2017.7.2.十戒
聖書 聖書 出エジプト19:5~6、20:1~17
題 十戒
暗唱聖句 ヨハネ14:15
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」
はじめに
ペンテコステのメッセージの時、ユダヤの伝承では、七週の祭りは収穫祭であると同時にモーセがシナイ山で十戒をもらったことを記念する祭りでもあると言いました。
この十戒とクリスチャンの信仰との関係をもう少し深く知っておいた方が良いかもしれないと思っていましたので、今日はモーセの律法とクリスチャンの関係について少し学びたいと思います。
1.モーセの律法、十戒
モーセの律法と言われるものには613の命令があります。細かいものを数えていくと613あるそうです。そして、十戒はその最初に出てくる命令です。ですから613から10を引くと603になります。十戒の他に603の命令があることになります。そして、これらは新約聖書に出てくる記事によると、モーセの律法は天使たちを通して与えられました。これはユダヤ教の伝承の中から、正しいものが新約聖書に採用されたとして記事が載っています。(使徒3:19ステパノの説教、ガラ3:19、へブル2:2)
モーセの律法の性質は7つあります。①それは救いの方法ではない。②神が聖いお方であることを示す。③旧約時代の聖徒たちの行動基準である。④人の罪を示す⑤人にもっと罪を犯させる力となる。⑥人を信仰へと導く⑦すでに終わったもの。
このモーセの律法は救いの方法ではありません。もし、モーセの律法を守ることによって救われるなら、それは「業による救い」となります。しかし、「聖書の信仰は行いによる救いではなく、信じる信仰によって救われる」という信仰による救いです。これを「信仰義認」と言います。人は恵みによって救われるのです。救いの土台はイエス・キリストの十字架の死によるもので、キリストの死によって罪の決算がなされ、救われているのです。
このモーセの律法は「神が聖いお方であること」を示しています。613の律法を読み進める時、神がいかに聖なるお方であるかがわかります。
レビ11:45「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」神の御人格が聖なる方であるということがわかります。この聖句が、モーセの律法の中心にあります。
十戒
1)わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2)偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
3)主の御名を、みだりに唱えてはならない。
4)安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
5)あなたの父と母を敬え。
6)殺してはならない。
7)姦淫してはならない。
8)盗んではならない。
9)偽りの証言をしてはならない。
10) 隣人の家を欲しがってはならない。
これを読むと業による救いは不可能です。
2.モーセの律法は旧約の聖徒たちの行動基準であった
イスラエルの民は特別な民として、主に選ばれました。
(出エジプト19:5~6)「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」
イスラエルの民は
① 神の宝、・・・特別な存在の民、神の私有財産、
② 祭司の王国・・・神が王であり、祭司職を持った民、神と諸国民をつなぐ祭司の役割、
③ 聖なる国民・・・神を知る知識と真の礼拝を保持する国民、その性質が聖である国民、しかし、まだここではそうなっていない。まだ無知な国民です。
イスラエルの民は神によって召された民です。ですから、召された民としての行動基準が必要でした。そのためにモーセの律法が与えられました。そして、律法を守ることにおいて、自分たちの信仰を表現したのです。「モーセの律法に従っている」ということが「この選ばれた民」の信仰表明だったのです。
新約時代のクリスチャンたちにも、行動基準が与えられています。それを「キリストの律法」と言います。キリストの律法は新約時代のクリスチャンに与えられている命令の事で、愛の律法です。「自由の律法」と言います。モーセの律法ではありません。キリストの律法です。
3.モーセの律法は人をキリストの信仰へ導くもの(パウロの教え)
モーセの律法は「人の罪を示します。」罪意識が生れてくるのです。これはパウロの体験です。
ローマ3:20「 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」律法を行うことによって、義とされた人は一人もいません。
ローマ3:28「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」
それから、モーセの律法は人にもっと罪を犯させる力となります。これは「するな」と言われたら「もっとしたくなる力」です。「あそこへ行ってはいけない。」と言われたら、もっと行きたくなる、そういう心が湧くことです。(ローマ7:7~10,ローマ4:15)
このようなモーセの律法の性質があり、業による救い(行いによる救い)は不可能であることがわかってきました。その結果、信仰による救いを求めるようになります。最終的にはキリストに対する信仰へと導かれます。ガラテヤ3:23~24「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」
旧約では動物の犠牲が捧げられました。しかし、動物の命では救われませんでした。イエス・キリストの血が私たちの罪を清めてくださったのです。命は血の中にあります。イエス様が自分の血を流してくださったのです。イエス様は命を落としてくださいました。新約(新しい契約)はイエスの血による贖いです。
4.モーセの律法は終わった
