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●街道をゆく:大和・壷坂のみち(高松塚周辺)最終回

2016年10月16日 | 人生哲学(生命)

 

 硫黄山 (1).jpg
 
 
 「農学校ですから、実習農場があるんです」
 
 「畑仕事もされたんですか」
 
 須田さんがいうのは、その実習農場でかぼちゃやウリなどがたくさんとれるのだという。
 
それを、週に1回出てゆくと、職員室でくれるのだというのである。
 
その重い畑物を持って帰る重さと、食糧が手に入ったといううれしさだけが確かな記憶として残っている。
 
ところがかんじんの教えた内容などはちっとも憶えていないし、それよりひどいのは農学校がどこにあったのかも憶えていないのです、といった。
 
 須田さんは、見栄も外聞もなしに絵を描くことだけで生きている。
 
こんなひとでも戦争をしている社会の中では、かぼちゃの重さとうれしさだけしか憶えていないというのが、太平洋戦争史の一側面のように思えて、おかしかった。
 
 もし、コントを考えるとすれば、先刻の高松塚古墳の人が、田原本の農学校で須田さんから絵をならった人だとすれば(可能性はなくはないのだが)おもしろそうである。
 
須田さんが食べたかぼちゃはあの人が作り、絵を教えた者も教えられた者もかぼちゃ以外に何も憶えておらず、やがて星霜をへて、その教え子が野良仕事のあいまに高松塚の説明をし、須田さんは人垣に押されながらぼんやりとその情景をみている。
 
人生の情景というのは、そういうふうにすべて淡いものだという気もする。 
 
 車は、壺坂をめざしている。
 
 「壺坂」
 
 というのは、たとえば三越というようなもので、銀座の、にあたる町の名は、土佐の町(高市郡高取町上土佐・下土佐)というのである。 
 
 徳川初期に譜代(ふだい)代名の植村氏がここに入って、わずか2万5千石の身代ながら徳川氏の命で 高取城という、分不相応な山城をつくった。
 
 その城下町の名が、土佐の町なのである。
 
壺坂とか高取とかいう地名のほうが世に知られているのだが、土佐という地名が上代からあったため植村氏も変えなかったのであろう。
 
 この付近には、薩摩という村の名もある。
 
兵庫もあるし、ほかにも、旧国名をもつ村の名あるが、その理由がわからず、いろいろ当推量(あてすいりょう)がある。
 
 土佐や薩摩の連中が貢物もってきて、そのまま住みついたのだろうとか、逆に、大和の地名を国名にしたのだろうとかいうが、ともかくも、上代のことは霧のむこうのようで、わからないのは高松塚の被葬者の正体だけではない。
 
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『街道をゆく』大和・壺坂みちほか
(高松塚周辺)司馬遼太郎:著
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