社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

池永輝之「経済学と数学利用-関恒義教授の所説の検討-」『岐阜経済大学論集』第17巻第2号,1983年6月

2016-10-18 11:33:14 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
池永輝之「経済学と数学利用-関恒義教授の所説の検討-」『岐阜経済大学論集』第17巻第2号,1983年6月

 1970年代,保守反動の日本の政治が革新のそれへと転換する可能性が語られ,大きな政治運動となった。民主勢力は経済民主主義を標榜し,そのための政策立案を唱え,民主的経済モデルの構築を課題とした。マルクス経済学は新しい可能性をもとめ,一部の論者は近代経済学の体制弁護論的性格を批判すると同時に,その方法を批判的に摂取すべしと主張した。当時,その典型的な論客のひとりだったのは関恒義(一橋大学)であった。

筆者は本稿で,この関の経済理論を批判することをメインテーマとし,それとの関わりで,経済学において数学的方法を利用することが理にかなったものなのかを論じている。

筆者による関理論の整理と理解は,次のようである。取り上げられている関の著作は,『現代資本主義と経済理論』(新評論,1968年)と『経済学と数学利用』(大月書店,1979年)である。関によれば,近代経済学批判はその社会的・政治的役割の暴露,イデオロギー批判でなければならないとする。この主張は,近代経済学が現実の社会で果たしている反動的な役割,経済社会の基本的法則の隠蔽と歪曲を基本としていることの解明が重要であるとするものである。そのコンセプトは,近代経済学をその方法論から内在的に批判する立場との差別化である。

近代経済学批判は,それが前提としている方法,とりわけ数学的方法の排除を意味しない。むしろ,それらを積極的かつ批判的に摂取しなければならないし,すべきである。関の経済学の立脚点は,民主連合政府の樹立である。現代マルクス経済学の課題は,逸にかかって経済民主主義の構築にある。経済民主主義の構築の要諦になるのは,民主的経済モデルの作成である。そのためには数学利用は不可欠である。数学的方法(計量経済学の手法)の利用なしに,モデルの作成はありえないし,不可能である。その根拠は,経済学は量的性格の強い社会科学であるからである。数学は高度に抽象的で,汎用性をもち,論理的に厳密な科学であるが,その数学利用の科学方法論を準備できるのは,ひとりマルクス主義ないし科学的社会主義だけである。くわえて労働運動・民主主義運動が必然的に要請する政策課題に応えるためには,そうした運動と近代経済学批判を結び付けることが重要である。具体的・数量的解決策の提示は,それらの運動を支えるよりどころである。         

 概略,以上の関恒義の主張に対して,筆者は方法論批判の観点から近代経済学批判にアプローチする。近代経済学の理論と体系とその性格に対する批判は,それに固有の科学方法論についての批判を経由して初めて十全な科学的批判となる。なぜなら,方法は思惟が客観的過程を把握する認識過程であるからである。

 経済学は量の科学であるから数学が利用されなければならないと言う関の主張に対しては,経済量と数学が扱う量(質に無関与)との相違をおさえた上で,関が一方で数学を純粋に量的関係のみを扱う科学であると言いながら,他方で質と量との相互関係を明らかにするところに数学利用の根本問題があるとしている点に関の混乱をみている。そして価格や家計の例を引いて,それらの質の解明には量的表現が不可欠ではなく,ましてや質と量との相互関係を経済学の一義的課題として設定するのは誤りであると断じている。また関は,科学が発展すればするほど量的分析をとおして解明される必要性が高まり,科学全体が精密な思考を必要とするようになると述べ,経済諸量の相互関係を明らかにするには数学利用が不可避と主張しているが,そこにあるのは信じがたい数学信仰である。数学の利用は科学の精密性を保証するとは限らないし,経済諸量の相互関係の解明に主導的役割を果たすのは経済学の論理である。

 関がマルクス経済学でも数学利用を積極的に行わなければならない根拠として挙げた理由に,民主的運動の「よりどころ」を提示する必要性があった。これは政治的要請から導かれた根拠づけであるが,これは民主的経済モデルの政治的必要性から数学利用という科学的結論を説く,科学的にあってはならない顛倒した考え方である。筆者はそのことを確認して,関による計量経済学(モデル)の評価の仕方を検討している。計量経済学(モデル)に対しても関は,その体制弁護論的性格を批判するものの,その利用の仕方=政治的悪用を避ければ,立派に科学的方法として利用可能であるとする。計量経済学の方法的特質は,現実の経済過程を確率的世界とみなす誤った世界観にもとづき,その根本的,致命的欠陥は現実の経済過程に本来適用できない,適用しても意味のある結果をえられるはずのない方法を,あたかも科学的方法であるかのように扱うことである。関にはその論証がないし,このことはそもそも論証できるはずのないことである。

 理論は事実の具体的分析の導きの糸である。それは諸現象の背後にあり,それを規定する本質を論理操作にもとづいて一つの概念体系に構成したものである。この理論たるものの正しさや科学性が計量モデル=数量表示によらなければならない,というのはプラグマティックな発想であって認められない。

 関は数学的方法によって客観的対象の認識が深められると主張していたのであるが,その論証の不十分なままに,あらたによりどころの提示という主張で,数学的方法の有効性を根拠づけようとしたが,前者の論証が不十分であれば,後者の主張もその根拠を失う。民主的経済モデル構築の主張は,科学的基盤を欠いた空虚な政治スローガンにならざるをえない(p.34)。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 山田耕之介「経済学における... | トップ | 池永輝之「経済学における数... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む