社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

薮内武司「生計問題と家計統計の系譜-事例調査(ミクロ的視点)から統計的観察(マクロ的視点)へ」杉森滉一・木村和範・金子治平・上藤一郎『社会の変化と統計情報』北海道大学出版会,2009年

2016-10-16 11:39:48 | 10.家計調査論
薮内武司「生計問題と家計統計の系譜-事例調査(ミクロ的視点)から統計的観察(マクロ的視点)へ」杉森滉一・木村和範・金子治平・上藤一郎『社会の変化と統計情報』北海道大学出版会,2009年

 家計調査の歴史を史的に考察した論文である。筆者は本稿の冒頭で「家計統計の前史となる,一般民衆なかんずく下層民の実態調査およぶ台頭する労働者たちの生活問題の実状調査から,生計調査活動が最も昂揚を見せる大正期,そして全国統一的『家計調査』が実施された昭和前期に至る過程をたどり,その統計史的特質と意味を探っていきたい」(p.222)と述べている。

 家計統計前史では,細民,貧民救済のための生活調査である農商務大輔品川弥二郎による「士族生計調査」(1883年[明治16年]),農商務省大書記官前田正名による『興行意見』(1884年[明治17年])がとりあげられ,紹介されている。続いて,松原岩五郎の「最暗黒の東京」(1890年[明治23年])の紹介があり,これに先立って『朝野新聞』に連載された「東京府下貧民の真況」(1886年),鈴木梅四郎の「大阪名護町貧民窟視察記」(1888年[明治21年]),桜田文吾の「貧天地飢寒窟探検紀」(1890年[明治23年])があったとし,とくに「貧天地飢寒窟探検紀」が「最暗黒の東京」に強い影響を与えた。筆者は上記のうち「大阪名護町貧民窟視察記」によって,エンゲル係数を試算している。それによると,上級家族で68.7%,中級の上で70.9%,下等で83.3%になったと言う。

 日清戦争後では,横山源之助の「日本の下層社会」(1898年[明治31年])が代表的な調査報告で,横山はここで賃金問題と生計費の問題が表裏一体の関係にあることを自らの調査結果から分析し,説明した。筆者はこの資料からエンゲル係数を試算し,旋盤職が59.4%,仕上職が65.6%,鉄工56.3%,旋盤工57.2%になったと言う。ほぼ同じころ,農商務省工場調査掛の「職工事情」(5巻,1903年[明治36年])が刊行された。本書は工場法立案の基礎資料として1901年(明治34年)に実施された各種工業部門の調査記録で,膨大な労働事情の報告書である。横山の「日本の下層社会」や農商務省工場調査掛の「職工事情」がもととない,日本で初めての「工場法」が1911年(明治44年)に公布された(施行は1916年[大正2年])。

 その後,行政当局は「農業小作人工業労働者生計状態に関する調査」(1909年2月)を行った。筆者は,これを日本で最初の統計的実態調査と書いている。このほか,内務省「細民調査」(「細民戸別調査」「細民長屋調査」「木賃宿調査」「細民金融機関(質屋))」「職業紹介所」「職工家庭調査」)が1911年(明治44年)に実施されたが,これはどちらかというと都市地区に居住する生活困窮集団の精細な社会調査だった。

 近代的家計調査の成立には高野岩三郎が果たした役割が大きかったが,その契機となったのが1912年(明治45年)の社会政策学会第6回大会での岡実(農商務省工務局長)の報告「職工の生計状態」であった。ヨーロッパの家計研究,とくにW.シッフ,E.エンゲルの仕事に関心をもっていた高野は,友愛会の協力を得て,1916年(大正5年)5月,「東京ニ於ケル二十職工家計調査」を実施した。標本数20,調査期間一か月の小規模な調査だったが,その調査方式(家計簿法),手順はその後の家計調査の範となった。高野はこの調査のおりに,家計簿の集計が終了した時点で,被調査者の個人的属性に関する部分は切り取り,破棄することを指示している。高野がこの時点ですでに被調査者のプライバシー保護の視点をもっていたことを伺わせる措置である。

 「東京ニ於ケル二十職工家計調査」とともに知られる戦前の家計調査「月島労働者家計調査」は,1919年(大正8年)に高野の助手権田保之助によって行われた。調査結果は,『東京市京橋区月島に於ける実地調査報告第一輯』(1921年[大正11年])として公刊された。調査の性格は,統計調査と言うよりは,特定地域を対象とした社会調査的,労働調査的実態調査であった。権田はこの「月島調査」のなかから,労働者家計部分あたる報告を「労働者の家計状態」としてまとめた。労働者を対象としたこの調査と並行して,少額所得俸給生活者を対象にした調査が,また東京市内および隣接群部の「小学校教員家計調査」(1919年[大正8年])が実施された。

 このように大正中期になると,生活調査の対象は,明治期の窮民・細民生活者の実態調査から熟練労働者,俸給生活者へと拡大された。調査者の問題意識は,貧民救済の社会政策的視点から国民経済全体にわたる経済政策的視点へ移行した。しかし,調査の内容はいまだ調査技術的面でも,調査対象の選定でも未熟なものにとどまった。

 「東京ニ於ケル二十職工家計調査」「月島調査」の経験を経て,1920年(大正9年)前後から25年(大正14年)ごろにかけ,家計調査が多数実施され,権田はこの事情を指して「家計調査狂時代」と呼んだ。家計簿方式によるもの30余り,アンケートなどの方式によるもの80以上の調査があった,と書かれている。筆者はそのなかから代表的なものとして,農商務省「職工生計費状態調査」(1921年[大正10年]3・4月),民間団体協調会「俸給生活職工生計調査」(1921年)をあげている。これらの調査は,いずれも労働者が主体であり,調査対象も急速に拡大する労働運動への対策,ある種の鎮静剤的役割をもっていた。

 こうした種々の家計調査は1926年(大正15年)に,内閣統計局が全国統一的家計調査を実施するに及び,ブームは消滅した。この調査は,1920年(大正9年)に国勢院第一部によって企画され予算請求があったが認められず,紆余曲折があって1926年(大正15年)に9月に実施をみた。内閣統計局によるこの調査は,その規模,内容の面で,それまでの家計調査を質量とも凌駕し,高い水準で国民生活の実態を浮き彫りにした。

 この第一次家計調査を引き継いで,内閣統計局はその後,1931年(昭和6年)から1941年(昭和16年)8月までに第二次家計調査を(米穀統制の資料を得るのが目的),さらに1942年(昭和17年)から44年(昭和19年)にかけて第三次家計調査が企画されたが,諸事情で中止となった。1945年(昭和20年)調査も中止。続く1946年(昭和21年)調査に関しては実施しないとの閣議決定がなされ,以後国民生活の量的測定の試みは戦時体制の波に飲み込まれ,終焉した。本稿は日本の家計調査の前史と戦前までの歴史を要約したものであるが,原資料に直接あたって執筆したことが推察でき,資料的価値が脚注を含め高い。また,「おわりに」は本論文を執筆した筆者ならではの行き届いたまとめである。
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