社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

森田優三「昭和統計学揺籃期の回想」『統計遍歴私記』日本評論社,1980年

2016-10-08 21:45:28 | 11.日本の統計・統計学
森田優三「昭和統計学揺籃期の回想」『統計遍歴私記』日本評論社,1980年

この論稿は,日本統計協会『統計』昭和40年10月~同41年3月号に連載された「昭和の統計学とともに」および同誌昭和47年4月~同年11月号に連載された「私の統計遍歴」に補筆されて,この書に収録されたものである。筆者は1901年生まれ,最初の就職先だった横浜高等商業学校(現横浜国立大学)を得たのが1925年であるから,ご自身の生涯そのものが昭和の日本の統計学の発展の歴史とぴったり重なっている。本稿で,筆者は昭和の統計学会の歴史を回顧しながら,自ら歩んだ研究と学会での活動をたどっている。

 構成は以下のとおり。「近代統計学の芽生え」「日本統計学会の創立前後」「戦前期の日本統計学会」「統計学会を育てた人々」「統計学社と統計協会」「日本統計学会の再建」「私の素人役人由来記」。

 昭和に入って,筆者が統計学を学び始めた頃と現在とでは隔世の感がある。この頃は,統計学の書籍がほとんどなかったようである。筆者は東京商科大学に入った学生時代に接した本をいくつか挙げている。それはキング『統計要論』であり,エルダートン『統計学初歩』であった。後者は藤本幸太郎ゼミで報告したという。当時,大学でも統計学の講義をしていたいたのは,東京帝国大学の高野岩三郎,京都帝国大学の財部静治,東京商科大学の藤本幸太郎,私学では慶応の横山雅男,早稲田の小林新を含め十指を折るにたりないほどであった。学問上の恩師は,森数樹『一般統計論』で,この本によって近代統計学の神髄に触れることができた,と書いている。この本を契機にユール,ボーレーを読み始め,卒論は統計方法の論理に関するもので,ドイツの文献をあさった。また他に,統計学の成書として傾倒したのは,高野岩三郎『統計学研究』(大4年),財部静治『社会統計論綱』(明44年),『ケトレーの研究』(明44年),高田保馬『大数法論』(大4年)であった。この頃,数理当科学はほとなんど無く,確率論の書物としては僅かに林鶴一・刈屋他人次郎『公算論』(明41年),渡辺孫一郎『確率論』(大15年)など数えるくらいしかなかった。研究者で名前が挙げられているのは,前述の人物以外には,有澤広巳,猪間驥一,中川友長,蜷川虎三,岡崎文規,汐見三郎,福田徳三,柴田銀三郎,郡菊之助などである。大正1・2年を転機に,日本の統計学界は新しい陣容を整え,統計学を専攻する学徒が育ち,全国に散らばって行った。

筆者は次に日本統計学会の創立について語っている。上記のように,日本の統計学界は大正から昭和にかけて次第に充実してきていたが,相互の研究交流の場が限られていた。研究の成果を論じるのは,わずかに大学の紀要しかなかった。

本稿を読んでわたしが一番興味を惹かれたのは,日本統計学会の創立の経緯,創立前後の学会の構成委員,その戦前,戦中の活動の内容である。日本統計学会の創立(昭和6年)は,実は第19回国際統計学会が東京で開催されたことが関係していた。東京開催は,国際統計協会のメンバーだった柳沢保恵伯爵の尽力によるところが大きかった。この学会に,筆者の世代で招待されたのは,蜷川,岡崎,中川,郡,有澤くらいで,多くの新鋭の統計学者には門戸が閉ざされていたようだ。これを不満とした水谷一雄が声をあげて中山伊知郎,筆者らが駆け回って,研究業績の交流の場としての日本統計学会が発足した。有澤広巳,蜷川虎三,汐見三郎,藤本幸太郎,柴田銀三郎など気鋭の若手研究者が名をつらねて創立の趣意書を作成し(pp.41-2),第一回総会は京都大学の楽友会館で開催された。この時の集合写真が掲載されている。また名簿も一覧されている(会員117名)。それを見ると,ほとんどの研究者は社会科学分野で仕事をしていて,自然科学,数学の分野の人は稀であった。筆者は,当時,社会科学畑以外に統計学に関心を持つ人はきわめて少なく,自然とそうなったという。もっとも,寺田寅彦は自然科学の分野で仕事をしていて,この学会に加入した例外的存在であった。

第二回総会は東京帝国大学経済学部の主催で,神田の学士会館で開催された(昭和7年4月)。本稿には,その時のプログラムが掲載され,研究報告,公開講演の内容を知ることができる。敗戦までの学会のあらましも一覧されているが,面白いのは学会の講演会が,JOAKのラジオ放送で電波にのっていたことである。NHKは学会のために喜んで時間を割いてくれたという。

 学会の活動は,他にも統計学の用語統一のための調査活動,十周年記念事業としての記念出版(『国民所得とその分布』日本評論社,1944年;『日本統計学会創立十周年記念特集・本邦統計学先覚者略伝並遺影』1942年),統計辞典の編纂,戦時中の官立統計図書館設立の政府建議があった。このうち官立統計図書館設立の政府建議は戦時中,国力を測る基礎資料としての統計が極秘扱いであり,保存の管理体制もなく,それでは貴重な統計資料が散逸してしまう危性があったために,有志が官立統計図書館設立を建議文として起草し,ときの内閣総理大臣に陳情したというものである(実行委員:高野岩三郎,藤本幸太郎,汐見三郎,猪間驥一,森田優三)。しかし,この建議は戦争遂行に狂奔していた軍国政府には一顧だにされず,葬られた(建議文「中央統計文庫設立ニ関スル意見書」の全文は74-5頁)。戦況が思わしくなるにつれ,学会活動の維持もむじかしくなった。学会の経済的運営は,森山書店の森山譲二に頼って持ちこたえていたが,次第にそれも難しくなっていった。第13回総会(1943年)は北海道の小樽高商でかろうじて開かれ,戦時最後の総会は1944年7月仙台の東北帝国大学でもたれた。東京で開催が不可能になり,窮余の一策であった。

 戦後の日本統計学会の再建は,日本銀行の国家資力研究所を母体に生まれた日本統計研究所で仕事をしていた人たち(有澤広巳,中山伊知郎,近藤康男,森田優三など)が日本統計学会を何とかしなければ,という話になって,再建された。戦後の特徴は,数理統計学の専門家,文部省に創設された統計数理研究所に意欲的に働きかけたことである。この結果,数学畑の会員数が飛躍的に伸びた。

筆者はこの後,総理府統計局(本稿執筆当時)の外郭団体である日本統計協会の前身であった統計学社(明治9年設立)と東京統計協会(明治11年設立)の存在に触れている(統計学社と東京統計協会は,戦争末期に合併したが,事業の内容は東京統計協会のそれを継承していた)。また,筆者自身が45歳から55歳までの10年間,官庁の役人,とくに内閣統計局長を歴任した経緯を懐かしげに回顧している。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 薮内武司「日本統計学史にお... | トップ | 伊藤陽一「日本における社会... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む