当否が判断されてしまい,これらに対する批判は,科学方法論としての客観的評価としてあるべきものが,数学利用の政治的役割にたいするものへとすりかえられてしまう,というものである。近昭夫もこの議論の延長線上で,関の議論が数学的方法の評価が,対象との関連で相対的なものに化してしまうことに懸念を表明している。

山田耕之介は,関の議論が結局,数学利用の根拠として経済学が量的性格の強い科学であるということを除けば,何一つ経済学の本質に根差した理由を示しえなかったと整理し,問題は経済量をいかなるものと理解し,その性格をどのように規定するかにつきるとする。経済量の理解にとって必要なのは,質と量についての認識である。質はある物がどんな物であるかを示す規定性である。経済量はこの質に対応するものであるが,それは客観的な存在として独自にあるものではなく,対象のどの側面をどういう目的でとりあげるかによってひとつの量が経済量になったりそうでなかったりするのである。ところが関にあっては,質とは「その事物を特徴づけるさまざまな性質の総体」と考えられているので,質とは事物そのものであると述べているにすぎない。また量に関しては事物に関わる数と考えているので,事物があれば必ず測定できる数値があると理解しているのである。

数学利用に関しては,それは個別科学である経済学が質的側面に終始する利用でなければならない。数学は質的側面を捨象して純粋に量的関係や形式を問題にするのであるが,質的側面の捨象ということは異なる事物の間に同質性を仮定することである。関の言うように,同質性を見出してそこに数学を利用するということではなく,数学を利用することそれ自体が同質性を仮定することになるのである。資本主義の複雑な経済現象を分析する際,同質性を仮定することは困難である。したがってそこに数学を利用する可能性はほとんどない。

 筆者は最後に,経済学における数学利用に関する議論の方向を指摘している。第一に,この問題が科学方法論の領域における問題ということを確認し,その範囲で数学あるいは数学的方法の性格とその適用の可否を検討することである。第二に,推進派は数学を利用した具体的な作業を俎上にのせ,現実の経済分析がどれだけ進んだのか,経済的認識がどこまで進んだのかを示すことが必要である。第三に,歴史科学としての社会科学を再認識し,この観点から科学の発展をはかることである(数理科学的手法の適用によるのではなく)。
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