社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

杉森滉一「E.コールマンの数学論」『岡山大学経済学会雑誌』第1巻第3・4号,1970年3月

2016-10-18 11:08:10 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
杉森滉一「E.コールマンの数学論」『岡山大学経済学会雑誌』第1巻第3・4号,1970年3月

筆者は社会諸科学にはびこる「数学主義(数学化=科学化を唱える説)」を批判するには数学の対象と方法とを正確に理解し,その意義と限界を明らかにしなければならない,と言う。そのための準備作業として,E.コールマンの数学論を検証するのが本稿の課題である。 

コールマンは1920年代以降,ソ連で論陣をはった数学および自然科学に関する哲学的批判論者で,その見解は戦前戦後を通して,日本では数学について語る論者の間で共有財産になっていることで知られる。しかし,コールマンの見解は断片的に伝えられることが多く,その全体像が明瞭でないので,筆者は本稿でその解明を試みる,としている。(コールマンの数学論が最も包括的に述べられている文献は,『現代数学の対象と方法』1936年,である。)

 コールマンの見解は一般的には,数学が物質的現実の反映であり,主観の構成物ではないことを強調したものと理解され,その観点は「数学主義」批判の唯物論的原点として重要視されてきた。筆者はコールマンの著作の検討を通じてそのことを確認しながら,彼自身の見解の変更にも着目し,その意味を吟味しているが,最終的結論は「今日の数学主義批判に関連(させる)ならば,基本的に彼の数学論に依拠することはできないであろう」(p.125)と述べている。「数学主義」批判の原点におかれてきたコールマンの見解について,これでは論敵と闘うための理論的基礎となりえない,と筆者は断定する。期待外れということである。

どうしてこのような結論に至ったのであろうか。以下に,筆者のコールマン理論検証の足跡をたどる。数学が唯物的基礎をもつことに関して,コールマンは数学の各分科を説明するごとに触れるが,筆者によれば物質のいかなる側面を,いかなる仕方で反映するかに関しての言及はない。

コールマンは,「抽象化」をもって数学の本質的特徴とみる。そして,数学は「物質の量的関係及び空間形式」という古典的定義をそのまま継承する。コールマンはこの抽象化の進行を数学史にそって,3つの段階に区分し,整理する。第一の段階では,現実世界の諸対象について,それらをその深奥から支配する無限に様々の個別的な質を捨象して類概念のみを残し,このことによってその諸対象を同一視されることとなった(算術の段階)。第二の段階では,数からその具体的な量的内容を捨象して任意性が得られた(変数・変量概念の成立)。これによって数の量的具体性に迷わされることなく数の性質,関係が純粋に発見されるようになり(代数の段階),この抽象段階における幾何学の代数学化が可能になった。第三段階では,変数・変量からさらに数的量的内容が捨象され群論が成立し,抽象代数が展開される。重要なことは第一段階では対象の質的関係から,第二段階では対象の具体的量的数から,第三段階では数学的操作自体の量的内容から離れていくが,この抽象の第三段階から改めて全ての内容が再検討され,再結合されることである。数学の特徴が抽象化にあり,高度な抽象化は現実からの乖離ではなく,むしろそのことによって適用領域の一般化,拡大化が可能になることで現実への密着度が高まり,ここにヨリ高い抽象化が具体的なものをヨリ良く説明する「弁証法的」関係が成立する,これがコールマンの理解である。

 コールマンは1957年の論文(「現代的『数学的』観念論批判」)で,次のように見解を改める。すなわち,質が対象の本質規定であることは確かであるが,量もその対象を対象たらしめる本質規定である場合がある。「質は本質として現われ,その事物の他の事物に対する関係において現われ,感覚器官またはその延長によってその直接認識されるような,物質的実体(又は過程)の本質的規定である」。「量とは同種の部分に分割でき,また,それらの部分を一緒にすることができるような事物の規定性である」。そして,数学の対象規定は,次のように改められた。「数学の対象は現実世界の量的関係,空間形式及び,この両者のいずれか一方に類似した物質的現実の関係である」と。
筆者は以上の見解の変更に対し,コールマンは当初,ヘーゲル的な質・量規定(すなわち量とは現実の事物から質を取り除いてなお残るような規定性一般)から出発したが,修正後の対象規定では両者を並行させるにいたった,ヘーゲル的規定では両者の並行はありえないので,ヘーゲル的規定は放棄されたとみるべきである,と述べている。ここでは質は対象を対象たらしめる規定性ではなく,ヨリ基礎的なものによって説明されるべき素材的感覚規定に貶められ,曖昧で,動揺している。

このような質・量規定から,数学と他の諸科学との関係,数学的方法の適用可能性は,次のようになる。すなわち,量的側面はあらゆる事物に備わっているから,量の科学としての数学は潜在的にはそのような事物に対しても,したがっていかなる科学にも適用可能である。しかし,数学が具体的諸科学の主要な方法となることはありえず,それらに従属する副次的方法にとどまる。一般的には,諸科学の対象(質)が物理学,生物学,社会科学という順序で複雑,高次になればなるほど数学的方法の補助性が強まり,その役割は低下する。したがって社会科学でも数学が使われるが,補助的な方法として利用されるにすぎない。この点に関してのコールマンの結論的見解はその指摘の限りでは妥当であるものの,筆者によればここで言われる「高次」あるいは「複雑」の中身が厳密に規定されず,とくにその内容となるはずの質自体の変化という点が論じられていないこと,数学的方法適用はそれに先だつ理論的分析の当否に関心が向けられ,数学的方法自体が数学の対象(量的関係)に即して担うはずの諸限定への言及がないこと,とくに社会現象の特質に対する数学的方法の関係の考察に乏しいこと,など不満が残る。

 さらに重要な点は,コールマンが「弁証法」に言及する場合,その内容が一貫して「対立物の統一」という意味で限定されて使われ,質の変化という面での弁証法的理解に欠けることである。数学成立の根拠は,連続と不連続,一と多,不変と可変,具体的なものと抽象的なもの,現実的なものと可能的なものなどの統一的把握のうちにもとめられる。くわえて,数学に反映論を貫くという立場から,反映の対象である物質が弁証法的である以上,反映の結果数字も弁証法的でなければならないという言明で,数学への弁証法の導入が安直にはかられるのである。

 この「反映」および「弁証法」の理解は,一方では数学の対象の存在自体に,他方では存在の仕方に関係するという意味でいずれも「存在」にかかわるものであるが,これは別の角度から言えば,数学を「認識」ないし「方法」的観点からとらえる見地が弱いということになる。このようなコールマンの哲学が集中的に現れるのは,数学基礎論の諸派,とりわけヒルベルトの公理的方法および形式主義に対する評価においてである。筆者はこの論点を深く掘り下げているが,要はコールマンのヒルベルト評価は,それが公理的方法(公理主義)は反映論の見地を採らない点で欠陥があるが,実質的に物質を反映している点で良い面をもつというものである。いずれにしても致命的欠陥は,公理的方法が数学のまたは広く科学一般の方法として認識の構造においていかなる意味をもち,どのような機能を果たすのかという問題意識がないことである。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 是永純弘「数学的方法の意義... | トップ | 杉森滉一「数学的方法批判の... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む