第83回選抜高校野球大会を制した東海大相模。
本当に素晴らしい優勝でした。
佐藤主将の談話にもあった通り、
この”震災の中での大会”で、
全力プレーで全国の人たちにその『スポーツのチカラ』を見せた高校球児たち。
その中でも、
名門でありながら今大会の下馬評には上がっていなかった【元祖タテジマ】が縦横無尽に野球の魅力を発信し続け、
優勝の栄冠に輝きました。
東海大相模と言えば、
昭和45年に三池高校を全国制覇に導いた名将・原貢監督で全国制覇した時から、
その歴史が始まります。
タテジマのユニフォームが甲子園に登場したのもこの東海大相模が初めてということも聞こえました。(真偽のほど、検証していませんが)
早々と全国制覇を成し遂げたこの【元祖タテジマ】は、
その後次々と全国の舞台を踏んで、同じユニフォームで活躍を続ける『東海大系列』の学校の【総本山】でもあります。
昭和49年にはその年の選抜優勝校・横浜を破って甲子園に出場。
その時のチームの主力に、
3人の一年生がいました。
ピッチャー村中(現東海大甲府監督)、サード原辰徳(現巨人監督)、ファースト津末(元巨人)。
この3人、
特に原貢監督の息子である原辰徳は『親子鷹』として注目され、
それから3年間の間、
高校野球界を席巻します。
その時の『東海大相模狂想曲』は、
荒木大輔の早実、池田高校、KKのPL学園、斎藤の早実などと並び、
いやそれ以上のものすごさでした。
しかし4度の甲子園で、
そのすべてに【優勝候補筆頭】という冠がついていたにもかかわらず、
結局栄冠は東海大相模の上には輝きませんでした。
そしてその、
東海大相模にとっての【輝ける70年代】を過ぎると、
今度は【苦難の80年代】が始まりました。
その幕開けは衝撃的なもの。
1980年の『殴打事件』です。
この年の神奈川は、
愛甲の横浜高校と東海大相模、そして宮城の横浜商3強がものすごいライバル心をもって君臨していた年でした。
どのチームが神奈川を制しても甲子園では優勝候補になるのが当たり前、
というくらいのレベルの高さ。
戦力的に言って、横浜がやや有利かとの声もありましたが、
その頃の横浜にとって東海大相模は『意識過剰になってしまう、やや精神的に上に立たれている存在』でした。
(その後その立場は真逆になりますが)
そのため、実は『東海大相模が夏の覇権を握るのでは』という声の方がやや横浜を上回っていたように記憶しています。
しかし、『甲子園』というもの自体が特別な意味を持ち、
もろもろの問題が噴出していた時期でもありました。
有力校同士の『腹の探り合い』はもちろん、
有力選手のスカウト合戦、野球留学の走り、
『外野』での足の引っ張り合い・・・・・・・・
この頃は高野連も、
何か問題が起こると『出場停止』『出場辞退』をすぐに勧告し、
選手全員に連帯責任を取らせる傾向が強かったのは確かです。
そしてその風潮に、
東海大相模は翻弄されてしまいました。
夏の大会の初戦、
東海大相模は気合の入らない選手を、ベンチ裏で殴打。
そのこと自体は、
この頃の高校野球では何ら変わったことではありませんでした。
しかしこの様子がTVKテレビにばっちり映ってしまっていたことから、
大きな問題となってしまいました。
巷で言われていたことは、
突っ込まれる隙を見せてしまった東海大相模に、
これ幸いとつけ込んだ人たちがいる・・・・・
とのことで、
神奈川県高野連に苦情が殺到。
この流れに抗しきれなかった東海大相模は、
苦渋の決断をしてこの大会を『辞退』せざるを得ませんでした。
(いまであれば、絶対に『辞退』『停止』に追い込まれるような事案ではありません。先鋭化した『外野の声』は、その後徐々に大きな影響力を持たなくなりますが・・・・・時代が悪かったのですね。)
ちなみに、
今度はその夏に全国制覇をした横浜が、
新チームになった秋に、
『外野の声』によって『出場停止』に追い込まれました。
高校野球ファンにとってみれば、何とも醜い、嫌なことばかりでした。
その出場停止が、
東海大相模の野球部に暗い影を落としていきました。
何と80年代は、
あの強かった東海大相模の姿が、
甲子園で見られることはついぞありませんでした。
80年代の神奈川は、
Y校全盛の時代。そしてそれを横浜と復活した桐蔭学園が追っていくという時代でした。
東海大相模は、
すでに『古豪』と呼ばれるに至り、
高校野球ファンの間では霞のかなたに遠く浮かぶ存在となってしまったようでした。
90年代に入り、
『再建の切り札』として監督に起用されたのが、
原貢監督の薫陶を受けて育った黄金世代のエース・村中でした。
この頃から東海大相模は、
野球部の再建に本腰を入れ、
好選手を広域から取ってくるようになりました。
その成果は92年の選抜大会準優勝として実りますが、
『東海大相模の野球』の確立には至りませんでした。
