社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

木村太郎「経済指数論考」『改訂 統計・統計方法・統計学』産業統計研究社,1992年

2016-10-16 20:30:27 | 9.物価指数論
木村太郎「経済指数論考」『改訂 統計・統計方法・統計学』産業統計研究社,1992年

経済指数の効用は,相異なる多様な経済要素の変動を比率で示すことで相互に比較可能となり,全系列の動きを総合的に観察し,把握できる点にある。筆者は本稿で物価指数と生産指数の発展過程の概略を考察し,それらの問題点の解明を課題としている。

 叙述の順序は,まず生産指数論の発展と課題,次いで物価指数論のそれとなっている。生産指数の問題は,第一次世界大戦時から活発になる。その最初の作成は1880年代に,Neumann Spallart によって「社会全体の福祉の程度」を測定する目的でなされた。さらに1911年にベルギーの統計学者Armand Julin がやはり社会福祉の指標として作成した。その後,本格的にその作成が行われるようになったのは第一次世界大戦からで,戦時および戦後の産業政策遂行のための判断材料として重要な役割を担った。殊にアメリカでは政府によって全産業分野におよぶ生産指数作成が試みられ,これが各国に伝播した。

 この生産指数作成の発展のなかで,生産物量の測定は平均論的生産指数から総量的生産指数への志向が模索された。生産指数は一時期,E.E.DayあるいはStewart による総和法(基準時単価あるいは標準単価を生産物量に乗じて商品別生産額を算出し,これを総和したものを指数化するという平均論的物価指数の一応用方法)が定着したが,この方法では過去の生産量の総合的把握に役立つとしても,現況的月次的生産動態把握に不適切であるので,別途,単純指数総合方法の考案が試みられた。

生産指数の測定課題を,生産物量の測定の上に設定しながらも,最初に生産総量計測の意義と限界を明らかにしたのは,A. F. Burnsである(1930年)。Burnsは生産された各生産物はその純生産価値によって比較され,総合されなければならならず,このようにして得られた純生産価値の総量を時系列に並べたものが本来的総生産量の大きさの変動を反映する,とした。さらに,この種の生産量の測定は直接生産物量を反映するものではないが,時系列的動態としては間接的に物量の変動を物語る。またこのような生産概念にもとづいて捕捉された生産量は,国民所得における生産所得と若干の概念上の差異があっても基本的には一致する,と考えた。Burnsによって基礎づけられた生産総量把握の方法は,国民所得統計とそれを基礎とした分析方法の確立により定着した。

次に物価指数の発展と課題は,(1)原子論的物価指数論批判の意義と背景,(2)函数論的物価指数論批判の2つの節に分けて論じられている。

 原子論的物価指数論は,物価水準一般,そして主体なき貨幣の購買力の測定を目指す集団論的平均論的物価指数の理論である。この理論は,J. M. Keynes, G. V. Haberler などによる批判を受ける。彼らは貨幣の購買力が貨幣によって購入しうる財貨と労務の量であるから,貨幣を保有する主体の財貨の選択により異なる,購買主体を欠いた単一な物価水準自体なるものは存在し得ないと唱えた。同時に物価の測定は購買主体による異種の財貨の組み合わせによって限界的に獲得する過程として捉えたものであるから,価格水準と財貨の購入量との間には函数論的関係が成立するとした。

 筆者は物価指数論のこのような展開が当時の資本主義国が当面していた問題を踏まえ,その解決の方向を追及するなかで生まれてきたと主張する。各国で固有の貨幣制度(金・銀複本位制度)のもとで価格体系が維持されていた19世紀の資本主義段階では,貨幣価値の変動は基本的に国ごとの国内市場諸商品価格水準の変動と一致していた。物価水準の変動は諸価格の変動率の平均であり,また物価水準の変動がそのまま為替平価の変動を反映すると想定された。しかし,20世紀に入ると資本主義諸国では,各国内での産業の不均等発展の過程で商品価格の変動(相対価格の変動)が顕著になる。基本的な分裂は,小売物価指数と卸売物価指数との乖離であった。物価水準の変動とその測定に関わる問題は,この時期の物価水準自体の世界的動揺と破綻を背景に,一般的物価水準すなわち貨幣の一般的購買力の存否の問題であるとともに,貨幣固有の価値あるいは購買力を承認するか否かの問題でもあった。したがって,第一次世界大戦後の一般的物価水準の測定の問題が上記の小売物価と卸売物価との乖離,貨幣の国内価値と対外価値との分裂に対応し,従来の一般物価水準を建前とした集団的平均論的物価指数論に対する批判として展開されたのは当然の成り行きであった。 

