ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

ボズボズ駅

2015年03月20日 | 日記
ボズボズ駅

 イギリスの植民地だった頃のインド国民の多くは自信を失っていました。高度な技術と強力な軍事力を持ち更に好奇心の旺盛なイギリス人に対してインド人は無知で貧困で怠惰で、そして古い形だけの宗教から抜け出せないと言う自虐の思想です。そしてそう言う社会的な環境の中にラーマクリシュナは現れました。少年期から何度も経験したサマディ(解脱)体験からカルカッタ近郊のドッキンネッショル寺院でのカーリー女神(パワーの象徴で有るシヴァ神の妃)への献身。そしてドッキンネッショル寺院を訪れた女性のタントラ・ヨガ行者からタントラ・ヨガの指導を受け、更には次に訪れたヴェーダーンタ思想を持つヨギ(ヨガ行者)から体系的なヴェーダーンタ思想の指導を受け、ラーマクリシュナのヴェーダーンタ思想は徹底確立しました。

 多くのインド人が古臭い形だけの宗教だと思い込んでいたヴェーダーンタ思想が今も生き生きと実現している至高の宗教哲学で有る事をラーマクリシュナは我が身を以て証明したのです。

 ヴェーダーンタ哲学では森羅万象の本質はブラフマン(梵)で有り、森羅万象を森羅万象と見るのはマーヤー(幻)で有ると断じます。そしてブラフマン(梵)が個人に内在する時、それをアートマン(魂)と呼びます。日本にも一般に「梵我一如」と言う言葉が有りますが仏教にはアートマン(真我)と言う概念が有りませんので、これは仏教用語では無くヴェーダーンタ思想です。

 ラーマクリシュナは更にキリスト教やイスラム教の勉強をし、異なる名前の宗教も全てはひとつのもの、つまり多くの川が流れて行きつく先はひとつの海で有る事を確認しました。これは色々なコースを取って登山をしても到達する頂上は同じと言う事ですね。

 こうしてラーマクリシュナはカルカッタ近辺の人達に大きな影響と自信を与えましたが、全インド国民が自信を取り戻す為にはラーマクリシュナの思想を全世界に紹介し、ヴェーダーンタ思想を世界中に知らしめる人物が必要でした。ラーマクリシュナは弟子のヴィヴェーカーナンダこそがその役割を果たす人物で有ると知って大変にヴィヴェーカーナンダを可愛がりましたが、ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナが自分に何を期待しているのかが、なかなか分かりませんでした。

 ラーマクリシュナが亡くなった後、ヴィヴェーカーナンダは友人達とカルカッタにラーマクリシュナ・ミッションを立ち上げましたが、それでもまだこれから自分が何をしたら良いのか分かりませんでした。そしてヴィヴェーカーナンダはあの広大なインド全土を托鉢放浪の旅に出ます。そしてインドの現実に直面しながらヴィヴェーカーナンダはインドの貧困、無知、女性への差別等を欧米の新しい技術を導入する事で解決しなければならないと確信しましたが、その一方で欧米の繁栄の大元は人間の「欲」で有り、「欲」を追及するだけでは「苦」が待っているだけであるから、欧米にはインドの精神の紹介が欠かせない、つまり欧米の技術とインドの精神の融合こそが自分の使命で有ると理解出来たのでした。

 1893年9月11日にアメリカのシカゴで世界宗教会議が開催され、ヴィヴェーカーナンダは数々の困難を数々の奇跡とも言える偶然で乗り越え、この宗教会議での演説を許されました。そしてヴィヴェーカーナンダの演説が終わりますと万雷の拍手が会場に鳴り渡り、この時からヴィヴェーカーナンダはこの宗教会議で最大の尊敬を受ける事になります。「キリスト教徒はキリスト教を信仰すれば良い、イスラム教徒はイスラム教を信仰すれば良い、ヒンドゥー教徒はヒンドゥー教を信仰すれば良い、全ての宗教は究極にはひとつなのだから」。

