社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

大橋隆憲「統計学=社会科学方法論説の擁護-ドゥルジーニン批判の吟味-」『経済学研究』(北海道大学)第12号,1957年

2016-10-17 21:24:02 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
大橋隆憲「統計学=社会科学方法論説の擁護-ドゥルジーニン批判の吟味-」『経済学研究』(北海道大学)第12号,1957年

 筆者は,統計学=社会科学方法論説に立脚して統計学を構想している。ところで,ソ連の統計学論争は,統計学=実質科学説で討論に終止符をうった。筆者はこの統計学論争帰結後の,この国における経過と展開を吟味し,統計学=社会科学方法論説の正当性の主張を本稿の課題としている。
 社会科学方法論説の立場にたつ筆者は,当然のことながら,実質科学説を承認しないが,そのポイントは結局,実質科学説では統計学と経済学との関係が不明確であることにつきるとしている。筆者はしたがってドゥルジーニンの説に親近感をよせているが,かといってその説に全幅の信頼をよせているわけではない。こうした点が,本稿の論点になっている。

 ドゥルジーニン説は要約すると次のようである。(1)統計学は社会科学である。(2)統計学の基礎は史的唯物論と経済学にある。(ここまでは実質科学説と同じである)。両者の違いは,対象の質と量との関係の見方である。ドゥルジーニンは,理論的・経済学的一般化と具体的統計資料研究の有機的結合=統一を主張する。質と量とを区分することはできない。また,他の科学によって確定された法則の「描写」=記述だけを目的とする独立の科学の存在は認められない。統計学は独立の科学ではなく,方法科学である。

 筆者はこのドゥルジーニンの見解を紹介した後,それに対する批判,そしてドゥルジーニンの反批判を詳細に検討している。ドゥルジーニン見解を批判する者の論点は,(1)統計学=社会科学方法論説が普遍科学方法論説の変形にすぎない,(2) 統計学=社会科学方法論説は具体的な社会経済的内容を抹消している,(3) 統計学=社会科学方法論説は統計方法を唯物弁証法に置きかえていることである。これらに対し,ドゥルジーニンは逐一反批判をし,筆者はそれらを丁寧に解説しているが,紙幅の都合でその要約は割愛する。(pp.53-54には,筆者の意見として反論が掲げられている)

 さらに筆者は,ホルンジー,チェルメンスキーによるドゥルジーニン見解批判を紹介している。重点はチェルメンスキーによる批判である。批判のポイントは次のとおりである。(1)社会科学方法論説は統計資料の位置づけを過小評価している。チェルメンスキーは逆に統計結果である統計資料を統計学の中核に据えるべきと述べている。統計学は,統計資料によって社会現象を研究する学問である,というわけである。チェルメンスキーは,統計学の内容豊富な特質を列挙している。事実分析への関与,現象の標識の決定と研究,経済的諸現象の型への表現付与などである。筆者はこれらを評価して,統計学=社会科学方法論説が継承しなければならないものであると述べている。しかし,筆者は,だからと言って,方法の成立基盤=適用対象(社会集団)を重視することは,統計学を実質社会科学に昇格させねばならないことを意味しないということを急いで付けくわえている。

 他に(2)社会科学方法論説は,社会生活における客観的合法則性を否認していること,(3)未決な問題(「統計指標の本質」の問題)を課題から外していること,すなわち対象規定を捨象した統計方法過程になっていることに対する批判が紹介されている。

さらにプロシコ見解の吟味がある。プロシコは,統計学=実質科学説に与しない。彼自身は統計学=統計的計算の理論を主張している。この見解は,概略,次のようなものである。統計学の対象は社会的労働の特別の形態として分離独立した統計的計算過程―社会認識を目的とする人間の組織的活動過程である。プロシコの見解を整理した後に,筆者は次のように述べている。少し長い引用になるが,重要なので書き留めておく。「プロシコにみられるような,統計学の対象を『社会的労働の特別な形態として歴史的に分離独立した統計的計算過程』『歴史的に特殊な形態をもつに至った人間の実践的活動・機構』とする考え方は,たしかに経済活動や行政活動とは質的に目的を異にする統計的認識活動を,統計学の独自の対象領域に指定したように見える。しかし,その活動も結局は認識対象の知的反映活動にほかならないから,認識対象側からの規定性を捨象した活動形態のみに着目するならば,方法の技術過程の分析論または制度論にとどまらざるをえない。問題は,統計方法論をこのように活動形態論にとどめるか,それとも,統計方法の基礎規定としての社会集団論から統計方法論をうち立てるか,にある。私見によれば,ドゥルジーニンやプロシコのごとき規定の仕方では前者にとどまらざるをえないと考える。いわゆる旧来のドイツ統計学書は一般に,社会集団論につづいて,集団観察過程を(1)統計調査(調査主体,調査機関,調査客体,調査方法,調査票,調査票の運用・機関・方法),(2)整理加工(分類,集計,比較,平均,比率,系列,各種の表示法)にわかって説くが,社会集団論の欠如したプロシコの考え方では,その論理構造から当然に,わずかにこの方法の技術・機構を扱うにとどまらざるをえない。/これに対し,同じく統計学の対象を『統計方法』とする見地に立つも,統計方法過程を規定するものとしてのその内容的契機たる統計方法の成立基盤=適用対象を重視する考え方は,統計結果=統計指標・統計数値・統計資料・一般化指標(統計法則)の問題を統計学の中心課題とすることになろう。この見地をとったにしても,統計対象たるいわゆる社会集団過程は,他の実質社会科学の対象に他ならないから,統計学を実質的意味での独立の社会科学と主張することは困難である。統計学は,社会科学方法論の従属的な一つの特殊形態として位置づけるよりほかない。私はこの意味の統計学=社会科学方法論の見地をとる」(p.48)。