 彼らによる批判の重点は,貨幣の一般的購買力の存在を前提とした当時の通貨政策や景気対策,すなわち戦前並みの国内的物価と国際的物価との調和を前提した通貨政策の保持に対してであった。そのような購買主体のない貨幣の購買力あるいは貨幣価値は,存在しない。貨幣の購買力は個人の財貨に対する欲望を充足する度合いとしてのみ成立する概念なので,多様であり動態的である。したがって,物価水準はそのような個々人の貨幣購買力の総体としてのみ成立し得る。

 筆者はKeynes, Haberlerの議論が主観価値説的見解に依拠しているとしても,その指摘だけでは不十分であり,その評価には当時の物価指数利用の実態に対する理解が必要である,としている。すなわち,この頃の資本主義諸国における通貨政策あるいは景気対策は戦前の金本位制安定期の伝統に従い,卸売物価指数に依拠して行われたが,実際にはそれは国内物価水準を全く反映しなくなっていた。それゆえ,函数論的物価指数論者の見解によれば,景気対策が基準とすべき物価水準は個人の消費水準,労働者の賃金水準としての物価水準であり,それまで基準とされていた卸売物価水準は逆にこれらの物価水準を基準として考えられ,鞘寄せされるべきということになる。筆者はKeynes, Haberlerが物価水準論に個人的消費水準の問題を持ち込みその経済的意義を問うたことは,高く評価されなければならないと述べている。しかし,同時に彼らの物価水準測定それ自体は,個人の貨幣支出によって得られる効用の問題に還元され,その限りで客観性がなく,主観的なものとしてしか成立しえないものであった。

 筆者は最後に節をたてて,この函数論的物価指数論を3つの論点に総括して批判している。第一の論点は,物価水準の多元的分裂という事実認識からこれを根拠に貨幣の一般的購買力また貨幣の存在性を否定することである。第二の論点は,貨幣の一般的購買力あるいは貨幣価値という虚構を構築する方法として,集団的平均的物価指数論が取り上げられ,批判されていることである。第三の論点は,多元的物価水準の基礎を個人的消費水準としての物価指数におくとともに,そのような物価水準を個人的貨幣所得の効用選択の過程としてしかとらえないとする点である。

 第一の論点に関して。筆者は函数論的物価指数論者が物価水準の分裂を効用選択にもとづく分裂としてしか理解していないが,事実は異なりそれは国内生産部門の不均等発展,独占的企業による国内市場支配の結果に他ならない。貨幣の購買力という概念は,個々の財貨の一定の組み合わせを前提としてのみ捉え得るが,そのような国民経済的なそれは客観的に存在しない。貨幣の購買力を個人のそれに置きかえることはできるかもしれないが,それがどうして物価水準なのか。それはあくまでも個人や家計からみた物価水準で,物価水準それ自体ではない。
第二の論点(集団的平均論的物価指数批判の問題)と第三の論点(個人的消費水準主義と函数論的物価指数論への転換志向の問題)は,一括して論じられている。筆者は,集団的平均論的物価指数論が卸売価格の変動率をもって貨幣の一般的購買力を推定し得るとしたことは,物価水準自体の多岐的な分裂という現実を無視した理論として批判されねばならないとする。これに対し,函数論的物価指数論は,小売物価水準と卸売物価水準との乖離を重視し,物価水準を小売物価水準の基礎の上に論ずるべきとしたことは評価されるべきとも述べている。しかし,その小売物価水準を測定する問題を多様な個人の消費選択の主観的問題にすりかえたことは誤りである。小売物価水準も卸売物価水準も客観的に存在する。ただ物価変動によって蒙る影響が商品流通の諸種の段階で差異があるというだけの問題である。流通段階の差異性は,質的なそれとして,類型的な問題として客観的に存在する。そのような小売物価水準が与える影響は,諸種の所得階層によって異なる。かかる所得階層は類型的に規定し得るので,類型的階層からそれぞれの代表的な個人あるいは家計を設定することによって,その影響を測定できるはずである。

 今後の課題は函数論的物価指数論者が提起した問題に対して,彼らとは別個の方法で応えることである。
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