 アメリカ各地でヴィヴェーカーナンダには講演の依頼が殺到し、アメリカの次にはヨーロッパで多くの人達に多くの感銘を与え、そしてこう言ったニュースは次々とインド全国にもたらされ、多くのインドの国民が長い間失っていた民族の自信を取り戻す事になりました。そして月日も経ってヴィヴェーカーナンダはようやく帰国の途につき、1897年2月19日に船はカルカッタ近郊のボズボズ港に接岸し、ヴィヴェーカーナンダはボズボズ駅から鉄道で故郷のカルカッタに凱旋したのです。

 先月の2月19日に日本ゴーシュ・ヨガ道場のジバナンダ・ゴーシュ先生は118年前のヴィヴェーカーナンダの帰郷を祝う日のセレモニーに招待され、ボズボズ駅でのセレモニー開始の際のテープカットをされたそうです。

 さて、このような晴れがましい歴史の舞台になったボズボズでしたが、同じボズボズの港では悲惨な事件も起こったのだとゴーシュ先生は私に教えてくれました。この事件を「駒形丸事件」と言います。インドのパンジャブ地方の人達がカナダへ移民する目的で日本の船をチャーターしてカルカッタからカナダのバンクーバーへ向かいました。このインド人376人の内訳は340人のシーク教徒、24人のイスラム教徒、そして12人のヒンドゥー教徒でした。

 1914年4月4日に日本船駒形丸は香港を出港し、上海、横浜を経由してカナダのバンクーバーへ向かいました。そしておよそ2ヶ月の航海の末駒形丸は5月23日にバンクーバーに到着しました。ところが駒形丸はバンクーバーのバラード港でドックへの接岸を許されず、乗員乗客は2ヶ月の間船内での待機生活を余儀なくされました。その間カナダ政府はインド人の移民を受け入れるかどうか迷っていましたが、最終的に上陸を許されたのは僅か20人で、残りの大勢はカナダの軍艦の威嚇を受けて7月23日にカルカッタへと追い返されます。そして9月27日に駒形丸はカルカッタ近郊のボズボズ港に入港接岸するのですが、往復約6ヶ月の航海で多数の病死者を出し、更にはボズボズ港に上陸したうちの20人が騒乱罪の罪と言うのでしょうか、イギリスの軍によって射殺され、他の大多数は出身地の刑務所に投獄されてしまいました。

 この「駒形丸事件」ではインドとカナダとイギリスとが事件の当事国でしたがその頃のインドはイギリスの植民地でしたから、インドもカナダもイギリスも同じイギリス連邦の関係に有りました。ですから結局の所カナダ政府はインド人を排斥すると言うよりもアジアからの移民を拒絶すると言う人種差別をやってしまったのでした。

 そして日本の駒形丸は民間船でしたから日本は「駒形丸事件」の当事国では有りませんでしたが、カルカッタの人達は今でも駒形丸の日本の船員に感謝の気持ちを抱いているそうです。バンクーバーへの航海、先方の港での長期の停泊、そして折り返しのカルカッタまでの合計6ヶ月に及ぶ苦難の航海生活の中で日本人の船員達は乗客に誠意を持ってお世話をしていたのでしょう。何と今から1年半前の2013年に鉄道のボズボズ駅の駅名が「ボズボズ」から「ボズボズ・コマガタ」に改名されたのだとゴーシュ先生は教えてくれました。

 そして一方のカナダですが、カナダ郵政は2014年5月1日に駒形丸事件100年記念切手を発行したそうです。

 追記

 日本国内での「駒形丸」の軌跡

①1890年進水 3040トン 神榮汽船合資会社がこれを取得

②1914年 駒形丸事件発生

③数社への転売の末、1924年に笠原商事株式会社が取得、「平安丸」と改名

④1926(大正15)年2月11日 日本沿海で座礁









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