 以上を踏まえて筆者は,統計学,統計方法,統計について,自説を以下のように要約している。
(1) 統計学の研究対象は統計方法である。
(2) 統計方法とは,社会認識の目的の下に,統計対象を統計結果として捉える過程の方法的諸規定の特殊な結合形態である。統計方法は統計対象と統計目的によって規定される。
(3) 統計対象(統計方法の成立基盤である統計方法の適用対象)は社会集団の運動過程(社会集団過程または社会集団現象と略称)である。
(4) 統計目的(統計方法の適用目的)は,社会の具体的・数量的目的という以上に,一般的に規定することは困難である。けだし,統計主体のおかれている立場と条件によってその課題は異なるからである。
(5) 統計結果(統計方法の適用結果)は一般に統計と呼ばれる。統計はその生産過程たる統計方法過程の段階経過によって加工度と性格を異にする。しかし,社会集団過程を数量的に反映するかぎりにおいて,いずれも統計である。統計は社会認識の手段・用具である。しかし,統計結果が統計対象と無関係に,単なる数値として,ひとり歩きしうる必然性があり,社会認識を誤らせることになりかねない。

 後段は,統計学会議以後の統計学教科書についての論議の批判的吟味である。具体的には,ドゥルジーニンの『統計学講義』(1955),それに対するコズロフの批判,そしてストルリミン等の『統計学』(1956)をとりあげ,それらを検討するなかで私見を表明している。その際,検討の主要論点は,(1)統計対象たる「社会的集団現象」とは何か,(2)特殊な方法であるとする「統計方法」とは何か,(3)統計結果とされる統計の正体(統計指標,統計数値,統計資料,一般化統計指標,統計法則,統計的経済法則),(4)統計学の内容と体系とくに経済学との関係,である。

 ドゥルジーニンは,統計学=社会科学方法論説に属する統計学者で,その限りでは筆者と同じ立場である。筆者によれば,ドゥルジーニンは統計学=実質科学の結論を出した統計学会議後も,相変わらず自説をまげていない。この点が評価されている。しかし,いくつか疑問を呈している。まず統計学の対象規定が,きわめて貧弱であることである。対象そのものについての内容に関する理論(社会集団論)がまるでない。筆者はここにドゥルジーニンが単なる方法過程の分析論ないし数理手続論へ転落しかねない要素をみている。また,統計方法では,その中身をみると数理統計学のそれと異ならないと指摘している。統計結果に関しては,方法論説で一貫し,統計法則を統計学から完全に追放している。統計学と経済学との関係について言えば,統計学=実質科学説に反対し,両者を切り離して考えている。

 実質科学説に立脚するコズロフは,ドゥルジーニンの『統計学講義』の理論水準に不満足であることを表明した。それは統計学をどう考えるかの方法論の相違によるが,主張のポイントのみ示せば,ドゥルジーニンのテキストが「初歩的教程」にすぎないこと,統計対象論を強化し,それが統計学の主要内容になるべきであること,などである。

筆者は次にストルミリンの『統計学』に関して,点検している。このテキストでは最初に統計学の定義が与えられている。統計学の会議の定義そのものではないが,それにそくしつつ若干の修正が加えられている。統計対象は,集団的社会現象と明記されている。関連して大数法則の統計学における副次的役割を強く承認している。そして統計学は,社会現象の量的側面を質的側面と切り離しがたい結びつきにおいて研究する,としている。統計方法に関しては,その他のテキストと大同小異であるが,統計対象の理論的分析操作が統計方法の外に設定され,統計方法の対象ではなく,統計学のそれに転移させられ,結果的に統計方法論には,統計観察以下の外見的にとらえうる操作形態のみが示されるにとどまる。統計結果は,統計指標とその内容である統計数値(統計資料)とで説明されている。そのうえで構成的統計系列とともに,一般化統計指標について注意を喚起している。後者は社会現象の発展の具体的合法則性の表示形式と位置づけられている。

 統計学と経済学との関係は,両者の対象は同一であるものの,相違は対象の質的区分にあるのではなく,むしろ研究の仕方に,すなわち具体・抽象の程度・段階の差にあるとしている。これは統計学に対象の量的側面と具体的統計方法を,経済学に対象の質的側面と抽象的分析方法を割り当てた統計学会議の決定と比べると曖昧になっているが,統計学の実質科学性を強調しない姿勢の反映である。

「むすび」で筆者は,統計学=社会科学方法論説の見地が(1)経済学との質的差別を明確にしうる点で理論的整合性を確保しえ,(2)社会集団過程の具体的数量的認識過程を明確にすることで,現実反省性を確保でき,(3)社会認識の有力な実際的および理論的用具の提供により,実践指導性を確保しうるとして,具体的に経済統計論の構成を以下のように提示している。
*統計方法の意義と限界
(1) 統計学者の経済学的問題意識の検討
(2) 各派経済学者における統計資料と統計的方法の検討
(3) 日本における経済統計論の発展・現状・課題
(4) 戦後独占資本の状態と政策の研究における統計資料と統計方法の検討
(5) 戦後労働者階級の状態と運動の研究における統計資料と統計方法の検討
(6) 日本資本主義の運動法則の研究における統計資料と統計方法の検討
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 田沼肇「ソヴェト統計学論争... | トップ | 山田耕之介「ソヴェト経済学... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む