90年代は、
その時のエース吉田、94・95年の森野、原ら好選手を輩出するものの、
今一つの成績しか残せません。
そしてその90年代は、
横浜高校が全盛期。
大型選手をそろえたこの横浜を、
東海大相模はどうしても破ることはできませんでした。
特に夏の大会に至っては、
『いつ勝ったんだか思い出せない』ほどの連敗を続けていました。
長い空白期間を経て、
2000年に筑川投手という『高校レベルとしては最高級』の投手を擁し、
センバツ初優勝という偉業を成し遂げます。
監督は、
村中監督から若い門馬監督に代わっていました。
しかしその筑川投手をもってしても、
夏の選手権の厚い扉は開かず。
好選手が続々集まってくるようになったチームは、
毎年【超大型】と言われるチームを作ってきました。
筑川に始まり、2002年、2003年と「絶対」と言われた戦いを落として甲子園行きはならず。
2005年には秋の関東を制して選抜に出場するも、
早々と敗退してその夏も『本命』と言われる大会を制することはできませんでした。
角、田中大、田中広ら、
【通算〇〇発】の長距離砲を常に備えていても、
夏の扉は重かった。
その前には、常に横浜高校の大きな壁が立ちふさがっていました。
【超大型】チームのピークは、
2007年、2008年のチーム。
07年はエース菅野、4番太田の大黒柱を擁し、
完璧な戦いで上位に進出。
準決勝で横浜に完勝して「今度こそ絶対」として臨んだ決勝で、
ダークホースの桐光学園にまさかの逆転負け。
捲土重来を期して臨んだ08年は、
主砲・太田が神奈川新記録となるホームランを記録するも、
これまた決勝で慶応に、
「まさかまさかの」逆転負け。
しかも9回に追いつかれての延長敗退でした。
この両年のチーム。
全国の舞台を踏んでいたならば、
必ず優勝争いに加わったであろうというような「ものすごい」チームでした。
しかも08年は、
神奈川が2代表与えられた年で、
天敵・横浜とは地区が分かれた上での結果でした。
この年までの東海大相模のカラーは、
『バンバン打って、剛腕が抑えきる』
というもの。
しかしこの07・08年の敗退で、
門馬監督の中で何かが変わったのだと、
ワタシは思っています。
野球の質が、
明らかに変わったように思います。
神奈川の高校野球ファンの間で、
「おやっ」
という声が聞こえだしたのが、
09年のこと。
『東海大相模の打者が、低いゴロを徹底して打ってきている』
ということが言われだしました。
『低いゴロ』
これは、
高校野球の定番戦術という以上に、
『神奈川の横浜スタジアムでの戦いを見据えた』
という意識の表れなのではないかと思っています。
浜スタで高校野球を見た人ならわかるように、
このスタジアムでの戦いを制するには、
ちょっといつもとは違った戦術が必要であるという感じがあると思います。
10年の間【超大型チーム】で結果が出なかった門馬監督。
チームの指導方針をがらりと変え、
このことが今回のセンバツ制覇に結び付いたと思っています。
そして、
それ以上に最も大きかったのが、
昨年33年ぶりに夏の選手権の出場を勝ち取ったことでしょう。
しかも決勝で積年のライバルにして天敵の横浜高校を破っての進出でした。
この勝ちが、
長い間東海大相模に漂っていた【負のオーラ】を一気に取り去ってくれたのではないかと思っています。
何か去年の夏から、
『つきものが取れた』ような戦いができているなあと思って東海大相模の甲子園での試合を見ていたのですが、
今年の春はまさにノビノビと戦うナインの姿が見えました。
門馬監督の『チーム改革』が、
東海大相模の呪縛を取り去って、
新しい時代の扉を開いたといえるでしょう。
さて、
感激に浸っている余韻はありませんよ。
すぐに夏の戦いがやってきます。
今年の夏激戦の神奈川を制して、
2年連続で甲子園の切符を取ってこそ、
【門馬東海】の歩みは盤石なものになると思っています。
特に横浜との直接対決に勝利すれば、
『横浜コンプレックス』も一挙に解消されるとみています。
しかし、ライバルたちは黙ってやられていないと思います。
牙を研いで【その日】を待っていますよ。
その包囲網を、
どうかいくぐっていくのでしょうか。
今年の東海大相模。
まだまだ『伸びしろ』があるチームとみています。
またあの鋭い攻撃と堅い守備が甲子園で見られるのか、
それとも横浜をはじめ慶応・桐蔭学園・桐光学園などが巻き返してくるのか。
神奈川の高校野球は、
本当に面白い。
夏まで待ちきれません。
最新の画像[もっと見る]
- 取ってもらいたかったタイトル。。。。。。フロンターレ、逆転でACL敗退。 2ヶ月前
- 準決勝 3ヶ月前
- ラグビー、リーグワンが開幕。 スーパースターたちが競演! 4ヶ月前