ローマ10:4「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
イエス・キリストは33年の生涯の中で、完ぺきにモーセの律法を守り、律法が要求していたことを満たされました。その上で、命を捧げてくださったのです。ですから、律法が目的としていたことは成就しました。ですから、もはや、律法は必要で無くなったのです。メシアが来たら終わる性質のものでした。
ヘブル7:12「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、7:13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。」
① モーセの律法を運用するのは、レビ族から出た祭司です。(アロンの家系)
② ヘブル人への手紙が言っている祭司とは、メシアであるイエス。
③ イエスは、レビ族ではなく、ユダ族から出ている。
④ 祭司職が変わった(メルキゼデグの位の祭司)
⑤ それゆえ、律法も変わらなければならない。
⑥ 新しい律法とは、「キリストの律法」である。モーセの律法からは解放されている。
5.クリスチャンとモーセの律法の関係
1)エペソ2:14~16
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
① 敵意とは律法の事
② それは、二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を分けている「隔ての壁」
③ 十字架によって敵意(律法)は葬られた。
*ユダヤ人と異邦人の壁がとれて、新しい一人の人となった。これが教会です。
2)エペソ2:12「 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」
①異邦人は、望みも無く、神も無い人たちでした。
②約束の契約(複数形):神が結んだ無条件契約
*アブラハム契約
*土地の契約
*ダビデ契約
*新しい契約(新しい契約も、もともとはユダヤ人のもの、しかし、イエス・キリストが十字架によって死んでくださり、律法を取り除いてくださったので、契約の祝福をもらうことができた。新しい契約:エレミヤ31:31~33)
③異邦人も信仰により、ユダヤ人の祝福に与ることができるようになった。
6.クリスチャンの行動基準
1) Ⅱコリント3:6「 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」
① 文字は殺す
② 石に刻まれた文字(7節)とは、十戒のことです。(十戒は石の板に刻まれていた。)
③ 十戒だけは生きている(有効)とする考え方は否定されている。十戒は終わった。
④ 律法には義認の力も、聖化の力もない。
⑤ 御霊がそれをするのである。(クリスチャンは御霊に仕え、御霊によって生きる者です。)
2) ( ガラテヤ6:2)「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
① 「キリストの律法」、メシアの律法で、愛の律法、愛の実践
1コリント9:21「 律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。」
② キリストの律法の条項の中には、十戒の中の9戒までが入っている。キリストの律法を信じて従うなら、十戒の内の9戒まで、満たすことができる。のぞかれている一つは「安息日を覚えて聖とせよ。」
キリストの律法の中には神への愛、隣人への愛がはいっています。
(ルカ 10:27 )すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
③ 使徒の働き以降の書簡(・・・の手紙)の教えがキリストの律法です。
④ この律法を実践させることができるのは聖霊の働きです。今日は聖霊時代です。ペンテコステ以降、律法の働きは終わり、聖霊、慰め主の働きに変わりました。
結論:十戒を含む律法はメシアが来られるまでの一時的な養育係でした。それは罪を示すものででした。メシアであるイエス・キリストが来られて、人類の救いを成し遂げられたので、律法は、もはや不要になりました(ガラテヤ3:19)。
キリストが律法の命令を満たしてくださったからです。(マタイ5:17~18)「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」そういうわけで十戒の時代は終わりました。「それではなぜモーセの律法を学ぶのか。」という疑問が残ります。モーセの律法はクリスチャンへの命令ではありませんが、クリスチャンがモーセの律法を学ぶことによって、いろいろなことを豊かに学ぶことができるからです。そしてそれを通して救い主であるイエス・キリストを深く知ることができます。
新約時代のクリスチャンの行動基準としては、「キリストの律法」が与えられています。キリストの律法は「互いの重荷を負い合う」愛の律法であり、自由の律法です。御霊によって実践できるものです。
(ガラテヤ5:16~18)「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」
キリストの律法が実らせるものは御霊の実です。
(ガラテヤ5:22~23)「 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
モーセの律法では罪を示され、罪意識が起こり、罪を犯したくなる気持ちにかりたたせられました。しかし、キリストの律法は聖霊によって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という人格者として、重要な性質を身につけるようになるのです。ここに私たちクリスチャンのゴールともいえる成熟したキリストにある姿を見ることができます。あなたは今どこに立っているでしょうか。