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◆『街道をゆく』大和・壷坂みち (山城四十四丁)2

2016年10月18日 | 人生哲学(生命)

イヨマンテの夜 (11).jpg 

             *アイヌのイヨマンテ祭り

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 城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻(きゅうしゅん)に塁々と石垣が組あげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。

徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名も封じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。

幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。

徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。

 幕府は島津氏を封じこめるために、九州に石高の大きな大名をいくつも置いた。

熊本の細川氏、佐賀の鍋島氏、福岡の黒田氏、久留米の有馬氏などがそうで、とくに島津氏が兵を繰りだす要路にあたる熊本城について、細川氏に命じ、つねにその堅牢さを保たしめた。

 「諸君は要塞といえば熊本城などを想像しているだろう。ヨーロッパの近代要塞というのはああいうものではないのだ」

 といったのは、明治18、9年に日本の陸軍大学校の教官をしたメッケルというドイツの参謀少佐のことばである。

日本の将校学生たちはその当時でも、西南戦争で西郷軍をふせぎとめた熊本城をもって要塞という概念の限界にしていた。

それほど豊臣期に加藤清正が設計築造した熊本城は大きな防御力をもつ城だったが、清正もこれだけの城を造ったのは島津抑えのためであった。

 家康は、島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決するだろうという想像をもち、死の寸前までそれが気がかりだったといわれる。

 架空の状況において、島津氏がもし近畿をおさえた場合、大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか。

 豊臣期に大和の大名の筒井氏が郡山を主城にしていたとき、盆地の中央部にある郡山城が防御にもろいためにこの高取の山城を補修し、万一の場合には、ここに籠城するつもりだったというから、(上)の想像は、あながち根拠が薄くもなさそうである。

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