- ラグビー、リーグワンが開幕。 スーパースターたちが競演! 4ヶ月前
- 第100回箱根駅伝予選会 東京国際大が無念の落選 6ヶ月前
- 第100回箱根駅伝予選会 東京国際大が無念の落選 6ヶ月前
- 第100回箱根駅伝予選会 東京国際大が無念の落選 6ヶ月前
- 井上尚弥 超絶の8ラウンドKO フルトンとの技術戦を、パワーで制す! 9ヶ月前
- 井上尚弥 超絶の8ラウンドKO フルトンとの技術戦を、パワーで制す! 9ヶ月前
- まさかが起こりすぎる2023年の夏の地方大会。 9ヶ月前
とても感激いたしました。
胸につかえていたものが取れてスッキリしたと言いましょうか。
今回のように我が母校東海相模の野球について語られた文をずっと探していました。
「ウンウンそうなんだよな」とうなずき、感心しながら拝読いたしました。
ありがとうございます。
私は、野球部「苦難」の80年代に同校に通っていました。野球部ではなく別の運動部に所属していた者です。しかし、東海相模の野球(もうちょっと正確に言うとあのユニフォーム)への強い憧れと愛校精神から卒業後もずっと私なりに相模の野球を応援してきました。
母校だからこそ感じる愛着と忸怩たる思い、実際に自分は野球部じゃなかったくせにあーだこーだ言うのは卑怯なのではないかという葛藤など複雑なる思いでずっと見続けてきたのです。
そんな中、今回の全国制覇はとてもとても嬉しい出来事でした。チームカラーが変わったことも(ただ単に野球が変わっただけでなく、選手の気質も変わったし、何より門馬監督の自己変革のようなものを強く感じるのです)嬉しく、また誇らしく思っています。
70年代の相模狂騒時代を幼い私は知りませんでした(横浜の愛甲から高校野球を見始めたので)。その栄光の70年代から現在までの40年間のある意味複雑な歴史をとても上手く、ジャストな表現で書かれているこの文を私はプリントアウトして大切に取っておきたいです。
愛する母校の代名詞でもある野球の歴史に言葉を与えてくださりありがとうございます。
そして、母校の優勝、本当におめでとうございます。
私自身、東海大相模には特別な思い入れがあり、やはり書くことにも力が入ってしまいます。地元でもありますし、ちょっぴり関係もあるんです。(卒業生ではありませんが)
いつも相模の野球を見続けてきて、”栄光まであと一歩”をこんなにも長い事経験してきたチームに、どんどん思い入れが深くなってきていた矢先の全国制覇。とても嬉しかったです。
東海大相模の生徒さん、とてもマナーが良く、いつも『学校がいいんだな』と感心しています。
それから、私は東海大相模とともに、神奈川の高校野球の大ファンです。これからも神奈川の高校野球が隆盛を極めていくことを願っています。
桐光学園、横浜隼人など、新興勢力も”いいチーム””応援したくなるチーム”が多いのが神奈川の野球。
その中心には、いつも東海大相模が座っていることでしょう。”門馬野球”が成熟していく姿、大変に楽しみですね。
当事者でもないワタシが、ベラベラと記事を書いてしまい赤面に堪えません。
今年も『神奈川の夏』は例年以上に盛り上がりそうです。相模は、5回戦で横浜との対戦になりますね。『春に一度チームを落として、夏に向けてあげていく』去年と同じ道程をたどっている今年、もちろん狙いは神奈川の夏、そして全国の春夏連覇でしょう。
もちろんその力は十分。フォローの風が吹くように、期待しています。
コメントについてはワタシのほうで訂正ができないので、このままにさせていただきます。
コメントについて、相模愛様も、その前にコメントいただいたBillyK様も、母校への愛があふれていて、とてもうらやましいなと思っております。
(実は身内に相模の出身者がいるので、ワタシもいつも相模の応援をしております)。
【元祖タテジマ】については、当時からカッコいいユニフォームで、いまも変わらぬ威厳がありますね。大阪の高校野球の知り合いからは、『大阪は高野連がうるさくて、長い事仰星高校がタテジマを着られなかった』という話を聞いて、かわいそうだなあと思った記憶があります。
当時は甲子園に出場したら、縦縞にすることができるという話しでした。甲子園を制覇したら、左袖にチャンピオンワッペンを付けられると記憶しています。
調べたところ仰星高校は平成20年(90回選手権の予選)に縦縞を着用しているようです。平成8年の選抜に出場を果たしていますので、縦縞にするのは系列の決まりからすれば問題無いとしても、各都道府県の高野連の規定に差があるのはどうかと感じます。あとは甲子園出場を果たしていないのは高輪台と望洋。しかし、高輪台は既に縦縞ですので、その決まりはもうないのかも知れません。
門馬監督が高校三年の時は決勝でY校に2対4で惜しくも甲子園を逃しました。 今年は慶応や横浜が強そうですが、相模の甲子園出場を期待しています。